明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 6

380.『道草』へ至る道(4)――寺田寅彦の功績と世紀の誤植


 本ブログ草枕篇で堤重久の『太宰治との七年間』という本から長々と引用したことがある。太宰治が教師であったことは1度もないから趣きは少し異なるが、ここで漱石の一番弟子寺田寅彦の古典的な回想録を引用したい。引用元は岩波の漱石全集別巻「漱石言行録」である。

 熊本第五高等学校在学中①第二学年の学年試験の終った頃のことである。同県学生のうちで試験をしくじったらしい二三人の為にそれぞれの受持の先生方の私宅を歴訪して所謂「点を貰う」為の運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸か其一員にされてしまった。其時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けて居たので、もしや落第するとそれきり其支給を断たれる恐があったのである。
 ②初めて尋ねた先生の家は白川の河畔で、藤崎神社の近くの閑静な町であった。「点を貰い」に来る生徒には断然玄関払を食わせる先生もあったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。そうして委細の泣言の陳述を黙って聴いてくれたが、勿論点をくれるともくれないとも云われる筈はなかった。兎に角此の重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、③自分は「俳句とは一体どんなものですか」という世にも愚劣なる質問を持出した。それは、予てから先生が俳人として有名なことを承知して居たのと、其頃自分で俳句に対する興味が大分醗酵しかけていたからである。其時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残って居る。「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだと云ったような常套な描写を月並という。」「秋風や白木の弓につる張らんと云ったような句は佳い句である。」「いくらやっても俳句の出来ない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやって見たくなった。そうして、④其の夏休みに国へ帰ってから手当たり次第の材料をつかまえて二三十句ばかりを作った。夏休みが終って九月に熊本へ着くなり何より先にそれを持って先生を訪問して見て貰った。其次に行った時に返して貰った句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、其中の二三の句の頭に〇や〇〇が付いて居た。それからが病み付きで随分熱心に句作をし、⑤一週に二三度も先生の家へ通ったものである。其頃はもう白川畔の家は引払って内坪井に移って居た。立田山麓の自分の下宿からは随分遠かったのを、⑥丸で恋人にでも会いに行くような心持で通ったものである。・・・(寺田寅彦夏目漱石先生の追憶』昭和7年改造社「俳句講座」)

 明治11年生れの寺田寅彦は明治29年に漱石が赴任したばかりの五高に入学、漱石とは明治31年、3年生になる頃から俳句を通じて親しくなったが、1年後の明治32年には卒業して上京している(帝大入学)。漱石もその翌年洋行のため熊本を離れた。明治36年1月漱石帰朝後からは東京で交際が再開し、同年7月帝大卒業後大学院(実験物理学科)へ進んだことで、『猫』寒月や『三四郎』野々宮宗八の造形だけでなく、彼らのユニークでユーモラスなエピソード・科学理論・研究室での実験の描写等を通じて、漱石作品の成立に寄与することになった。(『それから』代助の父のくだりにも、寅彦の父の幕末期の逸話が少しだけ使われている。)
 漱石とは11歳下だが、結婚したのは漱石の1年後という「早熟」(「誠実」)ぶりを発揮し、友人としても子規こそ別格だが、その子規と入れ替わるように、生涯にわたって漱石の趣味の合う友であり続けた。⑥の「恋人のように」はまさに三鷹太宰治の住居を訪ねる堤重久の気持ちでもあったろう。

 高知中学を首席で卒業した寺田寅彦の記憶力は(本人の弁にもかかわらず)確かなようである。念のため前項までの漱石年表のうち、寺田寅彦に関係するものを(いくつか項目を追加した上で)抄出してみよう。

