明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 21

356.『野分』どのような小説か(4)――『明暗』への道


 前項で述べた、漱石作品が「いつまでも読まれ続ける」ということで、すぐに思いつくもう1人の作家太宰治について、本ブログ草枕篇(6)でも取り上げた堤重久によって、作家本人の(初会の日の)こんな言葉が紹介されている。

「七時半か、八時におきて、きっちり九時から机に向うんだ。四時間ぐらい仕事をすると、もう疲れちゃってね、小説がいやんなっちゃってね、誰か来ねえかなとそわそわしだすんだ。お前は、勘がいいよ。ちょうど、そわそわしだしたときに現われたからね」

「お前は、学生だから、朝寝坊してもいいけど、しかし大人になったら、職業をもったら、たとえ作家でも、朝寝坊は許されないんだ。夜更かしもいけないんだ。土方でも、サラリーマンでも、朝から気を使って、額に汗して働いてるじゃあないか。それを考えたら、のうのうと寝てられやしないよ。芸術家だって、市民なんだ。お互いの協力で、暮らしてゆけるんだ。芸術家には特権ないよ。市民とちがう生活をする権利なんか、どこにもありゃしないよ」(以上堤重久『太宰治との七年間』1969年筑摩書房版より)

 口調こそ違え漱石も同じことを学生に言ったはずである、ということはさておき、堤重久自身の書くところによると、『一燈』の掲載された「文芸世紀」(昭和15年10月号)を買って、家に帰る時間が惜しくて淀橋図書館でそのページを読んだ。そのとき周囲の坊主頭を見渡して、(三鷹に住む)太宰に会いに行こうと決心したという。このとき昭和15年(1940年)10月(堤重久は「初冬」と文学青年らしくはっきり書いている)、太宰治32歳、初対面の帝大生堤重久24歳である。これは『野分』の物語開始時の今現在、明治39年(1906年)10月における道也先生34歳、「初対面」の文学士高柳君26歳に、ほとんどスライドしている。

 前項で紹介した道也の講義録自体は、(芸術家に限らない)汎く文学を志す者に向けたメッセージであろうが、漱石太宰治も、謂わんとするところは同じである。聴き手の青年(文学青年)に与えるインパクトも同様であったと推測される。
 この研究・創作に対する真摯な態度表明は、長く学者生活を送り、晩くに小説を書き始めた漱石にとっては、始めから自明の理であったろうが、おそらく『猫』『坊っちゃん』『草枕』の筆致をその後封印した直接の原因になったと思われる。漱石は(出来に不満足だった『草枕』は別としても、)「いくらでも書ける」と豪語した『猫』『坊っちゃん』の続篇を書かなかった。
 江戸の粋人の流れを汲む漱石にとって、自らを枠に嵌め込むような小説を書き続けることは、何よりもまず自身の気持ちが落ち着かなかったのであろう。「『猫』の漱石」「余裕派の漱石」「高等落語の漱石」というようなレッテルを貼られるのも癪に障る。「繰り返しは3度まで」という楽曲に似た約束事は、3部作のセットを3回を限度に積み重ねるという、その後の漱石の著述人生を規定した。

①『三四郎』『それから』『門』
②『彼岸過迄』『行人』『心』
③『道草』『明暗』『(幻の最終作品)』

 これはもちろん後出しジャンケン的物言いではあろうが、(19世紀の)交響曲作家の「9つの交響曲」の現象に(外形だけでも)つながるものであり、あのドストエフスキーさえ、次のように集約可能である。

①『貧しき人々』『死の家の記録』『虐げられし人々』
②『地下生活者の手記』『罪と罰』『白痴』
③『悪霊』『未成年』『カラマゾフの物語※』
(※『カラマゾフの兄弟』とその書かれなかった続篇の総称)

 もちろん太宰治はこれらを19世紀の遺物(偉物)扱いして、(ドストエフスキィはともかく)漱石を「俗中の俗」として排した。20世紀の芸術の美はもっと目立たない、ひそやかにも小じんまりしたものの中にこそ存在するというわけである。慥かに漱石もまた19世紀の人間ではあった。
 しかし太宰治の言にかかわらず、たとえ『野分』(明治38年1905年執筆)が古生物であるにせよ、同じ構造物から成る『明暗』(大正5年1916年執筆)が、現在から見るとやはり(明治42年1909年生れの太宰治と同じ)20世紀の小説であることは、否定しようがない事実である。前項冒頭に掲げた『野分』の対決構造は、『明暗』の主人公たちによって、より複雑な進化をとげていたと言える。それは例えば次のように示すことが出来るだろう。

◇『明暗』主構造
(物語の筋書に直接影響を与える5人衆プラスワン――津田・お延・小林・吉川夫人・お秀+清子による果てしのないバトル――前著による)
津田 VS. お延
②津田 VS. 吉川夫人
③津田 VS. 小林
④津田 VS. お秀
⑤津田 VS. 清子
⑥津田・お延 VS. お秀

お延 VS. 津田
⑵お延 VS. 吉川夫人
⑶お延 VS. 小林
⑷お延 VS. お秀
⑸(※1)
⑹(※2)

◇『明暗』副構造
〇津田 VS. 藤井の叔父叔母、真事、会社の吉川、小林医師、看護婦、鉄道の相客、宿屋の女中手代、浜の夫婦・・・
〇お延 VS. 岡本の叔父叔母、継子、百合子、お時・・・

 これらが入り組んで、互いに収拾のつかないほどのバトルを繰り広げるのが、『明暗』という未完の小説である。(話は逸れるが、未完のままで、かえってよかったのではないかと、『夜明け前』『暗夜行路』や『細雪』を読み了えて釈然としなかった一部の読者は、もしかしたら思うかも知れない。未完だからこそ『明暗』や『大菩薩峠』に不朽の価値を見出そうとする変物読者も、中にはいるのではないか。――変物と言ってはいけない。『源氏物語』も『西遊記』も、未完と思って読む方が鑑賞はしやすい。作者の究極の意図に辿り着かなくてもいいからである。その最たるものはイエス福音書であろうか。飛躍するようであるが、太宰治も『人間失格』でそのキャリアを了えたと想像するとき、『グッドバイ』に計り知れない存在価値を見出すことが出来よう。――この話はヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』の中の、「我々の生は縁を欠いている」という言葉に奇妙にも合致する。)

 ちなみに『明暗』で唯一書かれなかった、お延 VS. 清子の組合せ(上記主構造の表の※1)や、津田・お延 VS. 清子の組合せ(※2)が、続篇で実現するのではないかという意見には、論者は与しない。『明暗』は凡人津田に対する愛の獲得合戦ではない。加えて清子がお秀と同列に扱われるわけのものでもないだろう。津田お延連合軍が対峙するのはお秀だけで沢山である。津田と血の繋がったお秀だけに与えられた特権である。吉川夫人や小林も、津田とお延両人に同時には向き会っていない。小説の始めからそういう造りなのである。

 そもそも癇性の漱石の主人公が、2人の女を同時に好きになることなどあり得ない。津田はかつて清子には惚れていたかも知れないが、津田はお延に惚れていない。津田の今現在は誰にも惚れていない。ただこれまでのいきさつを(現実の夏目金之助のように)不思議に思っているだけである。
 津田に似て凡人で癇性の三四郎も同じである。三四郎が美禰子とよし子を並べて煩悶することはあり得ない。三四郎は美禰子には心を奪われたように描かれるが、よし子を(御光さんでも)恋の相手と見たことは一度もなかった。だからこそ与次郎はその2つながらに自己の論評を下したのである――「馬鹿だなあ、あんな女を思って」(12ノ5回)と「あれなら好い、あれなら好い」(9ノ5回)。
 三四郎に自由意思はない。漱石も同じである。そのため小説に書くときは与次郎のような、(軽薄かも知れないが)自分で決断する男が必要になる。

 では『虞美人草』の小野さんはどうか。あれかこれかで迷っているのではないか。
 結論は同じである。小野さんにも自由意思はない。小野さんは誰にも惚れていない。漱石は始めから殺すつもりで藤尾を造型した。『虞美人草』は一時の人気は博したが、漱石にとっては失敗作だったろう。漱石は懲りて爾後オルタネイトの女性は作らなかった。『三四郎』のよし子、『それから』の佐川の令嬢は、その未練がましい名残りである。「あれかこれか」で迷うように描かれるのは、漱石の場合女性に限られる。それは金田富子やマドンナの最初から、那美さん・美禰子・三千代・御米を経て、千代子・お直・静に至るまで、一貫した漱石文学の主柱となった。藤尾でさえ小野か宗近かで悩んだ痕跡はある。

 痕跡ということでは、『明暗』の清子もまた津田と関との間で揺れたことがあるのでは、と読者に思わせるような書き方である。しかし清子は湯河原の宿で津田と再会したとき、

①まず驚き、②警戒し、③翌朝風呂場や中庭での遭遇を用意周到に避け、④髪を廂に結って、⑤吉川夫人の果物籠を盾のように提げたまま、⑥笑う女中を従えて、

 津田を部屋に招じ入れた。この①から⑥までのすべてが、清子と津田の間にそれ以上の進展がないという、漱石のサインである。
 漱石はこれまでの伝統にしたがって、津田と2人の女(清子とお延)、清子と2人の男(津田と関)を配してはいるものの、彼らはもう「あれかこれか」で悩む存在ではなかった。それは『道草』からの連作がすでにそのように方向付けられていたとしか言いようがない。幻の最終作品も、女は2人の男の間で(三千代のように)悩むのではなく、最初積極の男と結ばれ、次に主人公たる消極の男に(漱石最初で最後の)告白をされて、女はそのとき始めて自分が消極の男を愛していたことに気付くのである。
 女が自死するのは消極の男に対する申し訳のなさが理由である。夫に申し訳ないと思ったのなら、そのまま結婚生活を続けるだけである。女が男との愛を優先させて、離婚-再婚の決断をしなかったのは、男に「正しい道」を歩ませられなかったという後悔の念が、新しく始まる生活の想像を上回ったからであろう。もちろん小説の主人公が消極の男であるからには、男の都合で書かれていることは仕方がない。

