明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 12

386.『道草』先行作品(1)――『文鳥』と『夢十夜


 漱石の「明治39年怒りの3部作」には(『猫』は別格として)、それぞれ先行作品というものがある。
・『坊っちゃん』――『趣味の遺伝』(小説の結び方の秘訣)
・『草枕』――『一夜』(温泉宿の怪事件)
・『野分』――『二百十日』(友情物語)

 新聞小説になってからは、さすがにそんなものは存在すべくもなくなった。慥かにそうであろう。1作1作が漱石の生の証しであり、唯一無二の完成品である。(『虞美人草』と『坑夫』だけは、それに続く遠大な3部作群のための試作品であると言えなくもないが。)
 だが何事にも例外はある。『道草』にはメインテーマたる「夫婦物語」の先行作品として、『野分』の存在が挙げられよう。さらには『道草』ならではの特色として、漱石に自己の生い立ちについて語った随筆のようなものがあれば、それらは立派に『道草』の先行作品とならざるを得ない。

・第1集『永日小品』 明治42年1月~3月
・第2集『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月
・第3集『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月
・第4集『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

 漱石の随筆集はこの4冊だけであるが、これらを漱石の3部作作品等との関連で示すと(日付はいずれも執筆ベース)、

〇青春3部作
・『文鳥』と『夢十夜』 明治41年5月~7月
・『三四郎』 明治41年8月~10月
・第1集『永日小品』 明治42年1月~3月
・『それから』 明治42年6月~8月
・第2集『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月
・『門』 明治43年2月~6月
・(修善寺の大患 明治43年8月~10月)
・第3集『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月

〇中期3部作
・『彼岸過迄』 明治45年1月~4月
・『行人』 大正1年12月~大正2年3月・大正2年7月~9月
・『心』 大正3年4月~7月

〇晩期3部作
・第4集『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

『道草』 大正4年5月~9月
・第5集『点頭録』(未完) 大正5年1月
・『明暗』(未完) 大正5年5月~11月
・『(幻の最終作品)』(仮定) 大正6年~大正7年
・第6集『(幻の旅行記)』(仮定) 大正7年~大正8年

 論者の想像では、『明暗』の完成とともに『点頭録』の続きも書かれ、朝日退社を考える漱石は「幻の最終作品」を書き了えたあと、新聞小説の断筆を宣言する。朝日は退職金代わりに鏡子との旅行をプレゼントし、その旅行記が最後の連載となる――。
 推測の話はともかく、別名の多かった中期3部作(※)に、また1つ「随筆の付着しない純粋培養の小説3部作」という特長が加わることと、『硝子戸の中』が『道草』と不可分の関係にあることが、上表からも伺われよう。

※注)中期3部作の異称
「短編形式3部作」「善行3部作」「不思議3部作」「括弧書3部作」「自画自讃3部作」「謀略3部作」「一人称3部作」「鎌倉3部作」「ヒロイン途中退場3部作」そして今回の「エセイなし3部作」

 * * *

 上記随筆の一部は、前項まで「漱石と初恋」という観点から先行して取り上げもしたが、本項以降はいったん初恋問題を離れて、『道草』につなぐべき漱石の随筆集4冊の概要を順に追って見てみよう。まずは第1集『永日小品』からであるが、その前に『永日小品』の先行作品たる『文鳥』と『夢十夜』をみることにする。

・プレ第1集A『文鳥』 明治41年5月

文鳥』は、漱石が明治40年10月に早稲田南町に移って、12月に鈴木三重吉が鳥籠と共に5円で買って来た1羽の文鳥(おそらく雌)にまつわるエセイである。その中に数箇所含まれる「美しい女」の記述のおかげで、漱石ファンの間で妙に有名になっているが、女の話は既述したのでこれ以上取り上げない。
 1週間か10日くらいですぐに死んだ文鳥の話自体はひどいものである。猫・犬含め夏目家は生き物を飼うのに適さない家である(助かりそうにない金魚の話は『行人』冒頭にちょっと出て来る)。すでに漱石という難しい生き物(天才)がいる以上、それは已むを得ないことかも知れない。それでも『坑夫』を書いている文豪の気持ちを束の間でも慰められたとしたら、(『坑夫』とともに)『文鳥』の存在意義もなしとしない。
 ちなみに文鳥は「千代千代」と鳴くというのが鈴木三重吉の主張であるが、漱石もそれは是認したのか、このあと「三千代」(『それから』)、「千代子」(『彼岸過迄』)と、ヒロインに2人の千代を続けざまに登場させた。