明治29年4月 松山中学退任~五高へ転任
明治29年6月 鏡子と結婚
明治29年9月 寺田寅彦五高入学
明治30年6月 父直克死去
明治30年7月 上京~鏡子流産
明治30年7月 寺田寅彦20歳高知で夏子15歳と結婚
明治30年9月 寺田寅彦五高2年次
明治31年3月 熊本5度目の住居(白川を臨む熊本市井川淵町)(②)
明治31年5月 寺田寅彦ヴァイオリン購入(安物)
明治31年6月 鏡子白川入水事件
明治31年7月 寺田寅彦級友の単位問題で漱石宅を始めて尋ねる(そのとき俳句の手ほどきを受ける)(①)(③)
明治31年7月 熊本で6回目の住居(以後2年近く住んだ熊本市内坪井町)(⑤)
明治31年7月~8月 寺田寅彦高知へ帰省(④)
明治31年9月 寺田寅彦五高3年次
明治31年9月~翌年7月 寺田寅彦俳句を通じて漱石と親しくなる(⑤)
明治32年7月 寺田寅彦五高卒業~帝大入学
明治32年9月 寺田寅彦子規宅を訪問
明治33年4月頃 寺田寅彦妻夏子を呼び寄せ西片町に家庭を持つ
明治33年8月 漱石と子規宅最後の訪問
明治33年9月 漱石洋行
明治34年9月 寺田寅彦肺尖カタルのため1年休学
明治35年9月 子規死去(36歳)
明治35年10月 漱石狂セリ(文部省の噂)
明治35年11月 寺田寅彦妻夏子死去(20歳)
明治36年1月 漱石帰朝
明治36年7月 寺田寅彦帝大卒業~大学院進学
明治37年11月 『猫』(第1篇)脱稿
明治38年1月~翌年7月 『猫』続篇執筆
明治38年4月 寺田寅彦『団栗』(ホトトギス
明治38年12月 寺田寅彦28歳寛子19歳結婚(再婚)
明治41年10月 寺田寅彦理学博士号授与
明治41年8月~10月 『三四郎』執筆
明治42年3月 寺田寅彦洋行
明治43年8月~10月 修善寺の大患
明治44年2月~4月 漱石博士号問題
明治44年6月 寺田寅彦帰朝
大正5年12月 漱石没(50歳)
大正6年10月 寺田寅彦妻寛子死去(31歳)
大正7年7月 寺田寅彦再々婚(40歳)
大正12年1月 『冬彦集』刊(45歳)
大正12年2月 『藪柑子集』刊(同)
昭和10年12月 寺田寅彦死去(58歳)

 寅彦は3度結婚している(離婚は1度もしていない)。最初の結婚は漱石と親しくなる前であり、その愛妻夏子の死は(子規と同じ)漱石洋行中の出来事である。漱石はお悔やみを言う暇さえなかったが、寅彦の『団栗』に涙しない者があろうか。
 2度目の結婚は『猫』にも書かれるが、遠い伝聞のような、奥歯に物が挟まったような、漱石にしては珍しい曖昧な書き方になっている。そこまでして寒月を結婚させる必要があったのか、と読者はつい思ってしまうが、後に振り返ると、寒月の結婚は『猫』の救いになっていたことが分かる。幸運にも漱石が『猫』に書いた、(寅彦の)2度目の結婚の相手寛子が亡くなったのは、漱石の死の翌年であった。
 漱石の洋行中(明治33年9月~明治36年1月)の(漱石を取り巻く)最大の出来事が、恒子の誕生と子規の死というのは、誰も異論のないところだろう。これに次ぐのが明治34年度の寺田寅彦の休学と、明治35年の寺田夏子の死であろうか。それで寅彦洋行中(明治42年3月~明治44年6月)の出来事を見ると、上記年表の通り、修善寺の大患と博士号辞退問題である。
 そもそも漱石寺田寅彦が知り合う前の年、漱石の父直克が亡くなって、夏休みに上京して鏡子が流産したとき、寺田寅彦は高知に帰省して結婚していた。
 互いの人生の重大事件が、なぜか互いの不在のうちに起こる。偶然とみるべきか、漱石寺田寅彦の交友における微妙なすれ違いが、かえって両者の因縁の深さを物語っているようにも見える。

