明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」行人篇 35

202.『塵労』1日1回(4)――三沢一郎お直の三角関係

 

第3章 三沢と一緒にHさんを訪ねる(3月24日)

    二郎・三沢・三沢の母・Hさん・(兄)

第13回 三沢の母~三沢の結婚決まる~三沢はあの出帰りの娘さんの油絵(肖像画)を描いていた

第14回 三沢に兄の神経症を相談~三沢とHさんを訪ねる~「兄さんは相変らず勉強ですか。ああ勉強しては不可ないね」

第15回 Hさんは昨日精養軒で兄と一緒だった~Hさんの家で夕食まで共にした~兄の神経衰弱は有名~兄は死後の研究をしている~Hさんに兄を旅行に連れ出すことを依頼

 

 二郎は『行人』の中で、親友三沢に兄の神経症について相談した形跡がない。ここでHさんに頼んで兄を旅行に誘い出すためには、どうしても三沢にその理由を言わないわけには行かない。

 

「君何うかしたか」

 彼の母が席を立って二人差向いになった時、彼は斯う問いかけた。①自分は渋りながら、兄の近況を彼に訴えなければならなかった。其兄を勧めて旅行させるように、彼からHさんに頼んで呉れと云わなければならなかった。

「②父や母が心配するのを只黙って見ているのも気の毒だから

 此最後の言葉を聞く迄、彼は尤もらしく腕組をして自分の膝頭を眺めていた。

「③じゃ君と一所に行こうじゃないか。一所の方が僕一人より好かろう、精しい話が出来て」(『塵労』14回)

 

 ①について、二郎が三沢にどんな言い方をしたのかは分からない。見栄坊の二郎であるから、②のように話を結んだのであれば、大したことは言ってないという気はする。しかし三沢の反応はゼロである。強いて言えば③である。本当にこれだけである。三沢も一郎も変人ということでは漱石そのものであるから、コメントしようがなかったのかも知れないが。

 この変人コンビのニアミスは以前に1回だけあった。前の年の冬、二郎が三沢の家を訪れたときに、大学での一郎の講義に撞着したところがあって学生が心配したというエピソードが、三沢の口から語られたことがある。三沢はHさんからそれを聞いたという。

 

「そりゃ何時頃の事だ」と自分はせわしなく聞いた。

「丁度君の下宿する前後の事だと思っているが、判然した事は覚えて居ない」

「今でも左右なのか」

 三沢は自分の思い逼った顔を見て、慰めるように「いやいや」と云った。

「いやいや夫はほんに一時的の事であったらしい。此頃では全然平生と変らなくなったようだと、Hさんが二三日前僕に話したから、もう安心だろう。然し……」(『帰ってから』30回)

 

 三沢は一応兄の神経衰弱のことは知っている。珍しく語尾を飲み込んだ物言いから、三沢が兄について何か思うところがあるようにも見えるが、それは結局漱石によって明らかにはされなかった。

 それより二郎が②のような言い訳をしたときに、三沢から嫂の存在についての言及がなかったことの方が気にかかる。三沢は兄と同じく嫂についてもほとんど交渉がない。しかし事情をよく知っているであろうことは、これもたった1回書かれただけのこんなシーンを見ても分かる。

 

 自分は宅に居るのが愈厭になった。元来性急の癖に決断に乏しい自分だけれども、今度こそは下宿なり間借りなりして、当分気を抜こうと思い定めた。自分は三沢の所へ相談に行った。其時自分は彼に、「君が大阪などで、ああ長く煩うから悪いんだ」と云った。彼は「④君がお直さん抔の傍に長く喰付いているから悪いんだ」と答えた。

 自分は上方から帰って以来、彼に会う機会は何度となくあったが、嫂に就いては、未だ曾て一言も彼に告げた例がなかった。彼も亦自分の嫂に関しては、一切口を閉じて何事をも云わなかった。(『帰ってから』23回)

 

 嫂について二郎と三沢の間には暗黙の了解があったようにも読める。読者はふつう友人の義姉に関心はないから、三沢とお直のニアミスなど書かれるはずもないと思う。その意味で④は唐突ではあるが、せいぜい漱石のサーヴィスくらいに収めるところであろう。しかしこれに続く漱石の文章を読むと、また別の、まったく異なる世界が出現するようである。

 読者は『行人』のテーマたる兄と嫂の確執、それを二郎の眼を通してここまで読んで来た。二郎と三沢の「友情」物語は、もうひとつの重要なテーマとして語られる。しかし三沢は独自に二郎と嫂を見ていたのである。上記引用部分に続く文章は次の通りである。

 

 自分は始めて彼の咽喉を洩れる嫂の名を聞いた。⑤又其嫂と自分との間に横わる、深くも浅くも取れる相互関係をあらわした彼の言葉を聞いた。そうして⑥驚きと疑の眼を三沢の上に注いだ。其中に怒を含んでいると解釈した彼は、「怒るなよ」と云った。其後で「気狂になった女に、しかも死んだ女に惚れられたと思って、己惚れている己の方が、まあ安全だろう。其代り心細いには違ない。然し面倒は起らないから、幾何惚れても、惚れられても一向差支えない」と云った。自分は黙っていた。彼は笑いながら「何うだ」と自分の肩を捕まえて小突いた。自分には彼の態度が真面目なのか、又冗談なのか、少しも解らなかった。真面目にせよ、冗談にせよ、自分は彼に向って何事をも説明したり、弁明したりする気は起らなかった。

 自分は夫でも三沢に適当な宿を一二軒教わって、帰り掛けに、自分の室迄見て帰った。家へ戻るや否や誰より先に、まずお重を呼んで、「兄さんもお前の忠告して呉れた通り、愈家を出る事にした」と告げた。お重は案外な様な又予期していたような表情を眉間にあつめて、凝と自分の顔を眺めた。(『帰ってから』23回末尾)

 

 ⑤と⑥は直接には、三沢の④の「君がお直さん抔の傍に長く喰付いているから悪いんだ」に対するリアクションである。三沢の言葉が他意の無い、外形的な二郎の若旦那的身分を評したものなら、二郎の反応は早トチリである、しかし漱石がここまで書く以上、二郎の思い過ごしではあるまい。

 自分と嫂の関係、自分の嫂に対する気持ちを、なぜ三沢が知っているのか。二郎は驚き、疑い、そして怒ったというのである。

 三沢はとうに嫂に対する二郎の気持ちに気付いていて、その危険性・脆弱性を婉曲に伝えたのだろうか。あるいは三沢なりにあからさまに揶揄ったのだろうか。それとも(考えにくいことではあるが)三沢はカマをかけたのか。

 二郎は自宅では警戒してボロを出さなかったが、三沢の前ではつい緊張が緩んで態度に表してしまった。二郎の対女性関係に異様に拘泥していた三沢は、悪魔のごとき直感力を発揮してそれを見抜いたとでもいうのか。

 いずれにせよこの三沢と二郎の分かりにくい応酬が、二郎の家を出る直接の原動力になったことだけは確かである。

 

