明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 34

330.『草枕』目次(21)第13章(つづき)――何事かが成就した漱石唯一の目出度い作品


第13章 鉄道駅で大切な人との別れ (全3回)(承前)

2回 那美さんの肖像画を描く話
(P164-5/舟は面白い程やすらかに流れる。左右の岸には土筆でも生えて居りそうな。土堤の上には柳が多く見える。まばらに、低い家が其間から藁屋根を出し。煤けた窓を出し。時によると白い家鴨を出す。家鴨はがあがあと鳴いて川の中迄出て来る。)
先生私の画をかいて下さいな~画工の驚ろきは那美さんの喜び~あの山の向こうを貴方は越していらしった~舟が着くとなかなか大きな町である

 女は黙って向(むこう)をむく。川縁はいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面のげんげんで埋っている。鮮やかな紅の滴々が、いつの雨に流されてか、半分溶けた花の海は霞のなかに果しなく広がって、見上げる半空には崢嶸たる一峰が半腹から微かに春の雲を吐いて居る。
「あの山の向うを、あなたは越して入らしった」と女が白い手を舷から外へ出して、夢の様な春の山を指す
「天狗岩はあの辺ですか」
「あの翠の濃い下の、紫に見える所がありましょう」
「あの日影の所ですか」
「日影ですかしら。禿げてるんでしょう」
「なあに凹んでるんですよ。禿げて居りゃ、もっと茶に見えます」
「そうでしょうか。とも角、あの裏あたりになるそうです」
「そうすると、七曲りはもう少し左りになりますね」
「七曲りは、向うへ、ずっと外れます。あの山の又一つ先きの山ですよ」
「成程そうだった。然し見当から云うと、あのうすい雲が懸ってるあたりでしょう」
「ええ、方角はあの辺です」

 筆が那美さんに向かうと景色の書きぶりも一段と艶やかになる。那美さんの画工に対するほとんど最後の語りかけ。エキセントリックなところはもう見えない。那美さんは海側から峠を見ている。峠の茶屋で画工は那古井の御嬢さんのことを婆さんから始めて聞いたのであった。すべてはそこから始まった。すぐさま婆さんはまるで見張り塔の番人のように、あるいは那美さんの庇護者のように、画工の情報を那美さんに伝えた――。
 この川舟からの景色を見て、画工と那美さんは珍しく互いに心に通じ合うものを感じたようでる。川面から見上げる岩山の峠。感傷的ともいえる那美さんの言葉に続く、何の底意も含まない単純な会話が二人の間で交わされるとは。――思うにこれは漱石の書く男女の始めての「会話」ではなかったか。男女はもう闘いをやめている。この男女の「平和な(平凡な)対話」は、次に『三四郎』の印象的なシーンとして蘇った。

 三四郎は又石に腰を掛けた。女は立っている。秋の日は鏡の様に濁った池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはただ二本の木が生えている。青い松と薄い紅葉が具合よく枝を交し合って、箱庭の趣がある。島を越して向側(むこうがわ)の突き当りが蓊鬱(こんもり)とどす黒く光っている。女は丘の上から其暗い木陰を指した
「あの木を知って入らしって」と言う。
「あれは椎」
 女は笑い出した。
「能く覚えて入らっしゃる事」
「あの時の看護婦ですか、あなたが今訪ねようと云ったのは」
「ええ」
「よし子さんの看護婦とは違うんですか」
「違います。是は椎――といった看護婦です」
 今度は三四郎が笑い出した。
彼所ですね。あなたがあの看護婦と一所に団扇を持って立っていたのは
 二人のいる所は高く池の中に突き出している。此丘とは丸で縁のない小山が一段低く、右側を走っている。大きな松と御殿の一角と、運動会の幕の一部と、なだらかな芝生が見える。
「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とうとう堪え切れないで出て来たの。――あなたは又何であんな所に跼がんで入らしったの
「熱いからです。あの日は始めて野々宮さんに逢って、それから、彼所へ来てぼんやりして居たのです。何だか心細くなって」
「野々宮さんに御逢いになってから、心細く御成りになったの」
「いいえ、左う云う訳じゃない」と云い掛けて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。
 ・・・(『三四郎』6ノ12回)

 『草枕』の精神は次に『三四郎』に受け継がれた。『草枕』はその美文ゆえに、『虞美人草』に引き継がれてその役目を終えたかにも見えるが、『三四郎』のための、豊饒な耕土を有つ、よく準備された畠であったともいえる。だからこそ登場人物の種子を蒔いただけで『三四郎』という小説の果実が実ったのであろう。

3回 永訣。那美さんに突然浮かんだ憐みの表情
(P167-9/愈現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまって、そうして同様に蒸汽の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。)
画工の汽車論~汽車は文明であるが文明はまた人を押さえつける~文明による平和は真の平和ではない~危ない危ない~「愈御別かれか」「それでは御機嫌よう」「死んで御出で」~野武士の髯面が~最後の一句

 停車場に着いて汽車を待つ。草鞋穿きの田舎者の2人連れ。しきりに何かしゃべっている。(彼らは後年『明暗』で、津田が湯河原へ行く乗換駅の待合室に再び出現した。)

「牛の様に胃袋が二つあると、いいなあ」

 この呟きに心を動かされない漱石ファンはいないだろう。このとき読者はすでに、胃弱で大根おろしに頼ったりタカジアスターゼを飲む『猫』の苦沙弥先生を知っているが、この胃病がまさか生涯にわたって漱石を苦しめることになろうとは、『草枕』の時代では家族以外気付くよすがもなかった。

 そして久一と皆との別れ。汽車が動き出して、おそらく最後尾の車両に乗っていたのは、満洲へ行く那美さんの亭主であった。城下に住む野武士は熊本駅から乗車していたのだ。野武士もまた志保田の一家との永訣となった。
 窓から首を出したということは、彼もまた那美さんを探していたのであろうか。那古井の草っ原で金を渡したとき、久一の出立と見送りのことも伝えていたのだろう、何でも先回り出来る那美さんは知っていたはずである。那美さんは夫との別離のシーンを予期していた。那美さんの「憐れ」の表情は咄嗟に浮かんだように書かれるが、たぶん久一との別れのときから、それは浮かんでいたと思われる。画工が見なかっただけである。久一との別れだけなら、那美さんの顔を見る必要はない。

 茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。其茫然のうちには不思議にも今迄かつて見た事のない「憐れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」
 と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面は此咄嗟の際に成就したのである。(『草枕』末尾)