 まあ、前著でも述べた幻の最終作品については、本ブログ草枕篇7~9を参照してもらうしかないが、清子の話に戻すと、お延と清子が直接バトルすることはないと思われる。なぜなら清子の愛を得ることについては、津田は物語の始まる前から敗北しているのである。『明暗』は津田とお延の(くそ面白くもない)夫婦の物語である。その点も『道草』から一貫した漱石の方針である。
 お延が清子と対決しても、事態は何も変わらない。お延は清子より前に吉川夫人に嫉妬した方が、まだ(物語の上では)理に適っている。
 前著(『明暗』に向かって)でも述べたが、最後に残されているのは、

・お延 VS. 吉川夫人
・お延 VS. 小林

 の最終対決だけであろうか。
 お延と吉川夫人の組合せは、前哨戦では陰険な火花を散らしたが、それは気の毒にも従妹継子の見合いの席のことで、周りには吉川も岡本夫妻もいた。お延と吉川夫人の最終対決はもちろん1対1で行なわれるはずである。そしてお延と小林の組合せも、現行の物語の範囲ではまだ決着が付いていない。掘り返されていない芋はまだ残っているのである。しかしどちらの組合せも、読者としてはもう沢山だという気がしないでもない。もちろん「あの葡萄は酸っぱい」という意味に近い言いぐさではあるが。

漱石「最後の挨拶」野分篇 20

355.『野分』どのような小説か(3)――道也のアリア


 何度も書くように『野分』は、複数主人公が互いに親密な会話を交わす、あるいはバトルを繰り広げるという意味で、通俗小説的であるとも言える。この書き方はそのまま次回作『虞美人草』に引き継がれ、そこでいったん打ち切られたかに見えたが、後に『明暗』で不死鳥のごとく甦った。(ドストエフスキィの書く小説が通俗小説であるという言い方が許されるなら、)『明暗』もまた通俗小説である。(漱石ワールドの中では、)『野分』はそれに先鞭を付けた記念碑的作品と言っていいが、小説の各章を主人公たちの「対決」という形で再定義することも可能であろう。主人公たちの果てしない対決といえば、前著(『明暗』に向かって)でも述べたように、まさに『明暗』の枠組みそのものである。『野分』はその意味でも、『道草』だけでなく『明暗』の礎となった稀有の小説であった。

第1章 道也 VS. 細君(1回目)
第2章 高柳 VS. 中野(1回目)
第3章 道也 VS. 中野
    道也 VS. 細君(2回目)
第4章 高柳 VS. 中野(2回目)
第5章 高柳 VS. 道也の論文
第6章 高柳 VS. 道也(1回目)
第7章 中野 VS. 婚約者
第8章 高柳 VS. 道也(2回目)
第9章 高柳 VS. 中野・婚約者
第10章 道也 VS. 細君(3回目)
     細君 VS. 兄
第11章 道也 VS. 細君(4回目)
     高柳 VS. 道也の演説
第12章 高柳 VS. 中野(3回目)
     道也 VS. 債権者
     高柳 VS. 道也(3回目)

 この表によると道也の対戦相手ごとの登場回は、細君4回、高柳君3回、中野君1回、債権者1回、そして論文と演説も、それぞれ読者聴者を相手の戦いと言えるから、1回ずつの登場と見なして、合計で11回(延で11章)と数えることが出来よう。
 高柳君のそれは、中野君3回、中野君夫妻として1回、道也3回、加えて高柳君は道也の論文、道也の演説に対峙していると見て各1回、合計9回(延9章)の登場である。
 先に「こっち」という書きぶりから、『野分』の主人公は高柳君であると断じたが、登場回数からは道也の方が主人公にふさわしいとも言える。実態としては雑誌論文の書き手や演説会の演者が道也であり、それを読んだり聴いたりする者が高柳君であることから、道也が野々宮さんや広田先生的な主人公、高柳君が三四郎的な主人公であろう。『三四郎』の真の主人公は野々宮宗八であるとする人も、また少なからずいるはずである。

 それはともかく、注目すべきは発言する主人公たる道也が、もう1人の主人公高柳君と直接対面するシーンであろう。それは上表の通り3度書かれるが、3回目は物語ラストにおける高柳君の短い告白で(道也の発言はほとんどない)、主張者道也が『野分』で真に言いたかったことは、高柳君が始めて道也の家を訪れて教えを乞う第1回目(第6章)、高柳君が病気による煩悶から自らの生い立ちを語った第2回目(第8章)に集約されている。
 第6章は、江湖雑誌(第5章)、演説会(第11章)と並んで、『野分』の中で、もう1つの重要な作者の意見が開陳される章であり、その意味ではこの両主人公の初回の会見シーンは、地味ながらも『野分』の隠れたハイライトと言ってよい。そこには「文学とは何か」について、具体的な主張がなされるという、近代小説として非常に珍しい記述が含まれている。

 文学とは何か。文学は他の学問と違う。道也の持論は、高柳君に対する「垂訓」の形で描かれる。

「ほかの学問はですね。其学問や、其学問の研究を阻害するものが敵である。たとえば貧とか、多忙とか、圧迫とか、不幸とか、悲酸な事情とか、不和とか、喧嘩とかですね。之があると学問が出来ない。だから可成之を避けて時と心の余裕を得ようとする。文学者も今迄は矢張りそう云う了簡で居たのです。そう云う了簡どころではない。あらゆる学問のうちで、文学者が一番呑気な閑日月がなくてはならん様に思われていた。可笑しいのは当人自身迄が其気でいた。然し夫は間違です。文学は人生其物である。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものは即ち文学で、それ等を甞め得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿紙を前に置いて、熟語字典を参考して、首をひねっている様な閑人じゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面なく取り捌いたり、感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。其取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのです、だから書物は読まないでも実際其事にあたれば立派な文学者です。従ってほかの学問が出来得る限り研究を妨害する事物を避けて、次第に人世に遠ざかるに引き易えて文学者は進んで此障害のなかに飛び込むのであります」(『野分』第6章)

「わたしも、あなた位の時には、ここ迄とは考えて居なかった。然し世の中の事実は実際ここ迄までやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶蘇や孔子許りで、吾々文学者は其苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分丈は呑気に暮して行けばいいのだ抔と考えてるのは偽文学者ですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです」(同上)

 道也が「江湖雑誌」に書いた『解脱と拘泥』や、演説会『現代の青年に告ぐ』の主張も、漱石の物の考え方がよく分かって便利であるが、『野分』第6章のこのくだりは、漱石の小説がなぜいつまでも読まれ続けるか、その理由の一端が示されているような気がする。

 同じことは第8章の「個人授業」にも言える。道也先生の訓えは、明らかに聴き手高柳君の存在が引き出したものである。道也の主張は、一部出版原稿『人格論』に重なるものであろうが、論文や演説からは得られない、対面した相手の心に直接染み込むメッセージがそこにはある。

 道也先生は高柳君の耳の傍へ口を持って来て云った。
「君は自分丈が一人坊っちだと思うかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高なものです
 高柳君には此言葉の意味がわからなかった。
「わかったですか」と道也先生がきく。
「崇高――なぜ……」
「それが、わからなければ、到底一人坊っちでは生きていられません。――君は人より高い平面に居ると自信しながら、人がその平面を認めてくれない為めに一人坊っちなのでしょう。然し人が認めてくれる様な平面ならば人も上ってくる平面です。芸者や車引に理会される様な人格なら低いに極ってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んで仕舞うから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、矢っ張り同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物も出来る。立派な人格を発揮する作物が出来なければ、彼等からは見くびられるのは尤もでしょう」
「芸者や車引はどうでもいいですが……」
「例はだれだって同じ事です。同じ学校を同じに卒業した者だって変りはありません。同じ卒業生だから似たものだろうと思うのは、教育の形式が似ているのを教育の実体が似ているものと考え違した議論です。同じ大学の卒業生が同じ程度のものであったら、大学の卒業生は悉く後世に名を残すか、又は悉く消えて仕舞わなくってはならない。自分こそ後世に名を残そうと力むならば、たとい同じ学校の卒業生にもせよ、外のものは残らないのだと云う事を仮定してかからなければなりますまい。既に其仮定があるなら自分と、ほかの人とは同様の学士であるにも拘わらず既に大差別があると自認した訳じゃありませんか。大差別があると自任しながら他が自分を解してくれんと云って煩悶するのは矛盾です」
「夫で先生は後世に名を残す御積りでやっていらっしゃるんですか」
「わたしのは少し、違います。今の議論はあなたを本位にして立てた議論です。立派な作物を出して後世に伝えたいと云うのが、あなたの御希望の様だから御話しをしたのです」
「先生のが承る事が出来るなら、教えて頂けますまいか」
わたしは名前なんて宛にならないものはどうでもいい。只自分の満足を得る為めに世の為めに働くのです。結果は悪名になろうと、臭名になろうと気狂になろうと仕方がない。只こう働かなくっては満足が出来ないから働く迄の事です。こう働かなくって満足が出来ない所を以て見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うより外にやり様のないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴いのだろうと思って居ます。道に従う人は神も避けねばならんのです。岩崎の塀なんか何でもない。ハハハハ」

 これらが『野分』で漱石が真に書きたかった「本音」であろう。このような作者の「小説作法」は、『野分』を以って打ち切られた。以後読者にはその成果物のみが届けられ続けたわけである。その意味で『野分』は漱石のディレクターズカットが付加された、極めてレアな作品であると言える。