 そして最後の一節(三沢家辞去~下宿の下見~お重へ報告)は、しみじみ名文であると思わざるを得ない。漱石は(登場人物の所作等)細かく書くところも上手いが、このように簡潔に突き放して書くところもさらに上手い。漢詩の影響だろうか。

 

 ところで②の(『塵労』14回の)、兄の旅行を父母の心配と結びつける二郎の発言は、後にHさんと直接会話した際には、「二郎の嘘」と明記された(『塵労』23回)。であれば二郎はこのときにもすでに三沢に対し嘘を吐いていたことになる。それともHさんに手紙を書かせるという具体的な目的があって始めて嘘になるのであろうか。

 

漱石「最後の挨拶」行人篇 34

201.『塵労』1日1回(3)――父の来訪

 

第2章 父の来訪と兄のいない家(明治45年3月18日~23日)

    二郎・父・母・お直・お重・芳江・(兄)

第6回 嫂の亡霊~「あの落付、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々しいものでもあった」~父からの突然の電話

 

 中断後の再構築だけあって、嫂の来訪シーンは非常に丁寧な描き方になっていた。

・1回~4回 リアルタイムに嫂を描く。

・5回 嫂が帰った夜に彽徊家らしく嫂を偲ぶ。

・6回 翌日以降も嫂の幽霊が去らない。

 

 図々しいまでに落ち着いているというのは、那美さん(『草枕』)、藤尾(『虞美人草』)にもその徴はあるが、美禰子(『三四郎』)が嚆矢であろうか。お直のあとは、やはり清子(『明暗』)であろう。そのしっかりした女たちが男によって揺れそうになる、あるいは揺れる。これが漱石の小説の醍醐味であろう。

 

 すると①五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電話口迄呼び出された。

「御前は二郎かい」

「そうです」

「明日の朝一寸行くが好いかい」(『塵労』6回)

 

第7回 父はとうとう十時頃になって遣って来た~「大方床の中で待ってたんだろう」

第8回 上野の表慶館~精養軒は兄の友人Kの披露宴で貸切~三橋の洋食屋で昼食

 

 父は立ち留って木の間にちらちらする旗の色を眺めていたが、やがて気の付いた風で、「②今日は二十三日だったね」と聞いた。其日は二十三日であった。そうしてKという兄の知人の結婚披露の当日であった。

「つい忘れていた。一週間ばかり前に招待状が来ていたっけ。一郎と直と二人の名宛で」

「Kさんはまだ結婚しなかったのですかね」

「そうさ。善く知らないが、③まさか二度目じゃなかろうよ」(同8回)

 

 お直が去って、6回の冒頭に、「夫から三四日の間というもの自分の頭は絶えず嫂の幽霊に追い廻された」とあり、その「①五日目の土曜の午後」に勤務先で父の電話を受ける。翌日の日曜は23日であるという(②)。『塵労』執筆年の大正2年、3月23日はまさしく日曜日であるから、漱石は自信を持ってこう書いたのだろう。

 連載は当初この辺で終わる筈であったから、暦は合う。病気中断で秋まで延びたので、夏の一郎の旅行を以って続篇の『塵労』とした。すると1年前の物語の発端はまさに明治大帝の崩御時期と重なり、長野家は何事もなかったように関西旅行を終えたことになるので、ふつうの作者なら気にするところである。

 もちろんこんなことは作品(の芸術性)にとってどうでもいいことだが、ではなぜ①や②のような書き方をわざわざするのか、ということになる。このような年次を特定されるような書き方をしなくても、『行人』の「芸術性」に何の支障もない。おまけに何度も繰り返して恐縮だが、その起点たる嫂の来訪を、ご丁寧にも「お彼岸の中日の翌日」と書いてもいるのである。

 漱石はわざと書いているのだろうか。そして周囲の人たちは本当に何も言わなかったのだろうか。漱石はそのあと3年生きて『心』『道草』『明暗』という偉大な記念碑を残している。作家自身が気にならなかったのはよく分かる。それはいい。しかし漱石の心酔者なら、気を揉んで本人なり新聞社なり版元に、葉書の1本も出したくなるのではないか。

 

 まあ愚痴はこれくらいにしておこう。当時土曜の半ドンは定着していたが、二郎はすぐには下宿へ帰らなかったようである。

 そして③の記述から、一郎の年齢も(お直との年齢差も)だいたい想像がつく。物語の今現在を明治45年として、二郎は前述の「三沢の年表」によると28歳であるから、お直もまず28歳。一郎はズバリ38歳とみる。一郎とお直は31歳と21歳で結婚した。もちろん漱石夫妻と同じ30歳と20歳での結婚を想定して何の問題もない。

 漱石は自分の経歴を閲覧して、『猫』を書くことのない一郎がどのように人生の危機を乗り切るか、あるいはそのまま流されてしまうのか、それは『行人』のあからさまなテーマでは当然あり得ないわけだが、それが気になって『塵労』の独立になったとは言える。

 

第9回「いいから御出よ。自分の宅じゃないか。偶には来るものだ」

第10回 久し振りの家族との会話~兄は友人Kの結婚式の招待を受けていた

第11回 お重の話~兄は心霊術に凝っている~「そんなものに罹るのはコレラに罹るより厭だわ妾」

第12回「変人なんだから、今迄もよく斯んな事があったには有ったんだが、変人丈にすぐ癒ったもんだがね。不思議だよ今度は」~二郎は兄に旅行でも勧めてみることに

 

 ・・・彼等の挙げた事実は、お重を通して得た自分の知識に裏書をする以外、別に新しい何物をも付け加えなかったけれども、其様子といい言葉といい、如何にも兄の存在を苦にしているらしく見えて、甚だ痛々しかった。④彼等(ことに母)は兄一人のために宅中の空気が湿っぽくなるのを辛いと云った。(同12回)

 

 父が自分の下宿を訪れるという、およそ漱石の作品でも人生でも考えられないようなシチュエーションは(似たようなことさえ一度もない)、連載の3回を費やして(部屋には1回分も滞在しなかったが)、結局二郎を家に連れて来るためだけのものであった。お直が二郎の下宿にやって来た5回か6回分の、所謂裏を返したわけでもあるまい。しかしこのくだりは、そんなことより一郎の友人Kの結婚披露という、何でもないようなエピソードの紹介の方が、『塵労』の今後の展開の埋められた芋になっているようである。(一郎はお直を置いて一人で出掛けた。)

 

 父はなぜ来たのか。1週間前の「嫂の訪問に何か関係がある」(6回)のか。父がお直の遺留品なり痕跡を調べに来たのなら、これは懼ろしいことであるが、小説はもちろんそんな方向へは行かなかった。

 二郎の不安は結局答えられないままで終わった。嫂の来訪のときと同じであるが、これが志賀直哉のいう風合いの合わないところであろう。(推理小説のように)先に材料だけ出してしまう。問題だけ提示する。その答えは書かれないか、書かれても非常に分かりにくい。これは小説にとって損であるというのが志賀直哉の意見である。(漱石新聞小説である以上、読者の興味をつなぐ必要もあるという考えである。)

