416.『虞美人草』(12)――甲野さんレオパルディを読む
『虞美人草』ではレオパルディのエセイが、(知的生活者としての漱石の分身たる)甲野さんの共感を呼ぶものとして、わりと丁寧に紹介されている。
『虞美人草』考究のオマケとしてここにその概要を附す。
「多くの人は吾に対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼等を目して兇徒となすを許さず。又其兇暴に抗するを許さず。曰く。命に服せざれば汝を嫉(にく)まんと」(『虞美人草』15ノ2回)
世間は凡て甲野さんの敵である。その最も質の悪いのが家族(義母と藤尾)である。甲野さんの居場所はどこにもない。甲野さんはその不満の解消を書物(の中の言詞)に求める。
「剣客の剣を舞わすに、力(ちから)相若くときは剣術は無術と同じ。彼、此を一籌の末に制する事能わざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人を欺くも亦之に類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐に富むとき、二人の位地は、誠実を以て相対すると毫も異なる所なきに至る。此故に偽と悪とは優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽、不足悪に出会するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事難しとす。第三の場合は固より稀なり。第二も亦多からず。兇漢は敗徳に於て匹敵するを以て常態とすればなり。人(ひと)相賊(害)して遂に達する能わず、或いは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易に到り得べきを思えば、悲しむべし」(『虞美人草』15ノ2回)
岩波の定本漱石全集『虞美人草』の注解の頁に、漱石の引用した(漱石の参照した)イタリア人レオパルディの英訳本の原文が載っている。
When two fencers of equal skill are matched against each other, the art of fencing is in their case reduced to a nullity, since neither of them has any more advantage over the other than if they were both equally unskilled. In the same way it often happens that men resort to faisehood and iniquity gratuitously and to no purpose ; for when they find themselves encountered by an equal degree of iniquity and falsehood in others, the position of the parties becomes neither better nor worse than it would have been if both had been actuated by probity and truth. Thus it is pretty certain that wickedness and duplieity seldom prove effectual save when they are conjoined to superior force, or else where they encounter an inferior degree of these qualities in others, or are matched against positive goodness. Of these cases, the last mentioned is necessarify rare ; and the second is not common, since scoundrels are generally about equal in depravity. It is sad to reflect how often, by simply doing good to one another, men might attain with facility objects which they attain with infinite difficulty, and sometimes entirely fail to attain, by wronging one another.
Ⅰ 剣客の剣を舞わすに、力(ちから)相若くときは剣術は無術と同じ。彼、此を一籌の末に制する事能わざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。
When two fencers of equal skill are matched against each other, the art of fencing is in their case reduced to a nullity, since neither of them has any more advantage over the other than if they were both equally unskilled.
Ⅱ 人を欺くも亦之に類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐に富むとき、二人の位地は、誠実を以て相対すると毫も異なる所なきに至る。
In the same way it often happens that men resort to falsehood and iniquity gratuitously and to no purpose ; for when they find themselves encountered by an equal degree of iniquity and falsehood in others, the position of the parties becomes neither better nor worse than it would have been if both had been actuated by probity and truth.
Ⅲ 此故に偽と悪とは、①優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、②不足偽、不足悪に出会するにあらざるよりは、最後に、③至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事難しとす。
Thus it is pretty certain that wickedness and duplieity seldom prove effectual save ①when they are conjoined to superior force, or ②else where they encounter an inferior degree of these qualities in others, or ③are matched against positive goodness.
Ⅳ 第三の場合は固より稀なり。第二も亦多からず。兇漢は敗徳に於て匹敵するを以て常態とすればなり。
Of these cases, the last mentioned is necessarify rare ; and the second is not common, since scoundrels are generally about equal in depravity.
Ⅴ 人(ひと)相賊(害)して遂に達する能わず、或いは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易に到り得べきを思えば、悲しむべし。
It is sad to reflect how often, by simply doing good to one another, men might attain with facility objects which they attain with infinite difficulty, and sometimes entirely fail to attain, by wronging one another.
