明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 4

378.『道草』へ至る道(2)――『道草』の時代


『道草』成立までの道のりが示されると、ついでにその前の事象も追加したくなる。
健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に所帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。(『道草』冒頭)から、
其一枚には百円を受取った事と、向後一切関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。(同最終回)まで、まさに小説『道草』においてリアルタイムに語られる時代の年表である。

 漱石の読者なら、①が明治36年1月、②が明治42年11月の出来事であると知っている。それは作者漱石のカレンダーであって、小説『道草』の暦とは一線を劃すものであることも、理屈の上では解っている。本ブログ野分篇31でも述べたが、『道草』は、①から②まで(の7年間)を、ある年の6月から12月までの半年間に「圧縮記帳」して語られたものである。
 それを踏まえた上で漱石の年表を続けてみよう。作成基準は前項と同じだが(漱石の作品は執筆ベース)、♧♢♡♤の分類・カウントは省略した。

《『道草』の時代》

明治36年( 1903 年)
1月 帰朝
3月 千駄木へ転居
3月 小泉八雲退官
3月 五高退官~退職金受領
4月 一高帝大任官
4月~38年6月 General Conception of English Literature 講義
4月~6月 Silas Marner 講義
5月 藤村操事件
7月 神経衰弱亢進
7月 寺田寅彦帝大卒業~大学院進学
7月~9月 鏡子と別居
8月 呉秀三による診断
9月~翌年2月 Macbeth 講義
10月 Conan Doyle "The Adventure of the Empty House"
10月 義父中根重一に古着を遣る
10月 尾崎紅葉死去(36歳)
11月 三女栄子誕生

明治37年( 1904 年)
2月 日露開戦
2月~11月 King Lear講義
7月 黒猫迷い込み
9月 明治大学予科講師
9月 小泉八雲死去(55歳)
11月 『猫』(第1篇)
12月~翌年6月 Hamlet講義
12月 『倫敦塔』『カーライル博物館』

明治38年( 1905 年)
1月 ホトトギス1月号発売(『猫』)
1月 『猫』(続篇)
2月 『幻影の盾』
3月 『猫』(続々篇)
3月 明治大学講演「倫敦のアミューズメント」
4月 泥棒事件(『猫』の)
4月 『琴の空音』
5月 田岡嶺雲「作家ならざる二小説家」
5月~翌年7月 『猫』(第4篇~第11篇)
6月~翌年6月 十八世紀英文学講義
7月 『一夜』
9月 日露戦捷
9月~翌年10月 Tempest講義
10月 『吾輩ハ猫デアル』(上篇)刊
10月 『薤露行』
12月 『趣味の遺伝』
12月 四女愛子誕生
12月 寺田寅彦結婚(再婚)

明治39年( 1906 年)
3月 坊っちゃん
3月 島崎藤村『破戒』
3月~4月 塩原昌之助より復籍の打診
5月 第1創作集『漾虚集』刊(『倫敦塔』から『趣味の遺伝』までの短編集)
7月~8月 草枕
9月 『二百十日
9月 中根重一死去(56歳)
10月 木曜会スタート
10月 狩野享吉京大学長就任
11月 『吾輩ハ猫デアル』(中篇)刊
11月 読売入社を断わる
12月 『野分』
12月 クレイグ先生死去(満63歳)
12月 西片町へ転居

明治40年( 1907 年)
1月 第2創作集『鶉籠』刊(『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』)
1月 野上弥生子の習作(明暗)への批評(書簡)
2月~3月 朝日入社交渉
3月 一高帝大退職(明治大学も)
3月~4月 関西旅行(京に着ける夕)
4月 朝日入社
4月 美術学校講演『文芸の哲学的基礎』
5月 『文学論』刊
5月 『吾輩ハ猫デアル』(下篇)刊
6月~8月 虞美人草
6月 長男純一誕生
9月 早稲田南町へ転居
12月~翌年1月 『坑夫』
12月 文鳥を飼う(1週間で死ぬ)

明治41年( 1908 年)
1月 永年の胃病に加え糖尿病が発覚
2月 東京朝日講演『創作家の態度』
3月 ホトトギス掲載用『創作家の態度』
3月 煤煙事件
4月 西片町の旧居に魯迅が住む
5月 『文鳥
6月 平岡(日根野・白井)れん死去(43歳)
6月 国木田独歩死去(38歳)
7月 『夢十夜
8月~10月 三四郎
9月 猫の死亡通知(牡5歳)
10月 狩野享吉京大辞職
12月 泥棒事件
12月 次男伸六誕生
12月 溥儀即位
12月 中村是公満鉄総裁就任

明治42年( 1909 年)
1月~3月 『永日小品』
3月 啄木朝日校正係に
3月 寺田寅彦渡欧
5月 二葉亭四迷死去(46歳)
5月 メレディス死去(満81歳)
6月~8月 『それから』
6月19日 太宰治誕生~昭和23(1948)年6月13日
8月 急性胃カタル
9月~10月 満洲韓半島旅行
10月 下関・広島・大阪(大阪朝日)・京都経由で帰宅
10月~12月 『満韓ところどころ』
10月 伊藤博文暗殺(69歳)
10月 平岡(日根野)周造死去(50歳)
11月 文芸欄開設(東京朝日)
11月 塩原昌之助に百円渡して絶縁

