明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 9

383.『道草』初恋考(2)――漱石の初恋とは何ぞ(二十代前半篇)


 明治21年復籍後の漱石の身近には同い年の嫂登世が3年間いた(明治24年没)。その間のトピックスは明治22年森有礼国葬時の『三四郎』広田先生の「夢の女」、明治24年子規宛書簡「銀杏返しに丈長」の女である。(本ブログ第5項、漱石の徒弟時代の年表を参照。)

夢の女
「僕がさっき昼寝をしている時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたった一遍逢った女に、突然夢の中で再会したと云う小説染みた御話だが、其方が、新聞の記事より、聞いていても愉快だよ」
「ええ。何んな女ですか」
十二三の奇麗な女だ。顔に黒子がある
 三四郎は十二三と聞いて少し失望した。
「何時頃御逢いになったのですか」
廿年許前
 三四郎は又驚ろいた。
「善く其女と云う事が分りましたね」
「夢だよ。夢だから分るさ。そうして夢だから不思議で好い。僕が何でも大きな森の中を歩いて居る。あの色の褪めた夏の洋服を着てね、あの古い帽子を被って。――そう其時は何でも、六ずかしい事を考えていた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外(ほか)に存在していなくてはならない。――覚めて見ると詰らないが、夢の中だから真面目にそんな事を考えて森の下を通って行くと、突然その女に逢った。行き逢ったのではない。向(むこう)は凝っと立っていた。見ると、昔の通りの顔をしている。昔の通りの服装(なり)をしている。髪も昔しの髪である。黒子も無論あった。つまり二十年前見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少しも変らないというと、其女は僕に大変年を御取りなすったと云う。次に僕が、あなたは何うして、そう変らずに居るのかと聞くと、此顔の年、此服装の月、此髪の日が一番好きだから、こうして居ると言う。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかかった時だという。それなら僕は何故斯う年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もっと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教えて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云うと、女が僕に、あなたは詩だと云った」
「それから何うしました」と三四郎が聞いた。
「それから君が来たのさ」と云う。
二十年前に逢ったと云うのは夢じゃない、本当の事実なんですか
本当の事実なんだから面白い
「何所で御逢いになったんですか」
 先生の鼻は又烟を吹き出した。其烟を眺めて、当分黙っている。やがて斯う云った。(『三四郎』11ノ7回末尾)

憲法発布は明治二十三年だったね。其時森文部大臣が殺された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと言って、大勢鉄砲を担いで出た。・・・やがて行列が来た。何でも長いものだった。寒い目の前を静かな馬車や俥が何台となく通る。其中に今話した小さな娘がいた。今、其時の模様を思い出そうとしても、ぼうとして迚も明瞭に浮かんで来ない。ただこの女丈は覚えている。夫も年を経つに従って段々薄らいで来た、今では思い出す事も滅多にない。今日夢を見る前迄は、丸で忘れていた、けれども其当時は頭の中へ焼き付けられた様に熱い印象を持っていた。――妙なものだ」
それから其女には丸で逢わないんですか
丸で逢わない
じゃ、何処の誰だか全く分らないんですか
無論分らない
「尋ねて見なかったですか」
「いいや」
「先生は夫で……」と云ったが急に痞えた。
「夫で?」
「夫で結婚をなさらないんですか」
 先生は笑い出した。
「それ程浪漫的な人間じゃない。僕は君よりも遥かに散文的に出来ている」
「然し、もし其女が来たら御貰いになったでしょう」
「そうさね」と一度考えた上で、「貰ったろうね」と云った。(『三四郎』11ノ8回冒頭)

「君は慥か御母(おっか)さんが居たね」
「ええ」
「御父(おとっ)さんは」
「死にました」
僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」(『三四郎』11ノ8回末尾)