Ⅰ reduced 落ちぶれた 減少した nullity 無効 neither どちらでもない
Ⅱ resort 頼る 訴える 扶けを求める falsehood 虚偽 偽 iniquity 不法行為 不道徳 罪 gratuitously 根拠もなく 事実に基づかず むやみに 不必要に いわれなき encountered 遭遇した 出会う degree 程度 actuated 行動させた probity 正直 善徳 確率
Ⅲ thus したがって pretty certain かなり確実 wickedness 悪行 邪悪 duplieity 二枚舌 seldom 滅多にない prove 裏付ける 証明する eldom prove 滅多に証明しない effectual save 効果のある援け conjoined 結合した superior force 優位な力 不可抗力 encounter 遭遇 出会い inferior degree 劣等度 positive goodness 好ましい善良さ 積極的善良
Ⅳ mentioned 言及された ecessarify 必然的に scoundrels 悪人 悪党 depravity 堕落 腐敗
Ⅴ reflect 映す 反映する attain 達成する 至る 果たす facility 施設 設備 機関 objects 物 infinite 無限 果てしない entirely 全体的に まったく もっぱら全て wronging 不正行為 悪行 悪業
Ⅲの文章が難解。
Ⅲ 此故に偽と悪とは、①優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、②不足偽、不足悪に出会するにあらざるよりは、最後に、③至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事難しとす。
②と③はⅣにあるように稀であるという。邪悪は常に邪悪同士ぶつかっているので目立ちにくい。③の善と対峙する邪悪、そんな分かりやすい(勧善懲悪みたいな)邪悪なんか今の世にあるはずがない。②の軽度の悪に対する(本物の)悪なら目立つのか。いやそれも難しい。なぜならすべての悪は皆同じような悪であり、「程度」の話ではないからである。邪悪とはレベルの問題ではない。倫理に程度の問題はなじまない。有るか無いかである。では①の悪とは何か。力(権力)と結びついた悪という意味であろうか。不可抗力による悪、個人の意思や都合から出たのではない、戦争のようなものを念頭に置いているのか。戦争の「悪」は慥かに分かりやすいが。
善人とは
A.自分が善人であるとは思っていない(悪人であると思っている場合はあるかも知れない)
B.自分が困っているとき人の助けを期待しない(もちろん人に援けてもらったら感謝する)
この定義2つで十分だろうが、ふつう
C.ふだんから善い行ないをする
という最も肝心らしい項目はここには入っていない。
同じ言い方で、悪人とは
A.自分が悪人であるとは思っていない(善人であると思っている場合はあるかも知れない)
B.自分が困っているとき人の助けを期待する(もちろん人に援けてもらったら感謝する)
C.ふだんから悪い行ないをする
B.は我々の社会生活全般が該当しよう。学業にせよ経済活動にせよ、自己の不足を補い合うのが社会に生きる人間の常態である。修養・自己研鑽といった自己完結的な考え方も、広い意味ではB.に他ならない。
漱石が実業を嫌うのも、根はこの善人・悪人説に拠っている。
現代社会において悪人を免れることは(漱石といえど)難しいが、唯一善人であり続けるためには、高等遊民になるしかないのである。
この理屈で行けば、人援けとか災害救助といった、ふつう誰からも非難される謂われのない行為でも、善悪の観点からは、決して善人の行ないではないという理屈になる。もちろん漱石の職業たる教師も、人を扶け導くという意味では善人の行ないではありえない。
・自分も助けてほしいから人を助けるのである。
・善人は助けてほしいという発想がないから、人も助けようとしない。
・人を助けるのは常に「悪人」である。
・悪人が社会を切り回し発展させる。
・開化も革命も善人のなせる業ではなく悪人のみの手柄である。
漱石の、いつの時代の人にも一定程度受け入れられる文明批判は、このような「善悪の観念」から発している。
漱石の前の時代(文化文政~天保)を生きたレオパルディの感想文を読んで、ついこんな余計なことを考えてしまった。本項は『額の男』まで脱線したのであるから、そのついでにお許しを願いたい。
レオパルディは文化文政~天保の人。彼がどういう考えからこのような文章を書いたか、実のところ現代の我々には分からない。イタリア人だから分からないというものでもない。同時代を生きた、(漱石の好きな)南畝の文献を(馬琴でも一九でも)、今の我々がいくら読んでも、たかだか19世紀であっても、彼らがそのとき心の真底で何を考えていたかは、現代の我々には中々分からないのである。