 二郎が家を出てから、一郎の変人ぶりが家族を悩ませる度合いが高まったという。その分お直への風当たりは却って弱くなった。二郎の退去はお直には幸いした。二郎のいない長野家は崩壊に向かうのか。どこにでもあるような家庭であるといえば、その通りであるが。こんなことが父の来訪の「答え」なのだろうか。

 

 ところで作者の注釈たる小説本文の「括弧書き」であるが、漱石作品の中では、『彼岸過迄』から始まって『行人』でも目立つようになった。上記④は目立たない例であるが、『行人』では次のようなものが代表的である。

 

 彼女は最後に物凄い決心を語った。海嘯に攫われて行きたいとか、雷火に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壮烈な最後を望んでいた。自分は平生から(ことに二人で此和歌山に来てから)体力や筋力に於て遥に優勢な位地に立ちつつも、嫂に対しては何処となく無気味な感じがあった。そうして其無気味さが甚だ狎れ易い感じと妙に相伴っていた。(『兄』38回)

 

 自分が兄から別室に呼出されたのは夫が済んで少時してであった。其時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装って、)「二郎一寸話がある。彼方の室へ来て呉れ」と穏かに云った。自分は大人しく「はい」と答えて立った。(『兄』42回再掲)

 

 漱石の書き方について何人も意見を差し挟むことは許されない。しかし引用した箇所だけを見ても、漱石らしくないという感じはする。括弧書きは次作の『心』でも採用され続けたが、『道草』でいったん収まった。『明暗』ではなぜか3ヶ所だけ出現している。

 1人称小説になったせいである、とは言える。では『彼岸過迄』の前半部分は田川敬太郎の3人称小説であるが、ここで早くも括弧書きが見られるのである。

 いずれも推敲すれば括弧書きをする必要はないと気付くはず。まあ『彼岸過迄』『行人』『心』だけのローカルルールと見て、この中期三部作は、「短篇形式三部作」のほかに「善行三部作」「自画自讃三部作」「不思議三部作」「謀略三部作」「一人称三部作」などと、前著や本ブログで言い言いしたが、ここに「括弧書三部作」も付け加えることになりそうである。

 

 その意味で、『三四郎』に1ヶ所だけある下記の括弧書きは、設置箇所からしてまったく未編集(草稿)のような、漱石の括弧書きから逸脱した、異質のものであると言える。

 

 後ろから看護婦が草履の音を立てて近付いて来た。三四郎は思い切って戸を半分程開けた。そうして中にいる女と顔を見合わせた。(片手に握りハンドルった儘)

 眼の大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢が開いたと思う位に、額が広くって顎がこけた女であった。・・・(『三四郎』3ノ12回/三四郎とよし子の初対面シーン)

 

 ここもまた、漱石に進言する者はいなかったのだろうかと思わざるを得ない。

 

漱石「最後の挨拶」行人篇 33

200.『塵労』1日1回(2)――嫂の来訪(つづき)

 

第4回 珍しく嫂の方から兄との夫婦仲が悪くなる一方であることを打ち明けられる「二郎さん御迷惑でしたろう斯んな厭な話を聞かせて。妾今迄誰にもした事はないのよ、斯んな事。今日自分の宅へ行ってさえ黙ってる位ですもの」

 

「何うせ妾が斯んな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。いくら何うしたって為るように為るより外に道はないんだから。そう思って諦らめていれば夫迄よ」

 

「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいに何処へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませんから。妾なんか丁度親の手で植付けられた①鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝っとしている丈です。立枯になる迄凝っとしているより外に仕方がないんですもの」

 

「兄さんは只機嫌が悪い丈なんでしょうね。外に何処も変った所はありませんか」

「左右ね。②夫ゃ何とも云えないわ。人間だから何時何んな病気に罹らないとも限らないから」(以上『塵労』4回)

 

 お直の嘆きが当初から予定されていたものか、『塵労』のために改めて嘆かれたものかは、俄かに断じがたい。あまり嘆き過ぎると小説が終らなくなるからである。実際にはお直はたっぷり愚痴をこぼして、独立した『塵労』の導入部の役割を果たす。

 

 お直は冷たい雨の中を帰って行った。なぜ来たのだろうか。愚痴を言うためだけにわざわざ二郎の下宿を訪れたのだろうか。

 ちなみに『明暗』の現行のラストシーンの清子のセリフが、②の「そりゃ何とも云えないわ」とまったく同一である。男に決しておもねることのない女として、お直の直系の子孫が清子であろう。彼女たちの預言通り、『行人』と『明暗』は作者の病気中断に至ったのである。(そして『行人』だけが再開された。)

 

第5回 二郎は兄のことが心配である~お直は兄のことは話そうとしない~お直は愚痴や具体的な不平を訴えに来たのではないようだ~ではなぜ二郎に会いに来たのだろう

 

 彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「何故そう堅苦しくして居らっしゃるの」と聞いた。自分が「別段堅苦しくはしていません」と答えた時、彼女は「だって反っ繰り返ってるじゃありませんか」と笑った。其時の彼女の態度は、細い人指ゆびで火鉢の向こう側から自分の頬ぺたでも突っつきそうに狎れ狎れしかった。彼女は又自分の名を呼んで、「吃驚したでしょう」と云った。突然雨の降る寒い晩に来て、自分を驚かして遣ったのが、左も愉快な悪戯ででもあるかの如くに云った。……(同5回)

 

 出来事をいつまでも反芻するのが彽徊趣味である。お直は猫背気味に火鉢に被さって来た。二郎がそっくり返ったのはお直の富士額が迫ったためである。

 上に引用したこの印象的なシーンは、おそらく小説の掉尾をかざるものとして、以前から漱石の頭の中にあったのだろう。それを(漱石の直接語り下ろす文でなく)二郎の彽徊というフィルターを通して書いたのは、たぶん正直な漱石は、数ヶ月のインターバルを挟んだため、お直の言動が回想シーンのように感じられたのであろう。対象をそのとき自分が感じた通りに書く。こんな正直な作家が他にいるだろうか。

 

 しかし実際には小説はここで終わらない。それどころかこれから始まるのである。これは漱石のキャリアからすると信じ難いことではあるが、とにかく小説は嫂の告白を受けて、再び動き出す。お直は二郎に救けを求めたのだろうか。お直は(三沢のあの出帰りの娘さんみたいに)淋しくって堪らなかったのか。

 ①の鉢植の比喩は身につまされるが、従来の日本人にはなかった発想であろう。女に女が希むような花を咲かせてやる。明治の男たる一郎にそんな事は出来そうにない。二郎もまた、お直の悩みすら理解出来ないだろう。お直はまるで、私を引っこ抜いて、一緒に外地でもどこでもいいから連れて行って頂戴、と言っているようである。

 

 ところで前項で繰り返し感心した漱石の文章であるが、当時漱石の小説に登場する高等遊民さながらの生活を送っていた志賀直哉が、連載の再開された『塵労』のことを日記に書いている。

 志賀直哉大正元年11月、『行人』の連載が始まった頃、尾道に行った。ほどなく第一創作集『留女(るめ)』が出た。大正2年春には『行人』は中断、漱石が回復しつつあった8月に、上京中の志賀直哉は山の手線の電車に撥ねられる。退院して城崎温泉に行く前、『行人』の連載が再開された。

