明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 23

397.『道草』番外編(3)――長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』


 田岡嶺雲と共にもう1人、少し年下だが漱石の同時代人として長谷川如是閑を取り上げたい。
 長谷川如是閑は明治大正、そして昭和の戦前戦後に亘って、「ジャーナリスト」であり続けた珍しい人物である。ジャーナリストは権力とその腐敗した部位を人々の前に明らかにして、個人としてそれと闘うことが職務である。といってことさらジャーナリストは自称するものでもないだろう。自称・吹聴する前に本人が常態として世俗(権力)と対峙していなければならない。愛のために世俗と対峙する人のことを仮に小説家と呼ぶとすれば、言論でそれを行なう人のことを、周りがジャーナリストと呼ぶのであろう。正義のために闘う人がジャーナリストである。漱石はたまたま愛と正義を同じものと見ていたが、如是閑もまたそのように感じる性向の人であったか。
 如是閑は漱石の倍近く生きたが、病気がちなところは漱石と同じで、言論に殉じるため(かどうかは別として)一生涯妻子を持たなかった。酒も煙草もやらず金があれば洋書を買い込む。官学とは無縁だったが、子規と入れ替わるように『日本』『日本及日本人』等を経て、朝日で10年記者を貫いた。倫敦遊学のキャリアを有し、意外にもスポーツ好き。昼に弁当を食う同僚を尻目にパンを焼いてチョコレートを沸かす(※)。漱石の弟のようなエキセントリックな一面を見せるが、相違点(寿命・妻子・煙草)はともかく、何といっても両者の一番似通ったところは「下町育ち」であろうか。
※注)パンとココアのくだりは元朝日社員佐柄木俊郎氏の『「大阪朝日」時代の長谷川如是閑〈序説〉』による。

 如是閑山本萬次郎は明治8年深川生れ。兄は東京朝日の山本笑月。長谷川は曾祖母の姓で、如是閑もまた漱石と同じ(苗字を許された町屋の)養子組である。漱石は早稲田で育ったようなイメジがあるが、実際には長く浅草で幼少期を送っている。(浅草から深川にかけての)下町はもともと漱石のホームグランドだったのであり、心情的にも2人は近いものがある。

 要するに敬太郎はもう少し調子外れの自由なものが欲しかったのである。けれども今日の彼は少くとも想像の上に於て平生の彼とは違っていた。彼は徳川時代の湿っぽい空気が未だに漂よっている黒い蔵造の立ち並ぶ裏通に、親譲りの家を構えて、敬ちゃん御遊びなという友達を相手に、泥棒ごっこや大将ごっこをして成長したかった。月に一遍宛蠣殼町の水天宮様と深川の不動様へ御参りをして、護摩でも上げたかった。(現に須永は母の御供をして斯ういう旧弊な真似を当り前の如く遣っている。)夫から鉄無地の羽織でも着ながら、歌舞伎を当世に崩して往来へ流した匂のする町内を恍惚と歩きたかった。そうして習慣に縛られた、且習慣を飛び超えた艶めかしい葛藤でも其所に見出したかった。(『彼岸過迄/停留所』5回)

 本ブログ彼岸過迄篇でも述べたことがあるが、ここでの漱石は、(憧憬なんぞではなく)エセイにも書かなかった下町っ子としての自分の姿を、珍しくもさらけ出している。『坊っちゃん』だけが(あるいは『道草』『硝子戸の中』だけが)漱石幼年時代ではないのである。
 とはいうものの朝日入社までの漱石と如是閑を結びつけるものは何もない(はずである)。2人の最初の接点は不明だが、明治42年秋、漱石は所謂「満韓ところどころ」の旅の帰途、下関に上陸したあと大阪朝日に立ち寄り、その足で天下茶屋の如是閑の家を(1人で)訪れている。その時のことについては如是閑が書いたものが存在する。漱石が亡くなってすぐに大阪朝日に出た『初めて逢った漱石君』である。ジャーナリスト如是閑は漱石についてはほとんど記事を残していないが、小説を書くだけあって、その回想文の中には妙にリアルな漱石像が窺える。やや長文に亘るが、それを(何回かに分けて)全文紹介してみたい。
 引用の底本は漱石全集別巻「漱石言行録」に収録されているものを新仮名遣いに直して使用する。解かりやすくするためいくつかに章分けして、リファレンス用にその章見出しを(勝手に)附す。
 如是閑は漱石の8歳年下であるが漱石君・夏目君と書いている。「君」というのは古文(韻文)は別として、当時は尊称でもあったのだろう。芥川も9歳上の志賀直哉に対して「志賀直哉君」と書くことがあった。

