明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 22

396.『道草』番外編(2)――田岡嶺雲


 論者は先の項(本ブログ道草篇3~5)で漱石の年表を作成したが、その中に田岡嶺雲の名を何箇所か書き込んだ。漱石が『猫』で世に出てすぐに、田岡嶺雲が『作家ならざる二小説家』という短文を書いた事実を、ことさらに言いたいがためである。ここで改めてその前後の漱石著作年表を掲げてみよう。ただし議論の性格上、作品は(執筆月でなく)発表月に変えてある。

《明治38年――雑誌発表ベースでの著作年表》
1月 『猫』(ホトトギス)・『倫敦塔』(帝国文学)
2月 『猫(2)』(ホトトギス)・『カーライル博物館』(学燈)
4月 『猫(3)』(ホトトギス)・『幻影の盾』(ホトトギス
5月 田岡嶺雲『作家ならざる二小説家』(天鼓)
6月 『猫(4)』(ホトトギス)・『琴の空音』(七人)
7月 『猫(5)』(ホトトギス
9月 『一夜』(中央公論
10月 『猫(6)』(ホトトギス
11月 『薤露行』(中央公論

 これより先の明治30年3月、既に漱石は評論『トリストラムシャンデー』を田岡嶺雲らが創刊した「江湖文学」に発表している。(嶺雲はその前年6月に津山へ行っているから、原稿依頼は笹川臨風か誰かによってなされたのであろうか。)原作者(スターン)も評者(漱石)も、変人度合いでは互いに負けていないが、漱石の感想文がこの奇書の紹介の、本邦における皮切りであった事実は記憶されてよい。
 Laurence Sterne " The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman " は『猫』との共通点を云々されることがあるが、漱石は最初山会のために名前のない猫を主人公とした写生文を書いたときには、スターンのことはこれっぽっちも思い出さなかったであろう。ところが回を重ねるにつれてだんだん収拾がつかなくなって行き、最終回の寒月のヴァイオリン事件など、(「トリストラムシャンディ」みたいになって構わないと言わんばかりに)半ば開き直っているようにさえ見える。

 田岡嶺雲は明治3年生れ、土佐の人。坂本龍馬中岡慎太郎亡き後の板垣退助中江兆民を親とし、幸徳秋水を兄弟として、とはいえあくまで自主独立を通して土佐っぽうらしい反骨の生涯を送った。漱石と同じく漢文にも欧文にも堪能で、またこれも漱石同様、生涯病気と縁の切れない人でもあった。江湖での言論活動では一葉と鏡花を早くから評価して文芸への造詣も伺わせるが、本質は思想家ジャーナリストであろう。その後津山中学へ赴任するところは、まるで漱石を思わせる。『坊っちゃん』か『野分』の白井道也と言ってもいい。道也先生は「江湖雑誌」の編輯をして糊口を凌いでいると書かれるが、田岡嶺雲らの「江湖文学」を念頭に置いたものか、それとも一般的な用語としての命名なのか。女性問題で津山中学を去った後は新聞記者・編輯者として東京・水戸・支那を巡り、岡山にもしばらくいたことがある。そのとき知事の不正を糾弾した廉により獄に繋がれた経験を有つ(公務員侮辱罪)。漱石が晩い文壇デビュゥを果たしたときは、幸いにも東京で堂々たる「天鼓」を主宰していた。
 雄大で峻烈な言論は現代から見ても充分過激であるが、惜しむらくは明治大帝御大葬の頃に亡くなってしまった(大正元年9月43歳にて病没)。まさに明治とともに生きた士と言えよう。没後追悼のため、あるいは遺子のために上梓された文集に、漱石も『夢十夜』を提供している。漱石との縁は深いものではないが、幸徳秋水が拘引された時の湯河原の天野屋旅館に、田岡嶺雲がたまたま同宿していた偶然には驚かされる。もちろん天野屋は漱石終焉の地ではないが、絶筆『明暗』において津田が占めた(地を踏んだ)最終ポイントには違いない。津田と清子の遭遇した旅館に墓碑銘を篆刻する書家が同宿していたのは何の象徴であろうか。
 つむじ風のように漱石の視界から消え去った田岡嶺雲は、まるで漱石が松山中学で(坊っちゃんみたいに)暴力事件を起こしてその後の官途を棒に振ったような、斎藤緑雨がもう10歳生き延びたような、あるいは『野分』の白井道也がさらに高柳周作の病身を背負い込んだような、どの局面を切り取っても漱石読者の心を熱くさせるような重い人生であったと言える。

 文芸評論は嶺雲の本業ではないが、ここに全文引用する『作家ならざる二小説家』だけ見ても、漱石の才能を過たずに穿つ、その並々ならぬ洞察力が偲ばれよう。

田岡嶺雲『作家ならざる二小説家』

 今日の作家概ね皆其想枯れ、其筆荒びて、文壇寂寞を極むるの時に際り、二個の客星の突如として天の一方に現れ、煌々として異彩を放つ者あり、此二人者共に小説家を以て自ら任ずるものに非ず、又小説家を以て其職業とするものに非ずして、而して其作る所、則ち意深く語永く、光焔あり活趣あり、他の群小説家を推倒して、今の浅俗浮靡なる所謂写実小説以外に一新生面を拓けり、二人者共に其作物未だ多からずと雖ども、想うに共に當さに来るべき文壇の新傾向を指導する先達たらん歟、此二人者を誰とかなす、曰く夏目漱石氏、曰く木下尚江氏。
 夏目漱石氏は英文科出身の文学士にして、一たび英国に遊学し、帰来教鞭を大学に執る、①氏未だ彼の世俗の誇たるべき博士の栄号を戴かずと雖ども、氏が英文学に精通せること、既に定評あり、但氏が作家としての文名は、其のホトトギスに『吾輩は猫である』の一文を掲げしより頓(とみ)に揚がり、次で帝国文学に掲げられたる『倫敦塔』、ホトトギスに掲げられたる『幻影の盾』によりて氏が作家としての実力は愈々世の認むる所となれり、但氏が此才あるを以てして、②今に至る迄顕わるるなかりしは寧ろ怪しむべしと雖ども、是れ畢竟するに氏が此を以て他の如く名利を釣らず、又虚名を売ることを敢てせざりしが為めにして、氏が人物の仰ぐべき所亦此に存する也、氏の筆致は一種俳文的の寯味(しゅんみ)を有し、之に加うるに欧文的精緻を以てして、而して氏が為人(ひととなり)を表現せる一種沈鬱なる想を遣れる者、吾人は其文によって氏が三様の才を見る、一は俳人としての氏也、一は英文学者としての氏也、③一は多病多恨の人としての氏也、而して其の④吾輩は猫である』は満腔の抑鬱を冷峭(れいしょう)なる風刺に寓(よ)せたるものにして、最も其俳的軽寯(けいしゅん) 簡錬の筆致を発揮せし者也、『倫敦塔』は処々に奇警なる俳的筆致を交えて而して最も其欧文的の精緻周密を以て優り、『幻影の盾』は固より其文の精緻を具うれども、寧ろ其沈痛幽渺の想に於て優れるものたり、今の小説家其写実の精細を以て誇るものは其行文多く冗漫に流れ、其神韻を尚ぶものは其落筆多く粗鬆に失するを免れざるに、⑤氏の文は則ち精緻にして而かも含蓄あり、幽渺にして而かも周匝(しゅうそう) なる所、蓋し氏が独壇の長処なり、殊に其幽渺窈冥の景象を描く処鏡花に似て、而して鏡花の妙は其着筆軼宕(てつとう)飄逸なるを以て勝れど、氏は其森厳深刻なるを以て勝る也。⑥唯氏に少(か)くる所ありとせば其較々(やや)雄渾博大の気魄に乏しきに有りと雖ども、其能く東西の文学を咀嚼し醇化して、一家の体を為せる、亦多しとせざる可らず。

 夏目氏の職業的小説家たらざるも猶文科出身として、俳人として、文学に因縁深きあるに似ず、木下尚江氏に至っては全く文学の門外漢なり、唯氏が新聞記者として操觚(そうこ)の事に従うという一事を除かば、全く文学の門外漢たり、氏は弁護士出身にして、今新聞記者たりというも、そは単に政治記者たりというに止り、其文学的経歴は実に『火の柱』を以て破天荒なりとなすべし、而して『火の柱』に次いで『良人の告白』の著あり、『火の柱』は其筆猶生硬を脱せず、其主張を説くこと露骨に過ぎたるものありて、小説としては穉気を帯びたるの観ありしも、『良人の告白』に至りては、其着想漸く円融の域に達し、其筆致亦渾熟し来り、其結構及人物の描写の上に多少の至らざる所あるを除いては、単に小説として見るも、亦上乗の作たるを失わず、氏の筆は明快なり、奔放なり、雄渾なり、熱烈なり、丈夫的也、跳騰淘湧也、従って夏目氏の穏健と、精鑿と、窈冥と、洒脱と、絲理秩然と無く、往々其筆の之く所に任せて一気呵成、整栗を欠くものありと雖ども、而かも全篇を通じて一道の霊火灼々として人を撲つものあり、譬えば夏目氏の文は深淵の如く其深きを以て勝り、木下氏の文は飛瀑の如く其勢いを以て勝る、夏目氏に於ては其学を見、木下氏に於ては其才を見る、⑦夏目氏の文は嘔心鏤膓(るちょう) 一字一句を忽(ゆるがせ)にせず、其細なるに巧を見る。木下氏の文は汗漫縦横細瑾を嫌わず、其放(ほしいまま)なる所に妙を見る。⑧夏目氏の文を読めば、悽(せい)、人の情に切に、木下氏の文を読めば、峻、人の魄を奪う、此くの如く二人者の長ずる所各同じからずと雖ども、然れども其脂粉の気を帯びず、浮華の調を帯びず、真摯人を動かすものあるは則ち一なり、今の如き余りに理想なく余りに素養なく、あまりに熱誠なき小説界に、篤学にして誠愨(せいかく)なること夏目氏の如く、多才にして峻峭(しゅんしょう)なること木下氏の如きを得たるは、我文壇の為めに之を祝せざる可らず。(明治38年5月「天鼓」)
(※語注:寯味=味わいがある 周匝=行き届いている 軼宕=優れて大きい 窈冥=奥が深い 絲理=口を出る論理 誠愨­=質実)

 明治38年5月、『猫』が「ホトトギス」の誌面に現れて僅かに数ヶ月、いくら評判になっていたとはいえ、『猫』は続篇まで発表されたに過ぎず(第1篇と第2篇)、短篇も『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』の3作のみであった。嶺雲は(当然ながら)それだけの材料で漱石の桁外れの資質と価値を過たずに穿ったのである。しかも嶺雲は当時食うや食わずの状況下にあり、決して余裕を持ってこの「遅れて来た中年」を迎えたわけではなかった。むしろ時代の閉塞感と闘いながら新しい潮流を模索していたのである。だからこその「発見」であったとも言えるが。
 そもそも笹川臨風や佐々醒雪たち嶺雲の仲間は皆緑雨の信奉者でもあり、同時に漱石の文学を正当に評価していたことでも共通している。漱石は弟子たちによって持ち上げられてビッグネームになったような印象もあるが、その前にある言論層の同時代人・同業者によっても深く理解されていたのである。

 漱石がそのキャリアのスタートから、博士でなかったことが広く知られていた(①)のはご愛敬であるが、紅葉や緑雨などの同期生が死に絶えたあとに小説を書き始めたことは、長く学堂の人であったというより、名を求めることをしなかったため(②)という指摘は、いきなり漱石を勇気づけたのではなかろうか。唯一の欠点が大風呂敷を広げないことだというのも(⑥)、充分漱石を喜ばせる物言いに違いない。悪評には耳を貸さないで通したように思われている漱石であるが、このような好意的な見方もされていたがゆえの「自信」だったのではないか。
 嶺雲はまた『猫』の始めの部分だけで早くも漱石の「多病」を見抜いている(③)。そして『猫』がその裏面に鬱屈したもの、苦しみ・悲しみを隠し持っていることを指摘する(④)。『猫』の描写が「精緻」「含蓄」「幽渺」「周匝」行き届いていると言っている(⑤)。「森厳」「深刻」「穏健」「精鑿」「窈冥」「洒脱」「絲理秩然」であると言う。いったい『猫』の第1篇と第2篇を読んだだけで、漱石が文章に細心の注意を払い、彫心鏤骨、一字一句をゆるがせにしないなどということが分かるものだろうか(⑦)。まさに嶺雲は漱石の最初期の文章のみから、それを感じ取っている。「悽」いたましいという感情を、読み手に正しく伝えることに成功しているとも言う(⑧)。漱石文学が誠実で倫理的であることにいち早く気付いているのである。普通の人ならせいぜい自由奔放なユーモア・江戸落語的飄逸くらいが頭に浮かぶ程度であろう。そしてこの嶺雲の評はその後の漱石の全業績に対しても、信じられないことであるが、そのまま通用するのである。偉いのは嶺雲か、はてまた漱石か。


漱石「最後の挨拶」道草篇 21

395.『道草』番外編(1)――『明暗』続篇


 前々項(道草篇19)で『明暗』続篇を取り上げたついでに、前著(『明暗』に向かって)の中にそれについて述べた章(最終章にあたる)があるので、それを紹介したい。(本ブログの書式・流れに合わせて一部改訂増補して引用する。)