 漱石はこのとき少しだけ那美さんにも野武士にも寄り添っている。非人情の旅は頓挫したものの、画工の目指す画は完成した――画工の心の中だけで。とはいえ何事かがめでたく「成就した」小説は、後にも先にも『草枕』だけである。そのため2人の男が犠牲になろうとしていることはさておき、『草枕』は漱石作品最初で最後の、達成感と充足感の感じられる唯一の小説となった。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 33

329.『草枕』目次(20)第13章――太公望の秘密


 草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)

第13章 鉄道駅で大切な人との別れ (全3回)

1回 川舟に全員集合
(P161-9/川舟で久一さんを吉田の停車場迄見送る。舟のなかに坐ったものは、送られる久一さんと、送る老人と、那美さんと、那美さんの兄さんと、荷物の世話をする源兵衛と、それから余である。余は無論御招伴に過ぎん。)
久一さん軍は好きか嫌いかい~那美さんが軍人になったら嘸強かろう~太公望事件~誰も彼も運命の輪から外れることは出来ない

(那古井の)村から菊池川を遡上して現在の玉名駅に向かうのであろう。玉名の古名は多婆那か多婆留(田原)か。鹿児島本線を北上するのであればわざわざ峠を越えて熊本へ出るまでもない。下車駅は下関か博多(那の津)か。那美さんが嫁に行った「5年前」には、すでに漱石はさらにその5年前に熊本の地を離れていた。漱石は日露の凱旋は東京で見聞したであろうが、地方都市での出征の模様を実際に見たわけではなかった。自分のしなかったことは書かないのが漱石の流儀である。漱石は出征の見送りはしなかったかも知れないが、人との別れは当然ながら何度も経験した。

 岸には大きな柳がある。下に小さな舟を繋いで、一人の男がしきりに垂綸を見詰めて居る。一行の舟が、ゆるく波足を引いて、其前を通った時、①此男が不図顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。②眼を見合せた両人の間には何等の電気も通わぬ。③男は魚の事ばかり考えている。④久一さんの頭の中には一尾の鮒も宿る余地がない。一行の舟は静かに太公望の前を通り越す。
 日本橋を通る人の数は、一分に何百か知らぬ。もし橋畔に立って、行く人の心に蟠まる葛藤を一々に聞き得たならば、浮世は目眩しくて生きづらかろう。只知らぬ人で逢い、知らぬ人でわかれるから結句日本橋に立って、電車の旗を振る志願者も出て来る。⑤太公望が、久一さんの泣きそうな顔に、何らの説明をも求めなかったのは幸である。顧り見ると、安心して浮標を見詰めている。大方日露戦争が済む迄見詰める気だろう。

 風景画に人物を点描する珍しい例が第5章に見られた(黙って貝を剥く爺さん)。今回の記述はそれをなぞったのだろうか。しかしこの釣り人は久一さんと目を合わせるというアクションを起こした(①)。単なる風景ではなかった。釣り人は久一さんを知らない(②)。知らなければ別れもない(⑤)。画工は違う。たまたま久一と見知って、オマケにせよ別れの列に連なっている。これもまた1つの対照の妙であろうか。
 しかしこのくだりで、③の「男は魚の事ばかり考えている」は、『草枕』にあっては例外的な記述である。④の久一の描写も、③を受けてのことだろうが、ややそれに近い。これは本ブログのスタート地点たる、『三四郎』の「三四郎自分の方を見ていない」という驚ろきの記述に通ずるものがあるようだ。

「違うんですか」
「一人と思って入らしったの」
「ええ」と云って、呆やりしている。やがて二人が顔を見合した。そうして一度に笑い出した。美禰子は、驚いた様に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落とした小声になって、
「随分ね」と云いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行って仕舞った。三四郎は立ち留まった儘、もう一遍ヴェニスの堀割を眺め出した。先へ抜けた女は、此時振り返った。⑥三四郎自分・・の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。
⑦「里見さん」
 出し抜けに誰か大きな声で呼んだ者がある。⑧美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立っている。原口さんの後ろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何か私語いた。三四郎には何を云ったのか、少しも分らない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行った。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向って、
「妙な連と来ましたね」と云った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
「似合うでしょう」と云った。野々宮さんは何とも云わなかった。くるりと後ろを向いた。・・・(『三四郎』8ノ8回~8ノ9回)

 論者はこの美禰子の描写に対して、幽体離脱・憑依という言葉を使ったが、小説『三四郎』の文脈に順えば、この部分は「三四郎の方を見ていない」、あるいは「三四郎美禰子の方を見ていない」とされるべきである。おそらく漱石は「女」が3度続くのを嫌がって、といって「美禰子」と書くのもうるさいような気がして、「自分」という表現に収めたのであろうが、結果として小説の中でこの箇所だけ、漱石が美禰子の内面に踏み入りそうになってしまった。
(詳しくは本ブログ三四郎篇に譲るが、手っ取り早く言えば、該当箇所⑥の、
三四郎自分・・の方を見ていない」の英訳文が、
Sanshirõ was not watching her・・.
 となっていることで、論者が何を言いたいかは分かっていただけると思う。さらに言えば、欧文にするならここは構文的には、
「美禰子は覚った、三四郎は自分の方を見ていない」
 となるべきであろう。)

 言うまでもないことだが、画工は魚釣りの男の心の中は分からない。久一の考えさえ傍から推し量るしかないのである。ここは画工から見て、そのように推測されたという意味で、文面がくどくなるのを避けて現行本文のようになったと「推測」するしかないが、このような人物への接近(覆い被さり)・同化(一体化)・代弁(忖度)は、たまに見せる漱石の癖であろうか。
 これは『草枕』が「余」の1人称小説、『三四郎』が3人称小説であるということとは関係がない。漱石は何人称小説であれ書き方を変えていない。熱したあまりつい自分が出ばってしまったというような話でも勿論ない。

 ところで『三四郎』のハイライトたるこの丹青会の20行くらいの引用文を読んで、⑧の箇所に改行を必要とすると感じた読者は、果たしているだろうか。
 現在わが国に出回っている出版物で、『三四郎』の当該箇所の本文が、引用文のように(改行されずに)繋がって表記されている出版物は皆無である。すべての本文が⑦の頭で改行されている。実際にはこの場所は新聞連載の切れ目であるから、(平成版の岩波の全集のように)連載回を忠実になぞった本文にする場合も、結果として「改行」されて文節を分けている。
 しかし漱石は原稿の⑧の箇所に、わざわざ「一字下ゲニゼズ」という注記を入れているのである。つまり漱石の指示は、上記引用文のように、⑧のくだりは前の文から続けて読めということに他ならない。
 この引用文の範囲に限っても、漱石は改行を一度もしていない(セリフの頭を行頭に持って行っているだけである)。⑧の箇所にだけ「改行」が入るのは不自然ではないか。文章として改行の必要があるとすれば、⑦の部分のみであろう。連載回を明示したい場合は、漱石の「指示」をまず優先して、それから連載回表示を考えるべきであった。つまり『三四郎』第9回の頭は、⑦の方がよりふさわしいのである。