長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(初出大正5年12月18日大阪朝日新聞

Ⅰ 天下茶屋での邂逅
 変な事には、私は何時初て夏目君に逢ったか判然と覚えていない。今から八年ほど前のことだ。私が大阪に来て間もなく、天下茶屋の下宿を引払って、其近辺に家を借りて、女郎を娘に持っていると始終自慢していた遣手婆のような婆やを置いて、誰れかが他炊生活と評した生活を営んで、······営むは少し仰々しいが、其頃のことで、社に出ていると、其婆やから夏目さんが見えたという電話だか電報だか使いだか通知を受けて、昼頃に其家に帰ったことを覚えている。潜戸を開けて内に入ると玄関のところに夏目さんが腰をかけていた。私は此時始めて夏目君を見たように覚えているが、其前に東京で逢ったようにも思われる。兎に角此時に、夏目君と私とが決して所謂初対面の挨拶なるものを交換しなかったことは確かだ。夫れだから、私は何うも其の前に二人は東京で逢っていたのではないかと疑うのだ。併し私が其時初対面の挨拶なるものを申出すのを忘れたのかも知れない。そうして夏目君も夫れを不必要と考えて、私にこういう挨拶をさせる手段を取らなかったのかも知れない。

Ⅱ 「カイ」に感泣
 其時夏目君と私とが初対面の挨拶をしなかったと覚えている訳は、玄関にいた夏目君と私とが最初に取交した言葉は確(しか)とは覚えないが、其時の夏目君の言葉尻に「……カイ」という東京言葉の特徴の殊に顕著に現れたアクセントを使ったことを覚えている。其頃私はまだ大阪に来て年が経たないので、四囲の大阪言葉に対して反感、というよりは、寧ろ遣る瀬ないような味気なさを感じて、斯ういう言葉の中に生活したら、男子に必要な精神作用は、表現の途を失って、宝の持腐れ的に腐れてしまいはしないかと不安に堪えなかった頃だから、此の夏目君の東京的の「カイ」という強いうちに懐かしみを持ったアクセントを聴いて、紛れたお父さんに出逢った子供のように、泣きたい位嬉しいと思った。夫れだから、私の記憶には、此時初めて夏目君に出会して突然「カイ」という言葉を浴びせられたように印象されている。そうしてソレは無論初対面のような形式的なものでなかったことは、少くとも私の印象の上では疑われない事実だ。此の事件の御蔭かと思うが、私は其の後夏目君に逢う度に、君の「カイ」という語尾のアクセントに、何時も惹きつけられるような懐かしみを覚えてならなかった。考えて見れば、夫れは私が東京で、生れてから毎日聞き倦きている極めて平凡なアクセントなのだから、少しも特殊の印象を私に与える性質のものではない訳だが、其の時に、私の沈滞し切った精神が、其のアクセントを聴いて、死んだ蛙の足に電流を通じたような工合に活気づけられたことが原因となっているのだ。