『明暗』の結末に向かって

 津田が東京を発って1日経過した。その日(11月10日水曜)の午後、津田が不動滝へ行く山道を上り下りすることはすでに想定済みである。滝へ行くのに橋を2つ渡ることも、滝の入り口に関所のように構えている茶店のかみさんが葭町の元芸者であったことも、亭主が太鼓持ちらしいことも、この夫婦の滑稽な逸話の1つ2つさえ既に分かっている(漱石の日記・創作ノートによる)。
 津田が1人で(他の連中はもう何度も見ているのだから)、滝がもっとよく見えるように坂の階段を登って、もう一段高い場所から滝を見るであろうことも、現地を実際に見れば想像はつく。
 そのとき津田は患部に軽い違和感を覚えるのではないか。それでも安穏を感ずる津田はそのやや高い場所から清子を見下ろす。浜の夫婦はやや離れたところに佇んでいる。このとき清子が津田を「見上げる」かどうかは漱石でないと分からないが、おそらく清子は津田の姿を追ったりすることはしないのではないか。
 では津田は清子に所期の目的たる肝心の質問をどこでするのか。
 思うに津田は滝への往復の路で、清子に座敷で向き合っていては言えそうにないことを2つ3つ問いかけるのではないだろうか。(浜の夫婦の前では尚更言えない。浜の夫婦は実際の夫婦でない可能性が残る以上、彼らの前で男女の話は出来ないし彼らもしない。)
 当然ながら清子はその場では答えようもない。
 津田は宿に戻ったあと女中Cに右記の(茶店のかみさんの)噂話等を聞く。女中の前では太平楽を装う津田は、夕食前散歩仲間との鉢合わせを避けて下の方の温泉へ行く。事故はそこで起きる。成分の強い温泉へ浸かったため(と漱石は信じている)、手術跡が開いてしまうのだ。
 白い湯の花を紅く染める大量の血。しまったと思う暇もなく津田を襲う激しい痛み。津田を部屋へ担ぎ込むのは手代(番頭)か勝さんか。
 そして清子は(自分からは何もアクションを起こさないので)、東京から呼び戻されるまでは平然と(でもなかろうが)、動けない津田の傍に寄り添っているはずである。津田はお延に電話をかけたいところだが、動けないのでそれが出来ない。宿の者にかけさせるか、すぐ来いという電報を打つことは可能だが、漱石はなかなか腰が重いのでそんなことをしそうにない。それにお延が駆け付けたところで何の打開にもならないばかりでなく、清子がいてはどのような言い訳も通らないだろう。
 ありそうなのは清子に頼んで吉川夫人に電話してもらうことである。清子の報告を聞いた夫人はいよいよ自分の出番だと奮い立つ。夫人なりの策略に仕上げの時が近づいたということだ。

 清子は女として現実にのみ生きている。亡霊のように出現した津田には驚倒したが、実物の津田と会って事情が分かってみるともう津田と対面することは何でもない。津田の背後にいるお延を見ようとはしない。清子はお延に関心が無い。(漱石は清子をお延と対決させるつもりがない。)
 清子と病臥する津田との最後の会話は目に見えるようである。津田が求婚していたら、もちろん受けていたかも知れないが、実際にはしなかったのだからそれは言っても始まらない話である。清子は求婚した関に嫁しただけである。
 では今はどうか。清子は津田次第である。津田は今も何もしない。しないのは出血で動けないからか。では出血しなければ動いたのか。それは津田にもわからない。津田(漱石)には出血は恰好の言い訳になる。
 津田は痛みに耐えながら蒲団に寝て、清子と共にいることに不思議な安らぎを覚える。(この安らぎは次作の隠れたテーマとなるかも知れない。)ただお延が清子と顔を合わせることだけが心配である。
 小説の(叙述の)主体はこのあと津田からお延に最後の交代をするが、津田が平静にお延(と小林)を待つためには、清子の問題が片付いていなければならない。関からの電報が届くというのはいかにも便宜的に過ぎ、週の半ばでは関が迎えに来る可能性も低い。ここはやはり吉川夫人の役目であろう。つまり清子から津田が倒れたことを聞いた吉川夫人は、すぐにお延を津田の許へ発たせると約し、同時に清子に宿を引き揚げるよう指示するのではないか。
『明暗』湯河原の場はめでたく(もないが)幕を閉じ、津田も安心して退場できるというわけである。

 津田の(湯河原での)再登場はあるのだろうか。東京と湯河原、場所がかけ離れていることもあり、1週間前の「魔の水曜日」のようにまた津田の回とお延の回が錯綜するというのは考えにくい(漱石は一度で凝りている筈である)。物語の最後で温泉宿に到着したお延と津田が対面するシーンは大いに期待したいところではあるが、そうすると描写の主体が最後の最後でまた津田に帰ってしまう。『明暗』は「津田からお延へ」という流れが忠実に繰り返されているので、あくまでもこの夫婦は同じことをするのである。津田が湯河原で遭遇するトラブルとお延が東京で巻き込まれる最後のトラブルは「対になっている」はずである。
 つまりお延のトラブルとは、当然津田が倒れたことへの世間的な(吉川夫人にコントロールされるかも知れない)緊急対応であるから、そのお延が湯河原へ向かうとしても、小説の主体がまた臥せっているままの津田の方へ戻っていくことは考えにくい。『明暗』は津田に始まり津田に終わる物語ではない。何度も繰り返すが『明暗』は津田とお延の物語である。したがってこれが最後の主人公交代であると思いたい。

 ここまで、つまり津田の主人公の最後の回まで、中断から15回と想定する。15回というのは津田が宿で女中に清子の存在を確認してから中断までの分量である。滝の場景は前述の通りだが、その夕さり温泉場で倒れてからの津田の様子は、(6年前の)修善寺での漱石の体験が使われる。
 勿論症状は大きく異なる。津田は痛みと出血はあるものの漱石のように生死の淵をさまようわけではない。しかし精神的なショックはある意味では当時の漱石以上か。漱石の当時も持っていた諦念というものは若い津田にはまだない。
 吉川夫人の決裁は清子を通して津田と読者に伝えられる。清子は自分からは動かないが、人に命じられれば案外(漱石のように)尻は軽いのである。清子もまた湯河原を引き揚げるまでは津田と対照的な働きを見せるだろう。清子は旅館を去るとき、津田に滝で問いかけられたことに対する返答を与える。それは決して津田の腑には落ちないが、清子の言い方はきっぱりしている筈である。自然、津田は漱石のような(代助のような三四郎のような)グズ振りを際立たせる。それが却って自己の安心につながるというのが漱石的である。とまれ津田は見た目よりは平穏に、読者に対し「最後の挨拶」をするのである。

 大事なことを忘れていた。現行最後の『明暗』の設問、津田が一人で考えようとした清子の「微笑の意味」であるが、女の気持ちの分からない津田に明解な説明が出来る筈もなく、そこはまた漱石の出番である。
 津田はまず
①清子の謎かけと思うであろうか。
 迎えが来ないうちに要件を言ってしまえ、行動してしまえという謎と取るだろうか。少し危険なようでもある。憶病な津田にはとてもうけがうことの出来ない答えである。では
②清子の冷笑と思うであろうか。
 清子は津田の胆力のなさにはとっくに気付いてそして見離しているのであるから、もうこの時は半分馬鹿にしているのかも知れない。家から呼び出しが来ようが来まいがそんなことを気にする肝っ玉がお前にあるのか、ということであろう。反対に
③清子は津田に同情しているのか。
 内実はほとんど②に近いのであるが、清子はむしろ(姉さん的にあるいは吉川夫人みたいに)津田を護ろうとしているのかも知れない。それとも単に
④にこりともせずに返事をしたのでは角が立つから清子は所謂大人の対応をしただけなのか。

「貴女は何時頃迄お出です」
「予定なんか丸でないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
 津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
そりゃ何とも云えないわ
 清子は斯う云って微笑した。津田は其微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。(『明暗』188回小説末尾)

 関から電報が来ればすぐにでも帰らなければいけないと、(現状を正しく)喋っただけの清子に対し、半ば驚いた津田は諒解したと言う代わりに、あるいは黙って感心する代わりに、そんなものが来るのか、と別な問いを問い返した。(吉川夫人のいう)津田の悪い癖であるが、キャッチボールの返球が(意図しないのに)変化球になるのは漱石の癖でもある。返球しなくてもいいところを律儀に返球するところも漱石の癖である。
 それに対する清子の、何でもないような、それでいてよく考えられた正確な回答、「そりゃ何とも云えないわ」という応えは、むろん直接には(電報が)来るか来ないかは将来のことであるから、来てみないと分からないということを正直に述べたに過ぎないが、微笑の意味が、
①「謎かけ」
 
であれば、清子のこの言葉の真意は、自分の口からは言えないから察してほしい、あるいはもう一度別な言い方で問い直せ、と解されるだろう。
②「冷笑」
 
であれば、清子はこれ以上この件に関しては答えたくないのである。
③「同情」
 
であれば清子の津田に対する愛情は僅かにせよ維持されているかも知れない。清子はこの後も母親のような態度で津田に接するだろうか。
④「愛想笑い」
 
であれば、もう津田と清子は赤の他人である。過去のいきさつに対するこだわりさえ無い。

 漱石の読者はここで同じようなセリフを返したもう1人のヒロインを思い出す。

「男は厭になりさえすれば二郎さん見たいに何処へでも飛んで行けるけれども、女は左右は行きませんから。妾なんか丁度親の手で植付けられた鉢植のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かして呉れない以上、とても動けやしません。凝としている丈です。立枯になる迄凝としているより外に仕方がないんですもの」
 自分は気の毒そうに見える此訴えの裏面に、測るべからざる女性(にょしょう)の強さを電気のように感じた。そうして此強さが兄に対して何う働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした。
「兄さんは只機嫌が悪い丈なんでしょうね。外に何処も変った所はありませんか」
「左右ね。(そり)ゃ何とも云えないわ。人間だから何時何んな病気に罹らないとも限らないから」
 彼女はやがて帯の間から小さい女持の時計を出してそれを眺めた。室が静かなので其蓋を締める音が意外に強く耳に鳴った。恰も穏かな皮膚の面に鋭い針の先が触れたようであった。
「もう帰りましょう。――二郎さん御迷惑でしたろう斯んな厭な話を聞かせて。妾今迄誰にもした事はないのよ、斯んな事。今日自分の宅へ行ってさえ黙ってる位ですもの」
 上り口に待っていた車夫の提灯には彼女の里方の定紋が付いていた。(『行人/塵労』第4回末尾)

 この「そりゃ何とも云えないわ」というお直の返答自体は、お直の(漱石の)律儀さ・誠実さの表出に過ぎないだろうが、もしかしたら清子の微笑もまた、その顕現であると漱石は言いたかったのかも知れない。つまり漱石の正解は、
⑤「誠実」
 
ということだったのか。

 津田は(実直な二郎同様)清子の微笑の意味は解らない。心配性の津田は一応自分は馬鹿にされたのではないかと疑ってはみるであろう。それくらいの世間知はある。そしてその中に吉川夫人の策謀の影さえ感じ取るかも知れない。それは結果として津田の回の終わるまで引き摺られることになるだろう。津田は平穏に退場するが、清子(と吉川夫人)に笑われたのではないかという思いはひとすじ残るのである。

 * * *

『明暗』完結篇の津田の回(全15回、四百字詰原稿紙1回6枚として90枚を想定)は、ある程度は誰でも書ける内容かも知れない。地元の医師と看護婦も胃腸病院や修善寺のときの日記を使えばよい。墓碑銘を書く老書家も山だけ眺めて暮す男も、軽便の客同様一度紹介されただけで、津田の眼を通してはもう語られることのないキャラクタなのかも知れない。下女の特定が欠かせないとも書いたが、それもまあ枝葉の話であろう。
 しかし続く(東京での)お延の回は難物である。お延への交代はどのように書かれるであろうか。
 これまでのように「自然」で目立たぬように行われるのであろうか。それともはっきり(開き直ったように)別な話として書き始められるのであろうか。
 お延はどのように再登場するか。ずいぶん久しぶりの登場である。津田の入院中に延々と続いた小林、お秀、津田とのやりとり。おかげでお延は苦しみ泣きもしたが立命も得た。勁くもなった。お延の不安は、いったんその役割を終えてしまったかのようである。
 おまけに津田が東京を発ってすでに1日経過している。『明暗』ではこれまでカレンダを遡る書き方はなされていないので(遡ってもせいぜい数時間である)、お延の回になったからといって、津田を送り出した当日とその翌日津田が倒れた日のお延の姿は、リアルタイムには書かれないだろう。津田と別れたお延は(得心もして)、さしあたっては自分から行動を起こす必要が無い。お延が動き出すのは、さらにその次の日(11月11日木曜)、吉川夫人の手によって起動ボタンが押されてからである(と想像する)。

 それはお延を主人公とした最後の物語として、ある程度まとまった一つの短編として、再びそれまでとは断層のある書き方をされるのではないか。というのは前に述べたように『明暗』は津田の道行きでそれまでの物語と大きく断絶しているからである。
 お延の回になってまた元に戻るのではなく、新しいお延が、一皮むけたような、あるいは病み上がりの人のような描き方をされて、あたかも新しい舞台に上るような形で登場するのではないか。思い切った省略がなされるのではないか。
 ずばりお延の再登場シーンは内幸町の吉川邸へ向かう俥の上であると推測する。お延を呼び出す手紙が車夫によって届けられたのである。
 その日、吉川邸でお延と吉川夫人の最後の対決がなされる。お延は相変わらず吉川夫人の掌で踊らされているようにも見えるが、またある程度の得心を持って津田を救う喜びを味わうはずである。(それはちょうど美禰子が三四郎の面倒を見るときの満足感に似ている。)
 吉川夫人は清子についてはことさらには語らない。呼び戻す手筈が付いている以上、そしてお延の半分疑っている状態がちょうどよいと思っている以上、お秀にはしゃべってもお延に余計なことを言う必要がない。夫人はむしろお延がどこまで知っているかの探求の方に力を注ぐであろう。そして夫人が清子のことをどの程度お延に仄めかすかは漱石の最後の技巧の見せ場であろう。残念ながら余人にその力はたぶんない。
 小林たちが同行することは夫人には好都合だろう。本来なら温泉行きを企画した夫人サイドで面倒を見てもおかしくないからである。吉川夫人は妻の愛情が夫の痔疾に何の役にも立たないという興醒めの事実を殊更にお延に吹き込むことにより、お延を少しずつ普通の主婦に近づけようとたくらむ。お延はもうそんな手には乗らないのであるが、夫人は気付きようもない。ただ覚心しかたのように温泉地に向かおうとするお延を見て、自分のやり方は間違っていなかったと夫人らしい自讃をする。