1回 鈴木三重吉が来て文鳥を飼えと云う。
2回 三重吉と豊隆が文鳥の入った竹籠を持って来た。
3回 文鳥に餌をやる。逃げないように入口を塞ぐのは気の毒。
4回 小説(『坑夫』)を書きながら文鳥を観察する。
5回 文鳥は千代千代と鳴く。夜は箱に入れた。
6回 文鳥は1本脚で立っている。家の者も水や餌を与えているようだ。
7回 馴れると人の指から餌を食べるというが、三重吉は嘘を吐いたに違いない。
8回 世話のし忘れ。猫の攻撃。三重吉の私的な件で家を空ける。
9回 文鳥が死んでいた。下女を𠮟りつける。

 しかし『文鳥』を読んで一番びっくりするのは、前述のような「昔の美しい女性にまつわる追憶」の連続した記述ではなく、ラストの次のような漱石のカミナリである。

 十六になる小女が、はいと云って敷居際に手をつかえる。自分はいきなり布団の上にある文鳥を握って、小女の前へ抛り出した。小女は俯向いて畳を眺めた儘黙っている。自分は、餌を遣らないから、とうとう死んで仕舞ったと云いながら、下女の顔を睥めつけた。下女は夫れでも黙っている。
 自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へ端書をかいた。「家人が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んで仕舞った。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽さないのは残酷の至りだ」と云う文句であった。
 自分は、之れを投函して来い、そうして其の鳥をそっちへ持って行けと下女に云った。下女は、どこへ持って参りますかと聞き返した。どこへでも勝手に持って行けと怒鳴りつけたら、驚いて台所の方へ持って行った。(『文鳥』9回)

 文鳥の飼い方について、漱石の家で三重吉からレクチャを受けた者は漱石以外にいないのであるから、文鳥の死はどう考えても漱石に責任がある。漱石がそれを認めないのは仕方ない。しかし三重吉(豊隆でも)は鏡子夫人か女中の誰かにも小鳥の世話を教えるべきであった。長男純一はまだ赤ん坊だが、4人の女の子はそれぞれ明けて10歳・8歳・6歳・4歳、家に文鳥が来ればむしろ夢中になる年頃だろう。ふつうの家庭なら、するなと言っても手伝いをしたがるはずである。漱石との対照(反響)であろうか、漱石の弟子たちはなぜか基本的に暢気な人(暢気に見える人)が多い。だから同じ意味で鏡子夫人とウマが合うのである。
 小説でも漱石の登場人物は神経質でよく癇癪を起すが、上記引用の最後の文節は、『坊っちゃん』の萩野の婆さんに対するカミナリを彷彿させる。

 おれは新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、夫でもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架へ持って行って棄てて来た。新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞程の法螺吹きはあるまい。・・・顔を洗ったら、頬ぺたが急に痛くなった。婆さんに鏡をかせと云ったら、けさの新聞を御見たかなもしと聞く。読んで後架へ棄てて来た。欲しけりゃ拾って来いと云ったら、驚いて引き下がった。・・・(『坊っちゃん』第11章初めの辺)

 ここで言うことではないかも知れないが、『坊っちゃん』という小説の構図は、エセイたる『文鳥』の構図に驚くほど似ている。懐かしい昔話の上に、忌々しい現実の事件が乗っかって、本人の意に反して主人公は引っ掻き回され、最後に癇癪玉が破裂する。突然発生のように『坊っちゃん』ではマドンナが、『文鳥』では昔帯上げの房でいたずらした女の話が登場するが、この両人のセリフは一切ない。彼女たちは生きて自分の言葉を発しない。そしてここが肝要だが、どちらも作者自身と思われる人物が(何のメイクも施されず)そのまま描かれている。素の自分をそのまま描いて不朽の作品になるのだから、亜流の出る幕はないのである。