 運命の縄は此青年を遠き、暗き、物凄き北の国迄引くが故に、ある日、ある月、ある年の因果に、此青年と絡み付けられたる吾等は、其因果の尽くる所迄此青年に引かれて行かねばならぬ。因果の尽くるとき、彼と吾等の間にふっと音がして、彼一人は否応なしに運命の手元迄手繰り寄せらるる。残る吾等も否応なしに残らねばならぬ。頼んでも、もがいても、引いていて貰う訳には行かぬ。

 久一は漱石にとって妙に気になる人物であった、と前に書いた(第26項)。久一は赤の他人とは思えない。久一との(永遠の)別れは画工にある感慨をもたらす。これでは非人情も何もあったものではない。太公望のカットは、おそらくここにも対照の妙を採り入れたかったためであろうが。
 創作技法上の理屈は分かる。太公望と久一。赤の他人であれば何の情実も生じない。画工たちと久一。惻隠の情は避けられないが、それをそのまま書くのでなくて、太公望と対比して書くことによって、「人情」は消え去って「非人情」になるというのである。こんな理屈が一般読者に伝わるわけがない。画工は先に峠の茶店で婆を描くときに、自分がかつて能舞台で観た高砂の媼に瓜二つであるとのみ書いて、それが非人情の手法になりうると信じた。『草枕』の旅を始めるにあたっての画工の決意は、やはりうまく行かなかったのだと、最後に読者も納得する。

 しかし小説はここで終わるわけではない。非人情のアプローチは1つではない。画工が自分の決意を犠牲にしてまで披露した「別れの曲」は、大団円に向かって次第に盛り上がってゆく。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 32

328.『草枕』目次(19)第12章(つづき)――野武士の髯と『一夜』の髯ある人


第12章 白鞘の短刀の行方 (全6回)(承前)

4回 那美さん野武士に財布を渡す
(P152-15/寝返りをして、声の響いた方を見ると、山の出鼻を回って、雑木の間から、一人の男があらわれた。 茶の中折れを被っている。中折れの形は崩れて、傾く縁の下から眼が見える。眼の恰好はわからんが、慥かにきょろきょろときょろつく様だ。藍の縞物の尻を端折って、素足に下駄がけの出で立ちは、何だか鑑定がつかない。野生の髯だけで判断すると正に野武士の価値はある。)
髯の男を注視する~那美さんが現われる~二人は接近して向き合う~那美さんの懐には白鞘が~現れたのは財布であった

 それでも一応往時の回想のあとの大事件は、野武士と11回目の那美さんの同時登場であったとしてよい。白鞘の短刀を呑んだ懐から取り出されて野武士に渡されたものは財布であった。
 男女間の金銭の授受というのは、『坊っちゃん』から始まって、永く漱石作品の重要な素材であり続けた。女の書かれない小説はないが、金の話の直接書かれない漱石の小説もまたないだろう。あるとすれば『彼岸過迄』の「雨の降る日」「須永の話」「松本の話」の3連作くらいだろうか。(その松本も須永市蔵も高等遊民とその予備軍であるが、そもそも高等遊民という呼称からして、それは金権社会――その否定を前提とした発想に基づいている。)
 高等遊民とは無縁の関西人西鶴は意図的に金のことばかり(あるいは女のことばかり)書いたが、江戸の人漱石も心は奈辺にあったかは知らず、金と女のことばかり書いた。

5回 画工那美さんに見付かる
(P156-1/二人は左右へ分かれる。双方に気合(けはい)がないから、もう画としては、支離滅裂である。雑木林の入口で男は一度振り返った。女は後をも見ぬ。すらすらと、こちらへ歩行てくる。やがて余の真正面まで来て、「先生、先生」と二声掛けた。是はしたり、何時目付かったろう。)
すぐ那美さんに見つかる~ここへ入らしてまだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか~あれはわたくしの亭主です

「先生、先生・・・何をそんな所でして入らっしゃる
「詩を作って寝ていました」
「うそを仰しゃい。今のを御覧でしょう」
「今の? 今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」
「ホホホホ少々でなくっても、沢山御覧なさればいいのに」
「実の所は沢山拝見しました」
「それ御覧なさい。まあ一寸、こっちへ出て入らっしゃい木瓜の中から出て居らっしゃい

 12回目(本章では3回目の登場)の那美さんに画工はもう敵わない。言いなりである。男は元の亭主であった。満洲に行くので金を遣ったという。10年後の未完の大作で、小林は東京を食い詰めて朝鮮へ渡ろうかと言う。キャリアの両端に位置する2つの小説に同じ血が流れている。それはいいが画工はもう那美さんの尻に敷かれているようである。亭主が出て来たので安心したわけでもないのだろうが。
 ところで上記引用文、「出てらっしゃい」「出てらっしゃい」の使い分けには、それこそ驚ろかされる。ここは筆の勢いでつい書き分けてしまったと解したい。「入らっしゃい(る)」が3度続くのを気にして、たまたまそう書いてしまった。そう解釈しないと全集すべての箇所を再検討しなくてはならなくなる。漱石はこだわる場面もないではないが、基本的には細部に関心がない。
 文庫本等で「こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」とあれば苦労がなくていいが、それでも漱石が書いた原稿の字面をつい思い浮かべるような親身な読者なら、変に誤解してしまうより、直に全集本を読んだ方が早いだろう。

6回 蜜柑山の久一さんの家へ行く
(P159-4/迅雷を掩うに遑あらず、女は突然として一太刀浴びせかけた。余は全く不意撃を喰った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、此所迄曝け出そうとは考えて居なかった。「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。)
兄のいる本家へ行く~南向きの庭の先は蜜柑畠~その先は青海~「久一さん」「そら御伯父さんの餞別だよ」

 帯の間に、いつ手が這入ったか、余は少しも知らなかった。短刀は二三度とんぼ返りを打って、静かな畳の上を、久一さんの足下へ走る。作りがゆる過ぎたと見えて、ぴかりと、寒いものが一寸ばかり光った。(本章末尾)