漱石「最後の挨拶」野分篇 19

354.『野分』どのような小説か(2)――妹の力


 先に(『主人公は誰か』の項目で)夫婦のあり方、兄弟について述べたからには、ここで「妹」について一言触れてみるのも、公平さという観点からは無駄ではあるまい。
 末っ子あるいは1人っ子の漱石には当然弟も妹もいないが、漱石の書く小説には弟も妹も山ほど登場する。弟は漱石本人だからいいとして、妹は何を見て書いているのだろうか。

〇姉妹の場合
 『猫』(トン子・スン子・坊ば)、『道草』(長女・次女・赤ん坊)、『門』の坂井家(当時の夏目家の子供を参照したとすれば4女2男か)、『彼岸過迄/雨の降る日』の松本家(咲子13歳・長男11歳・重子9歳・嘉吉7歳・宵子2歳)はさておき、漱石作品に「姉妹」の登場するケースは限定されているようだ。
 初発は同じ『彼岸過迄』田口家の千代子・百代子姉妹である。千代子は妹のいる唯1人のヒロインとなった。次の例はもう最後の作品『明暗』で、お延が共に青春時代を送った岡本家の継子・百合子姉妹になってしまう。この2人の妹に「百」という字が共通しているのは、宵子(雛子)に叶えられなかった長命の願いを託したものであろうか。
 話は逸れるが、それに引きかえ『彼岸過迄』の時の男の子は、長男(名なし。松本家の後継者にわざと名前を与えなかった)、次男(不吉な葬式の話を穴埋めすべく適当な好字を採用)ともに、不当な取扱いを受けているように思われる。もともと『彼岸過迄』という抹香臭いタイトルからして、(それを隠蔽する)人を喰ったような命名理由が用意されていた。修善寺での臨死と雛子の急死を受けて書かれたことを考えても、まあ漱石の本心は別のところにあったのだろうが。
 『明暗』にはもう1組、目立たぬよう地味に書かれた姉妹が存在する。津田が(お延同様)同居して世話になった藤井の2人の従妹である。どちらも津田が貰おうと思えば貰えたのだが、贅沢好みの津田のお眼鏡にかなわず、2人とも今は嫁いで台湾と福岡にいるという。
 ここで述べることではないかも知れないが、『明暗』では津田とお延はまったく同じことをして居る。独身時代の環境からして、(不自然にも)2人は完全に一致している。つまり2人は同一人物と見ていいのではないか。何が言いたいかというと、この夫婦に子供は出来ないということである。吉川夫人の「奥さんらしい奥さんに育て上げてみせる」という目論見は、(奥さんという言葉が子供と結びつくことを考えても)ここであっさり外れてしまうというわけである。

〇兄妹の場合
 兄妹の場合は俄然趣きが異なる。これこそ漱石の本命であろうか。漱石が始めて書いた「妹」は、『趣味の遺伝』小野田工学博士の妹(寂光院)である。それから『草枕』那美さん、『虞美人草』藤尾と糸子、『三四郎』美禰子、よし子、『それから』三千代、縫子(代助の姪)と続く。『門』御米は最初安井の妹というふれこみであったが、これは戦前まで(男女交際の風習が今と違っていたので)よく用いられたフェイクであった。
 それでもこの「嘘」の混入のせいで、怒涛の兄妹ラッシュは沈静化したようである。次の中期3部作では『彼岸過迄』がお休み、『行人』のお重はしっかり書かれたが、『心/両親と私』における私の妹は、いかにも存在感が薄い。まるで嫁ぎ先が関さんであると、書くためにのみ創り出されたかのようである。『心』では人物の姓はその1ヶ所だけである。そして主人物の名が明かされるのも、奥さんの静、まあ1ヶ所といってよい。なぜこのような中途半端というか不徹底なのか、誰にも分からない。
 そして自己の来歴をなぞった『道草』に妹が出て来ないのは当然として、『明暗』で派手に締め括られたお秀の登場、それと対照的に地味な扱いのお金さん(小林の妹)の書かれ方を見ると、漱石作品における「兄のいる女」の中で、真に「妹らしい妹」の系譜が、一筋存在することが分かる。それは例によって3部作の中で1作ずつ、ハイライト的に描かれているようである。

《3部作における「妹の力」》
 よし子(『三四郎』)
 彼女たちの始祖は『虞美人草』の糸子であろう。糸子は『虞美人草』のもう1人の主人公甲野欽吾の配偶者たりうる者として、作者漱石のお墨付きを得た。これに続く『三四郎』の真の主人公野々宮宗八の妹よし子もまた、三四郎の配偶者として「あれならいい、あれならいい」と(与次郎にだが)言わしめている。よし子は糸子とともに記念すべき女神となった。爾後漱石はこんなことは言わなくなってしまった。
 美禰子にも兄がいるが、美禰子は三四郎には姉さん顔をするようだ。美禰子は新しい造形に見えて、那美さん・藤尾の系譜の掉尾を飾る「姉のような妹」の代表選手になった。三千代は美禰子と双璧をなす妹たるヒロインであるが、兄(菅沼)は物語の始まる前に頓死してしまう。御米は初登場のとき安井の妹というふれこみであった。この3人のヒロインはそれぞれ異なる「妹」の看板を背負っているが、ことさら「妹」としての役割を付与されているわけではない。やはりここでのチャンピオンはよし子であろう

Ⅱ お重(『行人』)
 次の3部作では(前述のように『心』の私の妹は端役として)、『行人』の長野一郎二郎の妹お重が挙げられる。お重はなかなかの造形である。漱石の「妹」の中では異色かつ出色と言ってよい。そしてめでたくも結婚が遠くないとされる(相手は未定だが)。
 お重は泣く女でもある。漱石は『三四郎』まではおおむね女の泣くシーンは書かなかったが(『虞美人草』の小夜子が泣くのはやむを得まい。糸子もちょっとだけ泣いている)、『それから』以降は誰かしら女が必ず泣くことになった。癖になったのだろうか。漱石にしては珍しいことである。(前にも述べたが、『三四郎』が爽やかなのは涙のないせいであろうか。)
 まあ那美さんや藤尾にしても、美禰子にしても、心の中では大泣きしていたに違いないが、よし子だけが、外でも内でも泣かない女である。お嫁さんに最適とされたのも理由なしとしない。余計なことだろうが。

 もう1人『明暗』お延の従妹継子も例外的に泣いていない。継子はよし子同様女学生であるが、お延23歳、継子20歳、そのご褒美か罰かは分からないが、吉川の伝手でお見合いをさせられる。よし子はもしかすると成人していない可能性もあるが、結婚話がある以上(美禰子の夫となる人との縁談であった)、20歳と見ていいだろう。三四郎23歳、よし子20歳。だからこそ、与次郎は保証を与えたのであろう。
 余談ついでに言うと、『猫』の雪江さんは「十七八の女学生」と書かれる。雪江さんもまた一度だけ泣き出しているが、異性に惹かれる年齢ではないようだ。小説に登場する若い女性に対し、恋愛感情を抱いてよい年代かどうか、漱石は明確にボーダーラインを設けているように見える。漱石は大雑把に書いているようで、とくに若い女性に対しては実に細かい、倫理的な配慮を見せる。
 『彼岸過迄』で独り鎌倉から帰った市蔵に給仕する小間使いの作は19歳である。市蔵から「嫁に行きたくないか」と不躾な質問を投げ掛けられて顔を赫らめる。もしかしたら漱石の基準年齢は(20歳でなく)19歳なのかも知れない。「女に好かれた経験がない」と自認する漱石ならではの、どこまでも規則と理屈が優先する気配りであった。

Ⅲ 秀子(『明暗』)
 だんだん行動があけすけになってゆく「妹」であるが、『明暗』のお秀はその到達点であろう。お重もおしゃべりだが、お秀はその百倍は喋っている。涙も(お重の百分の一くらい)流す。おかげで津田の欠点も(お延の欠点も)あからさまに示された。まさに妹の力であろう。
 お秀は漱石作品最後の「妹」となった。お秀は器量望みで貰われて子供も2人ある。まず妹としてはめでたい締め括りと言っていいだろう。

 もう1つだけ、夫婦、兄弟(妹)と来れば、一家の中では両親が残るが、その中で「生きている主人公の父親」というアイテムで、懲りずに3部作の検証を行なってみたい。
 漱石は(すべての文豪の例に漏れず)自分の父親に同情がないが、漱石の父は――漱石の生れたとき父はすでに当時としては「老人」の域に達していたが、存外長生きした。養父は漱石の亡くなったときにもまだ生きていた。それでも漱石は自分の小説に生きて動く父親を書くことは滅多になかった。
 母親については――とくに文豪たちとそのすべての失われた母親については、ここではこれ以上言わないことにする。漱石の「母親」は、主人公に付くことはあっても、家に付いていないので、話の拡がりようがない。3部作ごとのトピックスとして扱うようなアイテムも、母親に関する限りは見つからない。(漱石の生母のような)後妻をテーマにするわけにもいかないのである。

《3部作における生きている父親》
 長井得(『それから』)
 代助の父は生きて代助を養っている。母はいない。三四郎は母1人。父は最初からいない。宗助の家は代助に似て母が早死にして、父は宗助と御米の出来事の前後に病死した。

Ⅱ 長野家の父親(『行人』)
 『行人』の長野家には珍しく両親が健在である。夫婦(子供もいる)とその老親が揃って同居するのは、『行人』のこの家族だけである。おかげで家庭は崩壊していると漱石は言いたげである。敬太郎も須永も父親はいない。『心』の先生も父親が亡くなって大事件になった。