 

(大正二年)九月二十七日 土

「行人」の続きを少し読んで見た。夏目さんのものとしていい物と思う。漾(ただよ)っている或気分に合わぬものがあるが、筆つきのリッチな点は迚(とて)も及ばぬ。(昭和48年11月版岩波書店志賀直哉全集第10巻日記1』)

 

 志賀直哉は7月7日の日記にも、

 

 夏目さんが時事新報の質問に答えて「留女」をほめた。(同上)

 

 と書いている。その7月7日付時事新報の記事というのは次の通りである。

 

 此春病気にて志賀直哉氏の『留女』を読み感心致して、其時は作物が旨いと思う念より作者がえらいという気が多分に起り候。斯ういう気持は作物に対してあまり起らぬものに候故わざわざ御質問に応じ申候。・・・(『漱石全集第25巻/別冊上』応問)

 

 志賀直哉はまめに日記をつける人ではなかったが、処女出版を褒められて嬉しかったことは想像に難くない。漱石志賀直哉の(自分の創作のために他の全てを犠牲にしてもいいという)生き方に感心したのだろう。大正2年12月には朝日新聞の連載を委嘱した。

 志賀直哉尾道生活で書き始めていた「時任謙作(時任信行)」を50回まで書いて、大正3年7月、漱石宅を訪れて朝日の話を断った。大正4年10月11日、大阪朝日の談話記事にこのことが載っている。

 

 志賀直哉氏の『范の犯罪』は他の人には書けぬものである。先頃東京朝日に小説を頼んだ時、五十回ばかり書いてよこして呉れたが、自分はどうしても主観と客観の間に立って迷っているどちらかに突き抜けなければ書けなくなったと云って、止めて了った。徳義上は別として、芸術上には忠実である。自信のある作物でなければ公にしないと云う信念がある為であろう。・・・(『漱石全集第25巻/別冊上』談話)

 

 このときのプロトタイプの「暗夜行路」は、発表されていればおそらく『塵労』よりは、まとまりのある佳作であったと想像されるが、朝日を断った志賀直哉が次に小説を書くのは、漱石の死んだ翌年であった。漱石が生きておれば、志賀直哉は立ち直れなかったかも知れない。その後(多くの作家が斃れた)30代中盤の難しい時期を生きて乗り切った志賀直哉は、漱石が『猫』を書いたのと同じ年齢でやっと(現行の)『暗夜行路』を世に出した。

 

 漱石の(志賀直哉の)主観と客観というのは、大雑把に言えば、「三四郎」を主観で描いて、「野々宮・広田先生・美禰子」を客観で描くという意味だろう。「私」を主人公にすれば、「私」が主観で他の登場人物が客観である。「私は」という語り方をするか、「三四郎は」にするか、そんなことは制作上の大問題ではないと信じる漱石にとって、主格の選択(というより、それに伴なう自己の心情の表し方の問題)に迷って作品が書けないという志賀直哉は、月世界の人間に映っただろう。このとき漱石は(『心』の)先生の「遺書」まで書いていたのだから。書く気ならどうとでも書けるのである。

 しかし志賀直哉の強い力のある文章に、漱石が半ば呆れながらも一目置いたことは間違いない。あるいは志賀直哉の方が漱石を真似したのかも知れないが。

 

漱石「最後の挨拶」行人篇 32

199.『塵労』1日1回(1)――嫂の来訪

 

 『塵労』をまとまった1つの小説と見ると、ボリューム的には『坊っちゃん』『須永の話+松本の話』『先生の遺書(心)』にほぼ等しい。漱石としては言いたいことの一番言いやすい枚数ではないか。しかし肝心の、その漱石の言いたいことというのは、『塵労』全52回を読む限りではなかなか読者には伝わって来ない。

 『塵労』を『行人』の大いなる統合として読む場合でも、事態は同じである。『行人』の目指すものについて、読者はよく分からないまま巻を措くことになる。

 では『塵労』は長過ぎるあとがきであろうか。無駄に追加された、それでいて一番長い楽章なのであろうか。

 

 前項でも述べたが、『行人』が『友達』『兄』『帰ってから』で終わろうとしていたこと自体は疑う余地がない。すると『塵労』はお直の下宿訪問シーン以外は、病気中断の後から付け足された、『行人』の外伝ということになる。『塵労』の前半を、前3話の後日譚・補足・言い訳と見れば、『塵労』の後半は一郎の苦渋に満ちた人生哲学の披露である。あるいはHさんと一郎の弥次喜多道中記である。そうだとして尚、『塵労』の『行人』の中での役割は分からない。『行人』は(当初の目論見通り)お直の訪問で終わってよかったのではないか。

 これは『明暗』が津田と清子の邂逅で強制終了したことと、不思議な一致を見せている。『明暗』の続編は決して『塵労』から類推されるものではないが、外見だけで言えば、『明暗』の続編は『行人』における『塵労』のような形になるのではないか。

 つまり『明暗』の続編は当然津田と清子の再会シーンの途中から始まるわけであるが、それを『塵労』のお直の下宿訪問シーンの途中と見れば、案外『明暗』の物語の続きは、その骨組みだけは、『塵労』に似たものになるのではないか。『行人』は3ヶ月か4ヶ月の中断で続篇が書き始められた。『明暗』はすでに100年以上が経過しているが、それがどうしたというのだろうか。

 

 まあ『明暗』のことを言っても始まらないので、ここでは労作『塵労』の、漱石のその苦悩の跡を辿るしかないが、まずその暦について、スタートの確定をしなければならない。

 『行人』の物語は明治44年7月に始まり、8月の和歌山旅行を経て12月のお貞さんの結婚、そして翌明治45年3月お彼岸のお直の下宿訪問が『塵労』のスタートである。前述のようにその部分だけ『帰ってから』を引き摺っていると見てもいい。

 その6日後の父の下宿訪問が3月23日の日曜日と書かれるが、これについては漱石の勘違いと見るのが一般的だが、漱石は春のお彼岸の中日を、つい3月15日の近辺と思い込んだのではないか。源氏の末裔漱石は、もともと坊主の決めた暦なんぞに興味はないのである。漱石は九星すら平気で出鱈目を書いている(『道草』5回)。

 したがってここでは、お直の高等下宿訪問事件は明治45年3月17日としておく。『塵労』はこの日に始まり、おそらく6月卒業試験終了後、一郎の修善寺鎌倉旅行を以って幕を閉じた。

 明治を(まるごと)生きた漱石にあって、『行人』は最後の明治の小説となった。そして次作『心』にはちゃんと天皇崩御や御大葬まで描いてある。西国からやって来た天皇にあまり関心の無かった江戸人漱石にしては、律儀なところを見せたものである。

 

 ちなみに明治45年であれば3月17日は日曜、3月23日は土曜である。お直が一郎のいる日曜日に実家の墓参りをするはずはないから、この部分の曜日だけは、執筆時の大正2年の曜日を代用することにする。大正2年だと3月17日は月曜日、6日後の3月23日はめでたく日曜日である。