 東京の人如是閑は漱石に後れること1年、明治41年春に大阪朝日に入社して始めて阪地を踏んだ。しばらくして郊外の天下茶屋の下宿へ移ったあと、翌年には近所の借家に引越している。上記引用文の「今から8年前」というのは、今は(漱石の亡くなった)大正5年12月であるから、如是閑が天下茶屋の借家に居を構えた明治42年春のことを指す。如是閑の大阪移住は9年前。漱石満洲の帰りに天下茶屋を訪れたのは明治42年10月だから、8年前というよりは7年前になる。如是閑の記憶の中の暦は一応正確と思われる。
 ところが如是閑は記事のタイトルにもかかわらず(あるいは記事のタイトル通り)、漱石との初対面がいつだったか覚えていないと言っている。少なくともそのような挨拶をしなかったと繰り返し述べている。だが求めて知己を作らないタイプの漱石が、わざわざ初見の如是閑の家を訪問するだろうか。(末っ子の漱石は尻の軽いところはあるにせよ。)

 如是閑と漱石の初対面はいつか。明治42年10月15日(金)、天下茶屋での会見の前に2人が遭遇したかも知れないイベントは、もちろんすべて朝日がらみであるとして、次の4件が挙げられる。

・明治41年春、如是閑の大阪朝日入社
・明治41年2月15日、東京朝日講演『創作家の態度』
・明治41年2月17日、小石川の狩野享吉宛紹介状「大阪朝日社員長谷川満次郎氏を紹介する」
・明治42年9月5日、大阪朝日掲載『「額の男」を読む』(漱石の執筆は8月後半)

 一般的な長谷川如是閑の年譜によると、如是閑の大阪朝日入社は明治41年「4月」とされるが、2月の漱石の手紙(狩野享吉宛紹介状)が残っているからには、この頃すでに如是閑の入社は決まっていて、朝日の誰かによって先輩漱石に引き合わされていたと考えるのが普通であろう。
 ちなみに天下茶屋以後の両人の接点は、文芸欄開設や朝日の小説頁に関する業務上のやりとり(書簡)を別とすれば、2年後の明治44年盛夏の、(明石和歌山を含む)大阪講演旅行だけである。よく識られるように、(朝日入社時の『京に着ける夕』に続く)これら2度の関西旅行は、翌年以降の『彼岸過迄』と『行人』に多く結実した。
 その「天下茶屋」は、二郎が5泊した岡田とお兼さん夫婦の2階のある家として、「遣手婆のような婆や」は、同じく三沢のあの女の、親戚のような置屋の女将のような下女のような保護者として、『行人/友達』の重要な背景に使われている。

 段落Ⅱ「カイ」に感泣については、「~かい」という語尾に託して、全体として漱石の人柄(下町っ子としての血脈)がしみじみ偲ばれる記述になっている。極めてローカルな話ではあるが、巷に溢れる漱石ガイドブックが束になっても敵わないオリジナリティを感じさせる文章になっている。
 この2ヶ月前に『それから』を脱稿した漱石は、胃痛に耐えつつも、多分に義理掛け的ではあるが(鳥居素川に依頼されていた)、如是閑の『額の男』の評を書いている。その「『額の男』を読む」で漱石は、如是閑という人が文芸的・思想的にどういう人か知らないと言っている。会ったことがないとも取れるが、天下茶屋での如是閑の方は、「~かい」という言い回しは(いくら先輩の江戸っ子でも)初対面ではなかなか出て来ないだろうと思ってもいるようだ。
 これについては如是閑の気遅れという可能性も大いにあり得る。如是閑としてはまず批評の御礼もしくは反論から入るべきところ、照れ臭くて(気まずくて)漱石の顔前では『額の男』によう触れなかったとも考えられる。漱石もむろん如是閑が言わない以上自分から話頭に上らせることはない。互いにそれがひっかかって初対面の挨拶をしそびれたのであろうか。
 それとも最初から同じ朝日の社員・文筆業同士という意識から、他人行儀な振舞いを不要としたものか。如是閑は「江戸っ子」に話の方向を持って行っているが、何かわだかまりがあったとしても不思議はない。社員同士だから名刺交換しないという単純な理由なら、始めから気にしないはずである。