 その博士号事件(明治44年)であるが、寅彦はすでに明治41年、ちょうど漱石が『三四郎』を書き終えた頃に博士になっている。博士号については、早く『猫』で寒月の結婚問題にかこつけて茶化しているから、(洋行中の)寅彦の手前もあって、漱石は博士号を受ける気にならなかったのではないか。そのとき寅彦が身近におれば、漱石は寅彦に相談したうえで博士号を受けていたかも知れない。漱石は寅彦の眼の前で(寅彦の受けた)博士号の価値を否定するほどのニヒリストではない。何より漱石は(文部省側以外の)誰かに賛成してほしかったのである。自分(だけ)の意思で受けるわけにはいかない。自分の責任で博士になると、博士になることが正しいということを自分で証明しなければならない。ところがそんな「公理」はこの世に存在しないのである。

 * * *

 さて上記年表の下線を付した箇所であるが、前にも断った通り、本項までの年表の作成には岩波版全集『年譜』(第27巻別冊下)以外にも、有名な荒正人の労作『増補改訂漱石研究年表』(昭和59年集英社小田切秀雄監修)を有難く参照している。
 ところが荒正人の年表では、明治36年にあるべき、「寺田寅彦帝大物理学科卒業・大学院進学」の項目が、あろうことか明治33年の(7月の)頁に記載されている。
 明治33年というのは五高時代にすでに結婚していた寺田寅彦が、幼妻夏子を晴れて東京へ呼び寄せ、始めて家を構えて帰省せずにひと夏ヴァイオリン(ケーベル先生に笑われた9円の)を弾いていた年である。記念すべき年ではあるが、寅彦はまだ卒業どころか帝大1年次を了えたに過ぎない。
 もう1ヶ所、五高時代に遡るが、荒正人の年表は、寺田寅彦が同級生の進級問題のことで漱石宅を始めて訪れた年次を、明治31年でなく、明治30年7月のこととしている。
 明治29年、漱石が赴任したばかりの五高に入学した寺田寅彦が始めて漱石に面会したのは、冒頭に引用した『夏目漱石先生の追憶』の①にはっきり書かれているように、「第二学年の学年試験の終った頃」であるから、②⑤の漱石の住所地ともども、どう考えてもそれは明治31年の7月でなければならない。

 校正ミスには相違ないが、明治31年7月の項を見ても、正しく内坪井町へ移ったことが書かれているだけであるし、明治36年のどこを調べても、明治36年には(あるはずの)寺田寅彦卒業進学の記事はない。明治36年の日本の総人口462万人という驚くような記載が見つかっただけに終わった(正しくは4,620万人だろう)。
 校正に手が回らないのは分かるが、論者が前にも述べた鏡子の『漱石の思い出』世紀の誤植事件(『雨の降る日』全8回が明治43年の、「三月二日に書き出して、七日に書き終った」とあるべきところ、「・・・七月に書き終った」と誤植されて、爾来1世紀、版元が変わろうが文庫になろうが遂に直されなかった)に迫るものと言えよう。いずれも聖典の驥尾に付すという意気込みの(と思われる)書物にしては、余りにも杜撰な編集ぶりであろうか。(人のことは言えないが。)

 寺田寅彦と我が国総人口(の校正ミス)は、昭和49年の集英社全集別巻として出されたオリジナル版からの引継ぎであるから、荒正人にも半ば以上の責任はある。おそらく荒正人は土佐人にして漱石の一番弟子寺田寅彦にさほど関心がなかったのであろう(寺田夏子の死も研究年表に記載されていない)。
 しかし小田切秀雄の増補改訂版が(昭和49年版では正しく印刷されていた)同じ土佐の福岡孝弟のことを、わざわざ神岡孝弟と誤植し直したのは、何か別の力が作用したのであろうか。孝弟は孝悌でなくてもいいとは思うが、神岡と福岡では別の人になろう。何のための「増補改訂」か。(土佐は方角が悪いのか。)
 誤植ではないが、『野分』の「越後の高岡」事件をつい思い出してしまう。