 ところで猫が代名詞になっている感もある漱石だが、ペットらしきものが登場する小説は意外と少ない。漱石の家には猫も犬もいたが、とくに猫に関しては『吾輩は猫である』の後の小説には一切登場させなかった。あの(吾輩の)猫に義理立てしたのか、あまりにも処女作の印象が強いので、出てくるだけで冗談になると思ったのか。
『行人』の金魚は先に少し触れたが、ペットの出てくる漱石の小説は(『猫』を別物とすれば)次の3例だけである。

・青春3部作『それから』 兄誠吾の家で飼っているヘクター。
・中期3部作『行人』 天下茶屋岡田の家の助からない金魚。
・晩期3部作『明暗』 津田の会社の玄関に棲みつく茶色の犬。

『それから』のヘクターは、『硝子戸の中』のヘクトーとは別物である。先の項の年表に、

大正3年10月 ヘクトー死す(牡4歳)

 と記したが、宝生新が漱石の家に仔犬を持って来たのは、(『硝子戸の中』で「三四年前」とあるから)明治44年~45年のころのことと思われる。『それから』の書かれた明治42年夏とは年代が合わない。『それから』青山(赤坂)の長井家のヘクターは、耳の垂れた毛の長い英国産の大きなハウンドドッグであり、口を革紐で縛られているという。早稲田の漱石の家で実際に飼われていた「ヘクトー」は、猟犬ではないようだ。通行人を噛んだこともあり、行方不明になったこともある。まあ駄犬であろう(漱石は役所に「混血」と届けている)。

『門』坂井家でも犬がいたことにはなっているが、例の泥棒事件で坂井家が紹介されたときにはこの猟犬は入院中で不在であり、物語の最後までついに登場することはなかった。読者は漱石が(その後のストーリー展開に関係ないので)忘れたのだろうと思うが、ペットというアイテム(飼い犬)は『それから』ですでに書かれているがゆえに、漱石は同じ3部作に2度使わなかっただけかも知れない。

 千駄木・西片・早稲田南町と文豪になる漱石を見届けるかのように生きたあの黒猫。漱石山房では猫は3代目を数え、ヘクトーも飼っていたが、自伝ふうの『道草』にそれらは登場しない。生き物が「生きて」描かれることはなかった。――あたかもこの世には人間だけで沢山だと謂わんばかりに。
 晩期3部作でその任に当たったのが『明暗』であろう。津田の勤める会社の玄関先で、給仕の少年とともに描かれる茶色の犬は妙な存在感を放つが、この犬には仲間がいる。

・赤い(茶色の)革靴を剝犬の皮と同級生に揶揄される藤井家の「従弟」の真事。
・上から垂らされた餅菓子に、縁の下から犬のように食いつく岡本家の長男にして末っ子の一(はじめ)は真事の同級生。
・物語の最後に津田が行く温泉宿の軒下に寝そべる、飼い犬か野良犬か分からない犬。
・その津田の、清子の部屋の場所が分かるという天眼通ならぬ天鼻通は、猟犬より確かとベテラン女中のお墨付きを得る。

 ヘクトーは明らかに名前負けしてわずか3、4年しか生きなかったが、『明暗』の名前のない犬たち、犬に擬される登場人物たちは、何か碌でもないことの象徴として、(未完の)『明暗』の物語をいつまでも生き続けようとしているかのようである。――漱石のつもりでは単に3部作の中でのペット問題を消化しているだけかも知れないが。
 それでは同じく実生活でも名前の付けられなかった黒猫の方はというと、

明治36年3月 千駄木
明治37年7月 黒猫迷い込み
明治37年11月 『猫』(第1篇)
明治39年3月~12月 『坊っちゃん』『草枕』『野分』
明治39年12月 西片町
明治41年9月 早稲田南町
明治41年5月 『文鳥
明治41年7月 『夢十夜
明治41年8月~10月 『三四郎
明治41年9月 猫の死亡通知(牡5歳)

 漱石の処女作の成立に深くかかわったこの福猫は、『坊っちゃん』『草枕』等の名作とともに生き、『文鳥』『夢十夜』のあと(前項で述べた、漱石が始めて自分のタブローにサインしたというべき)『三四郎』が出来上がるのを横目で見ながら、満4年なにがしかの生涯を了えた。現代とは時代が違うにせよ、歴史に名を残すべき猫としては、(哀れなヘクトー共々)余りに短命であったと言わざるを得ない。