 小林はどこで津田のことを知るか。地中の芋を信じれば、小林は原の絵を売り込みに吉川へ行ってそこでお延と出くわすということもあるかも知れない。小林が岡本へ行くという可能性も、本人がそう言っている以上否定は出来ない。しかしより自然な流れとしては、お延から藤井への連絡であろう。津田の勤務先である吉川からもたらされた情報であれば、次に行くのは津田の実家たる藤井であるのが自然である。京都の本当の津田の実家は、当然吉川と通じているのであるから、お秀同様この続編では触れなくてよい。
 藤井で津田の急を聞いた小林はその日の午後お延の家を訪れる。お延が小林(と原)の同伴を依頼するシーンが次のハイライトである。おそらくそれは小林からの申し出という形で描かれるのではないか。漱石は寝台に括り付けられて帰京したが、津田は両脇を抱えられての帰還兵というところだろう。
 湯河原の回が終わっている以上、そのシーンは直接書かれることはないが、想像を逞しくすることは出来る。誰かの口から間接的に語られる、あるいはスケッチ画に描かれる(描くとしたら原以外にいないが)、そして「手紙」が登場する可能性も、(またかと言う勿れ)大いにありうるのである。
 津田はもしかしたら戸板に載せられて自室を出るかも知れない。その際の担ぎ手は小林・原・手代(番頭)・勝さんの四人であろう。黙って見送るのは同宿の二人の男客だろうか。浜の夫婦は清子と前後して引き揚げている。書家の書いた故人の顕彰文が戸板と対照をなす。何もしない方の男も、寝たままで何も出来ない津田に比べるとまだ活きた人間に見えるという皮肉。
 先に津田が女中から聞くという形で読者に披露された相客の様子が、最後にお延の眼を通して書かれる。エピローグとしてお延が(吉川夫人に宛てて)手紙を書くとすれば、津田の真の退場シーンが明らかになるかも知れない。お延は(吉川夫人の手前)ことさらに津田が動けないことを強調するだろう。(漱石はここで、『虞美人草』や『心』のような破局を期待していた読者に対しても、一定の満足感を与えることになる。)

 いずれにしても津田は漱石と違ってしがないサラリーマンであるから、お延と二人でもう一週間湯治というわけにはいかないのであるから、そしてお延の肩に摑まって歩ける程度の傷でないことは漱石は経験上知っているのであるから、この団体旅行はいくら散文的でも仕方がない。むしろお延は前述した新しい喜びに襲われて小林への嫌悪感を棚上げするのではないか。これがお延の予言した「蛮勇」であろうか。愛情ではない。一種の征服感のようなものがお延を支配して、お延を小林と(津田とも)対等な立場に置かしめるのではないか。お延はどちらかといえば堂々と出発するはずである。
 金の工面はどうしたか。吉川夫人を再度わずらわせるのはお延の本意でない。小林は津田の餞別があると言うだろう。しかしお延はもう誰の情けも受けない。お時に言って指輪を質入れして小林と原の1泊2日の湯河原往復費用に充てることにする。津田にさらに貸を作るのであるが、もう妻としてそんな意識はない。吉川夫人の目論見は結果として少しだけ達成されたのである。

 そして翌る日11月12日金曜、お延は津田と同じ道のりで湯河原を目指す。どこでこの物語が閉じられるかは何とも言えないが、最後にお延の一行と上京する清子がすれ違うところで終るような気がする。
 とすればその場所は東京と湯河原から同じ時間を消費する地点、軽便の鉄路でなく東海道線の上でもなく、それは乗換駅たる国府津の駅頭か小田原(早川口)ででもあろうか。面と向かってすれ違うわけにはいかない。小林と清子は顔を見知っているからである。
 そして叙述はあくまでお延の眼を通してのみなされる。多くいない乗換の人の中に、遠く庇に結った自分と同じような(当時の)山の手の若い婦人を見たお延は、何事かを思いそして小林に何か話しかける。お延の脳裏に清子という名前が一瞬でも浮かぶか否は、遡るが吉川夫人のリークの仕方に係わってくるのでそれ次第である。お延はもう清子のことは卒業したとも思われるが、或る書き方を漱石に期待するのであれば、読者としてはお延と清子は細い糸で最後まで繋がっていてほしいという気もする。
 清子の姿を認めた小林はお延の仕草を確認したのち黙ってそれをやり過ごす。お延には金持ちを皮肉るような言葉を返すだけである。一人でこんな時間にこんな所で、うらやましい身分といえるのか、どこかやましいことがあるのか。小林は一瞬勝ち誇ったような錯覚に襲われるが、またお延の(清子から自由になっている)態度からそうでないと思い直しもする、かも知れない。
 小林の叙述は半分お延の立場(視線)でなされるから、このくだりはなかなか読ませるところであろう。清子はもとより気付かないまま退場する。清子の髪は津田に会う朝庇に結ったのであるが、それは津田のためでなく、お延の目にとまるためであった、と漱石は言いたかったようである。
 最後に、お延の描写から一瞬脱け出したように清子の方へ叙述が移る、例の幽体離脱(油蝉)の「超絶技巧」がここでも見ることが出来るだろうか。

 ここまで、お延の最後の回を35回と想定する。四百字詰原稿紙1回6枚として210枚。『坊っちゃん』と同じくらいの長さである。前述のようにこれは先生の遺書とも同じである。
 ちなみに現存して上梓もされている『坊っちゃん』の原稿は松屋製(24字×24行)149枚で、先生の遺書は「縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿様のものであった。そうして封じる便宜のために、四つ折に畳まれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読み易いように平たくした」(『心/両親と私』17回)とあるから、まず『心』の「私」は先生の遺書なる分厚い原稿を二つ折りに伸ばし直し、それを着物の袂に突っ込んで家を飛び出したのであろう。『明暗』完結篇のお延の回も、書かれれば(その風袋は)こんな感じになるに違いない。

(『明暗』の結末に向かって 引用畢)

漱石「最後の挨拶」道草篇 20

394.『道草』先行作品(9)――『硝子戸の中


・第4集『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

 前作『思い出す事など』から丸4年。作物のなかった「死の明治44年」から4年経過した大正4年、漱石4冊目の随想集はまた、最後の随想集ともなった。毎年繰り返す大病とカムバックに、何か思うところがあったのだろうか。『満韓ところどころ』『思い出す事など』は書いた目的が限定的ではっきりしていた。『硝子戸の中』は何のために書かれたか。何が残された時間の少ない漱石に、こんな「閑文字」を書かせたのか。同じ年に『道草』が書かれたことだけは動かしようのない事実であるが。

1回「硝子戸の内」 多事の世の中に敢て閑文字を並べる覚悟~夏に書く小説の前に春(正月)に何か書いてみる
2回「笑う男」 御約束では御座いますが少しどうか笑って頂けますまいか~人前で笑いたくもないのにしばしば笑ってみせた経験~その讐い
3回「ヘクトー1」 宝生新から貰った仔犬~1週間名前を付けなかったので子供が名を呼べない~ギリシア神話の勇将の名前を付ける
4回「ヘクトー2」 乱暴者で弱虫のヘクトー~自分が大病(『心』脱稿後の病臥)をした間にヘクトーは家族にも自分にも馴れなくなったようだ
5回「ヘクトー3」 やがてヘクトーも病気になった~猫の墓の隣に建てた墓標「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」
6回「吉永秀1」 未知の読者の身の上話~白粉を付けない女の頬がほてって赤くなった
7回「吉永秀2」 悲痛を極める女の身の上話~そんなら死なずに生きて居らっしゃい
8回「吉永秀3」 死は生より楽なもの~死は生よりも尊い~だからこそ生へ執着し生を苦しむ
9回「太田達人1」 万事に鷹揚な彼は一度も激したことがない~風もないのに落ちる葉を見て突然悟りを闢く
10回「太田達人2」 「いやに澄ましているな」「うん」~「人間も樺太迄行けば、もう行く先はなかろうな」~「あの栗饅頭を取って来たのか」「そうかも知れない」~「なにチャブドーだ」
11回「女の人の原稿」 これは社交ではありません~小説を書くとは思い切って正直になること~指導する方も正直に自分をさらけ出す~怒ってはいけない
12回「岩崎某1」 茶の缶~富士登山の画
13回「岩崎某2」 拝啓失敬申し候へども~短冊の要求と嫌がらせの手紙
14回「幕末の盗賊」 兄が最近鏡子に語った異母姉佐和の思い出話~紙入の50両を軍用金に盗られる~此家(うち)は大変締りの好い宅(うち)
15回「薄謝」 学習院の講演の謝礼に10円貰った~学生から金を受領したくない~この金は報酬かそれとも感謝の表意か
16回「床屋の亭主1」 高田は2週間前に死んだ~求友亭の横町の2階のある家から肴町行願寺の寺内へ引っ越した~家の真向いにたった1軒あった東屋という芸者置屋
17回「床屋の亭主2」 芸者咲松「またトランプをしましょう」「僕は銭がないから嫌だ」「好いわ私が持ってるから」~御作は23歳のときウラジオストクで死んだ
18回「片付かない女」 頭の中がきちんと片付かない~でも心の中心には確固たる不変のものあるはず~その2つの折合いがつかない~変わるもの即ち変わらないものである~頭と心は1つのものである
19回「馬場下の旧宅1」 堀部安兵衛の桝酒~小倉屋の御北さんの長唄~やっちゃ場の仙太郎さん~西閑寺の寂しい鉦の音
20回「馬場下の旧宅2」 近所に1軒あった小さな寄席~母から小遣いを貰って南麟を聞きに行く~矢来の坂を上って寺町へ出る昼でも薄暗い1本道
21回「馬場下の旧宅3」 姉たちの芝居見物~馬場下から浅草まで1日がかりの大旅行~玄関様
22回「病気と死」 死ぬまでは誰もが生きている~人が死ぬのは当り前だが自分が死ぬとは考えられない~弱い自分が生き残っている不思議
23回「早稲田田圃 喜久井町と夏目坂~早く崩れてしまえばいいと願った生家もいつしか取り壊された
24回「年始の客」 置屋にいた友人の話~約束を交わした女が旦那2人の見受け話の中で自死してしまった
25回「大塚楠緒さん」 雨中のすれ違い~夫婦喧嘩をしているとき訪ねて来たことがある~胃腸病院にいる頃訃報に接した
26回「益さん」 郵便脚夫の益さんと兄たち~ペロリの奥さんの「貴方よろしい有難う」~野中の一本杉
27回「芸術論争」 元旦の酔客~芝居嫌いは騙されて泣くのが癪に障るから~芸術は平等観から出立するのではない
28回「3代目の黒猫」 夏目家の猫は3代とも薄幸~病気と平癒を繰り返す自分と猫~おや癒るのかしら
29回「里子と養子」 父からは苛酷に取扱われた~しかしなぜか浅草から牛込へ移されたときは嬉しくてはしゃぎまわった~真実を耳打ちしてくれた下女の「親切」
30回「継続中」 「どうかこうか生きている」を「病気は継続中」に改めた~無知ゆえの「継続」なら、すべての人は何事も継続中のまま死を迎えるのであろう
31回「喜いちゃん1」 喜いちゃんは漢学好きの小学校時代の友達~自筆本『南畝莠言』を25銭で買う
32回「喜いちゃん2」 稀覯本25銭の責任は売り主にあるか買い主にあるか~本を返して25銭は受け取らない
33回「直覚」 悪人も善人もいる世間の中で自分が正しく生きる途はあるか~自分が正しい応対をしていることが分かったなら、神の前にひざまづいてもよい
34回「講演」 蔵前工業の講演(大正3年1月)が分からないと言われた~それで同じ年の学習院での講演では、疑問点があるときは私宅へ来てくれと言った
35回「伊勢本」 子供のころ通った日本橋伊勢本(寄席)の思い出~田辺南龍「すととこ、のんのん、ずいずい」~先年新富座の美音会で当時前座だった琴凌(4代目宝井馬琴)を見て、昔とまったく変わらない顔と芸に驚いた
36回「長兄大助」 開成学校時代上級生から貰った艶書~終始堅苦しく構えていたがそのうち柔らかくなった~役者の声色と藤八拳~「兄さんは死ぬ迄奥さんを御持ちになりゃしますまいね」
37回「母千枝1」 「母は私の十三、四の時に死んだのだけれども」~大きな老眼鏡を掛けた御婆さん~「母はそれを掛けた儘、すこし顎を襟元へ引き付けながら、私を凝と見る事が屡あったが」~母の里は四谷大番町の質屋で永く御殿奉公していた
38回「母千枝2」 「御っ母さんは何も云わないけれども、何処かに怖いところがある」~「母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかった。そうして父よりは賢こそうに誰の目にも見えた」~白日夢「心配しないで好いよ。御っ母さんがいくらでも御金を出して上げるから」
39回「硝子戸の外」 今日は日曜で子供がいる~「そんなに焚火に当ると顔が真黒になるよ」「いやあだ」~私の書いたものは懺悔ではない~私の罪は私を超えて、天上から微笑しているようである~雲の上から愚かな私を見下ろして微笑んでいるようである