 最後の1行(明治42年11月、養父との百円絶縁事件)が、この7年間を次の7年間(前項の、漱石最後の7年間)に繋げるようでもあり、断ち切っているようでもある。
 都合14年間で(本ブログ)考察対象の13作プラス『坑夫』、計14作の小説を書くという漱石の律儀さにも頭が下がるが、その前月の出来事、同じハルピン(ハルビン)駅頭で(同じプラットフォームで)伊藤博文が狙撃されたという偶然には驚ろくばかりである。(次作『門』は伊藤公暗殺の噂で物語が動き始める。)
 そのとき満鉄の総裁だった中村是公は(「安重根の」流れ弾が2発も衣服をかすめた)、漱石の小説はおろか、およそ本など読まないタイプの人であったが、漱石(の人生)に附かず離れず(留学時の倫敦にも出没している)、多用の身にもかかわらずとうとう臨終まで漱石の身近にいた。まるで友の身上が心配でたまらぬというふうに、あるいは常に行動を監視するかのように。

 その中村是公(よしこと)漱石同様(当時は珍しくもなかった)養子組で、戸籍上五男坊というところまで同じ。是公の旧姓は柴野であるが、柴野は『道草』では御縫さんと結婚した(酒をぐいぐい飲む)軍人として登場する。御縫さんのモデルたる日根野れんの旦那の名前は平岡周造である。『それから』の(同様に酒をぐいぐい飲む)平岡と同じ名である。風来坊みたいに書かれる平岡(常次郎)は名前からして長男ではないだろうし、実在の平岡周造も陸軍の令状や岩国連隊の名簿に日根野周造という名前が残っているくらいだから、日根野れんも母親が一時白井家の家長であったように、日根野家を継ごうとしたのだろうか。家(墓と位牌)の存続は当座の最重要課題であろうが、男系にせよ女系にせよ、よほどの大身でない限り(家としての)祭祀の途はいずれは途絶えるのである。(そのための養子縁組に名を藉りた世襲制度・襲名文化は、我が国独自の進化を遂げた。)
 それはともかく、作品の中での簒奪者としての平岡常次郎の名が、実在の平岡周造を念頭に置いたものであれば、その平岡周造を別の作品に描くときに、実在の中村是公の旧姓柴野を流用したというのは、理屈からいえば中村是公の中に簒奪者の面影を見たという「三段論法」が成り立つ。
『野分』で白井道也の兄を登場させたとき、その漱石の三兄(叔兄)直矩は弱年時夏目家の本家たる臼井姓を名乗っていたのであるが、まさかそれを使うわけにはいかないものの、漱石は塩原の後妻日根野かつの出自が白井であることは知っていたのだから、それを(見た目の漢字の連想とともに)模した可能性は大いにある。
 あるいは『それから』の代助は本来三千代の夫君たる平岡になりたかったのであるから、『心』の先生がKになりたかったように、『道草』の若き健三も一度は御縫さんと結ばれる夢を見たのであれば、その嫁いだ相手柴野(実は中村是公)にある種の羨望を感じていたとしておかしくない。(それがたとえ自分の10倍以上と目される年収だけの話にせよ。――「南満鉄道会社って一体何をするんだい」という『満韓ところどころ』冒頭の呟きは、それを巧妙に覆った漱石の韜晦ではなかったか。)
 漱石とはまるで相容れない実業の世界で成功者となった中村是公は、漱石に似た眼病にも襲われて失明までしたが、漱石と同じ2男5女を儲けて漱石の10年後、これまた漱石と同じ胃潰瘍でこの世を去った。広尾に残された3千坪の敷地は(相続税という概念のない時代に生きた)漱石がまさに生前一番望んでいたものであった。その意味で中村是公漱石のもう1つの(仮の)人生を体現した、不思議な親友であったと言えよう。

 ところで漱石の亡くなったとき、最後の弟子の世代の1人として出入りしたことのある菊池寛が(たまたま時事新報の記者をしていたので)、千葉亀雄の命令で枕辺に集まった知友の談話を取ろうとして、中村是公小宮豊隆らに怒鳴りつけられたことがある。菊池寛は後年、漱石亡き後の日本文壇の、また別な意味でのボスになった。文藝春秋漱石の本に関心がなかったが(漱石の家族には厚かった)、その菊池寛の『満鉄外史』に中村是公に対する私怨はかけらも見当たらない。それは菊池寛が公正だからというよりは、別なライターが書いたと考えた方が分かりやすい。これは「そんなら」「それなら」という書き癖(口癖)から、書き手の変更が容易に解ると、本ブログ彼岸過迄篇(9)及び(10)でも述べたことがある。
 菊池寛の代作問題は松本清張にも著作があり、論者ごときの出る幕ではないのであるが、余談ついでに付け加えた。