明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 7

220.『心』最大の謎(承前)――素人下宿じゃいけませんか

 

 漱石が間違っていると仮定して、ここはやはり、先生は起きて来た奥さんに、縁側の方から自室に来るように請願したのち、手にランプを持ったまま自分は玄関の間から、下女が起き出して来ないか確認して、Kの部屋に引き返すなりKの身体を跨ぐようにして自室へ入り、後ろ手に襖をぴしゃりと閉めて奥さんを迎える、という手順にした方がいいのではないか。前項引用文の当該の傍線部分を書き直すと、以下のようになる。

 

 我々は七時前に起きる習慣でした。学校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わないのです。下女は其関係で六時頃に起きる訳になっていました。然し其日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云って注意して呉れました。奥さんは私の足音で眼を覚したのです。私は奥さんに眼が覚めているなら、一寸縁側を伝って私の室迄来て呉れと頼みました。奥さんは手にした不断着の羽織を寝巻の上へ引掛けながら、部屋の洋燈(らんぷ)を取り上げて障子の方へ向かいました私は急いでKの室へ戻り、Kの身体を跨ぐようにして自分の室へ這入るや否や、今迄開いていた仕切の襖をすぐ立て切りました。そうして奥さんに飛んだ事が出来たと小声で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は顋で隣の室を指すようにして、「驚いちゃ不可ません」といいました。奥さんは蒼い顔をしました。「奥さん、Kは自殺しました」と私がまた云いました。(『先生と遺書』49回改)

 

 実際には「縁側の方から来てくれ」だの「(廊下側が真っ暗になるので)ランプを取って来る」などという表現が説明臭くなるので、ここで顎を振るという芥川龍之介を悩ませた癖を出し、眼とその仕草によっていつものように縁伝いに座敷に来るよう促し、自分は急ぎ四畳間経由で自室に戻る。そして今度はちゃんと隣室を指差して、Kのことを奥さんに告げるという段取りになると思う。

 奥さんのルートはいつも通りであるし、先生が夜でも便所に行くときは必ずKの部屋を通るのであるから、ここまでで奥さんにとって不自然なところは何もない。

 反対に現行の本文のままでは、先生が(奥さんに導かれずに)奥さんの寝間に侵入するという不適切な事実は、永久に残るのである。

 奥さんの家の間取りを変えるわけにはいかない。変えるなら『先生と遺書』を全部書き直さないといけない。そんなことは不可能である以上、このくだりの修正だけは避けられないのではないか。先生にとってそんなことをしている場合でないのは分かっているけれども。

 

 ここで考えられる反論として、奥さんは御嬢さんの部屋で寝ていたとする意見である。なるほどそうであれば一見問題はなくなるわけである。淋しい家で母娘がひとつ部屋へ寝るのは不自然なことではない。

 では先生が来る前彼女たちはどこで寝ていたのだろうか。御嬢さんが8畳で、奥さんが今の御嬢さんの部屋で寝ていたのであろうか。あるいはその逆か。8畳のお座敷が使われていたとすれば、下宿人を置こうという発想はなかなか生まれないだろう。やはり母娘は始めから奥の6畳で一緒に寝ていたとするべきであろうか。8畳もまた最初から客間として空けてあった。

 

 御嬢さんの部屋は茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、又御嬢さんの部屋にいる事もありました。つまり此二つの部屋は仕切があっても、ないと同じ事で、親子二人が往ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「御這入なさい」と答えるのは屹度奥さんでした。御嬢さんは其所にいても滅多に返事をした事がありませんでした。(同13回)

 

 先生が8畳に入って来たあとも、茶の間はおもに母親の居室。奥は御嬢さんの部屋。夜は一緒に休む。昼間もこの一続きの部屋は原則母娘の占有物で、3度の食事のときだけ下女と下宿人を招き入れる。一見これで収まっているようだが、本当にそれでいいか。

 もし奥さんと御嬢さんが奥の6畳で寝ているのなら、前項から重ねて引用している、凶行の日奥さんが起き出してくるシーンは、どのように説明したらいいのだろうか。

 

① 私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。けれども女に此恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐ私を遮ります。奥さんは兎に角、御嬢さんを驚かす事は、とても出来ないという強い意志が私を抑えつけます。私はまたぐるぐる廻り始めるのです。(同49回)

 