 * * *

 物語は硝子戸の内の文机で始まり(苦沙弥先生のように)、硝子戸の外の陽当りの良い縁側で終わる(宗助のように)。エセイ集らしく最近の出来事も述べられているが、心情は(『猫』から『門』に至る)文豪漱石の前半の作家人生に寄り添っているかのようである。すでに漱石の心は『道草』にあったのか。

Ⅰ 依怙贔屓
硝子戸の中』が『道草』と異なる最大の点は、家族について好い思い出のみを書いていることだろうか。母・長兄・長姉。この3人組が『道草』に登場することはない。『道草』に書かれるのは別の3人である(父・三兄・次姉)。
硝子戸の中』は好い事のみを思い出しているわけではないが、この調子で嫂登世が書かれたならと誰しも思う。しかし嫂は漱石の家族ではない。『道草』で僅かに触れられた1、2行を除いて、登世のことが漱石作品に露出することは遂になかった。話は逸れるが、『行人』で自分の妻が気に入らない一郎と、そのお直に惹かれる(ようにも見える)二郎を登場させたとき、漱石は三兄直矩に(あるいは読者に)、登世と自分のことを連想させるとは露ほども思わなかったに違いない。なぜなら登世のことを書いたのは子規への手紙1回こっきりであり、そのことは漱石も忘れていたであろうし、覚えていたとしても、まさかその自分の手紙が後世に公になるとは、(子規が手紙を捨てずに保存していたとは、)想像すらしていなかっただろう。
 好い思い出ということでは、芸者咲松・太田達人・大塚楠緒子もまた、『硝子戸の中』の好感トリオである。この調子で米山保三郎を、井上眼科の女をと思わざるを得ないが、天然居士については(談話を除けば)『猫』で曖昧に紹介されたに過ぎず、眼科の少女もまた、それが書かれているのは(登世と同じく)子規への書簡だけである。

Ⅱ 小さな謎
硝子戸の中』最大の謎は、何度も書くようにやはり、「母は私の十三四の時に死んだのだけれども」という第37回の記述であろうか。母千枝は漱石15の春に亡くなっている漱石がサバを読んだとはとても考えられないが、「母が死んで6年目の4月に中学を卒業した」という『坊っちゃん』の記述を信じれば、坊っちゃんもまた(『硝子戸の中』の「私」同様)14歳の春に母を亡くしている。――6年目、20歳の春に中学を卒業した。20歳で高等学校へ入学して23歳で卒業、帝大入学。これは漱石のすべての主人公に共通する履歴である。
 年齢といえば、4歳から「物心のつく」8~9歳まで浅草の養家にいたというが(第29回)、それでは漱石は(三つ子の魂百までといわれる)3歳の時まで牛込の自分の家にいたのか。赤ん坊は生れて満1年でよちよち歩きを始める。満2年は可愛い盛りである。漱石はこのとき既に塩原夫婦に「溺愛」されていたのではないか。だがこれは乳母等の第三者の証言がない限り、論じても栓のないことであろう。しかし3歳(満2歳)ならば、ぎりぎり本人の記憶には残っているのではないか。自分の原初の記憶が生家にあったか塩原にあったか、少なくとも若い頃の漱石は覚えていたのではないか。
 その喜久井町の旧宅について、2階の古瓦が少し見えたという記述があるが(第23回)、これは蔵の瓦屋根のことだろうか。漱石が生家で2階に住まわったような形跡はないが、これもまたはっきりした証言が残っているわけではない。
 もう1つ、有名な「喜いちゃん」(第31・32回)は、『永日小品/柿』の女の子の喜いちゃんではない。『永日小品』の喜いちゃんは、引きこもりがちでお琴の稽古をする銀行勤めの家の女の子である。いたずらっ子の与吉に柿を投げた喜いちゃんは漱石の友達ではない。漱石の友達は蜀山人の写本を持ち出した漢学好きの、(『硝子戸の中』の)喜いちゃんの方である。

Ⅲ 死は生き通せない(承前)
 漱石の作品が常に心に沁みるのは、その底流に生と死に対する根源的な洞察が潜んでいるからであろう。前項までの『思い出す事など』は言わずもがな、『硝子戸の中』においても、それは随所に伺われる。

 不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうして其死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
死は生よりも尊とい
 斯ういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
 然し現在の私はいままのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、乃至千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事が出来ないので、私は依然として此生に執着しているのである。(『硝子戸の中』8回)

 死は人間の到達しうる最上至高の状態である。そしてその(死という)状態は、生よりは楽なものである。しかしながら私は解脱することが出来ないので、この生に執着するばかりである。――
 これは弱年時から漱石につきまとっていた「父母未生以前の面目」という「提唱」に対する漱石なりの解答であろう。死が生より楽なものならば、生き物は皆歓んで死ねばいいわけである。しかるに生に執着するというのは、解脱が出来ないということの証左である、と漱石は言う。では解脱とは何か。解脱を死と解すれば話は無限ループに陥る。解脱は死ではない。「死とは何か」を考えることである。これを考究することが唯一残された解脱への途であろう。

 或人が私に告げて、「他(ひと)の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事丈は到底(とても)考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々斃れるのを見ていながら、自分丈は死なないと思っていられますか」と聞いたら、其人は「居られますね。大方死ぬ迄は死なないと思ってるんでしょう」と答えた。(同22回)

「自分だけは死なない」「人間死ぬまでは生きている」
 これは一見寄席落語的軽口に似て(苦沙弥先生は「僕は死なない事に決心している」「いえ決して死なない誓って死なない」と宣言している――保険会社のセールスマンに対してだが)その実、生と死の狭間に横たわる深淵を言い当てているようにも見える。「人は死を経験しない」「我々の生はふちを欠いている」「今を生きる者は永遠に生きる」という香気の高いヴィトゲンシュタインの言葉に近いものがある。生と死。最も身近で大切な友にして、永遠に交わらぬ友。

 客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続中のものは恐らく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、――凡て是等の人の心の奥には、私の知らない、又自分達さえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果して何う思うだろう。彼等の記憶は其時最早彼等に向って何物をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔と又其昔の間に何等の因果を認める事の出来ない彼らは、そういう結果に陥った時、何と自分を解釈して見る気だろう。所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。唯どんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。(同30回)

 我々の生はただ「継続中」であるに過ぎない。生が継続中であるというだけの状態。それ以外は誰にも判らない。死は経験出来ない。死が何物であるかは誰にも判らない。自分にとって死がどういうもの(状態)であるか、それは所詮考えて判る話ではない。

Ⅳ 一番大切な事
 人を信じるべきか疑うべきか。その人は善人か悪人か。(『心』の先生が断じたように、)世の中には鋳型に入れたような悪人がいるわけではないのは慥かであろうが、多くの人にとってその見極めは悩みの種ではある。しかし善であれ悪であれ、所詮相手のことである。騙されるのは悔しいが、相手が悪かったと思うしかない。(金銭的な)実害でもない限り、それほど自分を責める話でもないだろう。ところが何でも自己に即して考えたがる漱石のような人にとっては、その判断の「誤まり」は直接自身の評価に結び付く。相手の正邪を判定し損なうことが自分の正邪に直結するので、(相手の前に)自分が許せない。

 もし世の中に全知全能の神があるならば、私は其神の前に跪ずいて、私に毫髪の疑を挟む余地もない程明らかな直覚を与えて、私を此苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、此不明な私の前に出て来る凡ての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私と其人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙されるか、或は疑い深くて人を容れる事が出来ないか、此両方だけしかない様な気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。(同33回)

 これではまるで『人間失格』の大庭葉蔵ではないか。いったいどんな大事件が出来(しゅったい)したのかと読者は驚くが、漱石が書いているのは世間に行われる普通の交際の話である。一般論である。これでは胃に孔があくのも仕方がない。
 漱石はあらゆる人の倫理観(正邪善悪)を見抜くべく、すべての小説を書いている。それが自分の小説は倫理的であるという自負につながる。あらゆる人の正邪善悪が見抜けないとすれば、漱石の「倫理」は音を立てて崩壊するというのである。

Ⅴ 『道草』への途
 後書きのような最終回で、漱石は珍しくこれまでの連載を総括するような筆致を見せる。

 私の冥想は何時迄坐っていても結晶しなかった。筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持もするし、彼(あれ)にしようか、是にしようかと迷い出すと、もう何を書いても詰らないのだという呑気な考も起ってきた。しばらく其所で佇ずんでいるうちに、今度は今迄書いた事が全く無意味のように思われ出した。何故あんなものを書いたのだろうという矛盾が私を嘲弄し始めた。有難い事に私の神経は静まっていた。此嘲弄の上に乗ってふわふわと高い冥想の領分に上って行くのが自分には大変な愉快になった。自分の馬鹿な性質を、雲の上から見下して笑いたくなった私は、自分で自分を軽蔑する気分に揺られながら、揺籃の中で眠る小供に過ぎない
 私は今迄他の事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、成る可く相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、却って比較的自由な空気の中に呼吸する事が出来た。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺く程の衒気がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずに仕舞った。・・・私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――頗る明るい側からばかり写されていただろう。其所にある人は一種の不快を感ずるかも知れない。然し私自身は今其不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今迄詰らない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、恰もそれが他人であったかの感を抱きつつ、矢張り微笑しているのである。(同39回)

 漱石はみずから描いた自画像を、(作品の出来栄えだけからの評価にせよ)佳しとしている。これはそれまでの漱石には見られなかったことである。いったいどうしたと言うのか。

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時迄も続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
 健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
 細君は斯う云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。(『道草』102回小説末尾)

 次作『道草』を読み終わった読者は、この『硝子戸の中』の最終回を思い出して、漱石が『道草』を結んだときの心情を忖度する。健三のセリフは(わざわざ)「苦々し」いとは書かれるものの、意外にも健三と赤い頬の赤ん坊には、作者の分け隔てない同情が注がれていたのである。試しに引用下線部が書かれなかったと仮定して読み直してみると、健三が(『硝子戸の中』の漱石のように)「微笑してい」てちっともおかしくないことが解かる。

漱石「最後の挨拶」道草篇 19

393.『道草』先行作品(8)――修善寺の大患


・第3集『思い出す事など』 (つづき)

Ⅰ 大吐血はなぜ起こったか
 直接の原因が漱石胃潰瘍にあることは言うまでもない。問題はなぜそれが暴発に至ったかである。

①塩原昌之助
 前述したように明治41年12月の伸六誕生が、翌る明治42年3月~11月の塩原昌之助百円縁切事件(所謂「道草」事件)につながり、明治43年夏漱石は昏倒する。もし漱石がそのまま帰って来なければ、その年の桃の節句に生れた雛子は、漱石の「忘れ形見」となるところであった。漱石はしぶとく生還し、生れて始めて病院で越年したが、その明治44年の末には雛子が身代わりのように亡くなってしまった。結果として伸六は(漱石と同じく)末子の男子になった。
 同じ年(明治44年)に起こった博士号問題・朝日退職問題・文芸欄問題などの鬱陶しい揉め事も、養父との絶縁の罰が当たったとは言わないが、その厄落しのためにも、『道草』はいつかは書かれなければならなかったのであろう。育てられた恩義に報いなかったのは誤りではない。漱石サイドにはそう主張する正しい(と自分が信じた)理由が存在した。『道草』はその申し開きのために書かれた小説とも言える。

②薬害もしくは医療過誤
 明治時代にはそういう発想はなかったかも知れないが、すでに足尾鉱毒事件も起きて久しい。漱石が人事不省に陥ったのは東京から医師団が到着した後の出来事である。
 薬が効きすぎるということがある。種痘から疱瘡を発症したのもその一例であろうか。漱石は酒が飲めない。酒を飲んでも苦しいだけで楽しくならないので、酒が薬にならない。例えば初恋の頓挫といった、誰にでもありそうな経験が、漱石のようなタイプの人にとっては、一生(妻以外の)女に近寄れないという「症状」を引き起こすことがある。自分では癇性・変人・潔癖と言い訳するかも知れないが、自然に順っているのではないことに薄々気付いている。
 空腹に耐えられる人とそうでない人がいる。漱石の大食いは有名だが、1日くらい絶食して割りと平気な人もいれば、(胃酸が強いのであろうか)非常に苦しむ人もある。シャロックホウムズは考え事に夢中になると食事することを忘れるようなイメジがあるが、実際には規則正しい英国紳士らしく、1食抜いただけで大騒ぎするようなところも見受けられる。読者は昼飯を食いそびれたホウムズがそのまま事件調査にかかって、夜遅く帰宅して(まるでこれ以上血糖値が下がると命が危ないと言わんばかりに)冷め切った皿のパイだかに突撃するシーンを思い出す。眠狂四郎は(少なくとも読者の前では)食事というものをまったくしない。まさか日本酒だけで生きているわけでもなかろうが、この稀有の武闘家は食うことにまるで関心がないかのようである。たった一撃で敵を斬り斃す膂力や、あの強靭な瞬発力・跳躍力を生む筋肉はどこから来るのだろう。戦中戦後の食糧難時代を過ごした作者の反語(皮肉・怒り)であろうか。

Ⅱ 『明暗』への道
 漱石のすべてのエセイが、自伝的作品たる『道草』を指し示しているように見えるのは理の当然としても、その中で彼岸の手前でとどまったことを書いた『思い出す事など』と、実際に行ってしまった漱石最後の作品たる『明暗』の間に、互いに結びつくものがあることもまた容易に想像されるであろう。すべての道は『明暗』に通じるとは言わないが、どちらも漱石がある究極を描いていると思われるからである。