Ⅲ 津田の父親(『明暗』)
 津田もお延も両親は揃って京都にいるが登場機会はない。しかしなぜか各々の育ての親たる藤井夫妻、岡本夫妻と、(津田の処世上の親たる)吉川夫妻ともども、健在というより元気すぎて津田もお延も辟易する。若い男女を描いて日本一の文豪になった漱石であるが、最後の小説で6組の夫婦を登場させ(津田夫婦・堀夫婦・関夫婦・吉川夫婦・藤井夫婦・岡本夫婦)、懐の深さを見せた。

 なお朝日入社以前の作品にも大方父親は出て来ない。坊っちゃんの父親は金をくれない存在であるが、それでもすぐには死なず、漱石作品の中では長く生きた方である。親子の情に薄いという点では津田と津田の父親の関係に近いようだ。処女作に現れて最終作品まで引っ張られる。漱石の書きたくなかった生みの父親が、結局一番長命を保ったのかも知れない。

漱石「最後の挨拶」野分篇 18

353.『野分』どのような小説か(1)――男の小説


 さて総括ふうにまとめると、『野分』の成功しなかったのは、白井道也と高柳周作の怒りが通俗小説的な世界に、バラバラに置き去りにされてしまったためであろうか。
 白井道也(の心の裡の怒り)も高柳周作(の心の裡の怒り)も、両方とも書きたい。ついでに御政(細君)の心の裡も書く。いっそ中野輝一夫妻や道也の兄も同じように表現したかったのかも知れない。
 繰り返すが漱石は『虞美人草』でもう一度(慎重に)チャレンジして、同じように成功しなかった。漱石の頭の中には、自分がこれまでずっと読んで来た英国の小説や、新しいドストエフスキィやイプセンの小説でも、作者が普通に物語を物語れば、それは簡単に達成出来るという思いがあったに違いない。イワン・カラマゾフの考えもアレクセイ・カラマゾフの考えも、当り前だが同時に書き得る(筈である)。彼らのように。
 少し先走りして書くと、『野分』『虞美人草』で2回続けて失敗した漱石は、しばらく通俗小説(ドストエフスキィのようなという意味での通俗小説)から距離を置いたが、9年後の『明暗』で見事に成功したかのようにも見え、また同じ轍を踏んだようにも見える。もし成功したとすれば、それは例の「則天去私」という立場のお蔭であろう。

 漱石は『野分』で(『二百十日』を『野分』のウォームアップと見れば)始めて3人称小説を書いた。それは余や吾輩でなく、主人公を名前で呼ぶだけの違いである。彼らの気持ち・心の中は彼らを外側から叙述すれば表現し得る(と漱石は考えた)。実際に『猫』やその他の短篇でも、漱石は登場人物に対して既にそれをやってきた。あとは人物造形(だけ)の問題である。
 結果から言えば漱石にはそういう書き方は出来なかった。日本人にはと言うべきか。1人称を離れて(3人称小説を)書いているつもりでも、文章の中にどうしても漱石という「人間(我)」が出てしまう。
 早い話が登場人物の君さん付けである。三四郎漱石が始めて呼び捨てにした主人公であり、漱石が君さん付けから完全に自由になったのは、『それから』以降である。
 そして中期3部作の1人称回帰を経て、『道草』ではまた「健三」を3人称の主人公にしたものの、自伝ふうということもあり、実質的には1人称小説の延長に過ぎなかった。しかし漱石はこのときすでに、健三と御住の心の裡をそれぞれに描いて、3人称における叙述の問題は解決したと思い込んだようである。
 漱石が『明暗』で津田とお延を並列に置いて主役としたとき、信じられないことだが、漱石のつもりではアンナカレニーナと同じ書き方をしていただけであった(大石泰蔵宛書簡による)。しかし現実にはまるで別物になった。『明暗』第45回でお延が津田と関係なく独自に行動を開始したとき、一部の読者は愕然とした。
 ここではこの問題はこれ以上詳述しないが、要するに例えばドストエフスキィはイワンを書くときもアリョーシャを書くときも、何に対してでも「こっち」というような書き方をしなかった、とだけ言っておきたい。
 これは漱石の問題であるか、それとも日本語の問題であるか。はてまた神の問題であるか。

 先の項でも述べたが、『野分』の登場人物のうち、道也の兄と中野君の婚約者にだけ名前がない。もちろんなくて構わないわけであるが、道也の兄の場合は、漱石にとって自身にも近い人物設定で、つい他人行儀な役名を付けそびれたのか。
 中野君の婚約者は、名前のない主要人物の若い女性ということで、『趣味の遺伝』の「小野田の令嬢」(寂光院)、『坊っちゃん』の「遠山の御嬢さん」(マドンナ)、『それから』の「佐川の令嬢」、『行人』の「三沢のあの女」「出帰りの娘さん」の流れを汲む者(流れを創り出した者)と言ってよいが、中野君の婚約者の露出とセリフの多さは際立っており、本来名前は付いていた方が自然であろう。しかし彼女は気の毒なことに小説の中で中野君から(高柳君や漱石からでも)名前を呼ばれる場面がなかった。繰り返しになるが、呼ばれない以上(独立した一箇の人物として描写されない以上)名前は必要ないのかも知れない。
 家族は別である。道也の兄は「御兄(おあにい)さん」と呼べば済んだ。漱石は登場人物の名前については、(自分の子供と同じく)適当にこなしていたように見えて、それなりに考えるところはあったのだろう。
 そう思って中野君の名前を見ると、一(姓がN=夏目、名がK=金之助)ということで、中野君の重要度も伝わって来よう。おまけに中野君はユニークにも台という号も有しているようで、これも漱石と同じ(S)である。ちなみに漱石という号を名と姓を兼ねたものと見做すと、高柳作(名がS)、井道也(姓がS)も仲間に入るだろうか。塩原のSとは流石に言わないが。

〇小野三・甲野吾・小川四郎・々宮八・井代助・助・六・田川太郎・永市蔵・野一郎・野二郎・生・

「先生」は人の名前ではないが、『心』の先生は私からも奥さんからもそう呼ばれる、特定の人物である。漱石に近い、Kが登場してからはなぜか漱石臭が減じてしまう、特定の人物である。先生は(Kと同じような)固有名詞の代用である。『猫』の吾輩は家の者に呼ばれることすらなかった。(ところで奥さんが先生のことを、私の前だけにせよ先生と呼ぶのは少し変であるが、日本では割と行なわれる。これも前述の3人称同様、日本語特有の問題かも知れない。奥さんの口から発せられる「先生 ( Sensei )」を、ニュアンスを変えずに欧文に「直訳」するのは難しいのではないか。「 Botchan 」も同じであるが。)
 主人公(男性)に名前が付いていて、S、姓のN、名のK、いずれにも該当しないのは、漱石作品にあってただ1例、『明暗』の津田由雄1人だけである。津田がいかに特異な存在であるかが覗われる。これもまた則天去私の因って来たるところであろうか。しかし『明暗』は未完であるから、津田が関から清子を奪い、お延を捨て家も捨てて清子の婿になるという可能性もゼロではない。その清子の「旧姓」が仲埜とか中根であれば――まあこれは悪い冗談であろうが、中根といえば鏡子も漱石と同じNとKである。2人は赤い糸で結ばれていたのだろうか。

 『野分』の前には主人公に戸籍名は付かない。苦沙弥も寒月も東風(こち)もKで、吾輩も三毛子の家の下女には野良扱いされるが、ノラ(N)という名前ではないようだ。吾輩は一般には黒猫と思われているようだが、黒(K)は俥屋の猫の名で、吾輩の毛の色が黒いとは『猫』では一言も書かれていない。

「我輩は波斯産の猫の如く黄を含める淡灰色に漆の如き斑入りの皮膚を有して居る」(『猫』第1篇)
「此淡灰色の斑入の毛衣」(『猫』第6篇)

 これがどうして黒猫になるのか分からないが、漱石ファンにとってイニシャル的には黒色(K)でありたいところ。
 こう見てくると珍野家の猫に名前がなくても仕方ないが、もう1人の名前のない大ヒーローたる坊っちゃんの名は、やはり(流石に金之助ではないにせよ)Kの列以外にはあり得ない。ちなみに『坊っちゃん』を戯曲化する場合、学校の職員室等の場では名前を呼ばないわけにはいかないと思うが、それを(原作に忠実に)なしで済ませるには、相当の工夫が必要だろう。

 短篇小説は同列に論じられないが、『二百十日』碌さんの友人圭さんもK、『趣味の遺伝』浩さんもK、『琴の空音』の主人公「余」は友人の心理学者津田真方の筆で「K君」と書かれて、すわこれが真の元祖かと思いきや、本文をよく読むと余は「靖雄さん」と、婚約者露子さんの母親の人に1度だけ呼ばれていた。してみると余のKとは残念乍ら(小林とかの)姓の方であった。

 調子に乗ってヒロインの方も棚卸をしてみる。やはり作品順にアカサタナの50音をアルファベットで示す。(真のヒロインは太字で強調する。)

〇三毛子M・金田富子T・雪江さんY・マドンナM・那美さんN・御政M・藤尾H・小夜子S・美禰子M・よし子Y・三千代M御米Y千代子T直子N・静S・御住S・お縫さんN・延子N清子K

 M、N、そしてY、Sが目立つようだが、とくに万遍なく分布している。特徴を見つけるのは難しいが、(無理に)1つだけ挙げると、漱石の5人の女の子、筆H・恒T・栄A・愛A・雛Hと、上記ヒロインの多数派M・N・Y・Sとの相反であろう。Hの藤尾は漱石が最初から「殺すつもり」で製造した、特殊なケースである。三女と四女は、漱石が(面倒くさがって)いい加減に「エイヤッ」と付けたのだとは、冗談にせよ有名な話。反対にこの母音Aの行(アイウエオ)のヒロインは、漱石作品では遂に生まれなかった。(思いつくのは宗近一の妹糸子くらいだろうか。)