② ・・・然し其日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云って注意して呉れました。奥さんは私の足音で眼を覚したのです。私は奥さんに眼が覚めているなら、一寸私の室迄来て呉れと頼みました。奥さんは寝巻の上へ不断着の羽織を引掛けて、私の後に跟いて来ました。・・・(同49回再掲)

 

 奥さんと御嬢さんは同じ部屋に寝ているようにも読めるし、そうでないようにも読める。

 奥へ行って奥さんを起こす。今先生が玄関の間あたりに立っているとすれば、「奥へ行って」というのは、茶の間を通って奥へ行って、とも読める。すると奥へ行って母娘が寝ているのを、奥さんだけを起こそうというのか。

「奥さんは私の足音で眼を覚した」のであれば、御嬢さんは眼を覚まさなかったのだろうかという疑問が生じる。

 どちらにしても、この書き方では分かりにくいが、同じ部屋に寝ていると仮定した場合、無茶を承知で上記傍線部分を修正してみると、

 

①改 私は時々奥へ行って、襖の外から奥さんに声丈掛けて見ようという気になります。・・・

 

②改 ・・・然し其日私が下女を起しに行ったのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云って注意して呉れました。道理(どうれ)で御嬢さんは起きて来ませんでしたが、奥さんは私の足音で眼を覚したのです。・・・

 

 どのように直しても直さなくても、またその前にどこかで一言、御嬢さんの部屋で母娘が一緒に休んでいることを宣言していたとしても、奥さんだけが起き出して来たことを合理的に説明することは出来ない。唯一考えられる手としては、御嬢さんが(鏡子夫人みたいに)朝起こしてもなかなか起きないような女とすることくらいだろうが、それではこの小説はぶち壊しになる。

 

 そもそも夜の間だけでも母娘が奥の部屋に引っ込むというなら、茶の間は一種のニュートラルゾーンになるわけである。先生は夜便所に行くときに、わざわざKの寝ている部屋を通るよりは、茶の間(の一部)を通らせてもらった方がいいに決まっている。早くから、「下宿人の私は主人のようなもので、肝心の御嬢さんが却って食客の位地にいたと同じ事」(16回)と書かれるくらいにのさばっていたのであり、今ではもう茶の間で食事を共にするほど親しくなっているのである。

 事実正月に奥さんたちが留守にしていたときには、先生とKは茶の間で、下女に給仕されながら不味い飯を食っていた。(このときはKが御嬢さんへの恋心を先生に告白したおかげで、気が動顛して飯の味が分からなかったのであるが。)

 

 結局先生たちにとって茶の間は自由通路にはならなかった。なってもおかしくなかったが、そうならなかったのは、やはり奥さんの寝室として使われていたせいではないだろうか。そのため一種の聖域になっていたのではないか。

 そうでないと、「是非此四畳を横切らなければならないのだから」とか「至極不便な室でした」(ともに23回)という記述が嘘だったことになる。嘘は漱石が最も忌み嫌ったことである。漱石は一度決めたルールは(どれほど非合理でも)必ず守る。先生は玄関から自分の部屋に行くには4畳を通らなければならないと決められた以上、例外は許されない。こう書いた以上、奥さんがどこへ寝ていようが関係なく、要するに先生は茶の間を通路として使用してはいけなかったのである。

 その意味で奥さんを従えて玄関の間から、茶の間を突っ切って自分の座敷へ入って行ったという先生の行為は、罪万死に値する大失態であった。そのために後年遺書を書くはめに陥ったわけではないだろうが。

 

 ちなみに『門』で描かれた宗助と御米の家は、反対の意味で『心』の間取りと似ている。小六は奥の6畳からまず「茶の間」を通らないと、玄関に続く縁側にも、座敷にも出られないのであった。詳しくは「『明暗』に向かって」第13項(『門』の間取り図)、または本ブログ門篇の第4項・第5項を見ていただきたいが、

漱石「最後の挨拶」門篇 4 - 明石吟平の漱石ブログ

漱石「最後の挨拶」門 5 - 明石吟平の漱石ブログ

宗助も御米も小六も、玄関からまず座敷に飛び込むか、いきなり縁側に出るか、どちらにしてもその後は必ず、茶の間を通って奥の6畳に行かなければならないのである。(玄関から6畳まで縁伝いに直接行けるようになっている『門』の間取図があれば、それは間違いである。)