 読者は大詰の第12章を読み終わって、『一夜』の「髯ある人」がどうして「髭」でなくて「髯」であったか、やっと諒解する。漱石は『一夜』の涼しき眼の女の前で、どうしても自分を指しかねない「髭」という字を使えなかった。それで「髯」の野武士を那美さんの亭主として配することにより、ようやくこの話にケリをつけたのである。
 『草枕』では画工のみが一貫して「髭」であり、那美さんの父親たる隠居老人も「髯」と書かれた。本当は城下一の金持ちで元銀行家の那美さんの亭主は、漱石のようなカイゼル髭でなくても、久一のようなヒゲなしか、せいぜいチョビ髭の方がお似合いである。満洲へ渡るといっても、いきなり馬賊になりに行くわけではないのだろうから、野武士のような無精ひげは本来似合わない。しかし『草枕』を『一夜』とセットで考えれば、自ずと漱石の主張も見えてくる。小説の隠れた目的(の1つ)は「髯」のオチをつけることだったのである。

 さて(まだ1章を残しているものの)最後の問題として、前章で少し触れた那美さんの悩み(実は漱石の悩みである)について、もう少し考えてみたい。

 色々なことが気になって困る。

 那美さんは大徹和尚に相談したというが、これは和尚の気の回し過ぎであろうか。那美さんは慥かにかつて悩んだかも知れないが、那古井の宿で自由に振る舞って、もうどんなことも気にならないはずである。那美さんはもしかすると夜眠れないと訴えただけかも知れない。色々なことが気になって困るのは漱石である。読者はストレートにこの悩みを漱石のものと感じ取る。漱石はどんなことでも気になるたちである。しかし漱石は、それで眠れないということはない。
 漱石は不眠よりかは、まっすぐ消化器官にその影響が出た(喉から肛門まで)。漱石は飲酒を嗜まなかった。漱石は酒を飲んで寝る必要がなかった。酒を飲まなくても眠ることが出来た。その代わり胃に穴が穿く。長谷川町子と同じである。しかし長谷川町子の場合は分からないが、漱石は小説を書くから胃が痛くなるのではない。むしろその逆である。

 瑣事が気になる ⇒ 不安でいたたまれない(胃が痛くなる) ⇒ 創作をする(漢詩を書く) ⇒ 瑣事が気にならなくなる

 つまり一般の人が酒を呑む代わりに、漱石は小説を書いたということになる。慥かに明治39年(明治38年も)の漱石はそれでよかった。心身の不調は寛解したかに見えた。しかし創作は真の問題解決にはならなかった。おまじないは徐々に解けて、結局漱石は胃痛を我慢するかしかなかったのである。修善寺以降、実際に漱石は倒れたのであるが、小説を書いたから倒れたのか、小説を書かなくても倒れたのかは、誰にも分からない。うんと後世の人は漱石もまた酒と煙草の吞みすぎで倒れたと思うかも知れない。
 これは漱石が明治40年以降朝日に入って、小説を仕事にしてしまったが故という話ではないと思う。漱石は公けでの発言にかかわらず、自分の創作活動を道楽と見做していた。仕事は漱石のストレスにはならなかった。創作はかえってストレスの緩衝材であった。しかし酒が人生の問題を解決しないように、小説もまた(瑣事が気になるという)根本的な生ける悩みから漱石を解放しなかったのである。

 ちなみに(議論するつもりはないが)瑣事が気にならないためには、杜甫のように(李白でもいいが)酒浸りの生活に陥らないのであれば、瑣事を失くするしかない。この世は瑣事に充ちているのであるから、この世を捨てるしかない。あるいは理性を捨てるしかない。
 死ぬか気が狂うか宗教へ行くしかない。漱石の読者なら、どこかで聞いたような言い回しであると気付くが、とりあえず『草枕』ではそんな極端へは趨っていない。それが非人情の旅であるからには。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 31

327.『草枕』目次(18)第12章――蜜柑山の秘密

 草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)

第12章 白鞘の短刀の行方 (全6回)

1回 芸術家の条件
(P143-8/基督は最高度に芸術家の態度を具足したるものなりとは、オスカー・ワイルドの説と記憶している。基督は知らず。観海寺の和尚の如きは、正しく此資格を有して居ると思う。)
芸術家の条件~1枚の画もかかない画家~空気と対象物と色彩の関係~日本固有の空気と色を出すには~山へ行って画を描こうと思う

 再び画工の芸術論。芸術家は心の底がすっぽり抜けていなければならぬ。川の流れのようにすべてが流れ去って何物も滞留しないのが芸術家である。してみるとこの場合の芸術家というのはマエストロというよりは詩人のことだろう。では前章の、「色々なことが気になって仕方ない」という那美さんと漱石の病気には、詩人を目指せば寛解するという、無理筋な処方箋が出されるのか。慥かに漱石は『猫』を書くことで危機を乗り切ったかに見える。しかし『行人』の長野一郎は書くべき何物も持たなかったし、それは那美さんも同じである。彼らの救いはどこにあるのか。漱石本人はそれでいいかも知れないが、漱石の人物は果たして救済されるか。
 これはキリスト本人とキリストの訓えの関係に似て、『聖書』がいつまでも読み続けられるのと同じ理由で、漱石も読み続けられるのであろう。

 絵画論についてはさすがに漱石も通り一遍のことしか言えない。日本の景色を描くには日本の絵の具が要る。日本の空気を表現するためには日本の色彩を使わなければいけない。これは芸術論というよりは、明治の日本に対する文明批評であろう。西洋のやり方を真似て済むなら、日本という国は始めから必要ないのである。

2回 那美さんは家の中で常住芝居をしている
(P146-2/襖をあけて、椽側へ出ると、向う二階の障子に身を倚たして、那美さんが立って居る。顋を襟のなかへ埋めて、横顔丈しか見えぬ。余が挨拶を仕様と思う途端に、女は、左の手を落としたまま、右の手を風の如く動かした。閃くは稲妻か、二折れ三折れ胸のあたりを、するりと走るや否や、かちりと音がして、閃めきはすぐ消えた。女の左り手には九寸五分の白鞘がある。)
向こう2階に那美さんが立つ~那美さんの左手には白鞘が~無意識の常住芝居~藤村子厳頭の吟~美しいものは正しい

 那美さん登場の10回目。音声なしの映像のみ。九寸五分(白鞘の短刀)という(『虞美人草』ですっかり有名になった)新しい小道具も登場する。これは那美さんのものではなくて隠居老人の所有物であった。

 ここで漱石は何を思ったか、那古井の宿が2度目であることをほじくり返している。蜜柑畠を見たからだという。

 門を出て、左へ切れると、すぐ岨道つづきの、爪上りになる。鶯が所々で鳴く。左り手がなだらかな谷へ落ちて、蜜柑が一面に植えてある。右には高からぬ岡が二つほど並んで、ここにもあるは蜜柑のみと思われる。何年前か一度この地に来た。指を折るのも面倒だ。何でも寒い師走の頃であった。その時蜜柑山に蜜柑がべた生りに生る景色を始めて見た。蜜柑取りに一枝売ってくれと云ったら、幾顆でも上げますよ、持っていらっしゃいと答えて、樹の上で妙な節の唄をうたい出した。東京では蜜柑の皮でさえ薬種屋へ買いに行かねばならぬのにと思った。夜になると、しきりに銃の音がする。何だと聞いたら、猟師が鴨をとるんだと教えてくれた。その時は那美さんの、なの字も知らずに済んだ。