 ところで『行人』のお直の正確な名前であるが、直子であるとは小説の中では一言も書かれていない。もちろん「直」である可能性もあるし、そもそも戸籍名が「直」でも一生直子で通すことも当時ではよくある話である。
 『それから』の代助の兄誠吾に2人の子誠太郎と縫子があるが、縫子は最初漱石による代助の係累の紹介では、

「妹はといって三つ違である」
という娘は、何か云うと、好くってよ、知らないわと答える。そうして日に何遍となくリボンを掛け易える。近頃はヴァイオリンの稽古に行く」(以上『それから』3ノ1回)

 と書かれる。ところが彼女の名が次に出現する新聞連載の3ノ5回以降、彼女はずっと小説の最後まで「縫子」で通される。誰かのセリフで「縫子」と呼ばれているわけではない。彼女が名を呼ばれるシーンは小説に一度も登場しない。漱石が自分で(代助に成り代わっているにせよ)書き分けているのである。これは『明暗』でお延が吉川夫人に「延子さん」と呼ばれるのとは訳が違う。
 このことを見ても、漱石の書いたままが「事実」とは限らないことが、少なくとも登場人物の名前に関してはいえるのではないか。まあ漱石に言わせると、どちらも正しいというのであろう。一葉の役場に届けられた表記が「なつ」であれば、「奈津」「夏」「夏子」どれもが正しいのであろう。決めるのは(漱石ではなくて)本人(や家族)というわけである。

 それはともかく、漱石といえどヒロインの名前はエイヤで付けなかったのは当然としても、これで分かるのはやはり男の主人公の名前の(イニシャル的)片寄りであろう。とくに『野分』はフルネームで表わされた3人の男が登場する、漱石最初の「本格派」小説となった。(『猫』にフルネームの登場人物は何人かいるが、全員洒落のめした名前である。つまり渾名と同じである。)
 その『野分』に登場する若い女には名前が付けられなかった。細君こそ描いたが、『野分』に「女」は描かれなかった。『野分』もまた(『坊っちゃん』同様)男の小説であった。

漱石「最後の挨拶」野分篇 17

352.『野分』何を怒っているのか(3)――職業と道楽


 何度も述べるが、道也は子供のないことを除くと周囲の環境が、『猫』の苦沙弥そっくりである。鈴木藤十郎君と金田とのやりとりにこんなのがある。

「あの変人ね。そら君の旧友さ。苦沙弥とか何とか云うじゃないか」
「ええ苦沙弥がどうかしましたか」
「いえ、どうもせんがね。あの事件以来胸糞がわるくってね」
「御尤もで、全く苦沙弥は剛慢ですから……少しは自分の社会上の地位を考えて居るといいのですけれども、丸で一人天下ですから」
「そこさ。金に頭はさげん、実業家なんぞ――とか何とか、色々小生意気な事を云うから、そんなら実業家の腕前を見せてやろう、と思ってね。此間から大分弱らして居るんだが、矢っ張り頑張って居るんだ。どうも剛情な奴だ。驚ろいたよ」
「どうも損得と云う観念の乏しい奴ですから無暗に痩我慢を張るんでしょう。昔からああ云う癖のある男で、つまり自分の損になる事に気が付かないんですから度し難いです」
「あはははほんとに度し難い。色々手を易え品を易えてやって見るんだがね。とうとう仕舞に学校の生徒にやらした
「そいつは妙案ですな。利目が御座いましたか」
「これにゃあ、奴も大分困った様だ。もう遠からず落城するに極っている」
「そりゃ結構です。いくら威張っても多勢に無勢ですからな」
「そうさ、一人じゃあ仕方がねえ。それで大分弱った様だが、まあどんな様子か君に行って見て来てもらおうと云うのさ」
「はあ、そうですか。なに訳はありません。すぐ行って見ましょう。容子は帰りがけに御報知を致す事にして。面白いでしょう、あの頑固なのが意気銷沈して居る所は、屹度見物ですよ」
「ああ、それじゃ帰りに御寄り、待っているから」
「それでは御免蒙ります」(『猫』第8篇)

 これは俥屋一家や金田の茶坊主ピン助キシャゴの嫌がらせ、落雲館中学の吶喊事件・ボール投擲事件のことを指すが(『坊っちゃん』でもバッタ事件・吶喊事件は起こった)、『野分』のサイドストーリーとして読んで何の違和感もない。苦沙弥を道也と置き換えて何の問題もない。現に道也は中学を3度も追い出された。
 しかしこれらのエピソードは、滑稽味のために分かりにくくなっているが、
「損得勘定(感情)抜きで世間に立ち向かおうとする人間に対する、世間側からの報復」
 と見れば、表面的な類似の蔭に、漱石の常日頃の主張が見え隠れするようである。
 それは一言で言うと、
「金を稼ぐには嫌なことをしなければならない」
 という、ありふれた、それでいてあまり根拠のはっきりしない考え方である。

 職業と道楽というのは漱石文学の隠れた「永遠のテーマ」であるが、そこには金に対する漱石独特の考え方がある。
 金は嫌なことをする、その対価だというのである。もちろん誰でも金はもっと欲しい。しかしそれには嫌なことをもっとしなければならない。
 侍の血筋を引く漱石は、(侍でも進んで農業はしただろうに)農林漁業の喜び(苦しみ)を知らなかった。勤労の喜びと辛さは頭では理解したかも知れないが、実際に経験することはなかったと言っていい。だからこそ学者になったのであろうが、学者という職業にも教師という職業にも、嫌悪感以外の感情を抱いたことはなかったと思われる。漱石は教師という職業の喜びを知らなかった。あるいは漱石は小説家という職業に対してさえ、心からの歓びを抱いたことは一度もなかったのではないか。
 それは上に述べたような妙に潔癖な、強迫的とも言える倫理観に根差すものであった。漱石は何かに強制されて自らの働く歓びを禁じているようにすら見える。と言って働かないわけにはいかない。漱石のような勤勉な人間にとって、所謂3年寝太郎的発想はない。毎日休まず几帳面に働く。ただし金の顔(つら)は見たくない。それは嫌なことをした対価である。自分の恥に対するご褒美である。自然生き方としては金の貯まらない方へ奔る。これはある意味無頼派(戦後の)生き方に似ているが、漱石の場合は社会環境に関係なく、完全に個人の事情のみでそれを実行したところが変わっている。
 それが家族の目から見ると、

・夫 自分の主義と趣味を通すことに急で、世間と折り合わず、金を稼ごうとしない。
・妻 困り抜く。

 ということになる。

 漱石は家庭にいて当然それには気付いている。家族の困惑は知っている。漱石の性格からすると、知っていて知らぬ顔は出来ない。漱石は嘘は吐けない。
 ではどうすればいいか。勿論生き方を変えることはできない。現実にはどうすることもできないのである。
 最初から金があれば、こんなことにならなかった。世襲財産があれば、こんなにあくせく無駄なことをせずに済んだのに。
 すべてはそこから発している。あるいはすべてはそこに行き着くというべきか。

 本ブログ13でも述べたように、漱石はこの世襲財産の相続問題について書き続けた。
 『坊っちゃん』では兄は親の家を処分して坊っちゃんに600円、清に50円くれた。兄が遺産を折半したのでないことだけは確かである。(他人が口を挟むことではないが)最低でも5千円くらいは、兄は手にしたのだろう。
 しかし九州へ行った兄に子供が出来るとして、その子が将来叔父に財産(の一部)を奪われたと言い出さないだろうか。坊っちゃんは清から借りた金さえ返さないのであるから、兄から「貰った」600円を返す気遣いはさらにない。

 『草枕』でも那美さんは那古井の宿の女あるじのようであり、自分の金をしっかり持っているように見える。出帰り、母の死去、父の隠居、独り本宅に暮らす兄と仲が悪いとなると、那美さんの立場からは「那古井村一番の物持ち」志保田家の土地や財産が気になってしまう。那美さんは一度嫁に行った身でそれらを相続できるのだろうか。那美さんが相続できるのなら藤尾は死ぬ必要はなかったのではないか。
 そして『野分』でも兄弟の間で(倫理的にどちらかの責めに帰すかも知れないことが)何かあったというのは、先述した通り。道也は無一文で薬王寺前の借家に住まわっているが、兄は(早稲田に)自分の家を持っているようである。

 信じ難いことだが相続トラブルはその後も絶えることなく続いた。
 『虞美人草』は(父親の客死を受けて)甲野欽吾が相続財産を放棄して藤尾に呉れてやろうかという話であるし、小野清三と井上孤堂の間には、相続の逆パタンたる養育費の清算あるいは「婿入り」という問題があった。
 そもそも藤尾の問題は、後妻に入って藤尾を産んだ母親(一家の主婦)が、甲野家において(不思議なことに)何の権利も有しなかったことにある。
 甲野欽吾27歳、藤尾24歳。おそらく欽吾を産んですぐ逝ってしまったであろう母親に代わって、新しい母親が来る。じきに藤尾が生まれる。欽吾4歳、藤尾1歳。爾後20余年。欽吾はふつうなら継母を実の母と思うところ。その父親は『虞美人草』の物語の始まる直前まで生きていたのである。仮に欽吾が早くから事情を知っていたとしても、欽吾にとって藤尾の母は「謎の女」ではなくただの「自分の母」であろう。しかし漱石が藤尾母娘を、甲野家の資産の簒奪者になりうると見ていたのは確かである。

 『それから』の長井家は珍しく家長がいて金に不自由しないが、代助の生活は遺産の前渡し(遣い込み)のようでもあり、代助に起きた事件はその解消の話でもある。佐川の令嬢との見合い話は事実上の婿養子の話でもあろう。代助が資産家の子息でなければ『それから』の物語は何一つ生起しない。したとしても随分違った物語になるはずである――それはちょうど論者の謂う幻の最終作品の筋立てを暗示するような話でもあろうか。
 そして武者小路実篤が「それから論」だけを書いたのも、元々生活に困らない人たちの身に起こった事件に対する反応と分かれば、語るに落ちるとはこのことか。
 その代助にしても本来相続権はないのであるから、父や兄の金をふんだんに遣った贅沢三昧の暮しに対して、これまた将来甥の誠太郎からクレームを付けられる危険性は去らない。それと知ってか代助は中学生になった誠太郎に対し