 憲法発布と森有礼の暗殺は明治22年2月である。漱石は原稿に「明治23年」と書いたが、新聞掲載の時点で22年に直されているから、ここは漱石の書き間違いとしてもいいのだが、本ブログ三四郎篇(29)にも述べたように、漱石は翌明治23年の憲法施行のことを「発布」と言っているとも考えられる。発布と施行を分けるというのはいかにも役所的な発想で、庶民にとってはどちらか1つで沢山である。大日本帝国憲法の場合は発布という語の方が馴染みやすい。
「其時森有礼が殺された」というのも、文章の構えとして、明治23年をダイレクトに指すのではなく、大きく(大雑把に)「其時」と書いているのだろうから、史実通り「森有礼暗殺明治22年」「憲法施行(漱石の謂う発布)明治23年」をベースに広田先生がしゃべっていると見て問題ない。
 どちらにせよ「20年前」と何回も(4回も)言っているので、明治22年か明治23年が「20年前」なら、今は明治42年か43年ということになり、いっぽう『三四郎』物語の今が執筆・連載と同じ明治41年であることは動かしようがないから、やはりこれは1年か2年ずれていると言わざるを得ない。もちろん18、9年前を20年前と言ってとくに問題ないわけであるが、読者は先述した『硝子戸の中』床屋の親爺の「30年近く前」を嫌でも思い出す。
 ちなみに物語の今現在たる明治41年、宿帳に23年(年齢)と書いた小川三四郎は明治19年生れである。すると明治22年では4歳、明治23年では5歳ということになり、広田先生の言う「まだ赤ん坊の時分」というのもまた、随分と広い意味になる。(広田先生にとっては大学生の三四郎もまだ赤ん坊なのであろうが。)

 ここでは引用最後の一文、「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」の方が象徴的であろうか。
 漱石のいう憲法発布は明治23年であるから、その翌年は明治24年である。その年に亡くなっているのは、むろん母千枝でなく嫂登世である。漱石の登世に対する想いは、隙間風の吹く夏目の家族の中で例外的に温かいが、母千枝、姉佐和に匹敵するものでもある。3人とも早くに亡くなり過ぎたことも共通している。母千枝が「懐かしい母」、姉佐和が「幻の母」なら、嫂登世は同い年ながら漱石にとって理想の母親像を体現した存在であったろう。
 あるいは広田先生の最後の呟きが、「母親の亡くなる前年に、運命の女性と出逢った」という謎掛けだとすれば、母千枝は漱石15歳のときに亡くなっているから、漱石が14歳のときに、(例えば寄席とか自宅とか塩原家の内外で、自分より1、2歳年下の)12、3歳の可愛らしい女の子にときめいたことがあるという告白に他ならない。近所にそういう女の子が住んでいたなら、漱石は必ず書くだろうから、相手は住んでいたのではなくて、通りすがりの少女だったか。漱石は14歳のときの印象深い「初恋」を、母(の死)と関連付けて記憶していた。そのため母の死んだとき自分は14歳であったと、余計な錯覚まで起こしていた――。
 これでは(こんなとりとめのなさでは)読者も完全に降参するしかあるまい。

丈長の女
 その明治24年、嫂登世の亡くなる10日ほど前の7月17日土曜、夏休みで松山に帰った子規宛の手紙が書かれる。漱石ファンなら誰もが知る「銀杏返しに丈長」の登場である。帝大2年目になろうとする夏休みで、手紙の調子は決して重くなく暗くもない。書出しから10行くらい(全集本で)、病気がちの子規の愚痴につき合ったあと、書くことがもうないので、オマケのように数行付け加えた文章がこれである。

 ええともう何か書く事はないかしら、ああそうそう、昨日眼医者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね。――銀杏返しに竹なは(丈長)をかけて――天気予報なしの突然の邂逅だからひやっと驚いて思わず顔に紅葉を散らしたね。丸で夕日に映ずる嵐山の大火の如し。其代り君が羨ましがった海気屋で買った蝙蝠傘をとられた、夫故今日は炎天を冒してこれから行く(定本漱石全集第22巻書簡上・書簡№18より――「竹なは」のみ旧仮名遣いのまま