③釣台に乗って旅館を出る
『明暗』続篇の話になるが、書かれなかった部分の設定としては、津田もまた漱石みたいに釣台に乗ったまま、旅館の我が部屋を出ることになるのではないか。温泉毒に当たって大出血した津田は、もう自分の力で歩く自由を持たない。下手に歩くとまた傷口が破裂する。階段の多い入り組んだ造りの旅館の廊下では、戸板に担がれる方が勝手である。
 そのための担ぎ手が勝さんと手代、加えて東京からわざわざそのためにやって来る小林と原であろう。お延ももちろん一緒である。鏡子が何度旅先で寝込んだ漱石の許へ駆け付けたか。
 皆で大騒ぎして津田を表玄関の庭へ出す。以下漱石の経験は少しアレンジされ、戸板の釣台は地べたから馬車に渡されて、津田は周りを支えられながら馬車の座席に半ば寝そべるように乗り移る。宿の人々と別れて湯河原の駅へ。馬車を降りたらそこから先は小林と原の肩を借りるしかない。軽便、小田原鉄道の電車、東海道線と乗り継ぐ「懺悔の鉄路」。一部の読者はここで小林が医師と同姓であったことに得心がいく。

 勿論これらのくどくどしい道行のさまがそのまま叙述されることはないだろう。漱石は主人公の旅を書くとき、往復とも描写するということはしない。「裁かれたる復路」は実際には「省かれたる復路」となって、小心な津田の「不安」としてのみ語られよう。
 その大団円たる哀れな旅路を読者に想像させながら、『明暗』の最後の物語は進行する。
 小説の流れとしては、温泉宿で動きの取れなくなった津田の回が終わったあと、お延が吉川夫人、小林とそれぞれ対決し、物語は津田の許へ向かうお延ら3人の変則的な道中で幕を閉じる。
 漱石はここでも最後まで書き切るということをしない。お延(と小林)が天野屋で津田と久しぶりに顔を合わせるシーンとそれから先の道のりは、現実の物語としては語らないのが江戸の粋であり、江戸っ子漱石の流儀である。

《『明暗』続篇概要》
・昼食後、連れ立って不動滝を見に行く。滝の前に佇む清子と浜の夫婦。滝がよりよく見える高台への坂道を独り上る津田。
茶店のかみさんは葭町の元芸者。太鼓持ちの亭主との滑稽な会話。津田と清子の会話も同じように嚙み合わない。対照の妙。
・夕刻、下の階の(効き目の強い)湯に浸かった津田は傷口が開いて悶絶する。
・倒れた津田に対し、清子は吉川夫人に援けを求める。(津田の回の終わり)
・お延は突然やって来た吉川夫人から津田のアクシデントを聞かされる。(お延の回の始まり)
・吉川夫人は(清子の名を出すわけにはいかないので)宿の番頭からの話としてお延に伝える。
・吉川夫人の帰ったあと一人悩むお延。温泉逗留をいつまでも続けるわけには行かない。
・しかし動けない津田を女の手だけで東京へ連れ戻せるものだろうか。
・津田には一刻も早く再手術を受けさせたい。お延は津田を迎えに行く決断をする。
・お延はそれを告げに吉川夫人の許を訪れるが、そこには小林と原が(画の商談に)来ていた。
・お延は吉川夫人と相談の上、小林たちに同行を依頼する。資金の手当てのことはすべて現行の『明暗』の中に書き込み済である。流石に3人分の1泊旅行には足りないので、お延は指輪を質入れする。これが吉川夫人の謂う「奥さんらしい奥さん」のことであろう。
・湯河原へ向かうお延・小林・原の凸凹トリオ。途中の乗換駅のどこか(早川口か国府津)で、上京する清子と遠くすれ違う。

 漱石作品の常套では、津田の湯河原行きの叙景が既になされている以上、お延たちの旅の様子は一切書かれないのが通則であるが、『明暗』ではお延は津田と同じことをする。それがまた『明暗』の長大化につながるのであるが、津田の許へ向かうお延の心情は、現行の『明暗』に書かれた車中の津田に匹敵する丁寧さで描かれよう。

④「嬉しい所なんか始めからないんですから」
 漱石修善寺で一度死んだ。貴重な体験ではある。そして図らずも回復して、大勢の人の世話になりながら蒲団に横たわる自分を見出した。ありがたいという感謝の念は当然ある。しかし心を揺さぶられるような思いは湧いて来なかった。三途の川の向こう岸も手前の景色も、垣間見ることすらなかった。臨死体験漱石には何の感慨も大悟も齎(もたら)さなかった。
 前述した「神」の話はひとまず措くとしても、諦念は漱石に始めから備わった特質であろう。生に執着がない。自分自身(の思想・行動・正邪・倫理観)に対する執着はとてつもなく強いが、それが却って自身の生に対する無頓着につながる。

「嬉しい所なんか始めからないんですから、仕方がありません」(『明暗』10回)

 津田はお延との新婚生活について、吉川夫人にこう釈明したが、これは自分の人生全般に対する漱石の述懐でもある。
 津田(漱石)は結婚しても、おそらく子供が生まれても、世間一般の男がするようには感動しない。単純に喜ばない。そのときだけ(例えば)神を祝福したりしない。クールという言い方があるが、自分自身のこと(自身の生き方・生きる上での問題)に関心が集中するので、他のことにかまっていられないのである。漱石は暖かい性格の持ち主であるとも言われるが、その話はまた別であろう。

Ⅲ 死は生き通せない
 何度も書くように、『思い出す事など』は彼岸からの帰還について綴った記録であるが、その中で漱石は、珍しく生と死について自分の意見を「哲学的に」開陳する。
 漱石の経験した「生と死」には狭間(境界)が無かった。生から死へは、移行しなかった。それはあたかもアキレスと亀の譬えのごとく、生はどこまでも果てしなく続いて、何物かに置き換わるということをしなかった。生は死によって、あるいは何かによって、断絶しなかった。

 強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。其間には一本の髪毛を挟む余地のない迄に、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。程経て妻から、左様じゃありません、あの時三十分許は死んで入らしったのですと聞いた折は全く驚いた。・・・余は眠から醒めたという自覚さえなかった。陰から陽に出たとも思わなかった。微かな羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂い、古い記憶の影、消える印象の名残――凡て人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽して漸く髣髴すべき霊妙な境界を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦しくなって枕の上の頭を右に傾むけ様とした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めた丈である。其間に入り込んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とは夫程果敢ないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃めいた生死二面の対照の、如何にも急劇で且没交渉なのに深く感じた。何う考えても此懸隔った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得出来なかった。よし同じ自分が咄嗟の際に二つの世界を横断したにせよ、其二つの世界が如何なる関係を有するがために、余をして忽ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然として自失せざるを得なかった。
 生死とは緩急、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束に使用される言葉である。よし輓近の心理学者の唱うる如く、此二つのものも亦普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにした所で、斯く掌を翻えすと一般に、唐突なる掛け離れた二象面が前後して我を擒にするならば、我は此掛け離れた二象面を、如何して同性質のものとして、其関係を迹付ける事が出来よう。(『思い出す事など』15回)

 大いなるものは小さいものを含んで、其小さいものに気が付いているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己等の寄り集って拵らえている全部に対しては風馬牛の如く無頓着であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、又結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識も亦より大いなる意識の中に含まれながら、しかも其存在を自覚せずに、孤立する如くに考えているのだろうとは、彼が此類推より下し来るスピリチズムに都合よき仮定である。
 仮定は人々の随意であり、又時にとって研究上必要の活力でもある。然しただ仮定だけでは、如何に臆病の結果幽霊を見ようとする、又迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずる事が出来ない。
 物理学者は分子の容積を計算して蚕の卵にも及ばぬ立方体に一千万を三乗した数が這入ると断言した。・・・想像を恣まにする権利を有する吾々も此一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
 形而下の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみ尤もと首肯く丈である。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云う迄もない。よし物理学者の分子に対する如き明暸な知識が、吾人の内面生活を照らす機会が来たにした所で、余の心は遂に余の心である。自分に経験の出来ない限り、如何な綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。果して時間と空間を超越した然し其超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事丈が明白な許りである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合出来よう。臆病にして且つ迷信強き余は、ただ此不可思議を他人に待つばかりである。(同17回)

 これはヴィトゲンシュタインの世界観を思わせるものである。本ブログ(道草篇9)でも『三四郎』広田先生の夢のシーンで、「世界の意味(が世界の外にあること)」について述べたことがあるが、(本ブログ坊っちゃん篇・野分篇でもさんざん引用してきた)『論理哲学論考』の一部を再度紹介することをお許しいただきたい。

6- 4311 私の死は、私の人生の1イベントではない。私は、私の死を経験しない。私の死は、私の経験するものの範囲を超えた、何物かである。(人は死を経験することが出来ない。)
 永遠を、終わりのない無限に続く時間の連続としてでなく、「非時間」と解するなら、今の瞬間を生きる「私」はまた、(瞬間という時間は認識し得ないのだから、)永遠の中に生きると言えるだろう。
 我々の視野に境界線がないように、我々の生もまた、奇妙なことに縁(ふち)を欠いている。

6-4312 人間の魂が死後も生き続けることを証明した者はいないが、たとえそんなことがあったとしてもそれが何の役に立つだろうか。私が永遠に生き続けたとして、それで謎が1つでも解けるか。その永遠の生なるものもまた、現在の私の生と同様、謎に満ちたものではないか。時間と空間の内にある生の謎を解くものは、時間と空間の外にある。(以上ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』より論者訳)

 漱石は死を経験したと言う。ヴィトゲンシュタインは人は死を経験できないと言う。両者は一見正反対のことを述べているようで、その意味するところは同じではなかろうか。生還した漱石は、結局死は経験できるようなシロモノではないと言っているに等しい。漱石が謎と考えたものとヴィトゲンシュタインの唱える謎は、2人が一致して結論を下したように、時間と空間の外でしか解けないのである。

Ⅳ 作風の変化
 もし漱石作品を前期と後期に分けることが許されるなら、その分岐点は『門』と『彼岸過迄』の間に位置する修善寺の大患であろう。こじつけるわけではないが、大患前の『門』までの諸作と『彼岸過迄』以降の作品の間には、いくつかの違いが感じられる。
 その最たるものは主人公に対する作者の「感情(同情)」であろうか。『猫』『坊っちゃん』『草枕』から『三四郎』『それから』『門』にかけて、漱石は時には冷笑を装いつつも、おおむね暖かい眼差しで主人公(たち)を見ている。漱石は常に、彼らにある感情を注いでいる。登場人物は年齢性別を問わず、あたかも漱石学校の生徒であるかのように描かれる。生徒であるから当然漱石は彼らのことをよく識っている。大事にもする。同時に評価(採点)もしなければいけない。
 それが『彼岸過迄』からは、人物は少しずつ(身内でない)外部の人間になっていくかのようである。冷たくなったと言ってもいい。漱石は人物に対して自分の感情を決める前に(同情する前に)、彼らに勝手に行動させる。主人公たちの行動が正しいか否か。それは問うことさえなされないまま、1つ1つの物語はどんどん進んで行く。漱石はもうかつてのようには彼ら1人1人にかかずらうことをしなくなった。主人公たちもまた、より露骨に自分の意思で行動し始める。漱石はこれを後から振り返って、「則天去私」と名付けた。
 この変化に原因があるとすれば、それはやはり修善寺臨死体験に行き着くのだろう。漱石は朝日に入社して、辞めたくて仕方なかった教師は辞めることが出来た。けれども人間が変わったわけでは無論ない。漱石はある意味では教師のように小説を書いてきたと言えるだろう。修善寺漱石は一度死んだ。このとき死んだのは教師としての漱石ではなかったか。
 死は尊いものであるが生はランダムな運命のいたずらに過ぎない。自分の垣間見た尊い、巨大なものに引き比べ、現実の人間の生の、いかにちっぽけで取るに足らないものであることか。漱石もそれに気付いて、主人公たちの「生」から徐々に手を引いていった。生きる価値を認めなくなったというのではない。そうではなく(教師のように)評価することを、やめたということである。
 先生のいなくなった生徒はいよいよ我が物顔に振舞い始める。『心』の「先生」の「振舞い(自裁)」はその極北であり、『道草』は自伝という看板につい見過ごされてしまうが、健三と御住の身勝手さは洗練を極め、その「身勝手さ」は『明暗』の津田とお延によって一旦完成を見る――筈であった。

漱石「最後の挨拶」道草篇 18

392.『道草』先行作品(7)――『思い出す事など』


 漱石旅行記に向かない作家である、と前の項(本ブログ道草篇16)で述べたが、(12月1月問題という)季節の連想でいえば、これは漱石の文学的出発点が俳句にあることと関係していよう。俳句は説明を嫌う。俳句は(本ブログ道草篇6でも引用した寺田寅彦へのレクチュアによると)扇の要(集注点)を書くものである。百何十度だかに開いた扇の扇たる部分は、読者に想像させる。想像させないまでも、その広がった部分はわざと書かない(詠まない)。
 それが漱石(に限らないが)の小説のリズムを生む。吾輩に名前が付かない理由を書かない。坊っちゃんの無鉄砲が父親譲りなのか母親譲りなのかを書かない。志賀直哉は俳句をやらないが、そのリズムは多とした。太宰治は弱年時俳句に凝っていたように、その文章の勢いは漱石につながるものである。太宰治が嫌ったのは漱石の江戸庶民らしいプチブル(俗物)性であろう。猫に名前があろうがなかろうが、自分が両親のどちらに似ていようが、一文の得にもならない。得にならないから書かない。太宰治は(田舎者らしく)例えばそれは書かなくてはいけないと思うクチである。志賀直哉はまたその反撥心を(太宰の稚さゆえの)甘えと受け取った。三者三様。だが目指す処は一致している。3人(に限らないが)とも「正確な文章」のために生涯を賭している。