 松山の萩野の家の庭には蜜柑の木が1本成っていた。坊っちゃんは完熟したら食べるつもりでいたが、直前に東京へ舞い戻ってしまった。愛媛も熊本も蜜柑の産地である。(蜜柑といえば和歌山も有名。前述したように和歌山は『心』の書生の私の帰省地として比定可能であるが、土産として蜜柑は目立ち過ぎるのか、故意に干し椎茸のような無難なものに変えられたとすれば、追及は難しい。『明暗』の湯河原も蜜柑は名物であろうが、果たしてそれが書かれる予定であったかは誰にも分からない。)
 那古井の村にも広い蜜柑山がある。しかし漱石作品で実際に蜜柑を食べたのは本郷の下宿の三四郎だけである。ミカン1つ取ってもその成就には、『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』の3作を要している。それでミカンの出番はおしまいである。漱石の作品の季節は秋から冬にかけてのことが多い。しかし以後蜜柑が食されることはなかった。『明暗』で果物籠が登場して、久しぶりに期待は昂まったが、清子はナイフで林檎を剥いた。よし子は三四郎に(手で簡単に剥ける)ミカンを剝いてやっている。親切なのはどちらであろうか。
 それはともかく画工は職業柄草花や樹木に詳しい。漱石田圃の稲穂が白米の前身であることすら知らなかったのだから(三島由紀夫は松の木を知らなかった)、春に刈り込まれた蜜柑山を見ても本来は何も分からなかったであろう。それとも前にこの土地を訪れたのが12月だったと書いているので、そのときの記憶が残っていたのか。画工は景色をそんなふうに書く人間か。上記引用文の下線部分は、漱石としては珍しくも『草枕』で3度目の念押しになる。読者は坊っちゃんの真似をして、ついこんなセリフを吐きたくなる。

 おや漱石の癖にどこまでも拘る気だな。
 おや山嵐の癖にどこまでも奢る気だな。(出典『坊っちゃん』第6章)

 ずいぶん久しい以前に来たことがあると書くが(1章及び3章)、この12章の文章の感じでは、やはり大人になってから自分の趣味と意志で旅行したときのことであるようだ。指を折って数えるが面倒だと言っているので、仮に8年前、画工25歳のときとすると、那美さんは17、8歳。両親とともに京都か東京の修業時代であろうか。代々続く志保田の家は誰が預かっていたのだろう。このときの温泉宿は志保田の所有物ではなかったのだろうか。もとから志保田と関係があるのなら(那美さんの父親のものであるなら)、宿の経営は誰が代行していたのだろう。そうではなく老人が隠居後に「買い取った」のだとすれば、今次の戦争で客足が遠のいたということとの整合性が取れなくなりはしなか。それらのことと那美さんが兄と仲が悪いこと、去年亡くなったという那美さんの母親が少しおかしいことが、何か関係するのか。

3回 海の見える野原で写生ならぬ漢詩に浸る
(P149-14/三丁程上ると、向うに白壁の一構が見える。蜜柑のなかの住居だなと思う。道は間もなく二筋に切れる。白壁を横に見て左りへ折れる時、振り返ったら、下から赤い腰巻をした娘が上ってくる。腰巻が次第に尽きて、下から茶色の脛が出る。脛が出切ったら、藁草履になって、其藁草履が段々動いて来る。頭の上に山桜が落ちかかる。背中には光る海を負ている。)
海は足下に光る~木瓜の花の下に寝ころぶ~木瓜の花に生まれ変わりたい~子供の頃木瓜の木で筆立てを作ったことがある~木瓜の詩完成

 小供のうち花の咲いた、葉のついた木瓜を切って、面白く枝振を作って、筆架に作って見た事がある。それへ二銭五厘の水筆を立てかけて、白い穂が花と葉の間から、隠見するのを机へ載せて楽んだ。其日は木瓜の筆架ばかり気にして寝た。あくる日、眼が覚めるや否や、飛び起きて、机の前へ行って見ると、花は萎え葉は枯れて、白い穂丈が元の如く光って居る。あんなに奇麗なものが、どうして、こう一晩のうちに、枯れるだろうと、その時は不審の念に堪えなかった。今思うと其時分の方が余程出世間的である。

 ささやかな思い出であるが、画工4回目の回想。では直後の事件は何になるか。90文字に及ぶ漢詩の完成か。いやそうではあるまい。文人画工が漢詩を作っても事件にはならない。漱石漢詩を作っても読者は驚ろかない。最後の事件は那美さんの夫の登場であった。

 ああ出来た、出来た。是で出来た。寝ながら木瓜を観て、世の中を忘れて居る感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出れば夫で結構である、と唸りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払が聞えた。こいつは驚いた。(本章末尾)

 わざわざ「驚いた」と書くくらいだから、本当に驚いたわけでもないのだろう。城下に離縁になった亭主がいることを画工はとうに知らされている。ここは「出門多所思」という漢詩が成ったことの歓びの方が、少しだけ大きかったようである。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 30

326.『草枕』目次(17)第11章(つづき)――若い人の意見の方が正しい


第11章 山門の石段を登りながら考えた (全4回)(承前)

3回 お寺で大徹和尚と了念に会う
(P135-12/「和尚さんは御出かい」「居られる。何しに御座った」「温泉に居る画工が来たと、取次で御呉れ」「画工さんか。それじゃ御上り」「断わらないでもいいのかい」「よろしかろ」 余は下駄を脱いで上がる。「行儀がわるい画工さんじゃな」「なぜ」「下駄を、よう御揃えなさい。そらここを御覧」と紙燭を差しつける。)
履物を揃えないので了念に叱られる~寺の下には朧夜の海と漁火が見える~画描きにも博士があるか~東京の電車はうるさくてつまらぬもの

4回 和尚との禅問答
(P139-13/鉄瓶の口から烟が盛に出る。和尚は茶箪笥から茶器を取り出して、茶を注いでくれる。「番茶を一つ御上り。志保田の隠居さんの様な甘い茶じゃない」「いえ結構です」「あなたは、そうやって、方々あるく様に見受けるが矢張り画をかく為めかの」)
屁の勘定た何かな~はあ矢張り衛生の方かな~衛生じゃありません探偵の方です~那美さんは和尚の法話を聞いて人間が出来てきた~那美さんは松の木である~奇麗な上に風が吹いても苦にしない