Ⅲ 立小便する漱石
 夏目君は背広を着て洒落た変りチョッキ見せていた。其日は天気が好く気候も好かったように覚えている。私の狭い家に夏目君が上ったか何うか、夫れも記憶がない。君は其時、君の所謂「是公」に勧められて満洲へ行った帰り途であったことなどを説明して、間もなく二人で何処か見物に歩くことになって外に出た。外へ出ると夏目君は突然往来の反対の側に立って小便した
 其側には家並はなくて崖になっていて、崖の下は植木畑で、其の向うに田圃を見晴らしている。君は小便をしながら何とか其の風景のことをいっていた。そうして振り返ると、私の長屋の高い塀を見上げて、何とか評した。私は上の方に窓を持った其の高い塀に反感を持っていたから、用心堅固だというような意味一向刺激のないような冷笑的の評を其の塀に加えた。すると君は、此塀は外の泥棒を防ぐよりは、中に泥棒を入れて外を安全にする塀だというようなことをいった。勿論其の意味をモット煎じ詰めたような刺激の強い言葉で云ったのだが忘れた。が夫れから硝子の片を植え込んだ塀や剣付鉄砲を並べたような塀のことを話しながら歩き出した。
 二人は夫れからつい近所の素川(鳥居赫雄)君の留守宅を訪ねた。其家は庭が広くて池や低い築山などがあって、縁先に高塀を立ててある私の家から此処に行った夏目君は頻りに感服して鳥居夫人と応対して居る頃から私の記憶はモヤモヤになって、私たち二人は浜寺に来た。

Ⅳ 浜寺の大門
 夏目君は無論浜寺は始めてだが、案内のつもりの私も始めてだ。二人とも朝飯を食った切りなのだから、好い加減腹が減って、始めての浜寺も碌々歩き廻ることはしないで、行き当たりばったりに大きな門を入って、大きい玄関を上って、トンネルのような廊下を通って宿屋の一間のような二階座敷に通された。君は廊下に出て、何だか変な所を通って来たと思ったらトンネルになっているのだと、余程嬉しい所でも通って来たような風だった
 其時の食物は、何でも甚だ粗末だった。当時君は修善寺で始めて今の病気を起して、辛うじて危険から脱れて間もないことだったから、私は君が食うものに箸をつけるたびに、何かしら言って干渉した。君は極めて無頓着で、出るものは必ず食べた。私は不安でならないから、干渉が段々猛烈になると、君は少しも夫れに抵抗しないが、黙ってクスクス笑いながら決して箸を休めない。そうして甘煮の栗を食べた時に、始めてポケットからタカジヤスターゼの錠剤を出して口に入れた。其癖君は、自分の健康を無理に楽観しているような事は云わなかった。自分の身体のことを話すのに人を心配させるような口調を用いた。君は私をして義理にも、君の箸の運動に干渉せざるを得ないように、自分の健康のことを話しながら、別の人のことを話しているような恰好で、平気であらゆるものに箸を持って行った。

『心』の先生もまた、私と郊外を散歩したときに立小便する(『心/先生と私』第30回)。漱石作品で立小便のシーンが書かれたのはこの1回ぎりであるが、『道草』で幼時の健三が高い縁側から転落して「(1週間程)腰を抜かした」(『坊っちゃん』第1章)というエピソードは、『心』の記述を受けて書かれたものであろう。漱石は何事であれ、突然(いきなり)書くということをしない人である。「芋が埋めてある」のは1つの作品に限らない。畑の芋は漱石の場合は全作品に亘っていると言えるだろう。それが例の「3部作理論」につながる。
 浜寺のトンネルもまた『行人/友達』の印象的なシーンとして蘇った。如是閑の書き方をそのまま受け取ると、「トンネル」と言ったのは漱石である。漱石は小説では(二郎でなく)お兼さんのセリフとして「トンネル」の語を発している。如是閑は自分でなく相手が「トンネル」と言ったと、妙に『行人』にフェーズを合わせた書き方をしている。