 

『塵労』 (全52回)

 

第1章 お直の来訪(明治45年3月17日)(『帰ってから』第9章を兼ねる)

    二郎・お直・下宿の下女

第1回 陰刻な冬は彼岸の風に吹き払われた~「風呂かい」「三沢だろう」「いいえ女の方です」~下女の笑い~客は嫂であった

 

「だって聞いても仰ゃらないんですもの」

 下女は斯う云って、①また先刻の様な意地の悪い笑を目元で笑った。②自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上った。敷居際に膝を突いている下女を追い退けるようにして上り口迄出た。そうして③土間の片隅にコートを着た儘寒そうに立っていた嫂の姿を見出した。(『塵労』1回末尾)

 

 お重が来ても三沢が来ても、下女の出番はなかった。当然笑うこともない。お直のときだけ下女は意味ありげに笑いを見せる(①)。漱石の定番ではある。しかし上記引用文②の文章の巧みさ・力勁さ・(主人公の人物の)集中力はどうだろう。簡潔でしかも多くを語る。『塵労』におけるお直の初登場シーン③も、翻ってこちらは(英文調の)どうということのない文章だが、それが却って印象深いものにしている。このメリハリは初期の漱石にはなかったものである。

 

第2回「好く斯んな寒い晩に御出掛でした」「二郎さん、貴方も手を出して御あたりなさいな」「二郎さんは少時会わないうちに、急に改まっちまったのね」

 

「何で来たのだろう。何で此寒いのにわざわざ来たのだろう。何でわざわざ晩になって灯が点いてから来たのだろう」(同2回)

 

 二郎の驚きとともに寒さが強調される。予定稿では真冬であったから仕方がないが、寒くなければ都合の悪いことが、今後起きて来るのだろうか。

 

第3回「何故元のようにちょくちょく入らっしゃらないの」「少し仕事の方が忙しいもんですから」二郎は洋行を考えている~「男は気楽なものね」「だって厭になれば何処へでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか」

 

 自分はつと立って嫂の後へ廻った。彼女は半間の床を背にして坐っていた。室が狭いので彼女の帯のあたりは殆ど杉の床柱とすれすれであった。自分が其間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈そうに体躯を前の方へ屈めて「何をなさるの」と聞いた。自分は片足を宙に浮かした儘、床の奥から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。

「一つ何うです」(同3回冒頭)

 

 漱石の文章にはほとほと感心させられる。巧み・力勁い・集中力と先に書いたが、これらの男性的躍動感に加えるに、そこはかとないユーモアが漱石の文章の最大の特長であろう。ことさらに『猫』や『坊っちゃん』のような書き方をしなくても、漱石には書く文章から自ずと滲み出してくる滑稽味がある。これは誠実な作者が、主人公に真に同化・親和して書いているためであろう。ユーモアを心掛けて書いているわけではなかろう。

 それと、この文章は火鉢の存在を前提としている。漱石がお彼岸にもかかわらず真冬のような天候にした理由がわかる。ちなみにお直は重箱の中身を御萩(秋~冬のイメジ)と言い、二郎は牡丹餅(冬~春のイメジ)と言う。漱石がわざと書いたのだとしたら、漱石らしくない芸の細かさである。

 

 上記引用文にすぐ続く文章、

 

「一つ何うです」

 斯う云いながら蓋を取ろうとすると、彼女は微かに苦笑を洩らした。重箱の中には白砂糖を振り懸けた牡丹餅が行儀よく並べてあった。昨日が彼岸の中日である事を自分は此牡丹餅によって始めて知ったのである。・・・(同3回)

 

 前述のようにここでは漱石がなぜこんな、自分で自分の小説に制約を課すような記述をしたのかという、問題を提起するに留める。思うに漱石は前作『彼岸過迄』の、ちょっと人を食ったようなタイトルが気になって、『行人』もまた早くから文字通り「彼岸過迄」で物語を終えるつもりでいたのかも知れない。繰り返すが、ここまで(お彼岸まで)が当初の『行人』の予定稿であったのだろう。するとその1週間後の父の訪問を、3月23日の日曜日と書いたのは、新しい『塵労』の始まりに際しての、漱石流のリセット宣言でもあったろうか。

 

漱石「最後の挨拶」行人篇 31

198.『帰ってから』1日1回(9)――宴のあと(つづき)

 

第8章 長野家の冬(1月~3月)

    二郎・母・お重・三沢・(一郎・お直・父)

第37回 下宿Ⅰ お貞さんが去ると共に冬も去った~二郎の下宿にはお重が時々やって来た

第38回 下宿Ⅱ 母も1、2遍来た~三沢は時々来た~嫂だけは来なかった~永いようで短な冬は、事の起こりそうで起らない自分の前を平凡に去って行った

 

 小説は最後に二郎の下宿を訪れる人たちを紹介して終わっている。父と兄が来ないのは当然である。明治の戸主が係累の下宿を訪れるわけにはいかない。『塵労』で父がやって来るシーンがあるが、この父は「おっちょこ」と書かれるくらいだから、例外的に尻が軽いのであろう。

 小説の最後のハイライトは勿論嫂の訪問シーンである。これを数回分書いて『行人』は終わる筈だった。下宿を訪れた嫂の哀しい愚痴で締め括られる筈であった。『行人』は岡田の愚痴に始まり、三沢、一郎、母、お重が入れ代わり立ち代わり愚痴りまくる。最後にお直がその中に一輪の花を咲かせるはずであった。

 

 おしなべて漱石作品は愚痴のオンパレードとも言えるが、登場人物の愚痴を聞いて読者が喜ぶわけはない。読者は自分の愚痴は誰かに聞いてもらいたいが、人の愚痴を聞くために小説を読んでいるのではなかろう。ではなぜ漱石がいつまでも読まれるかというと、漱石の膨大な愚痴は、実は我々自身の愚痴でもある。我々はそれを読むことにより、我々自身の愚痴を作者の漱石に聞いてもらっているとも言えるのである。

 話は飛ぶが、ドストエフスキィはそのもう一方の総大将であろう。ドストエフスキィは(お節介にも)我々が将来こぼすであろう愚痴まで語ってくれる。それどころか一生気付かず、こぼさないで済むような愚痴まで、無知な我々に代わってこぼしてくれているのである。我々は新しい愚痴を教えてもらって、それを人に吹聴さえするのである。

 

 それはともかく、我らがお重にも結婚問題があった。三沢にどうかという話は当然に持ち上がっていい。二郎は両親から打診を頼まれる。この話のあと作者の病が悪化して、小説は突然幕が引かれる。

 

 三沢は時々来た。自分はある機会を利用して、それとなく彼にお重を貰う意があるかないかを探って見た。

「①左右だね。あのお嬢さんも最う年頃だから、そろそろ何処かへ片付ける必要が逼って来るだろうね。早く好い所を見付けて嬉しがらせて遣り給え

 彼はただ斯う云った丈で、取り合う気色もなかった。②自分も夫限断念して仕舞った。

 永いようで③短な冬は、事の起りそうで事の起らない自分の前に、時雨、霜解、空っ風……と既定の日程を平凡に繰り返して、斯様に去ったのである。(『帰ってから』38回末尾)