 画工は庫裏の入り口で自分の履物を揃えなかった。漱石は自分の履物を揃えない。塩原の跡取り息子として甘やかされたためか。夏目家の4男坊の末っ子として、これまた甘やかされたためか。『門』の小六も4男坊の末っ子で(『それから』の代助も同じ)、玄関で自分の脱いだ履物を揃えることはしなかった。
 了念は画工の行儀の悪さを目ざとく見つけて咎めた。それだけではない。了念には妙に常識的なところがあり、和尚の非常識も見逃さない。

「鳩程可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
 月は愈明るい。しんしんとして、木蓮は幾朶の雲華を空裏に擎げて居る。泬寥(げつりょう)たる春夜の真中に、和尚ははたと掌を拍つ。声は風中に死して一羽の鳩も下りぬ。
「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
 了念は余の顔を見て、一寸笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うて居るらしい。気楽なものだ。

 了念はよく分かっている。髪結床の親爺が那美さんの悪口を言っても、聞こえないふりをする。この点では画工が那美さんの素行を聞き出そうとカマをかけても、「知りません」と誘いに乗らなかった小女郎も似ている。了念と小女郎。若い人が一番よく分かっている。
 漱石は学生生徒の無知はよく知っていたが、それだけで彼らを貶めることをしなかった。彼らの知識でなく、言動が正しいかどうかを、まず見ようとしたのである。それも表面的な言動ではなく、その基となる心の正しさを見ようとした。漱石は藤村操の精神を可しとした。『心』の先生は私に、「あなたは腹の底から真面目ですか」と問いかけた。
 漱石は若い人の意見をよく聞いた。何が正しいかに常に関心が行っていた漱石であるが、漱石自身がその正邪を判定できないときはどうしたか。
「そうか」「そんなもんかな」
 おそらくそんな言い方で、決して年下の相手を極め付けることはしなかったと思われる。これは相手の意見を尊重するというよりは、自分が間違っているかも知れない惧れのあるときは、極力断定を回避するという漱石生来の性向から来たものである。とくに科学知識などは新しい意見の方が正しいという至極尤もな考え方をしており、これも含めて若い弟子には誠意ある人と映ったことであろう。むろん漱石は誠実な人である。それは間違いない。そしてそれは(人間関係を円滑に維持するためというよりは)、「正しくあること」を究めんがための誠実であった。

 マーラーシェーンベルク音楽理論をまったく理解出来なかったが、おそらくは若い人たちの言うことの方が正しいのだろうと、彼らを庇うこと(援助すること)をやめなかった。一方、ビートルズが世に出て来たころ、多くの音楽「専門家」はその斬新さを認めなかった。人気には驚ろかされるが中味は大したことない。あるいは人気があり過ぎるがゆえに中味は大したことない。さらに半世紀経って、ビートルズは始めから価値ある存在となった。当時ビートルズに(商業的成功以上の)価値を認めなかった人たちは、今では自分はそんなことを言ったこともなければ思ったこともないという顔をしている(生きていればの話だが)。もちろんレナードバーンスタインのような人もいる。しかし信じられないことに、彼は生きている間中ビートルズに関しては「特異点」であり続けた。

「・・・あなたの泊って居る、志保田の御那美さんも、嫁に入って帰ってきてから、どうも色々な事が気になってならん、ならんと云うて仕舞にとうとう、わしの所へ法を問いに来たじゃて。所が近頃は大分出来てきて、そら、御覧。あの様な訳のわかった女になったじゃて」
「へええ、どうも只の女じゃないと思いました」
「いや中々機鋒の鋭どい女で――わしの所へ修業に来て居た泰安と云う若僧も、あの女の為めに、ふとした事から大事を窮明せんならん因縁に逢着して――今によい智識になるようじゃ」

 漱石は那美さんのことにしているが、色々なことが気になって仕方ないという悩みは若い頃の漱石固有のものである。してみると那美さんは一部漱石であった。大徹和尚が誉めるのも、まんざら和尚が惚けているためだけでもないようだ。了念の意見も聞きたいところだが、了念は那美さんに関しては全面的に和尚を信じている。
「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めて居られる」(第5章)

 那美さんがわざわざ大徹和尚に打ち明けたという悩みについては後述したいが、どうやら那美さんについても結論が出たところで、因縁の第11章も幕引きである。章の最後の一文は『草枕』の俳味を改めて確認させてくれる。この文章のための第11章であったと言えなくもない。主人公が辞去したあと、あるいは別離のあと振り向くのは『趣味の遺伝』『坊っちゃん』に続いて3度目である。「見返り美人」は『三四郎』美禰子でも印象深いが、主人公が素朴に振り返るだけの基本形は、それはそれでまた明治39年式の味わいの1つであろうか。

 山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、石甃の上に落ちて、前後して庫裏の方に消えて行く。(本章末尾)

漱石「最後の挨拶」草枕篇 29

325.『草枕』目次(16)第11章(つづき)――有明海の星月夜


第11章 山門の石段を登りながら考えた (全4回)(承前)

2回 一列に並んだサボテンと1本の木蓮の大樹
(P132-10/仰数春星一二三の句を得て、石磴を登りつくしたる時、朧にひかる春の海が帯の如くに見えた。山門を入る。絶句は纏める気にならなくなった。即座に已めにする方針を立てる。 石を甃んで庫裡に通ずる一筋道の右側は、岡つづきの生垣で、垣の向は墓場であろう。)
仰数春星一二三~岡つつじの怪~サボテン~木蓮の花~庫裏を訪ねる

 仰数春星一二三の句を得て、石磴(せきとう)を登りつくしたる時、朧(おぼろ)にひかる春の海が帯の如くに見えた。山門を入る。絶句は纏める気にならなくなった。即座に已めにする方針を立てる。
 石を甃(たた)んで庫裡に通ずる一筋道の右側は、岡つゞきの生垣で、垣の向(むこう)は墓場であろう。左は本堂だ。屋根瓦が高い所で、幽かに光る。数万の甍に、数万の月が落ちた様だと見上る