「到底人間として生存する為には、人間から嫌われると云う運命に到着するに違ない」
「その時彼
(誠太郎を指す)は穏やかに人の目に着かない服装をして、乞食の如く、何物をか求めつつ人の市を彷徨いて歩くだろう」(『それから』11章)

 と(頼まれもしないのに)予言している。「乞食の如く」さまよわなければならないのは当の代助の方であろう。漱石はなぜ長井家の正統な相続人たる誠太郎に対して、こんなもの言いをしたのだろうか。『それから』は『長井家の人々』ではないはずである。

 『門』は論ずるまでもなくストレートに「叔父による財産横領」と書かれ、『彼岸過迄』の市蔵は、出生の秘密が暴かれてみれば、本来相続権のない者が須永家を相続する(かも知れない)という、つまりは長男のような非嫡出子のような養子のような、漱石にとって身につまされるような話とも取れる。
 元来弟は相続出来ない時代ではあるが、兄弟による財産分割の話を、手の込んだ筋書きで攪乱しようとしたのが、『行人』の長野一郎と二郎であろう。両親とも健在であるという(漱石作品としては)異例の設定のもと、財産問題の代わりに、お直の貞操という(遠いようで近いとも言える)別の問題について、兄弟が煩悶することになる。そもそもこの物語に父親(老人)の存在は必要ない。和歌山旅行にも父親は(理由をまったく語られないまま)参加していない。女景清の逸話を紹介するためだけに出てきたとも思えないから、やはり相続の問題から目を逸らすために配置されたものであろう。

 『心』もまた『門』の事件が露骨に蒸し返され、あまつさえ先生は学生の私に(兄がいることを知って)、貰える財産があれば今のうちに貰っておけと、高等遊民らしからぬことを言う。
 『道草』は出帰った養子の話であるとともに、『虞美人草』の小野さんと同じ養育費の清算の話である。養育費が問題になるのは、要するに相続すべき財産がないということである。財産も貰えないのなら老親といえども世話をする必要はない、という興醒めの論理である。金の問題ではないと「育ての恩」を持ち出すなら、これはもう道徳の世界であり、文学の出張る余地はない。しかし一般に人が親に対して(世俗を満足させるような)愛情を感じるかどうかは、これはこれで道徳(自然法)とはまた別箇の問題であろう。だから(道徳の名を借りて)教え込む必要がある。生物界を見渡しても、長じた子が親を世話したり愛情を示したりするケースはないようだ。詳しく調べたわけではないが。

 『明暗』も遺産や財産などと騒ぐくらいなら、生きているうちに貰いたいものだという、子の側の尤もでかつ身勝手な理屈が全篇を覆っている。津田由雄とお延の夫婦が「世間並みの常識」に辿り着く運命にあるのか、またそもそもそんな必要があるのかというのが、この小説が読者に問い掛けていることであろう。吉川夫人は自分の力でそれを達成して見せると豪語するが、小説『明暗』を象徴する無駄な宣言であった。

「私がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんにきっと育て上げて見せる」(『明暗』142回)

 というのは、赤シャツが坊っちゃんを「もっと教師らしい教師にして見せる」と言うようなもので、そんなことが出来れば苦労はないわけである。漱石は何のために胃に孔が穿くような小説を1ダースも書き連ねたのか。

漱石「最後の挨拶」野分篇 16

351.『野分』何を怒っているのか(2)――友情、分裂する自己、そして自己愛


 『野分』の主人公は高柳周作という、卒業したての貧しい文学士であった。もう1人の主人公白井道也も、8年前に卒業した貧しい文学士である。貧は漱石文学のテーマにはならなかったが、主人公が金がなくて困っていること、実業家・俗物に対する軽侮を、漱石は死ぬまで書き続けた。ただし貧書生の元祖苦沙弥先生を見ても分かるように、漱石は所謂社会における「貧しき人々」を書いたわけではなかった。漱石の言う貧はあくまで私的・主観的なものである。
 漱石は自分の歩むべき途が、金の無いことによって阻害されることを懼れた。漱石のめざす道はむろん(漱石にとって)正しい道である。それが妨げられるとすれば、――いっそ歩まない方がましである。
 漱石の主張はただ1つ。自分が自分の人生の主人となるためには、自分の信じる主義思想・趣味を造りあげるための勉強(学問)が必要である。学問(稽古)するためには金と時間が要る。それが無いために人間が食うための木偶人形になるのはつまらない、ということに尽きる。
 ではそれが始めから担保されているらしい生まれながらの金持ちは、自分の信条と趣味に生きて幸せか。世の中はよくしたもので、金持ちでそこに到達する者は稀であるとされる。漱石の金に対する思惑、金満家に対する怒りと蔑視は、ここに発している。もちろん自戒も含まれるのが漱石の常である。博士号を忌避するのは、その称号がイメジされるものが清貧よりは金満の方に振れるからで、貧乏は厭だが金持ちはもっと厭だと言っているのである。漱石はおそらく他から金持ちに見られることさえ厭なのであろう。

 それらの(必要以上に潔癖な)感情の底に流れている「怒り」は、『猫』では目立つものではなかった。『坊っちゃん』でも『草枕』でも、作者の憤怒の感情はユーモラスな高座的語り口と主人公たちの奇矯な言動で巧みに隠蔽された。読者は漱石の怒りを感じる前に、笑いとカタルシスで別世界へいざなわれる。
 怒りが剝き出しになった最初の小説は『二百十日』であろう。圭さんの家は豆腐屋であったがゆえに、苦労して学校を出たようである。学問をして却って世の中への怒りが強まった。圭さんは華族と金持ちが嫌いである。彼らこそ豆腐屋になればいいと没論理的なことを言う。圭さんの怒りは阿蘇の噴煙のようである。親友の碌さんは、「大いにやり玉え」とは言うものの、慣れない登山で足が痛くてそれどころでない。
 休暇を終えて圭さんと碌さんが阿蘇登山から帰った姿が高柳君と中野君である。『一夜』を『草枕』の前書きとして読んだように、そして小説のまとめ方について、端折って失敗した『趣味の遺伝』の轍を踏まないよう丁寧に結ばれた『坊っちゃん』の例と同様、『二百十日』は『野分』の先行作品と言える。

《明治39年怒りの3部作姉妹篇――川柳もどき(川柳「も」くし)相関図》

坊っちゃん趣味の遺伝も親譲り

・那美さんの腕(かいな)一夜草枕

・妻(さい)も泣く二百十日野分の夜も

 冗談はさておいても、『野分』と『二百十日』はセットで読まれるのが普通である。前述のように高柳君と中野君は圭さんと碌さんの交友に比定できる。元豆腐屋の倅で華族と金持ちの大嫌いな圭さんは、高柳君の先輩にして道也先生の後輩であろう。しかし『野分』は『二百十日』の進化形に過ぎないのか。そして(ともに漱石が書いた通俗小説という意味で)『虞美人草』への橋渡しをしたに過ぎないのであろうか。朝日入社前の最後の作品『野分』は、単なる谷間の作品か。

 高柳君と中野君の奇妙な友情については、その後のすべての漱石作品にそのバリエーションが看て取れる。主人公と仲の好い(好かった)同級生・同年輩の友人の登場しない漱石の小説は(『坑夫』を除いて)皆無である。『道草』には仲が好いというほどの友人は登場しないが、『道草』はもともと(『草枕』どころでない)人情を排した小説であるし(夫婦愛は人情とは別物であろう)、それでも健三の親しい同期生の何人かは一応カウント出来る。
 『野分』に先んじる作品群は、『琴の空音』(津田君と余)、『趣味の遺伝』(浩さんと余)、『二百十日』(圭さんと碌さん)、すべて友人を基盤とした物語でもあることから、『坊っちゃん』も、坊っちゃん山嵐の友情物語と言えなくもない(坊っちゃんは主任の山嵐を「君(きみ)」と呼んでいる)。あるいは坊っちゃんとの年齢差が気になるのであれば、(マドンナを介した)山嵐とうらなりの友情物語としてもよい。そして『草枕』もまた、画工と那美さんの「友情」物語として読むことが可能である。この場合も画工と那美さんの年齢差(互いに男女の晩い適齢期に近い)が障壁になるようなら、那美さんと久一の友情が描かれていると言ってもいいだろう。那美さんは男のように描かれているところがある。画工の寝ている部屋や画工の浸かっている湯場に平気で入って来るし、那美さんが軍人になったらさぞ強かろうと兄者にあたる人は詠嘆する。

 まあそれは別な読み方だとして、仮に『坊っちゃん』『草枕』を『坑夫』と同じ例外仲間と見ても、あとの小説はすべて漱石本人と軌を一にして、学生時代からの友人が常に主人公と共にある。漱石は男女の(三角)関係ばかり書いて来たように言われるが、同時にそこには学校時代の友人が必ず附着しているのである。その男同士の関係を離れた男女愛というものを(純愛というのであろうか)、漱石は生涯ただの一度も書かなかった。
 いやそれは言い過ぎかも知れない。短篇ではあるが、『趣味の遺伝』における河上浩さんと小野田の令嬢の「恋愛」は、まさに純愛そのものではないか。
 しかし2人はおそらく言葉を交わすどころか、互いの瞳を見合うことすらしなかったと思われる。これを恋愛と呼べるとしたら、それは久生十蘭の『春雪』のはるか上を行く「純愛」であろうが、突飛なことに漱石はそれを遺伝のせいにしてしまった。漱石は決して照れ隠しで「一目惚れ」に浩さんの祖父を持ち出したわけではあるまい。
 漱石作品に通常の意味におけるプロポーズのシーンはない、と前に書いたことがあるが、漱石の男に自分(だけ)の自由意思で女を好きになった例はない。――いやこれこそ例外が1つだけある。『心』のKであるが、Kはそのために自死したというのが論者の持論である。漱石は男女間において、互いの自由意思による恋愛の存在を認めていなかったかのようである。まるで友情を離れた愛情はないと言わんばかりに。