 漱石は前年の秋頃から眼病を患って通院していたから、以前そこで見かけたか、あるいは別な処で見染めた少女のことを子規に話したことがあったのだろう。眼科で突然その少女に出くわしたのでドギマギした。当然少女の方では知るよしもないことだから、漱石は独りで顔を赫くした。ただそれだけのことである。当然後日談もない。書かなくてもいいのだが、病気で鬱々(くさくさ)する子規に少しサーヴィスしたのである。傘を置き忘れたことの方が、子規は気になったかも知れない。

 ところが後年鏡子の『思い出』冒頭の井上眼科のくだりが、この子規宛の手紙を蘇らせた。

井上眼科の女
 当時夏目の家は牛込の喜久井町にありましたが、家がうるさいとかで、小石川の伝通院付近の法蔵院という寺に間借りをしていたそうです。多分大学を出た年だったでしょう。その寺から、トラホームをやんでいて、毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたそうです。すると終始そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面の美しい女(ひと)で――そういうふうの女が好きだとはいつも口癖に申しておりました――そのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察室へ連れて行ったり、いろんな面倒を見て上げるというふうで、そばで見ていてもほんとに気持がよかったと後でも申していた位でした。いずれ大学を出て、当時は珍しい学士のことですから、縁談なんぞもちらほらあったことでしょう。そんなことからあの女なら貰ってもいいと、こう思いつめて独りぎめをしていたものと見えます。
 ところがそのひとの母というのが芸者あがりの性悪の見栄坊で、――どうしてそれがわかったのか、そのところは私にはわかりませんが――始終お寺の尼さんなどを回し者に使って一挙一動をさぐらせた上で、娘をやるのはいいが、そんなに欲しいんなら、頭を下げて貰いに来るがいいというふうに言わせます。そこで夏目も、俺も男だ、そうのしかかって来るのなら、こっちも意地ずくで頭を下げてまで呉れとは言わぬといったあんばいで、それで一ト思いに東京がいやになって松山へ行く気になったのだとも言われております。当時にしてみればパリパリ(バリバリ)の学士で、大学でも評判のよかったという人が、何も苦しんで松山くんだりまで中学教師として都落ちをしなければならないわけはなかったらしいのです。いずれ何か理由があったか、深い考えがあったことと想像されないことはありますまい。ともかく松山へ行ってもまだその母親が執念深く回し者をやって、あとを追っかけさしたと自分では信じていたようです。(角川文庫版夏目鏡子漱石の思い出』1松山行――1段落目の引用)

 鏡子の『思い出』改造の初版は昭和2年、子規宛書簡はそれより早くすでに大正期の全集に明らかにされている。そんなこととは別に、そもそもこの両者を結びつける根拠や必要性があるのだろうか。漱石が子規に報告した眼医者が駿河台の井上眼科である謂われはない。もちろん同じ井上眼科であって構わないわけであるが、子規宛書簡は大学に入った翌年の夏休み、鏡子の話は卒業して(子規を措いて)学士になった後のことである。

 子規宛書簡(明治24年7月)と法蔵院逃避行(明治27年10月)の間には3年3ヶ月の断層がある。話に一部混同があるのではないか。漱石が鏡子と見合いして結婚するまで半年かかっている。遠隔地だからかかった方である。3年3ヶ月も結婚話が継続するのでは、女性は婚期を逸するだろう。
 しかしこの鏡子の(尼僧にまつわる)思い出話については、漱石自身も早くに本音らしきものを漏らしている。

 ・・・主人が昔し去る所の御寺に下宿していた時、襖一と重を隔てて尼が五六人居た。尼抔と云うものは元来意地のわるい女のうちで尤も意地のわるいものであるが、この尼が主人の性質を見抜いたものと見えて自炊の鍋をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのは此時からだと云うが、尼は嫌にせよ全くそれに違ない。主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りに何れも長く続いた事がない。よく云えば執着がなくて、心機がむやみに転ずるのだろうが、之を俗語に翻訳してやさしく云えば奥行のない、薄っ片の、鼻っ張丈強いだだっ子である。・・・(『猫』第10篇69頁中10頁辺り)