 タカジヤスターゼを飲んだというのは本当だろうか。タカジヤスターゼは『猫』(第1篇)で後代の人にも有名になったが、実際は第2篇で早くも放擲されている。
タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利かないものは利かないのだ。」(『猫』第2篇)
 明治38年にダメだと言ったものを明治42年にもまだ服用するだろうか。別の胃薬を如是閑が間違えたのか。鏡子の『思い出』を読んでも、漱石が同じ薬を飲み続けたような記述は見当たらない。
 それはまあどうでもいいが、引用文のラストの「自分のことを他人のように話す」というのは、「~かい」に続く、漱石の「江戸っ子ぶり」の第2弾である。江戸の粋のバリエーションであろう。

 ところで天下茶屋・浜寺での邂逅については漱石サイドの証言もある。ありがたいことに漱石は『満韓ところどころ』の旅に合わせて1ヶ月半ほど、簡単な日録を付けていた。邂逅の日の日記は長い方である。

〇日記/明治42年10月15日(金)
 昨夜九時三十分広島発寝台にて寐る。夜明方神戸着。大坂にて下車直ちに中の島のホテルに赴く。顔を洗い食堂に下る。ホテルの寝室の設備は大和ホテルに遠く及ばず。車を駆りて朝日社を訪う。素川置手紙をして東京にあり。天囚は鉄砲打に出で、社長は御影の別荘なり。天下茶屋迄車を飛ばして遊園地の長谷川如是閑を訪う。遊園地の閑静にて家々皆清楚なり。秋光澄徹頗る快意。如是閑遠藤という高等下宿を去って近所に家を構う。去って尋ぬるに不在、待つ。少らくにして帰る。二階で話をする。好い心地也。鳥居素川の留守宅で妻君に逢う。如是閑浜寺へ行こうという。行く。大きな松の浜があって、一力の支店という馬鹿に大きな家がある。そこで飯を食う。マヅイ者を食わせる。其代り色々出して三円何某という安い勘定なり。電車で帰る。難波の停車場から車を飛ばして大坂ホテルに入るともう六時であった。六時四十四分の汽車にのる。如是閑と高原と金崎とがやって来た。
 此汽車の悪さ加減と来たら格別のもので普通鉄道馬車の古いのに過ぎず。夫で一等の賃銀を取るんだから呆れたものなり。乗っていると何所かでぎしぎし云う。金が鳴る様な音がする。暴風雨で戸ががたがたいうのと同じ声がする。夫で無暗に動揺して無暗に遅い。
 三条小橋の万屋へ行く。小さな汚ない部屋へ入れる。湯に入る。流しも来ず御茶代を加減しようと思う。(最中を三つ盆に入れて出す抔は滑稽也。しかも夫をすぐ引き込めて仕舞う。)此宿屋は可成人に金を使わせまいと工夫して出来上がったる宿屋也。金のあるときは宿るべからざる所也。(定本漱石全集第20巻日記断片下

 如是閑は漱石が座敷へ上がったか覚えていないというが、漱石の日記が如是閑の記憶を補完する。しかしこの日記の書きぶりでは、漱石はその年如是閑が高等下宿を引払って借家に移ったことを知らなかったようにも読める。漱石が一方的に天下茶屋を訪ねたのだろうか。考えられないことである。漱石はただ如是閑が家を替ったことを記しただけなのか。弟子でもないのに、そんなことを気にするだろうか。
 漱石は(二郎がしたように)「二階」まで上がり込んで如是閑と対談している。漱石は2階なら2階と書く。幸いにも天下茶屋の2階は快適だった。ところが浜寺でトンネルの奥に通された、如是閑がはっきり書く料亭の「二階」の座敷の方は、漱石はまるで(階数に)関心を示さないようだ。少なくとも日記には「二階」と書かれない。何か理由があるのだろうか。まさかバランスを取っているわけでもあるまい。

(この項続く)