 誤植はどうでもいい話かも知れない。慥かに寺田寅彦にとっては、もっと大切なことがあるようだ。
三四郎』で野々宮宗八が実験物理学の成果を披露するシーンがある。当初漱石は原稿にこう書いた。(冒頭の1行は三四郎のセリフ。)

「野々宮さん、水晶の糸がありますか」
「ええ、水晶の粉をね。酸水素吹管の炎で溶かして置いて、かたまった所を両方の手で、左右へ引っ張ると細い糸が出来るのです」
 三四郎は「左うですか」と云ったぎり、引っ込んだ。今度は野々宮さんの隣にいる縞の羽織の批評家が口を出した。
「我々はそう云う方面へ掛けると、全然無学なんですが、そんな試験を遣って見様と、始め何うして気が付いたものでしょうな」
始め気が付いたのは、何でも瑞典か何処かの学者ですが。あの彗星の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、出るたびに何時でも反対の方角に靡くのは変だと考え出したのです。それから、もしや光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思い付いたのです」(『三四郎』9ノ2回)(平成版漱石全集・定本漱石全集第5巻)

 ところが新聞掲載のあと、寺田寅彦の意見を容れて、漱石は初版本では次のように直した。

「野々宮さん、水晶の糸がありますか」
「ええ、水晶の粉をね。酸水素吹管の炎で溶かして置いて、両方の手で、左右へ引っ張ると細い糸が出来るのです」
 三四郎は「左うですか」と云ったぎり、引っ込んだ。今度は野々宮さんの隣にいる縞の羽織の批評家が口を出した。
「我々はそう云う方面へ掛けると、全然無学なんですが、始めは何うして気が付いたものでしょうな」
理論上はマクスエル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人が始めて実験で証明したのです。近頃あの彗星の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、出るたびに何時でも反対の方角に靡くのは光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思い付いた人もある位です」(『三四郎』9章)(昭和41年版漱石全集第4巻)

 いくら原稿準拠とはいえ、このくだりだけは漱石(と寺田寅彦)の改訂版を本文とすべきではないか。(ちょっと最後のくだり、意味の取りづらいところもあるが。)
 およそ漱石が初出原稿に手を入れても、大した改善につながらないのは、本ブログ彼岸過迄篇(25)、行人篇(5)でも述べたことがある。『坊っちゃん』の(虚子が手を入れた)オリジナル原稿でさえ、漱石の書いたままでちっとも構わない。(本ブログ坊っちゃん篇10~13)
 しかし何事にも例外はある。この『三四郎』だけはどう見ても改訂版(昭和の全集本)の方が本文にふさわしいのではないか。それは滅多にないことかも知れないが、寺田寅彦の親切は反映させるべきであろう。その見方からすると平成版・定本版の『三四郎』の本文は、規模の大きな「誤植」であると言えなくもない。

 文庫本の読者は幸いである。今のところ平成版や定本版を底本にした文庫は出る気遣いはないし、岩波文庫でさえ底本は昭和版全集である。一方折角新しい全集本に置き換えた図書館は、(『三四郎』については)悲劇以外の何物でもないだろう。国民作家たる漱石の、人気作品『三四郎』のあるくだりが、作者の意に染まない方の記述に手戻りしているからである。原稿準拠と称する平成版・定本全集は、校異の頁にも漱石(と寺田寅彦)の改訂版がそのまま載っているのではなくて、なぜか原稿の活かせる文節を残しているつもりなのだろうか、ブツ切れに載っているので読んでも何のことか分からない。
 思うに平成以降の全集は、読まれるために出されたのではなく、「素材」として出されたのであろう。それは漱石の意にも寺田寅彦の意にも反することではないか。原則通りに突き進むことと、「科学的」「合理的」であることとは、関係がない。ここは読者のためにも漱石が直した方を確定本文にして、原稿の方を丸ごと注釈の頁に掲げるべきではなかったか。