 ・・・元来主人は平常枯木寒巌の様な顔付はして居るものの実の所は決して婦人に冷淡な方ではない、嘗て西洋の或る小説を読んだら、其中にある一人物が出て来て、其が大抵の婦人には必ずちょっと惚れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱、、、には恋着するという事が諷刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心した位な男である。そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送って居るかと云うのは吾輩猫抔には到底分らない。或人は失恋の為だとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、又或人は金がなくて臆病な性質だからだとも云う。どっちにしたって明治の歴史に関係する程な人物でもないのだから構わない。・・・(『猫』第2篇65頁中6頁辺り)

 普通に考えると、漱石は失恋したので寄宿舎にいたたまれなくなり、お寺の離れに逃げ込んだら隣室の尼さんたちにからかわれた、ということになろうか。
 反対に漱石の失恋がなかったと仮定すると、鏡子の『思い出』の記述も、『猫』の記述も、無意味(作り話)ということになる。しかしこれは考えにくい。
 あるとも言えず、ないとも言えないのが漱石の初恋であるが、結論を出すにはもう少し先まで見る必要がある。とりあえずここまでで言えることは次の3点であろうか。

漱石自身の書き残したものはなべて具体性に欠しい。
漱石もまた女性の3分の2に恋着する可能性を有つ「男」である。
③鏡子は夫の「松山落ち(中学教師)」を必要以上に気にしているのではないか。

 * * *

 ところで本項冒頭の広田先生の夢には、少女だけでなく哲学の夢も登場する。

「凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外(ほか)に存在していなくてはならない」(『三四郎』11ノ7再掲)

 これはヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』の、

「世界の意味は世界の外に在る」(6 – 41)
「価値のあるものが存在するとすれば、それはすべてのものの外側になければならない」(6 – 41)
「時間と空間の内にある生の謎を解くものは、時間と空間のにある」(6 – 4312)
「神は世界のに姿を現さない」(6 – 432)

 を思わせるものである。(詳しくは本ブログ坊っちゃん篇14~17を参照されたい。)
三四郎』の書かれた明治41年(1908年)、漱石より1世代も若いヴィトゲンシュタインは、まだベルリンとマンチェスターで機械工学を学んでいた。『論理哲学論考』のノートが完成するのは第1次世界大戦中、漱石が『明暗』を書いていた時期に概ね一致する。
 漱石がもう少し長生きしたら、このずば抜けた才能を持つ、チャプリンと同じ頃生れた(ということはヒトラーと同じに生れた)「若い」哲学者をどう評価しただろうか。(チャプリンヒトラーヴィトゲンシュタインは1889年4月の10日間の中で、この順番に誕生している。)
「若い人の方が常に正しい」とは、世の中の成り立ちがよく分かっていた漱石が、いつも心の底で感じていたことであるが。

 もう1つ、漱石ヴィトゲンシュタインヒトラーとは、わずかの差で接点がないが、チャプリン映画は見ていた可能性がある。チャプリンが始めて映画を作っていきなり有名になったのは大正3年だが、大正5年(『明暗』の頃)にはすでに億万長者になっていた。たった2年か3年での世界制覇。後の世界でいえばビートルズである。
『猫』迷亭の静岡の伯父が着ていた寸の合わないフロックコートチャプリンを彷彿させるが、時期的には漱石の方が先である。いっぽう10年後『明暗』で小林が津田のお古の外套を試着してお延とお時に笑われたのは、映画のチャプリンを連想したからではないか。もちろん漱石読者はそれが漱石と義父中根重一のエピソードに発したものと識っている。しかしそれは笑いを誘うような話ではあるまい。漱石に義父を貶める意図がない以上、古い外套をファルスにしたのは、チャプリンの外形によるものであると思いたい。
 ちなみにビートルズを創ったジョン・レノンはチャプリンの半世紀もあとに生れたが、亡くなったのはチャプリンのたった3年後であった。そのジョンが凶弾に倒れてから、もうあと何年かでまた半世紀が過ぎようとする。時の流れは早いというべきか、(チャプリン以外の)人生は短いというべきか。