 

 三沢のこの①の返答で二郎はあっさり撤収する。早過ぎるのではないか。三沢は一般論を述べたに過ぎない。三沢はお重を断っていない。もしかすると歓んで照れ隠しを言っているのかも知れない。二郎はふつうなら、「では君が貰うというのは、どうだい」と1回くらい聞いてみてもバチは当たらない。これでは(鏡子の思い出の逸話も含めて)漱石の結婚の話が嚙み合わないわけである。漱石は結婚話には、YESもNOも言えないのである。漱石が言いたくないのは分かる。漱石は自分が言いたくないだけでなく、登場人物にもYESもNOも言わせないのである。舌を巻く徹底ぶりである。お重は堪るまい。

 

 最後にもうひとつ、引用した末尾の文章に、初版時の変更箇所が2ヶ所ある。

 

自分も(原稿) → 自分は(初版)

短な冬(原稿) → 短い冬(初版)

 

 原稿が見つからない以上あくまで推測の域を出ないが、漱石がわざわざ直したとはとても思えない。

 誰が直したのだろうか。弟子が直したのなら、その罪は万死に値する。

 単行本とそれを底本とする昭和の膨大な全集本(と文庫本)。その膨大な読者は③のような記述、漱石がこのように書いたという事実に接しないまま、漱石の愛読者として一生を終えたのである。

 なまじ新聞の切り抜きを作ったばかりに、なまじ本にするときの校正を弟子に任せたばかりに、取り返しのつかないことが一ヶ所でも起こったなら、それは漱石の愛読者としては悔み切れない悲劇である。

 この例は論者の勘違いであってほしい、漱石の原稿が「短い冬」であってほしいと願う。

 あるいは漱石が自分の手で「短い冬」と修正した証拠が出て来てほしいと、心底そう思う。

 

 そしてこれは結果から言うのではあるが、『行人』は各篇の独立というよりは、それぞれ前の篇の最後の部分が、新しい篇の始めの部分に被さってくるような構成になっている。『兄』は長野家の関西旅行の話であるが、その冒頭の回は、前話で活躍した岡田夫婦がまだ頑張っている。旅行最後の行程は、『帰ってから』の頭にずれ込むので、「帰ってから」というのは関西旅行から東京に帰ってという意味ではなく、和歌山の宿泊事件から「帰ってから」ということだったのか、とは先に述べたところ。

 ところが予期せぬ病気のおかげで、『帰ってから』の末尾に書かれるはずだった嫂の訪問シーンが、新しい『塵労』の冒頭に来てしまった。

 結果的にはこれで『行人』の各篇の整合性は取れたわけだが、漱石としては苦笑するしかないだろう。漱石は一応それを否定するかのように、『塵労』の始まりに月日の経過を記述しているが、取って付けたようで読者は誰も気に留めない。

 

 漱石は年の暮れのお貞さんの結婚式のあと、お正月を過ぎてだいぶん経った頃を想定して、物語を閉じようとしたのではないか。

 実家への晩い、あるいは月遅れの年始の帰りがけの、お直の不意の訪問。

 戸外の寒風と下宿の部屋の小さい火鉢。

 二郎の部屋に届けられていたのは、お彼岸のおはぎではなく、大阪に落ち着いた新夫婦から取り敢えず送られた、里帰りの土産代わりの菓子(のおすそ分け)だったのではないか。

 止むを得ず中断することになったとき、漱石はこのシーンを先送りしたが、律儀にもお直の冬のうちの訪問をあきらめて、季節が通り過ぎようとするかのような一文(名文)で、ひとまず連載の幕を閉じた。

 

 この先は次の『塵労』の回で述べるべきかも知れないが、ここでついでに言っておくと、お直がやって来たのはお彼岸の最中であるという。

 たしかに3月下旬でも冬のように寒いことはある。寒がりの漱石が寒いと言う以上、読者として何も言うことはない。

 3ヶ月4ヶ月にわたる病臥の後の再開である。季節は去ったものの、正直な漱石は、そのときの「お直二郎高等下宿の場」の舞台設定まで変えてしまうほど器用でも狡猾でもなかった。

 お彼岸と書きながら、中身は真冬である。そういうこともある、と漱石は突き進んだようである。

 

 さらにこれまた漱石らしく、お直の訪問の後、日にちを数えて父の訪問を受けるくだりでは、(精養軒が貸切だったので)三橋の通りの洋食屋で食事した二郎も父も、はっきり今日が(3月)23日の日曜日であると、その必要もないのに声を揃えて宣言している。

 『行人』執筆中の大正2年3月23日はたしかに日曜であるが(物語の暦としては明治45年3月23日になり、その日は土曜であるが、それはこの際どうでもいいことである)、お彼岸の1週間後の日曜なら3月23日ではあるまい。ここだけはさすがに岩波の全集注解でも触れているが、読者も漱石の病気のせいだろうとは思う。

 しかし『三四郎』以来の来し方を知る者にとっては、漱石はなぜこんな、指を折って勘定しなくてもすぐ判るような誤りを、毎作毎作繰り返すのだろうと、むしろ不思議の念に堪えない。そうして当然乍らもっと不思議なのは、そんな漱石の作品が百年の命脈を保つ理由である。勿論簡単に言ってしまえば、「そんなのは関係ないこと」で片付けられよう。それで済めば楽である。何も考えなくていい。

 ただそこには何か目に見えない因縁があるのではないか、というのが小論立ち上げのそもそもの原拠である。

 シャーロックホームズの物語の面白さは、語り手たるワトスン博士の戦傷の部位や奥さんの名が、連載を続けているうちに変わってしまうということと決して無関係ではないと思われる。天才は細部に関心が無い。あるいは細部に神が宿るという言い方もある。天才は慥かに神の賜物であろう。漱石のカレンダーの数え損ないは、神の気紛れ(ランダム)だろうか。神の指令(意思)だろうか。

 

漱石「最後の挨拶」行人篇 30

197.『帰ってから』1日1回(8)――宴のあと

 

第7章 お貞さんの結婚(12月)

    二郎・一郎・お直・芳江・父・母・お重・岡田・佐野・三沢

第33回 結婚Ⅰ 三沢との会話~異様なおのろけ~三沢は二郎の結婚相手を探そうとする~岡田と佐野の上京~久し振り家族の会話

第34回 結婚Ⅱ 芳江の講釈「本当の鼈甲は高過ぎるから御已めにしたんですって」「是一番安いのよ。四方張よか安いのよ」~兄によるお貞さんへの最後の講義~お貞さんはまた泣いたのか、真に感謝したのか

第35回 結婚式Ⅰ お貞さんは島田に結った~岡田がお兼さんを連れて来なかったので一郎夫妻が仲人役を「然し僕等のような夫婦が媒酌人になっちゃ」

第36回 結婚式Ⅱ 兄も嫂も自然のままに取り澄ましている~結婚式は不幸の始まりか~昼の汽車で発つ新夫婦と岡田を雨のプラットホームで見送り、二郎は下宿へ帰った

 

