明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 7

381.『道草』へ至る道(5)――空白の1年間


 第5項で掲げた漱石の徒弟時代14年間の前半部分を再録する。

明治12年3月 府立1中入学
明治13年 (寄席に通い始める――講談は子供の頃から好きだった)
明治14年1月 母千枝死去(56歳)
明治14年4月頃 府立1中退学~二松学舎入学
明治15年3月 二松学舎退学
明治15年~16年 (この前後塩原家――昌之助・かつ・れん――に屡々出入りする)
明治16年7月 成立学舎入学(予備門入学準備・英語習得のため)(太田達人・佐藤友熊・中川小十郎・中村是公・橋本左五郎他と識る)
明治16年9月 小石川極楽水時代(橋本左五郎等と自炊生活)
明治17年9月 予備門入学(その前に明治英学校にも通ったらしい)
明治17年~18年 (この頃中村是公等10人近くで神田猿楽町の下宿末富屋に住む~予備門通学の2年間は下宿したりしなかったり、要するに自宅にあっても、長兄に英語を教わるとき以外は家族と口をきくわけでなし、漱石本人にとってはどちらでも同じような感じだったか)
明治18年5月 江の島徒歩旅行(俺が負ぶさる)
明治18年9月 予備門(2年次)
明治18年9月 虫垂炎
明治19年 (この頃日根野れん21歳平岡周造27歳と結婚)
明治19年4月 「東京大学予備門」を「第1高等中学校(予科3年・本科2年)」と改称
明治19年7月 腹膜炎~第1高等中学校進級試験落第
明治19年9月 第1高等中学校予科(再2年次)(米山保三郎と知る)
明治19年9月 江東義塾アルバイト時代(中村是公と)
明治20年1月 成績急上昇~以降卒業まで首席を通す
明治20年3月 長兄大助死去(32歳)
明治20年6月 次兄直則死去(30歳)

 上記強調部分の明治15年~16年、中学をやめて予備門(後の1高、今の東大)に入る前の、二松学舎と成立学舎の間の「謎の1年余」であるが、漱石はこのとき実際何をしていたのであろうか。
 漱石が通っていた当時の中学(1中の正則)が、上級学校(そんなものが明確に存在したかは別として)を目指さないので面白くなかったというのは分かる。それなら変則へ行き直すなり、直接成立学舎なり共立学舎なりへ進めば済むことではないか。
 漱石はそうしなかった。漢文が好きだからひとまず(気持ちよく通学の続けられそうな)二松学舎へ転校した。それはいい。しかしそこから予備門受験準備のための成立学舎へ「再転校」するまでの空白期間が謎である。塩原姓のまま引き取ったのであるから、夏目家でも本気の干渉はしないにせよ、おおっぴらにどこへも行かずに遊んでいられる境遇ではなかったはず。1年通った二松学舎に、もう1年行くと噓を言って、毎日弁当を持ってどこかで道草を喰っていたとでも言うのか(それは既に1中時代に済ませていたことであった)。

 古来偉人の履歴には多く若年時に、何をしていたのかよく分からない時期というものが存在する。釈迦やキリストまで持ち出さないにしても、ファンゴッホにも弟テオへの消息が途絶えた10ヶ月(実質1年間)というのがある。あの感動的な手紙、国立ファンゴッホ美術館版書簡全集№155(みすず書房版書簡全集では№133 )のころ、漱石より1廻り以上年長でシャーロック・ホームズと同い年らしいフィンセント・ファンゴッホの空白期間は、1879年~1880年(明治12年~13年)、満年齢では26歳~27歳、フィンセントは後々もこの間の事情を決してつまびらかにしようとしなかった。
(ちなみにホームズ先生も、ワトソン博士と知り合った20代後半の頃の何年かの生活は謎であるとされる。ちょっと話はそれるが、よく分からない期間ということでは、国民的人気作家でその行状が調べ尽くされている感のある、太宰治にしても樋口一葉にしても、それはちゃんと存在するもののようである。)

 漱石はせっかちぶりを発揮して、他の偉人より少し早いようであるが、早いか遅いかは別にしても、この明治15年~16年にかけての時期は、漱石(数え年16歳~17歳)にとっては、学問の道に進めるかどうかの分岐点となる、苦しくも(後から思えば)大切な日々であった。
 それにしても漱石の書いたものでこの空白の1年間に直接言及しているものは、明示的にも暗示的にも皆無である。漱石全集第25巻別冊上『談話』の中に、その徒弟時代のものはいくつかあるが、

・「落第」(明治39年)
・「僕の昔」(明治40年)
・「時機が来ていたんだ」(明治41年)
・「一貫したる不勉強――私の経過した学生時代」(明治42年)