 ところで志賀直哉の手紙は(小説と比べて)読んで面白いものではないが、漱石太宰治の手紙は(小説同様)大変面白い。
 思うに漱石は『満韓ところどころ』を、『心』の先生の手紙(遺書)とまでは言わないにせよ、『彼岸過迄/松本の話』の市蔵の手紙や『行人/塵労』のHさんの手紙のように書けばよかったのではないか。
 太宰治の「手記」は『人間失格』にせよ『津軽』にせよ、独自の光彩を放っているが、漱石も手紙を書くつもりで書いた『先生の遺書』が、事実として頂点を究めているのである。
 とは言うものの、『満韓ところどころ』は小説ではないので、いくらボヤいても始まらないのであるが、結局これは、漱石には「神」がいなかったという話に収斂するのであろう。訴える相手がいない以上、架空の手紙を(太宰治みたいに)書き続けるわけには行かない。

 漱石もまた自分の神は自分自身とする1人である。すべての作家が自分自身を神としていると言ってしまえばミもフタもないが、漱石が後年則天去私などと言い出したのも、それが大前提になっているのであろう。
 自身が神であるような人とは如何なる人物であるか。それは譬えて謂えば、危機に瀕して何物にも縋らないということである。神がいないのだから神様にお願いしない。死に臨んでも割と平気である(ように見える)。
 現実に修善寺で仮死状態に陥ったときのことを書いた次回作『思い出す事など』にも、頼るものは畢竟痩せさらばえた自分しかないという気分が充満しているようである。

・第3集『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月

 全32回もしくは33回。『思い出す事など』本体の32回は約4ヶ月かかって書かれた。4日に1回というペースであるが、ベッド(畳に簀の子)に寝たままの状態で書いていたのだから、むしろこの困難に立ち向かった文豪の律儀さに驚かざるを得ない。
 第33回(「病院の春」)のみ独立して明治44年4月に書かれており、漱石の中では別物だったのかも知れないが、『思い出す事など』の最終章として扱われることが多いようである。この場合本作の執筆期間は延べて6ヶ月ということになり、これは『明暗』(大正5年5月~11月の6ヶ月間)と同じ長さになる。『思い出す事など』は死の淵から生還した話であるが、『明暗』の方は行って戻らぬ旅となった。

 余談になるが、『思い出す事など』第1回は、東京朝日・大阪朝日とも明治43年10月29日付朝刊に掲載された。ところが同じ日の日記に、

〇中根栄という名古屋の人「思い出す事など」を読んで長い手紙をくれる。

 という不思議な記述がある。(『漱石全集第20巻日記断片下』明治43年日記7D――10月29日より引用)
 漱石は明治43年8月から11月まで、前半は修善寺日記、後半は胃腸病院日記とでもいうべき、漱石にしては割と細かい日録を残しているが、上に引用した記述は後から書き足したふうにも見えず、謎としか言いようがない。

①10月29日読者は朝刊を読んですぐ手紙を書いた。10月30日手紙を受け取った漱石はそのとき29日の日録を書いていたので、それをそのまま書き加えた。
②手紙の主は朝日の関係者で、東京か大阪に出張した際にあらかじめ漱石の原稿かゲラを読み、色々思うことを手紙に書いて新聞掲載に合うように投函した。(初回の原稿は1週間前に森田草平宛郵送されている。)
③(読者の手紙の)対象となった作品名を、漱石が書き間違えた。例えば前作の「満韓ところどころ」であったのを、今取り掛かっている「思い出す事など」と書いてしまった。

 まあ①が無難であろうが、とくに衝撃的なことが書かれているわけでもない連作エセイの第1回目を読んだだけで、瞬時に「長い手紙」など書けるものでもなかろう。漱石の体調を心配して、あらかじめ書き溜めてあったファンレターのようなものだったのかも知れないが、それなら漱石が日記にわざわざ「名古屋の中根栄」と書き込むだろうか。胃腸病院宛に出されているらしいことも変則的であるし、漱石が返事を出した形跡がないことも併せて、よく分からない話ではある。まさか中根家(鏡子)の係累ではあるまい。
 ②を想像することも難しいが、いっそ③であれば、おかしなところは何もないことになる。最近出た単行本『四篇』(前年までの『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところどころ』を収録)を読んで、最後の『満韓ところどころ』には続きがあると思っていたが、そうでもないらしい、いったいどうしたわけか云々というような読者の手紙が、たまたまその日自宅から届けられた。それを一読した漱石は気にはなるものの、どうしようもない。何より臥せったままで起き上がることも出来ないのだから、弁明するどころか1年前の満洲旅行を思い出すことすら退儀である。俳句と漢詩で脳漿を鎮めながら、修善寺臨死体験をなぞる予定の『思い出す事など』で精一杯である。その思いからつい「思い出す事など」と書いてしまったのではないか。

 それは何とも結論のつく話ではないが、『永日小品』からの2年間で、早くも3冊目の随想集である。
 漱石は所謂修善寺の大患をはさんだ明治42年と43年、『永日小品』『満韓ところどころ』『思い出す事など』の3冊の随筆を集中的に書いた。あとは漱石の残りのキャリア6年間の中で、『道草』の前に『硝子戸の中』が書かれたのみである。
 この随筆years には何か理由があるのか。
 明治42年~43年といえば、『それから』と『門』が書かれた頃である。小説家としての漱石の地位は揺るぎないものとなり、朝日の文芸欄も創設された。家庭的には次男伸六が生れたあと、塩原との絶縁を経て五女雛子の誕生まで、このとき鏡子も既に明けて36歳、夏目家9人の家族構成はいったん完成を見たと言ってよい。世の中も伊藤博文暗殺、大逆事件から日韓併合に至る、漱石にとっては面白くも何ともない「明治日本の集大成」の時代であった。

 それにしてもこの時期、青春3部作に前後して3つの随想集。これに比して『彼岸過迄』以降の中期3部作では随筆のようなものは1つも書かれない。どちらが漱石の常態か。どちらかがイレギュラーなのだろうか。それともまた、これも天才らしい気紛れ、「則天去私」なのであろうか。
 前記のように『道草』には『硝子戸の中』、(未完の)『明暗』には(未完の)『点頭録』が付着していることを思えば、やはり中期3部作の「随筆なし」の方が変則なのであろう。体調の問題(『行人』の中断事件・『心』のあとのダウン)もあるが、「短篇形式」という中期3部作共通の制作方法が影響しているのかも知れない。あるいは漱石に似合わないことだが、(『心』の)『先生の遺書』に全精力を注ぎ込もうとしていたのか。

 いずれにせよ青春3部作最後の『門』と、次の3部作緒篇の『彼岸過迄』をつなぐもの、そして漱石の作家人生を二分(分断)する修善寺の大患を回想して書かれたものが、外形的には『思い出す事など』という作品であることは動かしようがない。そして前述したように唯一年末年始を跨いで執筆された随筆であるからには、単に死に損なった話にとどまらない何かが、きっと見つかると思いたい。

1回「釣台での帰京」 舟形の寝台のまま3ヶ月ぶりに胃腸病院に帰って来た~新しい畳~是公とステト2通の電報
2回「長与院長」 長与院長は亡くなっていた~森成医師に修善寺行を命じて逝ってしまった
3回「多元的宇宙」 ウィリアムジェイムズも亡くなっていた~病床で読み終えた「多元的宇宙」
4回「忘れるために書く」 原稿を書くのは忘れるため~池辺三山の叱声~退屈しのぎの執筆~退屈すると胃に酸が湧く
5回「病中佳句有」  病気をして世間を退くと心は俳句や漢詩に向かう~漢詩の心は久しい前から大和化して不足がない
6回「明代の列仙伝」 渋川玄耳の送ってくれた「酔古堂剣掃」を読む~若いころ図書館に通って徂徠の「蔀園十筆」を書写したことがある
7回上「ウォードの大冊」 ウォード「力学的社会学」を読む~頁数がダイナミックなのであった
7回下「宇宙はガス星雲」 渦巻の塵から成るこの宇宙に比べれば人の生はほんの偶然にすぎない~大塚楠緒子さんの死
8回「8月24日へ向かって」 毎日いろんなものを吐く~医者は黒いものは血であると言う
9回「咽喉が痛い」 京都への行き方を尋かれた英国人に対し答えたくても声が出ない~修善寺には北白川宮が滞在していた
10回「出水」 大水が出て新聞も郵便も来なくなった~ほとんど雑音しか聞こえない長距離電話
11回「都の洪水被害」 外出中大水に流された鏡子の妹の話~潰れた森田草平の家の話
12回「隣座敷の裸連」 汽車が開通して隣座敷のうるさい連中が引き揚げた~東京から鏡子や森成医師たちが来て2階は貸切り状態に
13回「大吐血」 杉本医師が到着して運命の8月24日~2度目の吐血で仮死状態になる
14回「彼岸」 3度目の吐血~大量の食塩注射~「私は子供になど会いたくはありません」
15回「生還」 死は我が経験の外にあった~生と死の狭間はアキレスと亀の譬えに似ている
16回「安らぎ」 夜が明けると苦しみは去った~杉本医師は東京へ戻り看護婦を2名派遣した
17回「死後の生」 意識は死後も生き残るだろうか~仮死の経験は我が意識に何の影響も与えなかった~私は幽霊にもなれず至福の境地にも達しなかった
18回「脈を打つ氷嚢袋」 手を顔のところへ持ってくることさえ出来ない~骨と関節が硬く軋む
19回「感謝の心とは」 日常生活の裏面に潜む心臓の鼓動と汗の玉~安寧をめざすべき自分の敵とは――社会も朋友も妻子も、あるときは自分自身さえ――
20回「癲癇」 ドストエフスキィと神聖なる疾~恍惚に似た精神状態は単に貧血が引き起こしたものか
21回「生の歓び」 ドストエフスキィの処刑事件~病床で寝ながらドストエフスキィのことを考える
22回「犬の眠り」 黒い覆いのかかった電球~身体を少し動かすと看護婦が反応する~いつまでも続く浅い眠りと動かない身体
23回「ありがたい」 社会に対峙する自分は常にぎこちない~その中に生じる感謝の念だけが安定している~その気持ちを大事にしたい
24回「自然を愛す」 子供の頃に見た蔵の南画~自然の中に棲むのはいいが暮らすには不便である~小宮豊隆を罵った話
25回「子供を見てやれ」 12歳10歳8歳子供が3人見舞いに来た~3人は畏まって座っている~1週間後見舞状を書いて寄越した
26回「あれも食いたい」 50グラムの葛湯で生きる~渇きが止むと飢えが来た~重湯の不味いのに驚く~ソーダビスケットに礼を言う~白粥こんな旨いものが世にあるか
27回「公平とは何か」 公平即ち恣意を避ける即ち既に自由ではない~文芸もそれを職業としたからには自由ではいられない~オイケンの説く自由な精神生活とは机上の空論であろう
28回「法蔵院の占い師」 豊田立本の顔相占い~親の死目には逢えません~西へ西へ行く~顎髯を生やして居宅を建てよ(そうすると腰が落ち着く)
29回「修善寺の太鼓」 鐘の代りに太鼓が鳴る~夏が終わってだんだん寒くなり夜が長くなる~独り夜明けを待ち望む
30回「野の百合」 聖書の謂う野の百合とはグラジオラスのこと~病床で眺める秋の草花~コスモスは干菓子に似ている
31回「鏡を見る」 若い時兄を二人失った~亡くなるまで漆黒の髪と髭~鏡を見ると兄がいたが鬢には白いものが~墓と浮世の間に立つ
32回「出修善寺 あと2週間~白布を巻いた舟のような寝棺に担がれ宿を出る~雨の中を見送る人々~2度目の葬式とは
付録『病院の春』 胃腸病院で迎えた始めての正月~看護婦の「石井町子」さん~死の淵から生還した~しかし何の感動もない

 本篇は東京へ帰着したところから始まり、いったん修善寺の大患に遡ったあと、その修善寺を出発するところで終わるという、倒叙というほどでもないが、(本作に先行して書かれた)『それから』『門』に、やや通じる書き方になっている。胃腸病院の簡易ベッドの上での屈託した述懐が、いつのまにか修善寺の病床に遷移し、おもむろに8月24日の「主題」が登場する。小説的というより、いっそ音楽的な展開と言えよう。「病院の春」は再び長与胃腸病院の冒頭に戻る、エピローグ的な配置とも考えられる。
 ここで書かれた漱石中期最大の難関については、本作に加えて鏡子の回想も残されている以上、他がとやかく言うことはないのかも知れない。しかし一通り読んだだけでも、いくつかの問題点は挙げられるようである。次にそれを述べてみよう。

漱石「最後の挨拶」道草篇 17

391.『道草』先行作品(6)――魔の12月1月


 前項の続き。『満韓ところどころ』はなぜ(漱石作品なのに)面白くないか。
 だいたい漱石は作品上でも実生活でも、年末年始とか厳寒の時期に近づくと碌なことにならないようである。露骨な譬えで申し訳ないが、命日が12月9日であることがその典型であろうか。その他思いつくままに挙げると――、

・『猫』 苦沙弥と寒月の正月の散歩になぜか芸者の話が割り込んで来る。すれ違ったときに声を掛けられたり、羽根突きをするのを覗いたりする。意味不明で不思議な文章である。
 翌る年、珍野家はまた猫のいない正月を迎えることになるだろう。現実に漱石の家で4年間生きた主人公の猫の寿命は、小説では気の毒にも1年間に短縮された。

