明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 20

394.『道草』先行作品(9)――『硝子戸の中


・第4集『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

 前作『思い出す事など』から丸4年。作物のなかった「死の明治44年」から4年経過した大正4年、漱石4冊目の随想集はまた、最後の随想集ともなった。毎年繰り返す大病とカムバックに、何か思うところがあったのだろうか。『満韓ところどころ』『思い出す事など』は書いた目的が限定的ではっきりしていた。『硝子戸の中』は何のために書かれたか。何が残された時間の少ない漱石に、こんな「閑文字」を書かせたのか。同じ年に『道草』が書かれたことだけは動かしようのない事実であるが。

1回「硝子戸の内」 多事の世の中に敢て閑文字を並べる覚悟~夏に書く小説の前に春(正月)に何か書いてみる
2回「笑う男」 御約束では御座いますが少しどうか笑って頂けますまいか~人前で笑いたくもないのにしばしば笑ってみせた経験~その讐い
3回「ヘクトー1」 宝生新から貰った仔犬~1週間名前を付けなかったので子供が名を呼べない~ギリシア神話の勇将の名前を付ける
4回「ヘクトー2」 乱暴者で弱虫のヘクトー~自分が大病(『心』脱稿後の病臥)をした間にヘクトーは家族にも自分にも馴れなくなったようだ
5回「ヘクトー3」 やがてヘクトーも病気になった~猫の墓の隣に建てた墓標「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」
6回「吉永秀1」 未知の読者の身の上話~白粉を付けない女の頬がほてって赤くなった
7回「吉永秀2」 悲痛を極める女の身の上話~そんなら死なずに生きて居らっしゃい
8回「吉永秀3」 死は生より楽なもの~死は生よりも尊い~だからこそ生へ執着し生を苦しむ
9回「太田達人1」 万事に鷹揚な彼は一度も激したことがない~風もないのに落ちる葉を見て突然悟りを闢く
10回「太田達人2」 「いやに澄ましているな」「うん」~「人間も樺太迄行けば、もう行く先はなかろうな」~「あの栗饅頭を取って来たのか」「そうかも知れない」~「なにチャブドーだ」
11回「女の人の原稿」 これは社交ではありません~小説を書くとは思い切って正直になること~指導する方も正直に自分をさらけ出す~怒ってはいけない
12回「岩崎某1」 茶の缶~富士登山の画
13回「岩崎某2」 拝啓失敬申し候へども~短冊の要求と嫌がらせの手紙
14回「幕末の盗賊」 兄が最近鏡子に語った異母姉佐和の思い出話~紙入の50両を軍用金に盗られる~此家(うち)は大変締りの好い宅(うち)
15回「薄謝」 学習院の講演の謝礼に10円貰った~学生から金を受領したくない~この金は報酬かそれとも感謝の表意か
16回「床屋の亭主1」 高田は2週間前に死んだ~求友亭の横町の2階のある家から肴町行願寺の寺内へ引っ越した~家の真向いにたった1軒あった東屋という芸者置屋
17回「床屋の亭主2」 芸者咲松「またトランプをしましょう」「僕は銭がないから嫌だ」「好いわ私が持ってるから」~御作は23歳のときウラジオストクで死んだ
18回「片付かない女」 頭の中がきちんと片付かない~でも心の中心には確固たる不変のものあるはず~その2つの折合いがつかない~変わるもの即ち変わらないものである~頭と心は1つのものである
19回「馬場下の旧宅1」 堀部安兵衛の桝酒~小倉屋の御北さんの長唄~やっちゃ場の仙太郎さん~西閑寺の寂しい鉦の音
20回「馬場下の旧宅2」 近所に1軒あった小さな寄席~母から小遣いを貰って南麟を聞きに行く~矢来の坂を上って寺町へ出る昼でも薄暗い1本道
21回「馬場下の旧宅3」 姉たちの芝居見物~馬場下から浅草まで1日がかりの大旅行~玄関様
22回「病気と死」 死ぬまでは誰もが生きている~人が死ぬのは当り前だが自分が死ぬとは考えられない~弱い自分が生き残っている不思議
23回「早稲田田圃 喜久井町と夏目坂~早く崩れてしまえばいいと願った生家もいつしか取り壊された
24回「年始の客」 置屋にいた友人の話~約束を交わした女が旦那2人の見受け話の中で自死してしまった
25回「大塚楠緒さん」 雨中のすれ違い~夫婦喧嘩をしているとき訪ねて来たことがある~胃腸病院にいる頃訃報に接した
26回「益さん」 郵便脚夫の益さんと兄たち~ペロリの奥さんの「貴方よろしい有難う」~野中の一本杉
27回「芸術論争」 元旦の酔客~芝居嫌いは騙されて泣くのが癪に障るから~芸術は平等観から出立するのではない
28回「3代目の黒猫」 夏目家の猫は3代とも薄幸~病気と平癒を繰り返す自分と猫~おや癒るのかしら
29回「里子と養子」 父からは苛酷に取扱われた~しかしなぜか浅草から牛込へ移されたときは嬉しくてはしゃぎまわった~真実を耳打ちしてくれた下女の「親切」
30回「継続中」 「どうかこうか生きている」を「病気は継続中」に改めた~無知ゆえの「継続」なら、すべての人は何事も継続中のまま死を迎えるのであろう
31回「喜いちゃん1」 喜いちゃんは漢学好きの小学校時代の友達~自筆本『南畝莠言』を25銭で買う
32回「喜いちゃん2」 稀覯本25銭の責任は売り主にあるか買い主にあるか~本を返して25銭は受け取らない
33回「直覚」 悪人も善人もいる世間の中で自分が正しく生きる途はあるか~自分が正しい応対をしていることが分かったなら、神の前にひざまづいてもよい
34回「講演」 蔵前工業の講演(大正3年1月)が分からないと言われた~それで同じ年の学習院での講演では、疑問点があるときは私宅へ来てくれと言った
35回「伊勢本」 子供のころ通った日本橋伊勢本(寄席)の思い出~田辺南龍「すととこ、のんのん、ずいずい」~先年新富座の美音会で当時前座だった琴凌(4代目宝井馬琴)を見て、昔とまったく変わらない顔と芸に驚いた
36回「長兄大助」 開成学校時代上級生から貰った艶書~終始堅苦しく構えていたがそのうち柔らかくなった~役者の声色と藤八拳~「兄さんは死ぬ迄奥さんを御持ちになりゃしますまいね」
37回「母千枝1」 「母は私の十三、四の時に死んだのだけれども」~大きな老眼鏡を掛けた御婆さん~「母はそれを掛けた儘、すこし顎を襟元へ引き付けながら、私を凝と見る事が屡あったが」~母の里は四谷大番町の質屋で永く御殿奉公していた
38回「母千枝2」 「御っ母さんは何も云わないけれども、何処かに怖いところがある」~「母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかった。そうして父よりは賢こそうに誰の目にも見えた」~白日夢「心配しないで好いよ。御っ母さんがいくらでも御金を出して上げるから」
39回「硝子戸の外」 今日は日曜で子供がいる~「そんなに焚火に当ると顔が真黒になるよ」「いやあだ」~私の書いたものは懺悔ではない~私の罪は私を超えて、天上から微笑しているようである~雲の上から愚かな私を見下ろして微笑んでいるようである