 いずれも当該の1年間をダイレクトに釈明するものではない。空白期間を照らしていない。もちろん漱石が普通の家庭の子供なら、1年間ブラブラしていた、あるいは引きこもって本ばかり読んでいたのだろうと、「普通に」想像すればよい。しかし繰り返すが、漱石の場合は塩原姓のまま実家に引き取られ、父親から厄介者扱いされて、明治21年の復籍までは学資どころか小遣さえ貰えない野良犬並みの境遇にあったのである。

 母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮して居た。おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖の様に云って居た。何が駄目なんだか今に分らない。妙なおやじが有ったもんだ。兄は実業家になるとか云って頻りに英語を勉強して居た。・・・

 母が死んでから清は愈おれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。・・・是はずっと後の事であるが金を三円許り借してくれた事さえある。何も借せと云った訳ではない。向(むこう)で部屋へ持って来て御小遣がなくて御困りでしょう、御使いなさいと云って呉れたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りて置いた。実は大変嬉しかった。・・・

 母が死んでから五六年の間は此状態で暮して居た。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。是で沢山だと思って居た。ほかの小供も一概にこんなものだろうと思って居た。只清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。其外に苦になる事は少しもなかった只おやじが小使を呉れないには閉口した

 母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。其年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。おれはどうでもするが宜かろうと返事をした。・・・(以上『坊っちゃん』第1章)

「母が死んでから」というフレーズが4回続けて、しかも文節の頭に出現している。筆の勢いに任せて書いているようにも見える『坊っちゃん』だが、やはりこれは異例であろう。何か理由があるのだろうか。

 私は其頃まだ十七八だったろう、其上大変な羞恥屋で通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙って隅の方に引込んでばかりいた。それでも私は何かの拍子で、此等の人々と一所に、其芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何か奢らなければならないので、私は人の買った寿司や菓子を大分食った。
 一週間ほど経ってから、私は又此のらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話が大分はずんだ。其時咲松という若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云った。私は小倉の袴を穿いて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣さえ無かった
僕は銭がないから厭だ
好いわ、私が持ってるから
 此女は其時眼を病んででもいたのだろう、こう云い云い、綺麗な襦袢の袖でしきりに薄赤くなった二重瞼を擦っていた。(『硝子戸の中』17回)

 坊っちゃんが金のないのに苦しんだのは母が亡くなって5、6年とあるから、漱石の徒弟時代に当て嵌めると明治14年~19年くらいに該当しよう。芸者とトランプする『硝子戸の中』の「17、8歳」を信じれば、明治16年~17年である。「謎の期間」を含んではいるが、少しずれているようでもある。漱石はその作家キャリアの両端(明治39年の『坊っちゃん』と大正4年の『硝子戸の中』)で、つい本音を覗かせた。いずれにせよ金がないことだけは分かるが、それ以外のことは推測するしかない。坊っちゃんは大人しく中学に(たぶん5年間)通っていたことになっているが、それは小説の中でのことである。
 もう1例、年齢がはっきり書かれた箇所が、『道草』のよく知られたくだりに存在する。

「御縫さんて人はよっぽど容色が好いんですか」
「何故」
「だって貴夫(あなた)の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」
 成程そんな話もない事はなかった。健三がまだ十五六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人一寸島田の家へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、一寸微笑しながら出合頭の健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚って待つ」といって彼をひやかした。・・・(『道草』22回)

十五六の時分」とは明治14年~15年、1中から二松学舎へ転校してさらにそこも退学し、まさに今問題となっている時期に差し掛かろうとするころである。英語の授業さえまだ受けていない時期にドイツ語は不自然であろう。この「十五六の時分」は漱石の徒弟時代に即して言えば、「十六七の時分」と読み替えるべきではないか。だとすると謎の空白期間は、時期的にはこの『道草』の御縫さんの追憶と一致する。記述は断片的であるが、読者への印象は強烈で(『彼岸過迄』等のシーンを彷彿させる)、漱石の実体験であることは間違いない。だがそれだけの話であろう、と言ってしまえなくもない。
硝子戸の中』37回でも、漱石は、「母は私の十三四の時に死んだのだけれども」と書いているが、上記年表でも明らかなように、母千枝は明治14年1月(9日)に亡くなっているから、漱石が15歳になったときである。まあ書いても「十四五の時分」であろう。「十三四」とはどこから出てきたのだろうか。
 本ブログ坊っちゃん篇でも述べたが、坊っちゃんも中学卒業から逆算すると、14歳のとき母親が亡くなっている。それは小説の話だから何歳でも構わないのであるが、自分のエッセイまで小説『坊っちゃん』に合わせる必要はないわけである。本ブログ三四郎篇・それから篇・門篇でも、物語のカレンダーを作るたびに判明したことであるが、癖のようにいつも1年なにがしずれるというのは、もしかすると別な理由が何かあるのかも知れない。
 先に引用した『硝子戸の中』に登場する床屋の親爺も、カレンダーについてこんなことを言っている。

「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚した調子で「へッ」と声を揚げた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。何時頃御亡くなりになりました」
「なに、つい此間さ。今日で二週間になるか、ならない位のものだろう」
 彼はそれから此死んだ従兄に就いて、色々覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。(『硝子戸の中』16回)