・『趣味の遺伝』 12月に書かれた小説である。『趣味の遺伝』は結末を失敗した作品でもある。小野田の令嬢が浩さんの墓参りをするのは、俗な言い方だが令嬢もまた浩さんに「一目惚れ」したのであろうが、当然ながら何も知らない浩さんはそのまま戦地へ行ってしまう。残された浩さんの日記を読む限りではそういう話である。幸運にも令嬢の素性を突き止めた語り手は、浩さんの霊魂のためにも令嬢を浩さんの母親に引き合わせる。おっ母さんと令嬢はいよいよ仲良くなる。そこまではいい。ところが浩さんの日記を見せられたときの令嬢の反応が、筆の足りない書かれ方になっている。

 ・・・とうとう御母さんが浩さんの日記を出して見せた。其時に御嬢さんが何と云ったかと思ったらそれだから私は御寺参をして居りましたと答えたそうだ。何故白菊を御墓へ手向けたのかと問い返したら、白菊が一番好きだからと云う挨拶であった。(『趣味の遺伝』末尾近く)

 少なくともここでの令嬢の心情は「ああやはりそうであったか」「自分の勘は当たっていた」というようなものであったはずである。浩さんの気持ちを始めから知っていたのであれば、そもそもの令嬢の行動・振舞いは、誰に対しても残酷と言わねばならないし(これが本当の「無意識の偽善」か)、浩さんの気持ちがこのとき(思いもよらず)始めて分かったというなら、令嬢はショックのあまり気絶するだろう(つまり三文小説になってしまうだろう)。
 漱石の中では、「やはり浩さんも自分のことを想ってくれていた。だから自分の行為も無駄ではなかった」という気持ちで「それだから(墓参りをしていた)」と書いたのであろうが、それだけではおっ母さんも読者も何のことか分からない。
 白菊云々も明らかに書き足りていない。「白菊は私が一番好きな花」あるいは「白菊が墓前に一番好まれる花」という意味で書かれないと、ただのホラーになってしまう。令嬢は生前の浩さんとは「交渉」が無かったのであるから、浩さんの身上や趣味を決めつける立場にないし、スピリチュアリズムを研究しているのは語り手であって令嬢ではない。漱石は時間がなかったと言い訳するが、年末年始を控えているので時間がないと言いたかったのであろうか。
「12月執筆」と目される小説は他に『野分』を数えるのみである。『野分』も結末の書き方は不親切であるが、2作とも作家自身の分類では、(贅沢にも)カタログ外に位置付けられるのだろう。

・『坊っちゃん この名作の中に厳冬の時期があるとすれば、それは大切な清が死を迎える場面であろう。漱石の母千枝も(明治14年)1月に亡くなっている。

・『野分』 『趣味の遺伝』とともに12月に書かれた小説。百円返済事件は12月16日のことである。初期の肺炎で転地療養するはずの高柳周作は、その原資たる百円を白井道也に遣ってしまう。大丈夫だろうか。金は債権者(道也の兄)の手にそのまま渡るので、結局主人公たちの窮状は何も変わらない。『野分』は漱石の文芸的主張が剝き出しになった珍品であるが、前述したように明らかに習作であろう。それでも志賀直哉がことさら賞翫したのは、何か感じるところがあったに違いない。

・『坑夫』 漱石の小説で年末年始を跨いで書かれたものは、『坑夫』と『行人』の2作だけである。『坑夫』は漱石らしくない凡作、おまけに(漱石にとっては稀有の事象であるが、)著作権が疑われる部分さえ存在する。
『行人』は(長谷川町子みたいに)作者胃潰瘍で半年間中断した縁起の悪い作品。人気も第10位に入るかどうかを、たぶん『彼岸過迄』『虞美人草』と共に争うはずである。
(ちなみに論者のベストテンは、『猫』『坊っちゃん』『明暗』が不動の3傑。9位までの6作品が『草枕』『三四郎』『それから』『門』『心』『道草』という一般的なもの。あと1つは何か。否そんなまとめ方をせずとも、大方の漱石ファンはこれに『虞美人草』『彼岸過迄』『行人』を加えた1ダースの作品を均等に愛しているのだろう。これはビートルズの残した不朽のアルバム12点を思わせる。―― "please please me" "with the beatles" "hard day’s night" "for sale" "help" "rubber soul" "revolver" "sgt. pepper’s" "magical mystery tour" "white album" "let it be" "abbey road" ―― LPレコードとしてはオフィシャルには "magical mystery tour" でなく "yellow submarine" であろうが、"yellow submarine" は半分ビートルズ(の演奏)でない。つまりこれは『坑夫』の位置付けであろうか。)

・『文鳥 漱石文鳥は12月にやってきてすぐ死んだ。いっぽう本ブログの先の項で一緒に論じた『夢十夜』は10話すべてが季節と無縁のコントであるが、これは漱石の中では例外に属する。『琴の空音』は春まだきの冬(インフルエンザ)、『二百十日』『一夜』は夏の話である。漱石の中で『夢十夜』だけが季節の書かれない(季節が不詳の)小説となった。夢は時間を超えていると漱石は言いたかったのか。

・『三四郎 大学最初の冬休み。帰省中に美禰子の挙式と披露宴が済んでいる。漱石作品の中で最悪の越年をした主人公が小川三四郎であろう。
 ところで三四郎の九州帰省は2泊3日を要しているはずである。往復で6日かかる。いくら金に困っていないとはいえ、母1人子1人だとはいえ、1週間かせいぜい2週間の冬季休暇に、6日潰して帰省するものだろうか。坊っちゃんでさえ「来年の夏休みにはきっと帰る」と言っている。正月休みに帰省したのは(漱石本人も含め)、三四郎以外にいないのではないか。――漱石が(松山時代に)一度だけ正月を東京で過ごしたのは、帰省でなく婚約のためであった。

・『それから』 去る者は日々に疎し。代助は引っ越したことを平岡への年始状でついでに知らせる。春が過ぎてその平岡が代助の新しい居宅を急襲する。「此所(ここ)だ此所だ」――代助の家を知らないはずの平岡だが、そういう気配は微塵も感じられない。ここから悲喜劇が始まった。

・『門』 インフルエンザに罹った安井は冬季休暇を転地療養に充てる。転地先で年を越した安井と御米の許へ宗助が遊びに行く。やがて大風が宗助と御米を吹き倒す。悲劇の起源はやはり冬休みにあったのである。

・『彼岸過迄 前年12月の雛子の埋葬のあと、気を取り直して年明けの1月から、『彼岸過迄』の執筆・連載が始まった。3月中には終わるだろうという意味でこの題名が付けられた。それはいいが「風呂の後」「停留所」「報告」に続く4篇目として唐突に「雨の降る日」が挿入された。小説として成功しているだろうか。マーラーの第2交響曲は第4楽章になって、いきなりコントラルトだかメゾソプラノが天国のような「Urlicht」の旋律を歌い出す。しかし文学は音楽とは違うのである。

・『行人』 前述した通り。執筆の越年が漱石にとっていかに鬼門だったか、他の作家や編集者は思いもよるまい。ちなみに『行人』のオリジナルの物語は、お彼岸に二郎の高等下宿を訪れたお直の逸話で終わっており、前作で小説の内容に直接関係のない『彼岸過迄』というタイトルを付けてしまった漱石が、律儀にも実際にそういう暦を有する小説を書いて、辻褄を合わせようとしたのが『行人』であったと言えなくもない。その意味でも「塵労」という付け足しは、余計であるとは言わないまでも、まったく別物と考えて鑑賞した方が、『行人』にとってフェアであろう。「塵労」は「塵労」で、独自の(志賀直哉がリッチな筆つきと評した)堅牢な美を放ってはいる。

・『心』 先生とK、ともに煩悶を抱えたまま越年し、Kが突然告白したのは正月休み、2学期の始まる直前である。成り行きだったにせよ先生の策謀が実を結び御嬢さんと婚約、そしてKの自裁漱石文学最大の悲劇は続く2月に発生した。(本ブログ心篇参照)

・『道草』 年の瀬せまる頃島田に百円遣って書付を取り戻す。明治42年11月の出来事が元になっているが、漱石は小説では時期を1ヶ月後ろにずらしている。この碌でもない手切れ金事件は、明らかに正月を意識してリライトされているのである。

・『明暗』 物語は秋に始まり冬に入ったところで無事(津田の肛門の再破裂程度で)決着を見るはずであった。それはいいとしても、思いのほか小説が長くなって、漱石自身も連載は年を越すだろうと(米国留学の成瀬正一に葉書で)表明している。ところが作者が倒れて執筆は中絶、前述のように12月には当の漱石の命の方が断たれてしまった。越年するはずの『明暗』は、作者の意に反して越年しなかった。運命に敵(かたき)を取られたと、『それから』の代助なら言うであろうか。それとも『坑夫』『行人』と同じ轍を踏まなくてよかったと、『明暗』の熱烈なファンは胸をなでおろすであろうか。

 結局漱石の小説で(『二百十日』等の短編を除いて)12月~1月と無縁なのは、『草枕』と『虞美人草』だけということになりそうであるが、見方によってはこの2作といえども例外ではない。強引に結び付けるのをご容赦いただければ、

・『草枕 漱石が始めて小天温泉を(山川信次郎と)訪れたのは、五高赴任の翌年の年末年始休暇(明治30年~31年)においてであった。蜜柑畑には一面に蜜柑が生っていたと思われる。画工は(蜜柑の影も形もない春なのに)那美さんの兄の家の辺りをミカン山と紹介しているが、那古井を訪れたのは2度目と言っているので、やはり以前冬に来たことがあったのである。漱石は5月にも小天温泉を再訪しており、いつも置いておかれた鏡子夫人はその年入水事件を起こす。

・『虞美人草 漱石の西片時代に唯一書かれた小説が失敗作『虞美人草』である。家主(斎藤阿具)の事情で、福猫とともに『猫』『坊っちゃん』『草枕』の名作を書いた千駄木を立ち退いたのが明治39年12月の月末である。方角が悪かったと同時に時期も良くなかった。漱石は西へ西へと移動しなければならないところ、西片だけは千駄木の西方になかった。したがって程なく(正しく西の方角にあたる)早稲田に移って、『三四郎』から『明暗』に至るさらなる名作群が誕生したのは、人類にとってこの上ない幸運であった。ちなみに漱石早稲田南町への引っ越しは、時候のよい9月(明治40年)である。

 エセイ集も負けていない。

・『永日小品』 明治42年1月~3月
・『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月
・『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月
・『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

 4作ともほとんど冬場に書かれている偶然はともかく、

・『永日小品』 第1話は「元日」というのである。ちょうど1年前の元旦の逸話を持って来ているが、第2話以降は季節感とは無関係に、「普通の随筆(最近の出来事)」「『夢十夜』ふうのコント」「倫敦時代の追憶」が交互に出現する。全体として不気味なエセイであるが、最後まで読んでも、冒頭に「元日」を配置した意味がまったく分からない。第1話だけ掲載日が離れているので、「元日」を別物として鑑賞すべしということか。

・『満韓ところどころ』 12月に書かれたいわくつきのものの1つ。そのせいかどうか、不自然な中断のままになっていることは前項で述べてきた通り。しかし中断ということで言えば、同じ頃書かれた青春3部作はいずれも突然幕が閉じられたような小説ばかりである。『三四郎』『それから』『門』をまとまった1塊りのものと見ても、3作を読み了えて作者が何事かを書き切ったという感じはしない。野中宗助が三四郎や野々宮宗八・長井代助の末裔であるのはいいとしても、宗助という人物像が彼らの到達点(帰結・結論)と思う読者はいないだろう。物語や登場人物にはっきりした決着がつかない。ぐずぐずのままである。それがゆえにいつまでも読み継がれるというのは流石に暴論であろうが、それにもかかわらずいつまでも読まれるのが漱石作品であるとは言えるだろう。

・『思い出す事など』 これも禁忌たる12月執筆に属する。修善寺の大患を思い出しているので、漱石にとっては碌でもない回想記であるには違いない。もう1つ、このエセイ集のみ(『坑夫』『行人』と同じく)不吉にも年末年始を跨いで執筆されている。そのツケは如実に廻ってきており、次項以降で述べることではあるが、『思い出す事など』はまた、人間の死について多く語られる、人生の書であるとともに絶望と希望の入り混ざった、不思議なエセイ集になっている。

・『硝子戸の中 漱石の中では一番評判の好い随想集であろう。しかし『道草』の露払いとして書かれているからには、『道草』と同じ気分が漂っており、これも次項以降で考察されるべきことではあるが、ある種の鬱陶しさからは逃れようもない。なぜもう少し気候のよいときに書かなかったのだろうか。
 思うに漱石新聞小説を最優先させるので、随筆小品の類いはつい「オフシーズン」の谿間に追いやられるのであろう。漱石ふうの誠実というべきか。徹底した自己管理と言わざるを得ない。

 * * *

 漱石にとって「12月~1月問題」は作品だけにとどまらない。母千枝の死(1月)と自身の死(12月)は前述したが、漱石の誕生日が慶応3年1月(5日)、2度目の誕生日たる夏目家復籍が明治21年1月(28日)であることは奇妙な因縁であると言えよう。
 ところで漱石の7人の子の誕生日は以下の通りである。

・筆子 明治32年5月31日
恒子 明治34年1月26日
・栄子 明治36年11月3日
愛子 明治38年12月14日
・純一 明治40年6月5日
伸六 明治41年12月17日
・雛子 明治43年3月2日