 さて漱石の心積りでは、小説はこのあと最後の山を迎えて、静かに終わる筈であった。ここではもう埋められた芋はすべて掘り起こされていたと見ていい。語り残されたものはないとばかりに、物語の始まりから「年の暮」と予定されていた、お貞さんの結婚式を迎える。

 

 彼には斯ういう風に、精神病の娘さんが、影身に添って離れないので、自分はかねて母から頼まれたお重の事を彼に話す余地がなかった。お重の顔は誰が見ても、まあ十人並以上だろうと、仲の善くない自分にも思えたが、惜い事に、此大切な娘さんとは、丸で顔の型が違っていた。

 自分の遠慮に引き換えて、彼は平気で自分に嫁の候補者を推挙した。「今度何処かで一寸見て見ないか」と勧めた事もあった。自分は始めこそ生返事許していたが、仕舞は本気に其女に会おうと思い出した。すると三沢は、まだ機会が来ないから、最う少し、最う少し、と会見の日を順繰に先へ送って行くので、自分は又気を腐らした末、遂に其女の幻を離れて仕舞った。

 反対に、お貞さんの方の結婚は愈事実となって現るべく、目前に近いて来た。・・・(『帰ってから』33回)

 

 三沢は二郎の結婚相手を探そうとしたり、思い直したり、病室での不思議な態度をキープしている。三沢が二郎に何を求めているかは結局分からずじまいである。まさか大学人としての一郎のコネが目的ではあるまい。

漱石が「友情」を追求しようとしていたのではないことだけは慥かである。代助と平岡、津田と小林の例を持ち出すまでもなく、漱石の書く友人関係は大変分かりにくい。)

 三沢は女に対しても男に対しても、そのアプローチの手法は難解である。一郎のせいで目立たないが、三沢こそ(対人関係部門の)変人チャンピオンであろう。反対に一郎は、外では猫を被っているせいか、社会人として突飛な言動は見せない。

 ちょっと余談になるが、この三沢の特徴は、

 

①書かれる恋愛譚に難解なものが多い。

②本人が大変人である。

③社会的には紳士である。

④せっかち

 

 まさに漱石そのものという感じがする。

 

 芳江が「伯父さん一寸入らっしゃい」と次の間から小さな手を出して自分を招いた。(同34回冒頭)

 

 芳江に関しては、のっけから漱石は「伯父さん」と誤って書いている。これはさすがに初版本で「叔父さん」に直されたが、芳江をお直の子としてのみ扱っていたので、お直は二郎より1歳でも年下であったか。一郎(とお直)には男の子がいないので、二郎は将来長野家の世襲財産の相続者にはなっても、簒奪者とはなり得ない。それでつい漱石も「伯父」と書いてしまったのだろう。

(「叔父」が世襲財産の簒奪者たりうるという漱石作品の主張については、前著で説いたところであるが、かいつまんで言うと、『心』の先生や『門』の宗助は叔父に財産を横領されたと騒ぐが、「坊っちゃん」は九州へ行った兄に出来た子供から、『それから』の代助は甥の誠太郎から、『明暗』の津田は同居していた藤井の末っ子「甥の」真事から、それぞれ将来損害賠償を言われはしないかというリスクのことである。)

 

 その芳江の「急成長」については、これまた前著(『明暗』に向かって)でも述べたが、お貞さんの結婚にあたっての芳江のセリフには、驚きを禁じ得ない。『行人』の物語の始まりから4ヶ月しか経っていないのである。いくら女の子はおしゃまであるといっても、いくら子供の成長が早いといっても、あの「頑是ない」芳江が、二郎を「伯父」ないし「叔父」と認識するだろうか。その前に物の値段を認識するだろうか。

 たしかに漱石は10数年にわたって4人の女の子のおしゃまぶりを見てきた。その漱石が書くのであるから、後世の読者がとやかく言うことはないのであるが、もしかすると漱石は芳江のモデルを執筆途中で取り違えたのではないだろうか。執筆時(大正2年)芳江の年齢に充てた伸六(6歳)を見るべきところを、つい女の子ということで愛子(9歳)の方を見てしまったのではないか。伸六が(男の子なので)ちっとも役に立たなかったのは分かるが。

 

 その芳江につられて、二郎がついガキ大将の本性を表わしかけたシーンがある。結婚式の朝、二郎が実家に着くと風呂場でお貞さんの支度が始まっている。

 

 ・・・風呂場の口を覗いて見たら、硝子戸が半分開いて、其中にお貞さんのお化粧をしている姿がちらりと見えた。「あら其処へ障っちゃ厭ですよ」という彼女の声が聞こえた。芳江は面白半分何か悪戯をすると見えた。自分も芳江の真似を遣ろうと思ったが、場合が場合なのでつい遠慮して茶の間へ戻った。(『帰ってから』35回)

 

 ガキ大将は非日常が大好きである。坊っちゃん漱石も、子供の頃は手の付けられないいたずら者だった。つまり日常生活の破壊者ということだろう。『行人』では二郎より一郎の方がガキ大将であったと書かれるが、二郎も漱石の血を引いているからには、いたずら者の素質は十分である。いたずら者が(挫折しないでそのまま)大きくなって、ただのおっちょこちょいで了るか、大変人になるかは神のみぞ知る。いずれにせよ世間に対する「拗ね者」であることに変わりはない。「拗ね者」は基本的には寂しいのであるから、母親のような態度で接してやるしかない。ところでそれは本人が成人するまでの話であろうから、所詮(大人になった)本人は己れの境遇を恨むしかないのである。

 一郎はお直に母を求めたであろうことは想像に難くないが、そんな話は小説にはならない。珍しく健在の両親と同居する設定の一郎が、漱石の主人公の中で最も孤独な変人を演じているのは、一郎にとっての救いの途を、(漱石が)わざと分からなくしているのだろう。

 

漱石「最後の挨拶」行人篇 29

196.『帰ってから』1日1回(7)――三沢の不思議な恋

 

 三沢の不可解な恋愛については、前著でも触れたが、いくら考えても分からない。結局、「病気の原因は病気である」という無意味な一句にたどり着くしかないのであるが、鏡子の『漱石の思い出』にはいきなりこんな記述がある。

 

 丁度その事件(法蔵院にいた頃の所謂井上眼科事件)の最中で頭の変になっていた時でありましょう。突然或る日喜久井町の実家へかえって来て、兄さんに、

私のところへ縁談の申込みがあったでしょう」と尋ねます。そんなものの申込みに心当りはなし、第一目の色がただならぬので、

そんなものはなかったようだったよ」と簡単にかたづけますと、

私にだまって断わるなんて、親でもない、兄でもない」ってえらい剣幕です。兄さんも辟易して、

「一体どこから申込んで来たのだい」となだめながら訊ねましても、それには一言も答えないで、ただ無闇と血相かえて怒ったまま、ぷいと出て行ってしまった。・・・(夏目鏡子漱石の思い出』1松山行)

 