 山門を入った寺院の姿はまるで、ファンゴッホ(フィンセント)の『オーヴェールの教会』を思わせる。画工は(絵画の中の農婦同様)左の道へ進む。『草枕』の当時はファンゴッホが亡くなってすでに十余年、欧州でも評価は定まっていたから、美術好きの漱石も(白樺派を俟つまでもなく)『教会』や『星月夜』のようなタブローを識っていた可能性がある。であれば引用文最後の「数万の」も「星」の書き間違いでないかも知れない。しかし普通ならここは誤記を疑うところであろう。
 ところで引用文の「岡つゞの生垣」は初出も初版も「岡つゞ」と誤読されて、それは(よくあることで)いいのだが、いつの間にか本文が「岡つじ」になってしまったようである。
 初版は春陽堂の『鶉籠』だが、同じ春陽堂から大正3年に再発されたとき、すでにそのような改訂がなされている。初版の誤植を直すときに一緒に直されてしまったと思われるが、この改訂に漱石が関与していなかったことは明白である。漱石は自作を読み返すことさえしなかったのだろう。死後すぐに出た全集もこれを踏襲し、昭和版漱石全集ももちろん何の衒いもなく「岡つゝじ」である。「岡続き」が「岡躑躅」になってしまった。
 漱石は自分の作品に無数の植物名を書き込んでいるが、岡躑躅の使用例は皆無である。そもそも躑躅の用例からして、それが始めて出現するのはずっと晩く『心』からであり、それも小説『心』の本筋と離れた、非常に特異なケースの中で扱われている。『道草』にも1ヶ所登場するが、少なくとも自然に周囲を描写した中での登場ではないようだ。『明暗』にも書かれ、それはとくに奇異な感じはしないが、まあ未完の小説であるからには、これ以上のことは言えない。

 平成版漱石全集から突然「岡つゞき」になったのであるが、とくに注釈を付けているわけでもなく、巻末の校異表には載っているものの、一般の読者はそんなところまで見ない。古い全集の読者はかえって漱石の原稿の方(平成版の全集の方)が間違っていたのではないかとも思ってしまう。あるいは生前の漱石が誰かに「岡つつじ」が正しいと指示していたとすれば、平成版の全集は要らぬことをしたことになる。少なくともその部分に触れた注釈は必要になろう。しかし客観的に見て、漱石が原稿に書いた通りが正しいとしか思えない。本ブログ坊っちゃん篇でも述べたことだが、『草枕』を読んだ凡そ1億人の日本人が、「岡つつじ」と信じたまま死んで行った。そして今いる1億人の人も、「岡つつじ」でなく「岡つづき」が100年ぶりに正しかったのであると格別知らされないまま、『草枕』を読んでいくのだろうか。

 近寄って見ると大きな覇王樹(さぼてん)である。高さは七八尺もあろう、糸瓜程な青い黄瓜を、杓子(しゃもじ)の様に圧しひしゃげて、柄の方を下に、上へ上へと継ぎ合せた様に見える。あの杓子がいくつ継がったら、御仕舞になるのか分らない。今夜のうちにも廂を突き破って、屋根瓦の上迄出そうだ

 読者は序盤で似たような話が出て来たのに気づく。

 生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔し房州を館山から向うへ突き抜けて、上総から銚子迄浜伝いに歩行た事がある。其時ある晩、ある所へ宿た。・・・三段登って廊下から部屋へ這入ろうとすると、板庇の下に傾きかけて居た一叢の修竹が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫でたので、既にひやりとした。椽板は既に朽ちかかって居る。来年は筍が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。(第3章)

 魚や動物と同じく、植物の成長もまた人間の子供に似て早い。しかし漱石の場合は少し早過ぎるようだ。第3章の述懐だけなら単なる冗談とも取れようが、本章のような記述を併せ読むと、漱石は明らかに何かを怖がっているかのようである。これではまるで『夢十夜』の世界ではないか。決してサボテンが人体に似ていることから連想されたものではないと思われる。
 漱石は我が子に比較的冷淡だったが、それは則天去私の立場というより、あっというまに自分の背丈が倍にもなりかねない、その子供の「成長」に対して、(科学的・生物学的な)ある種の恐怖を感じていたのではないか。漱石自身も子供時代には大きくなったではないかと言うなかれ。自分では自分の成長する様子は見えないのである。

 少時、晁補之と云う人の記行文を読んで、未だに暗誦して居る句がある。「時に九月天高く露清く、山空しく、月明かに、仰いで星斗を視れば皆光大、たまたま人の上にあるが如し、窓間の竹数十竿、相摩戞して声切々已まず。竹間の梅棕森然として鬼魅の離立笑髩の状の如し。二三子相顧み、魄動いて寝るを得ず。遅明皆去る」と又口の内で繰り返して見て、思わず笑った。此覇王樹も時と場合によれば、余の魄を動かして、見るや否や山を追い下げたであろう。刺に手を触れて見ると、いらいらと指をさす。

 画工は若い頃の愛読書(愛誦歌)を思い出すが、これは回想シーンとは言えないだろう。古文を引用しただけである。画工はそのまま木蓮の樹の下に入って月を見上げ、

 木蓮の花許りなる空を瞻(み)

 という秀句を得る。この句に限り句点(マル)が付いている。初出も初版も(原稿準拠の)平成版全集も付いているところをみると、原稿の段階で漱石が句点を付けていたのだろう。しかるに上記岡つつじの話同様、大正3年版の『草枕』以降それが外されている。誰が外したのだろう。今では大方の文庫・他社全集まで、句点がない方が多いようだ(集英社版全集はなぜか初出初版を踏襲して句点付きである)。
 作りかけて断念した絶句だか律詩の代わりに、名画『オーヴェールの教会』、彫刻(サボテンを人の塑像に見立てる)、晁補之の詩文、俳句。あらゆるものを総動員して、画工は怒りの感情を吹き飛ばした。岡つつじなどどうでもいいと言わんばかりに。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 28

324.『草枕』目次(15)第11章――明治39年版怒れる小説


 草枕』目次。引用は岩波書店『定本漱石全集第3巻』(2017年3月初版)を新仮名遣いに改めたもの。回数分けは論者の恣意だが、その箇所の頁行番号ならびに本文を、ガイドとして少しく附す。(各回共通)

第11章 山門の石段を登りながら考えた (全4回)

1回 人のひる屁を勘定する人世
(P129-11/山里の朧に乗じてそぞろ歩く。観海寺の石段を登りながら仰数春星一二三と云う句を得た。余は別に和尚に逢う用事もない。逢うて雑話をする気もない。偶然と宿を出でて足の向く所に任せてぶらぶらするうち、つい此石磴の下に出た。)
宵の明星もしくは月明かりの夜~用事もないがつい足が山門に向かう~円覚寺の塔中での思い出~漱石の本音が出る

 隠れたクライマックスたる第10章を受けた本章、第11章(山門の章)は、第5章(髪結床)、第8章(茶会)につづき、3度目の那美さん不在の章になる。髪結の親爺-隠居老人-大徹和尚。那美さんとの関係も3者3様の脇役たちによる、緩徐楽章でもある。
 『三四郎』でも美禰子の婚約者が登場した驚きの第10章を受けて、第11章は広田先生の夢の女の章であった。『草枕』『三四郎』の展開(第10章-第11章の落差ないしは変調)は、作者の余裕と見るべきか。どうしてもこれだけは言っておきたいと漱石は思ったのか。
 一方代助の告白のあと、ほぼまっすぐ終結部へ突き進む『それから』は、集中力と緊張感が保たれて、強い読後感を残す。読んで厭きない漱石文学は、こんなところのバリエーションにも、その仕掛けの一端があったと言える。