 彼らの人生は(当然ながら)漱石の人生ではないからここでは取り上げないが、唯一1月生れの恒子は(生れたとき漱石は倫敦にいた)、気の毒にも30代半ばで病没した。12月生れの四女愛子は、『道草』の中で「3人目の」赤ん坊として、千切った脱脂綿とともに出産シーンが描かれるという、ユニークな扱いを受けた。また『永日小品』で例外的に「愛子」という名前が晒されてしまったのは前述したところ。公平を旨とする漱石は、『思い出す事など』で(愛子以外の)上の3人の女の子の名前も、病床の父に宛てた見舞状の筆者という形で露出させた。本文では筆子・恒子・えい子と書かれたが、三女だけが仮名表記されている。漱石のつもりでは三女と四女は始めから、エイ、アイと付けたのだろう、戸籍簿ではそうなっているらしい。2人の男の子と夭折した五女の実の名は、ついに漱石作品に載ることはなかった。もちろんこれらのことは、漱石が子供たちのことを小説にしばしば書き込んだこととはまた別の話である。

 もう1人の12月生れである夏目伸六については、本人が数多くの著作を残しているので、(鏡子の回想録同様)考察の対象として差し支えないと思うが、1つだけあの有名なステッキ殴打事件について触れてみたい。
 明治40年6月待望の男子(純一)が誕生した。翌明治41年12月17日、始めて年子として2人目の男の子(伸六)が生まれた。「スペア」という気持ちはなかったであろうが、漱石にとってはめでたくもあり、心強い2人目の男子だったろう。
 しかしそれは半年前に日根野れんを脊髄病で亡くした塩原昌之助にとっても良い話であったらしい。年が明けて早速、この元養父は漱石に伸六の養子縁組を申入れに来たのではないか。塩原家と夏目家の関係からは大いに考えられることである。絶縁したといっても一方の当事者父直克はすでに亡く、漱石自身、日根野れんを蝶番として塩原家と交際してきた過去を有つ以上、元養父の申し出は当時の世情からも、それほど突飛なものとは言えない。
 もちろん漱石は断った。これが『道草』に書かれた、その年(明治42年)の百円強請事件につながるのだろう。家を継がない男の子が出来たせいで却って金を取られる。自身の場合と同じである。しかも相手は同じ塩原昌之助。
 明治43年3月2日に7人目の子供雛子が生まれるが、翌44年11月29日に突然亡くなった(埋葬は12月2日)。このときすでに鏡子夫人は明けて36歳。伸六の「末っ子の男の子」はほぼ確定したと思われる。漱石が屋台の店先で激怒したのは、直接には兄の真似ばかりする伸六の性格の弱さ・俗っぽさに我慢ならなかったからであろうが、漱石はこの末子の運命に自分自身を見たのではないか。塩原から養子にくれとせがまれ、なおかつあっさり養子に出されてしまった漱石自身を重ねたのである。気の毒なことにその背後には忌々しい養父の幻影までちらついていた。常軌を逸したステッキでの殴打(下駄履きの足で踏みつけ蹴られさえした)の理由は、これ以外に考えにくい。

漱石「最後の挨拶」道草篇 16

390.『道草』先行作品(5)――『満韓ところどころ』


・第2集『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月

『永日小品』以外に明治42年にはもう1つ、『満韓ところどころ』(全51回)という未完の紀行文集がある。『永日小品』は新春に書かれたが、『満韓ところどころ』は漱石の好きな秋の話である。
 漱石は明治42年9月~10月の1ヶ月半、(英国留学を除けば)最も長くて遠い満洲朝鮮の旅に出かけた。帰国早々同じハルピン停車場で伊藤博文が撃たれたが、二つながらに中村是公が立ち会っていた偶然にもめげず、(疑り深い漱石であれば、背恰好の似た自分が何かの練習台に使われたのではないかと不安に感じてしかるべきところ、伊藤公の話題は『門』の冒頭でさらりと触れるにとどまった、)早稲田の自宅に帰り着くや否やすぐ旅行記の筆を執り始めた。(元総理大臣にして前韓国統監の暗殺事件は、結局現行の『満韓ところどころ』に1字も書かれなかった。)

『永日小品』は創作と称して何の違和感もないとは前述した。『思い出す事など』『硝子戸の中』も、私小説作家が書いたものなら掌篇集と見ることも可能だろう。しかし『満韓ところどころ』は創作でないのはいいとしても、紀行文というには少々雑駁に過ぎるようである。やはり必要最小限の手控えなり資料を準備した方が良かったのではないかと、つい余計なことを考えてしまう。

 南満鉄道会社って一体何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前も余っ程馬鹿だなあと云った。(『満韓ところどころ』冒頭)

 書出しは太宰治津軽』、夫人との会話を思わせ、(現代の)読者の期待は昂まるが、それは当然すぐに裏切られることになる。最後まで読んでも、書出しの1行を超えるものは、(是公や橋本左五郎等書生時代の仲間たちの逸話を除いては)現れない。
『満韓ところどころ』失敗の原因については、一般に次のような議論があると思われる。

①記憶がフレッシュなうちに書かれたにもかかわらず、人や場景の印象が薄い。やはり体調不良が影響したのではないか。
②反対にもっと記憶が薄れてから、そのときなお漱石の心象に残っているもののみ書いた方が、essay として味が出るのではないか。
③そもそも漱石は資料を参考にして書くタイプの作家ではない。小説でない満洲紀行を書くなら、『永日小品』ふうにアレンジするしかないのでは。

 畢竟漱石旅行記には向かない作家である。いっぽうで漱石の小説は、基本的にすべて旅行記のように書かれている(『明暗』のあの長い会話シーンを除いて)、と言って言えなくもない。
 まあ傍(はた)からとやかく言っても始まらないので、とりあえずは他の3集と少し毛色が異なる『満韓ところどころ』を順に読んでみるしかないだろう。当時から半島や満洲に、いかに大勢の日本人が進出していたことか。明治の人にとっては元々北海道や琉球などより、はるかに身近な土地であった。漱石の文章を読んでも、そのことだけは伝わってくると思うが。

1回「是公との約束」 満洲旅行の用意をする~直前に胃病で延期になった
2回「下関から出航」 穏やかな鉄嶺丸の旅~英国大使館の青年と犬が同船~後に大和ホテルでこの犬に再会した
3回「営口丸と接触 事務長の佐治さん~営口丸を追い抜くとき船体がぶつかる~かわすという漢字が分からない~替わすではいけませんか
4回「大連到着」 秘書の沼田さん~クーリーの蠢く中綺麗な馬車で総裁の家へ向かう
5回「総裁の家」 舞踏会場を改装した総裁公邸~本尊のいない阿弥陀堂のよう~溥儀の額~総裁は帰って来ない
6回「大和ホテル」 風呂に入っていると総裁が来たがすぐ引き返したもよう~食堂で相席になった英国の老人
7回「俱楽部にて」 舞踏会を断る~倶楽部のバーで総裁副総裁と過ごす~西洋人は少ない
8回「市内巡行」 空気が透き通って日が鮮やかに市街を照らす~日本橋から満鉄本社を臨む~電気公園のオベリスク
9回「中央試験場」 大豆油・石鹸・柞蚕(山繭)の糸・高粱酒(これは是公も試飲しない)
10回「満鉄本社」 立花政樹は大連の税関長~満鉄本社で理事たちと挨拶~ランチは大和ホテルの仕出し~胃が痛む
11回「営業報告」 河村調査課長の説明~股野義郎現わる~多々三平の産地が筑後久留米から肥前唐津に変わった理由
12回「ゼントルメン」 総裁夫妻連名の舞踏会招待を断わる~「 gentlemen! ··· 大いに飲みましょう!」
13回「胃痛でダウン」 胃痛で会食を断わる~蒙古を調査した東北大教授橋本左五郎来る~明治17年極楽水の旧事
14回「橋本左五郎」 猿楽町末富屋の10人~予備門席次下算の便
15回「大連見物」 股野の案内で北公園・社員倶楽部・川崎造船所~東洋一の煙突大連火力発電所
16回「化物屋敷」 満鉄社員アパートは日露戦争当時の病院だった~開拓と国土建設は日露の「戦後の戦争」
17回「大豆油」 3階建の工場で大豆を蒸し油を搾る~黙々と働く裸のクーリー
18回「股野の社宅」 総裁公邸に行く~是公も胃病持ち~股野の社宅は見晴らしのよい高台
19回「麻雀牌」 満洲商人は仕入先を自宅に泊める習慣~荷主たちは商売が片付くまで商人の家で寝たり遊んだりしている
20回「相生さん」 大連港の沖仲仕をまとめたものは相生さんである~港湾労働者のコミュニティ~図書館に漱石の本もあった
21回「佐藤友熊」 友熊は旅順の警視総長~成立学舎で共に学ぶ~白虎隊の1人が腹を切り損なって入学試験を受けに東京へ出たとしか思われない
22回「旅順は普請中」 橋本左五郎と旅順へ向かう~新市街には人がいない~やはり大和ホテルに入る
23回「女の靴の片方」 白玉山の戦勝記念碑~佐藤友熊の案内で橋本と旅順戦利品陳列所に行く
24回「山と砲台」 A中尉の案内で日露戦跡をたどる~すべての山に悉く砲台が~旅順を見下ろす高台に出る
25回「砲台巡り」 両軍とも砲台を取るため坑道を掘り合う~たまには土嚢越しに両軍で会話することもある~酒があるならくれ
26回「講演」 断りきれず大連で2回営口で1回講演するはめに~演説を勧める橋本左五郎~演説を褒める是公
27回「二百三高地 敵と味方両方の砲弾をかいくぐって始めて陣地を取る~戦争のときは身体の組織が暫時犬猫と同じになる
28回「旅順港 静かで美しい旅順港~始めて兵隊に敬礼をされる~無数に沈んだ艦船の引き揚げ方
29回「膝枕」 胃が痛むが田中君の招待で橋本と料理屋へ~すき焼きを食う~女の膝枕で寝る
30回「鶉」 旅順を発つので全員で鶉を食す朝食会~鶉は旅順の名物
31回「胃痛」 橋本と北へ向かうことにするが旅程は何も決まっていない~哈爾浜行急行は週2回
32回「トロ」 橋本と熊岳城へ~胃痛に耐えながら支那人の押すトロに乗る
33回「砂湯」 熊岳城Ⅱ~一面の砂浜がすべて温泉~高麗城子という険しい連山が見える
34回「支那の女」 熊岳城Ⅲ~胃が痛むが梨畑へ行くことにする~宿の客と一緒に馬車に乗る~昨日橋で行き合った女と尻合わせになる~女は宿の人らしい
35回「梨畑」 橋本たちに再会~梨は赤く大きさは日本の梨の半分~胃の中に何か入れると痛みが一瞬治まる
36回「満洲の馬」 梨畑の土の壁~壁に開けられた馬賊避けの四角い穴と赤い旗~三国志に出てくるような騾馬と隠されている女
37回「短冊」 熊岳城を発つ~頼まれた短冊に字を書く~旅をして悪筆を懇望されるほどつらいことはない
38回「満洲の豚」 満洲の草原を跋扈する怪物~豚と海藻~雲と電信柱
39回「怪しい部屋」 営口の恐ろしく穢い売春窟~胡弓と歌声
40回「遼河」 胃に加えて胸も痛い~粉薬を呑みたいが水がない
41回「農学博士」 橋本左五郎は博士号を取っていない~漱石の革鞄に橋本博士の札が
42回「ダウン」 営口から湯崗子へ~体調悪くて飯も食えず
43回「千山」 橋本等3人は馬で千山へ行く~漱石はそれを見送る~鉢巻する馬
44回「風呂に行く」 風呂場の裏は魚の泳ぐ湯の池~宿の紫の袴を穿いた若い女がいる
45回「奉天 馬車で奉天の街を行く~馬車に轢かれた老人の下肢
46回「人力車」 人力車の引き方が余りにも乱暴で驚く~奉天では4泊した
47回「満洲公所」 奉天には下水というものがない~湯も水も濁っている
48回「満洲公所Ⅱ」 満洲公所には俳人の肋骨君がいる~支那人の辮髪
49回「曠野」 宿の番頭の馬車で道なき凹凸の平原を疾る~泥濘に轍を取られて立往生
50回「北陵」 平原が急に叢に変化する~大きな亀の上に建つ頌徳碑
51回「撫順」 汽車に乗り合わせた西洋人は英国領事~英国人のプラウド気質~坑道見学

『満韓ところどころ』はここで中断している。石炭を焚いて走る汽船と汽車を乗り継ぎ、全山石炭の塊りたる(露天掘りの)撫順に到達した。オチは付いているのかも知れないが、漱石が産業資源に関心があったとも思えない。
 加えてこの紀行文では、漱石韓半島に1歩たりとも足を踏み入れていない。読者は続篇があるのだろうと思う。なければタイトルはいつか『満洲ところどころ』あるいは『南満洲ところどころ』に改められるべきであった。
 それをしなかったのはいかにも漱石らしいが、読者側・朝日側の要請もとくになかったようである。回を追うにつれて(おもに漱石の体調のせいで)話が面白くなくなっているからである。漱石旅行記は面白くないのか。『門』の参禅シーンを記憶する読者はさもありなんと思う。しかし『行人/塵労』の一郎とHさんの旅日記はそれなりに興趣が沸き、『明暗』津田の湯河原道行きも、俗物津田にしては(漱石の地が出ているせいで)味わい深いものがある。『坊っちゃん』『草枕』は(旅日記として読んでも)勝れて面白い。『満韓ところどころ』の不作は紀行文のせいだけではないはずである。冒頭にも少し触れたが、何か他に理由があるのだろうか。