 念のため三沢の年表を作ってみる。二郎と三沢は、『彼岸過迄』の市蔵・敬太郎と同学年と推測されるから、年齢はそのままあてはめる。ちなみに20歳前後、高等学校へ入った頃というのは、女景清の坊っちゃんと年恰好は合う。

 

 今から五六年前彼の父がある知人の娘を同じくある知人の家に嫁らした事があった。不幸にも其娘さんはある纏綿した事情のために、一年経つか経たないうちに、夫の家を出る事になった。けれども其処にも亦複雑な事情があって、すぐ吾家に引取られて行く訳に行かなかった。それで三沢の父が仲人という義理合から当分此娘さんを預かる事になった。――三沢は一旦嫁いで出て来た女を娘さん娘さんと云った。

「其娘さんは余り心配した為だろう、少し精神に異状を呈していた。それは宅へ来る前か、或は来てからか能く分らないが、兎に角宅のものが気が付いたのは来てから少し経ってからだ。固より精神に異状を呈しているには相違なかろうが、一寸見たって少しも分らない。ただ黙って欝ぎ込んでいる丈なんだから。所が其娘さんが……」(『友達』32回)

 

「君から退院を勧められた晩、僕は其娘さんの三回忌を勘定して見て、単にその為丈でも帰りたくなった」と三沢は退院の動機を説明して聞かせた。自分はまだ黙っていた。

「ああ肝心の事を忘れた」と其時三沢が叫んだ。自分は思わず「何だ」と聞き返した。

「あの女の顔がね、実は其娘さんに好く似て居るんだよ」(『友達』33回)

 

 彼はつい近頃父を失った結果として、当然一家の主人に成り済ましていた。Hさんを通してB先生から彼を使いたいと申し込まれた時も、彼はまず己れを後にするという好意からか、若しくは贅沢な択好みからか、折角の位置を自分に譲って呉れた。(『帰ってから』30回)

 

「あのお嬢さんの法事には間に合ったのかね」と聞いて見た。

「間に合った。間に合ったが、実にあの娘さんの親達は失敬な厭な奴だ」と彼は拳骨でも振り廻しそうな勢いで云った。自分は驚いて其理由を聞いた。(『帰ってから』31回)

 

三沢の年表

明治37年夏 20歳 高等学校入学

明治38年夏 21歳 高等学校2年~一郎とお直結婚か(岡田とお兼さんもこの頃結婚)

明治39年夏 22歳 高等学校3年~娘さんが三沢の父の世話で嫁ぐ

明治40年夏 23歳 娘さんが嫁ぎ先から帰ってくる

明治40年秋 23歳 大学入学~保証人は一郎の同僚Hさん

明治40年秋 23歳 娘さん精神に異常を来たす~「早く帰って来て頂戴ね」

明治41年秋 24歳 大学2年~三沢は家の者の手前閉口する

明治41年秋 24歳 しかし三沢は娘さんに愛情を抱くようになる

明治42年春 25歳 このころ娘さんは病院へ入ったもよう

明治42年秋 25歳 大学3年~娘さん亡くなる~接吻事件

明治43年秋 26歳 大学4年~娘さんの1周忌

明治44年春 27歳 父親亡くなる~戸主になる

明治44年夏 27歳 卒業旅行~胃潰瘍で入院~帰京

明治44年秋 27歳 娘さんの3回忌~娘さんの親族とのトラブル

明治44年秋 27歳 B先生の設計事務所の口を二郎に譲る

 

 三沢の怒りの雄叫びは以下の通り。

 

「あいつ等はいくら親だって親類だって、只静かなお祭りでも為ている気になって、平気でいやがる。本当に涙を落したのは他人の己丈だ」

「馬鹿にも程があるね。露骨にいえばさ、あの娘さんを不幸にした原因は僕にある。精神病にしたのも僕だ、と斯うなるんだね。そうして離別になった先の亭主は、丸で責任のないように思ってるらしいんだから失敬じゃないか」

何故そんなら始めから僕に遣ろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当にして……」

一体君は貰いたいと申し込んだ事でもあるのか

ないさ

「僕がその娘さんに――その娘さんの大きな潤った眼が、僕の胸を絶えず往来するようになったのは、既に精神病に罹ってからの事だもの。僕に早く帰って来て呉れと頼み始めてからだもの」(『帰ってから』31回/セリフのみ抜粋)

 

 前記の鏡子の回想における漱石と、この三沢の怒りは、基本的には同じ感情から出たものである。理屈はまるで通らないので、周囲はただ困惑して病気のせいにするだけであるが、見合いのときに本人が意思表示をまったくしなくても、周りがどんどん話を進めて、いつの間にか結納というような、そんな展開を漱石(と三沢)が期待していたのであれば、これはそんなに突飛な発想でもない。子供がわんわん泣きながら、結局自分の一番欲しいものを、(自分からは具体的指示なしで)手に入れるというやり方に似ている。

 

 この周囲を驚かせた漱石と三沢のケースには10年の開きがあるが、それはいいとして、三沢がその娘さんを獲得するとすれば、まだ出世前の高等学校生徒ということになり、女景清ではないが、やはり三沢の主張には無理があるのではないか。

 娘さんと三沢との交渉は、三沢が大学へ入ったときから2年間である。まず同い年くらいだろう。22歳で嫁いで1年で家に戻り、23歳と24歳の2年間。最後は数ヶ月間病院に暮らしたとしても、2年間の同居生活を経た上での悲劇である。そして娘さんの最大の悲劇は、やはり三沢がその娘さんを好きになったという点に尽きるだろう。娘さんにとっては人の愛が却って負担に感ぜられたのではないか。夫の愛情を受け損なった女にとって、夫以外の男の愛を受けることは自らを罪に墜とすことである。それに耐えられない潔癖な女は、自らを罰したのではないか。この場合、女が三沢を愛していたかどうかは、罪の意識を増しこそすれ、女の幸せには何の「たし」にもならなかったのである。

 一郎は娘さんが三沢を愛していたと推測した。三沢の気持ちも当然知っていただろう(接吻事件によって)。一郎は三沢のことは果報者と思ったかも知れないが、それで娘さんがいくらか救われたとは、一瞬たりとも思えなかった。愛は何の役にも立たなかったのである。

 

 理屈を言うようだが、女景清の事件が太平楽なのは、そこに愛がなかったからである。愛は何の役にも立たないばかりでなく、時として愛は人を死に至らしめることさえある。だからこそ愛は尊いものであるといえるのだが。

 

 ところで三沢の年表を二郎の年表と見れば、物語冒頭の「岡田君此呉春は偽物だよ」「最う少し待っていれば己が相当なのを見付てやるのに」の発言は、前者(岡田の大阪行)が二郎が高等学校入学前後、後者(岡田の結婚)がその1年後位のものであろう。たしかに高等学校生徒は生意気盛りではある。しかしちょっとだけ早いようである。それとも二郎も三沢も、小説で語られる夏の旅行は卒業旅行ではなく、2人とも以前から高等遊民を極め込んでいて、上記年表より1つでも2つでも年を食っているのだろうか。2人とも結婚結婚と言っているからには、30歳に近づいていることだけは確かだが。