 では坊っちゃん・画工・炭坑夫見習の3人の若者たちに共通点はあるか。彼らにはなぜ「友人」がいないのか。
 それはこの3作以外のすべての小説を見れば明らかなように、彼らが揃って「帝大」を出ていないということに尽きよう。イヤな言い方だが、帝大と無縁であるが故に友がいない。帝大に非ざれば人に非ずなのか。
 『坊っちゃん』では蔭のヒーローたる赤シャツが帝大出であるが、赤シャツはマドンナをうらなり君から奪い、野だを始め交友も汎い。『草枕』の画工は英語も読めて一応文学士のようなところも見せるが、絵描きを自称する文学士は稀であるから、帝大ではないのだろう。もっとも画工の「友人」は『一夜』で紹介済であるとすれば、漱石が晩年に『草枕』を書き換えたいと思っていたことにも符合しよう。漱石は友人の書かれない帝大出を、そのまま(剥き出しで)小説に登場させることに最後まで抵抗を感じていたということになる。話は逸れるが。

 帝大での日々が漱石を始めて孤独から解放した。それがなければ一生独りぼっち。ところが高柳君はいいとして、同じ帝大出の白井道也は仲間から置き去りにされた「孤客(ミザントロープ)」として描かれる。思うにこの決定的な一点が道也を漱石と分け隔て、道也を正式な主人公から外した真の理由であろう。あるいは漱石も人に言わない心の奥底では、(道也のように)親友なるものがこの世に1人もいないと感じていたのかも知れない。漱石は白井道也とあまりに近すぎて、却って敬遠してしまったというわけである。

 もう1人、『心』の書生の私にも同級の友人はほとんどいないに等しいが、(私を鎌倉の別荘に置き去りにした中国辺の友人のことが申し訳程度に語られるとはいえ、この友人は小説の筋書きのために無理矢理登場させた案山子に過ぎまい。「中国辺」という設定が明らかに漱石の関心の外にあることを示している)、これは小説の建付けとして『野分』に倣ったのだろう。『心』は帝大同級生たる先生とKの物語、あるいは先生と奥さん夫婦の物語であり、もう1人の帝大生私は語り手と狂言回しを兼ねたオマケの主役に過ぎない。『野分』も本体は帝大生たる高柳君と中野君の物語であり、道也は重要ではあるが本筋ではないと、漱石は弁解したかったのかも知れない。では道也の『解脱と拘泥』(江湖雑誌)、生原稿『人格論』(演説会「現代の青年に告ぐ」の内容を含むと思われる)四百枚は何だったのか。漱石は小説の主人公と、真に自分の言いたいことを発言する人物を、書き分けたのだろうか。
 その意味では道也先生の立場は、『三四郎』の野々宮さんや広田先生に似ている。同級生の友人は主人公に任せて、野々宮さんと広田先生の友人は、(いたとしても創作上の都合で)省略されてしまった。余計なことを言うようだが、原口の声掛けで催された文芸家の懇親会は、(三四郎の同級生懇親会と共に)漱石としては異例のつまらなさで、(鷗外同様)懇親会嫌いの漱石は当然ながら二度とそういう会のシーンを書くことはなかった。

 かくして高柳君と中野君はアダムとイブになる。ところで読者はこの2人に惹き合うものが何もないことに首を傾げる。共通点がないばかりか利害関係もなく、相手の背後に兄弟姉妹とか気になる存在が控えているというわけでもない。互いに補完するものも見当たらない。(貧富の違いは補完関係ではない。貴族と乞食は銘々が互いに補完し合っているわけではない。だから革命になるのである。言い換えれば、両者が真に対立し合うのでなく互いに補完関係にある場合は、両者の交代は起こり得ない。)
 漱石の読者は『それから』の代助と平岡が、『明暗』の津田と小林が、なぜ親友たり得たか不思議に思う。三四郎と与次郎はともかく、『門』の宗助と安井にせよ、『心』の先生とKにせよ、友情が彼らを1ミリも向上させていないことを訝しく感じる。『彼岸過迄』の敬太郎と須永、『行人』の二郎と三沢も、まあそれに近い。
 前述した漱石のほぼすべての作品が、学生時代からの友人が常に主人公と共に在ると言っても、その実態はかくのごときものであったか。漱石自身はもっと友人に恵まれていたはずである。もっと別な(気の合う、お互いを向上させるような)友情を知っていたのではないか。ところが不思議なことに漱石はそういう書き方をしなかった。早くに子規を失ったせいだろうか。本人も気にしていたのか、珍しくこんな言い訳をしている。

 高柳君は口数をきかぬ、人交りをせぬ、厭世家の皮肉屋と云われた男である。中野君は鷹揚な、円満な、趣味に富んだ秀才である。此両人が卒然と交を訂してから、傍目にも不審と思われる位昵懇な間柄となった。運命は大島の表と秩父の裏とを縫い合せる。
 天下に親しきものが只一人あって、只此一人より外に親しきものを見出し得ぬとき、此一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友を以って中野君を目しては居らぬ。・・・(『野分』第2章)

 解ったようでなかなか伝わりにくい話ではある。もしかしたら漱石は友情にもその根元には、男女間の恋愛に近いものが流れていると言いたかったのかも知れない。引用部分にある「愛人」という表現を、漱石はそのような意味で使ったのではないとは思うが。
 漱石は男女の愛については誠実に向き合って小説に書いた。男と女の登場人物が互いにそういう感情を抱き合う存在か、その可能性が少しでもあるかないか、年齢境遇に関係なくどんな男女でも、漱石はそれを念頭に置いて記述している。一方男同士の友情については、初期の作品では純な友情として(武者小路実篤みたいに)ストレートに書いたが、次第に男女間の恋愛と対照させるかのように、友情というテイストを排除する方向に変化して行ったように見える。
 しかし先の項でも探ったように、高柳君と中野君の2人はそれぞれ漱石とは似ているところがあるのである。この2人に共通点がないとすれば、それは漱石という人物が2方向へ分裂しているせいであろう。漱石の中の高柳君と中野君という相容れない2つの性格が互いに惹き合う。友情ではない。友情とは別物である。
 後に『明暗』を読む者は、津田と小林の間で演じられた奇妙なやりとりが、かつて『野分』の高柳君と中野君の間でも取り交わされていたことに気付く。厭々居酒屋へ入る津田と、気の進まない音楽会へ行くことに決めたときの高柳君の心情は、瓜二つである。友情とも同情とも憐憫とも関係のない何かが津田と高柳君をつき動かした。これを自己愛が強い人というのかも知れない。漱石は(小説家は)当然自己愛は大変に強い。

 漱石は(太宰治と違って)自己愛そのものを描くことはしなかった。「何故」相手に惹かれるかを書くことはなかった。自分の中の分裂した片方だけを、そのまま生の形で描いた。詳しく書けば書くほど自画像に近くなる。シニカルは漱石の持ち味の1つであるが、シニカルに書けば書くほど自画像に近くなった。その到達点が『心』の先生であり、『道草』の健三であろう。『道草』は自伝を書いたとも言われるが、『心』で余りにデフォルメされた自画像を画いてしまったので(何しろ先生もKも自殺している)、『道草』では極力生身の自分に即した書き方にしたのだろう。それでも自画像には違いない。ファンゴッホレンブラントの自画像同様(北斎ドラクロアの自画像でもいいが)、狂気が現われていようが平穏な空気に満たされていようが、自画像は自画像である。そしてそれは作家にとって、書かざるを得なかったにせよ、たまらなく不愉快なことには違いなかろう。

漱石「最後の挨拶」野分篇 15

350.『野分』何を怒っているのか(1)――朝日入社と正宗白鳥


 『野分』は漱石が12年にわたる教師時代の最後に書いた小説である。同時に白井道也が7年間勤めた中学教師を辞めて生活に困窮する話でもある。道也は教師を辞めて専業の著述家・文士になろうとしている。道也は表面的には漱石の行跡を先取りした形になった。両者のキャリアに何か接点はあるのだろうか。
 もちろんそれは偶然ではなく、『野分』が書かれたときには漱石は読売新聞入社の話が具体的に持ち上がっていた。読売は紅葉の『金色夜叉』を連載していたことからも、当時の漱石にとっては第1に検討すべき新聞社であったのだろう。漱石は『猫』で苦沙弥の家の居間にある新聞のことを「読売新聞」と書いている。(「朝日」と書くときは、それは煙草のことであった。)

漱石略歴
明治0年(慶応3年)1歳 東京生れ。
明治1年(慶応4年)2歳 明治維新
明治28年 29歳 松山中学(1年間)。
明治29年 30歳 五高(7年間)。結婚。
明治33年 34歳(内ロンドン留学2年間)
明治36年 37歳 帝大(4年間)。
明治38年 39歳 『猫』第1篇。
明治39年 40歳 『坊っちゃん』『草枕』執筆。読売入社話と『野分』執筆。
明治40年 41歳 12年間の教師生活終了。朝日入社。

白井道也略歴
明治6年 1歳 東京生れ。
明治31年 26歳 長岡中学(2年間)。
明治32年 27歳 結婚。
明治33年 28歳 柳川中学(3年間)。
明治36年 31歳 山口中学(2年間)。
明治38年 33歳 7年間の教師生活終了。
明治39年 34歳 『野分』の今現在。