「成程そう云えば誰が袖なんて看板が通りから見えるようだね」
「ええ沢山出来ましたよ。尤も変る筈ですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家ってね。丁度そら高田の旦那の真向(まんむこう)でしたろう、東家の御神燈のぶら下がっていたのは」(『硝子戸の中』16回)

 死んだ高田(庄吉)の家が寺内(神楽坂肴町行願寺)にあって東屋(吾妻屋)の筋向いだったという昔話をしているわけだが、芸者咲松(親爺の姪にあたる)の話が出ない前に、この床屋の親爺は「30年近く前」を連発している。漱石がこれを書いている今現在は、高田庄吉の死んだ大正4年(1915年)2月である。ぴったり30年遡ると明治18年(1885年)2月になる。漱石19歳である。漱石は早く「17、8歳の頃」この従兄の家で屈託していたわけだから、東屋と高田の家のことを言うなら「30年近く前」でなく、「30年前」「30年以上前」と言わなければならない。細かく言うと「31、2年前」であろう。漱石はここでも1年か2年、暦をずらしているようである。

 話がだんだんややこしくなってくるが、問題の時期が『道草』の引用文「フラウ門に倚って待つ」の時期とぴったり重なるとすれば、そこからある想像をすることも可能である。
 子のない塩原昌之助にしてみれば、金之助は将来拠り所となるべき「金の卵」であったから、やすとの離婚や日根野かつ母娘との同居等でごたごたして金之助を戻しはしたが、金之助と日根野れんの結婚を希んでいたことは事実であろう。塩原家にとってもこれ以上にいい話があるとは思えない。『道草』では(不自然にも)始めからすぐ立ち消えになったことにされるが、そして漱石の死後すぐに書かれた関壮一郎「『道草』のモデルと語る記」でもあっさり否定されるが、話者のかつ(加津)は塩原との不倫関係さえ認めないくらいだから、この件に関しては信憑性は限りなく疑われる。おそらくこの話者は、物事の結果(現在の姿)をそのまま受け容れて、それに合致しない話や考え方はすべて否定してよいとするタイプの女なのであろう。強欲な(と漱石が信じた)塩原昌之助の本命は、先の見えている下級将校なんぞでなく、あくまで金之助だったはずである。
 それで漱石の働きかけの有無にかかわらず、結果として塩原から何がしかの金を引っ張り続けることになったのが、この時期であった。漱石は(若い男らしく)日根野れんの存在も気になったろうが、畢竟学資という甘い餌を捨て切れなかったのだろう。でなければ好き嫌いのはっきりした漱石が、いつまでもあんな(と信じた)塩原家に出入りするわけがない。復籍時の240円は、(小さい頃の養育費というよりは――そんなものが金に換算できる時代ではなかった)興醒めだがやはり直近10ヶ年の金之助の「小遣いと学費の塩原家出費分」(月2円・年24円の10年分)という意味合いではなかったか。

 話は戻るが、徒弟時代最後の3年間、帝大英文科が新制の大学院(修士課程)に充たるのであれば、漱石自身の「大学院」時代の2年間は何と呼べばよいのであろうか。
 それは誰が考えても「博士課程」の2年間と呼ぶしかないことになる。博士号は漱石の徒弟時代14年間の上に君臨して、それを(隅々まで)照らす王冠であった。
 博士号授与の文部省方針は、上記漱石年表を見ても合理的な成り行きであったが、拒否する漱石サイドにもまた、人には言えない、個人的には尤もな理由があった。
 前項でも述べたが、漱石が一般的な意味における「親の金」で、あるいは現代のように奨学金とアルバイトで学校を出たのなら、おそらく漱石は博士号を拒否したりしなかったはずである。漱石は人の称讃を受け付けないほどの臍曲がりでもお変人でもない。勲章を拒む反体制の人間ではない。反骨精神の塊まりではあるが、むしろ本質は体制側の人間である。自他共に認める学業のキャリア以前に、その学資について、漱石には思い出したくない事情が存在した。

 すべては金の話に収斂する。漱石の学資は、前半は塩原昌之助の金で、後半は父親直克の金で賄われた。――いずれもその金は、それほど間を置かず漱石と彼らの眼前で、漱石と彼らの生きているうちに、漱石によって彼らに、「返済」されたのである。
 漱石は(親の金ならぬ)「人の金」で14年間学び、それを(恩愛でなく)貨幣で返済した。この事実は倫理の人漱石にとって、精神の平衡を保つための異様の努力を必要とした。漱石が養父と実父に必要以上に冷淡であったこと、小説に金のことばかり書いたのは、このためだったのではないか。「空白の1年間」はその(碌でもない)記憶の底にいつまでも貼り付いて、ギミックの王冠たる博士号のように、漱石の人生を「下から」照らし続けたのであろう。