 ところで画工は寺へ向かう石段で、昔円覚寺を訪れたことを思い出す。房州旅行、御倉さんの長唄に次いで3つ目の回想シーンである。この直後に書かれる事件とは何か。前の2度は那美さんのサプライズであったが、3度目はさすがに那美さんではなかった。それはいかにも漱石らしい、朝日入社後には見られなくなった本音の爆発である。『猫』『坊っちゃん』の流れを正統に汲み、次回作の『野分』と共に、明治39年式とでも謂うべき、漱石を代表する怒りの表出となった。その中でもおそらく『草枕』のこの有名なくだりは、直接剝き出しになった漱石の怒りが、その最高点に達したものではなかったか。怒りの分野における、漱石のベスト(ワースト)パーフォーマンスではなかろうか。

 世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、其上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝して居るんだか、解しかねる奴さえいる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以って、左も名誉の如く心得ている。五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。前へ出て云うなら、それも参考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと云う。うるさいと云えば猶々云う。よせと云えば益云う。分ったと云っても、屁をいくつ、ひった、ひったと云う。そうして夫が処世の方針だと云う。方針は人々勝手である。只ひったひったと云わずに黙って方針を立てるがいい。人の邪魔になる方針は差し控えるのが礼儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云うなら、こっちも屁をひるのを以て、こっちの方針とする許りだ。そうなったら日本も運の尽きだろう。(この引用文は読点を半角にした。少しでも漱石の原稿に近づけるためである。)

 探偵というのは漱石ワールドのキーワードであろうが、象徴的な意味合いを持つものでもあろう。巡査・警察・国家権力・世間・実業家といった大きなものから、細君・下女・同級生・同僚・友人といった身近な存在まで、その中身は都度変わってゆくようである。英国留学時に政府から情報収集行為か何かを要請されて、それを撥ねつけたことがトラウマになっていたのであれば、生涯探偵という言葉を毛嫌いしたことも納得できるし、漱石の小説など1行も読んだことのない中村是公が(多用な身にも拘わらず)付かず離れず、まるで監視するかのように常に漱石の身辺近くにいた理由も分かるというもの。『草枕』ではとりあえず探偵というものを次のように定義しているが、上記に加えて小説家・掏摸の親分(泥棒)といった分類まで登場する。漱石は他の場所(『猫』)でも述べているが、探偵と小説家を区別していなかった。

「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情な所がないから、些とも趣がない」(『草枕』9章)

 都会は太平の民を乞食と間違えて、掏摸の親分たる探偵に高い月俸を払う所である。(同10章)

「探偵? 成程、それじゃ警察じゃの。一体警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」(同11章)

 探偵と小説家を結びつけたのは、漱石が本格的に小説家になる前の一時的な出来心だったかも知れないが、探偵が自由な精神を蝕むものとして、それを最も尊ぶ漱石の最大の忌避するところであったことは、その後もずっと変わらなかった。おそらく漱石の嫌いな実業家および実業家的政治家の、その犬として探偵に我慢がならなかったのであろう。そこまで実業家を嫌うということは、ありふれた言い方だが、漱石の中にも金に執着する気持ちがあったということであろうが。

 探偵の話はさておくとして、論者が学生の頃、今はもうない山本書店からイザヤベンダサンの『日本人とユダヤ人』という本が出て大変評判になっていた。その中に『草枕』の書出しの1節と、上記の長い文章(世の中はしつこい・・・)がそっくり引用されていたのを思い出す(第7章「日本教徒・ユダヤ教徒」)。『草枕』が「日本教」の『創世記』の現代的表白であるか否かについてはともかく、山本七平もまた長く怒りと不満を抑えて業界を生きて来たと思われるが、中年になって始めて日頃の考えを世間に発信するにあたり、「いざや便出さん」という人を喰った筆名を使用した。
 彼はほどなく文芸春秋社の月刊雑誌に連載を持つようになって、当初の何年間かは当該ユダヤ人(イスラエルアメリカ国籍の人)の存在が信じられていたが、洒落好きな編集部で「ベンダクン(ベンダ君)」と呼ばれたあたりから徐々に怪しくなり始め、あるとき編集後記のようなところに「ベンダセエ(便出せえ)」と書かれて、著者もベンダサンというペンネームが洒落であることを半ば公に認めたような形になった。(あのベストセラーの内容に、彼のユダヤ人なる友人の体験と意見が貢献しているのは事実であろうが。)
 筆名の由来はともかく、彼(ら)もまた漱石ファンであったことは間違いない。ここでまったく余計なことながら、漱石の孫の世代にあたる山本七平漱石の共通点を8つ。

Ⅰ 中年になってから物を書き始めた。
Ⅱ 人を喰ったペンネーム。
Ⅲ 変人。
Ⅳ 実務能力はある(おそらく根が器用なのだろう)。
Ⅴ 体制派のように見えて強烈な反骨精神の持主。
Ⅵ 舶来のものより徳川期の文物の方を好む。舶来とメッキを同義語と思っている。
Ⅶ 論争してはいけない代表選手。人当たりはいいが粘り強く反論する。
Ⅷ 胃病持ちで太れない。

Ⅸ(オマケ)世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、其上ずうずうしい、いやな奴で埋っている。元来何しに世の中へ面を曝して居るんだか、解しかねる奴さえいる(上記引用文の再掲)と思っている。
Ⅹ(さらなるオマケ)基本的に合理的な理論を展開するが、時折ヘンな、理屈にならない理屈を言うことがある。

 そして繰り返しになるが、2人とも腹の中に「怒り」という大きな塊りを吞んでいる。それが故に漱石山本七平もこの世に存在しているかのようである。共通点などという月並みな言葉を宛てるのは気が引けるが、2人とも颶風程度の風では吹き飛ばないのが、その勁さを証明していると思う。

 最後にもう1つだけ、山本七平(の家)は紀州の出であるが、論者は先に『心』の学生の私の帰省地について考察したとき、金沢、長野に次いで候補に考えたのが和歌山であった。東京を夜発って次の日の午後帰宅するのであれば、和歌山県は充分候補地になる。御大葬の前後の直通の鉄路の問題で断念したのであるが、もし帰省地が本当に和歌山であれば、先生への帰省土産に蜜柑を封印したのもいかにも漱石らしい韜晦であるし、何より正月に雪の気配がまったくないことが、最後まで気になる(気が惹かれる)ところではあった。余談であるが。