 漱石と道也のキャリアが重なるのは、東京でずっと育ったあと、帝大を卒業していきなり地方の中学教師になったことと、教師になって1年後に結婚したことだろうか。その教師を辞めた、あるいは辞めつつあるということが、『野分』と漱石を結びつけるように傍からは見えるが、道也が教師の地位を放り出した年齢(33歳~34歳)からすると、漱石は渡英のときにもう五高に戻るつもりはなかったのだろう。その釈明が(する必要はないのだが)、道也の離職譚になったのではないか。細君や兄が驚くのも無理はない。
 漱石は苦沙弥・坊っちゃん・白井道也を中学教師として書いたが、朝日入社以後は(自分も教職から身を引いていたことも相俟って)大学教師として長野一郎と健三を、一高教師として広田先生を書いたにとどまった。それを例によって3部作ごとの塊りとして見ると次のようになる。

《主人物が教師である小説》
 前期3部作『三四郎』 広田先生。
 中期3部作『行人』 長野一郎。
 晩期3部作『道草』 健三。

 さて晴れて教師生活に別れを告げて、文筆1本で立とうとした漱石であるが、読売の話が結実しなかった理由については俄かに断言は出来ないものの、最初に直接話を持って行った正宗白鳥が、漱石の文学を認めていなかったことが最大の原因ではないか。人は誰も己れを知る者のためには死ねるのであるが、自分を評価しない人間と対座すれば、それは何か感ずるところはあるのである。
 この経緯は『野分』第3章の中にそれとなく書かれている(ように思われる)。
 白井道也は「江湖雑誌」の仕事で中野君の談話を取りに中野邸を訪問する。取次に出た下女に、「あの若旦那様で?」と聞かれるが、若旦那様も大旦那様も、道也は中野君自身のことを殆ど知らない。

「大学を御卒業になった方の……」と迄云ったが、ことによると、おやじも大学を卒業して居るかも知れんと心付いたから
「あの文学を御遣りになる」と訂正した。

 この書き方では現代の読者は、親爺も文学士だったらどうするのかと、つい思ってしまうが、明治39年で親爺の方も文学士だとすると、それはかなり数が限られる。文科大学設立当初の卒業生で、全部併せても10人とか20人である。当然道也も名前くらいは知っている。それに当時は文学士といっても、政治・経済を主にする者ばかりで、そうでなければ哲学である。そもそも開化の世に(西欧文化の礎となったギリシャ・ローマ哲学はともかく)大学校で文学や国史の専門家を養成するという発想はなかったのであろう。あるいはそちらの方面の泰斗は(羽織を着て)すでに鎮座していたのかも知れない。哲学の他に美学・漢学・史学・文学などと明確にコースが分かたれたのは漱石の時代からである。それで「文学をやる」と言えば息子の方を指すに決まっていると思ったのであろう。
 取材相手のことをよく調べないで訪問するのは乱暴な話であるが、相手が下女でもあり、ここまではまあ良しとしよう。運よく面会は叶う。

 所へ中野君が出てくる。紬の綿入に縮緬の兵子帯をぐるぐる巻きつけて、金縁の眼鏡越に、道也先生をまぼしそうに見て、「や、御待たせ申しまして」と椅子へ腰をおろす。
 道也先生は、あやしげな、銘仙の上を蔽うに黒木綿の紋付を以てして、加平治平の下へ両手を入れた儘、「どうも御邪魔をします」と挨拶をする。泰然たるものだ。
 中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにして居たが、やがて思い切った調子で
「あなたが、白井道也と仰しゃるんで」と大なる好奇心を以て聞いた。聞かんでも名刺を見ればわかる筈だ。それを斯様に聞くのは世馴れぬ文学士だからである。
「はい」と道也先生は落ち付いて居る。中野君のあては外れた。中野君は名刺を見た時はっと思って、頭のなかは追い出された中学校の教師丈になっている。・・・

 士族然とした態度もかろうじて許される。中野君は年若い後輩である。平身低頭するばかりが礼ではない。人に頭を下げることを知らないのは漱石も同じであるが、相手が実業家であれば露骨に嫌われる。漱石もそれが分かっているので、最初から実業家には近寄らない。嫌われることが明白なので、あらかじめこちらからも嫌っておく。

実は今日御邪魔に上がったのは、少々御願があって参ったのですが」と今度は道也先生の方から打って出る。・・・
実は今度江湖雑誌で現代青年の煩悶に対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありまして、夫で普通の大家許りでは面白くないと云うので、可成新しい方も夫々訪問する訳になりましたので――そこで実は一寸往って来てくれと頼まれて来たのですが、御差支がなければ、御話を筆記して参りたいと思います」

 この依頼の仕方はまず最悪の部類に属するだろう。普通の大家ばかりでは面白味に欠けるから貴方のような若造にも話を聞きたいと言っている。中野君でなければ怒り出すところかも知れない。そしてさらにひどいのが、自分は単に社から頼まれて来たのだという、「子供の使い」発言。漱石はわざと書いているのだろうか。
 そしてこの訪問挨拶の箇所だけで「実は」という言葉が3回続けて使われる。大西巨人(『神聖喜劇』)ではないが、「実」だけで生きている漱石のような人にとって、「実は」という感投詞だか副詞だか(『猫』による)は、本来必要のない言葉であろう。繰り返すが漱石は分かって書いているのではないか。

 道也先生は静かに懐から手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければ強いて話させたい景色も見えない。彼はかかる愚な問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えて居ない。
「成程」と青年は、耀やく眼を挙げて、道也先生を見たが、先生は宵越の麦酒の如く気の抜けた顔をしているので、今度は「左様」と長く引っ張って下を向いて仕舞った。
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない
「そうですね。あったって、僕の様なものの云う事は雑誌へ載せる価値はありませんよ」
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いて入らしったんです。あまり突然じゃ纏った話の出来る筈がないですから」
御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで
「いえ、どうしまして」と中野君は横を向いた。
何でもよいですから、少し御話し下さい
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇している。
せっかく来たものですから
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。

 この引用部分前半もひどい。道也のやる気のなさが剝き出しで書かれている。後半もすべて他人事で不誠実・無責任・自分勝手。漱石は(『坊っちゃん』みたいに)滑稽物語を書こうとしているのだろうか。

「その位な所で」と道也先生は三度目に顔を挙げた。
「まだ少しあるんですが……」
「承るのはいいですが、大分(だいぶ)多人数の意見を載せる積りですから、反ってあとから削除すると失礼になりますから」
「そうですか、夫じゃその位にして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、嘸筆記しにくかったでしょう」
「いいえ」と道也先生は手帳を懐へ入れた。
 青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例の如く泰然として只いいえと云ったのみである。
「いや是は御邪魔をしました」と客は立ちかける。
「まあいいでしょう」と中野君はとめた。責めて自分の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。夫でなくても、先達て日比谷で聞いた高柳君の事を一寸好奇心から、あたって見たいのである。一言にして云えば中野君はひまなのである。

 中野君の側にも事情があった。高柳君たちの起こした道也追放事件の当の本人か否か、そして何より中野君は閑暇があった。中野君が道也を許したのは温厚な性格ゆえだけではなかったのである。

「いえ、折角ですが少々急ぎますから」と客はもう椅子を離れて、一歩テーブルを退いた。いかにひまな中野君も「夫では」と遂に降参して御辞儀をする。玄関迄送って出た時思い切って
「あなたは、もしや高柳周作と云う男を御存じじゃないですか」と念晴らしの為め聞いて見る。
「高柳?どうも知らん様です」と沓脱から片足をタタキへ卸して、高い背を半分後ろへ捩じ向けた
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
 中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋る音がして梶棒は硝子の扉の前にとまった。道也先生が扉を開く途端に車上の人はひらり厚い雪駄を御影の上に落した。五色の雲がわが眼を掠めて過ぎた心持ちで往来へ出る。(以上『野分』第3章一部再掲)

 高柳君(中学時代)の話だけでなく、中野君のフィアンセも登場する展開になって、読者はこのとんでもない茶番を忘れる。
 これは正宗白鳥漱石を訪ねたときのいきさつを(デフォルメしているものの)感じとしてよく捉えているのではないか。道也はそういうところは確かにあるものの、決してこのような空気を読めない一辺倒の男ではない。それは後段の立会演説会の要所を衝いた駆け引きを見ても明らかである。

 退職と朝日入社。漱石はこの2つの私的なイベントに対する(自分自身への)申し開きの念も込めて、『野分』を書いたと言える。『野分』が『坊っちゃん』『草枕』に続く傑作とならなかった所以であろう。
 そして漱石はどさくさに紛れて白井道也を背の高い人と書く。道也は顔も長く、背丈も長いと何度も書かれる。『猫』では苦沙弥は迷亭「どうだい苦沙弥抔はちと釣って貰っちゃ、一寸位延びたら人間並になるかも知れないぜ」と言われる。(苦沙弥は半分その気になるが、背が延びるのではなく脊髄が壊れるのだと寒月に言われて断念する――『猫』第3篇首縊りの力学。)坊っちゃんも小柄と書かれるし、『草枕』の画工も身長については触れられないが、那美さんが脱衣所で「後ろへ廻ってふわりと背中へ着物をかけた」からには、大男ではあるまい。道也が始めて長い人と書かれた。爾後漱石作品で漱石らしいと目される(「等身大の」漱石と目される)登場人物は、おおむね背が高いとされるが、『野分』の道也はその草分けとなった。ちなみに正宗白鳥は身長の低いことでは漱石の上を行っている。漱石は疑われないように韜晦したか、あるいは思い切って皮肉を効かせたのではないか。もちろんその皮肉はほとんどブーメランのように、自分にも降りかかってくることは承知の上での話だろうが。