 * * *

 物語は硝子戸の内の文机で始まり(苦沙弥先生のように)、硝子戸の外の陽当りの良い縁側で終わる(宗助のように)。エセイ集らしく最近の出来事も述べられているが、心情は(『猫』から『門』に至る)文豪漱石の前半の作家人生に寄り添っているかのようである。すでに漱石の心は『道草』にあったのか。

Ⅰ 依怙贔屓
硝子戸の中』が『道草』と異なる最大の点は、家族について好い思い出のみを書いていることだろうか。母・長兄・長姉。この3人組が『道草』に登場することはない。『道草』に書かれるのは別の3人である(父・三兄・次姉)。
硝子戸の中』は好い事のみを思い出しているわけではないが、この調子で嫂登世が書かれたならと誰しも思う。しかし嫂は漱石の家族ではない。『道草』で僅かに触れられた1、2行を除いて、登世のことが漱石作品に露出することは遂になかった。話は逸れるが、『行人』で自分の妻が気に入らない一郎と、そのお直に惹かれる(ようにも見える)二郎を登場させたとき、漱石は三兄直矩に(あるいは読者に)、登世と自分のことを連想させるとは露ほども思わなかったに違いない。なぜなら登世のことを書いたのは子規への手紙1回こっきりであり、そのことは漱石も忘れていたであろうし、覚えていたとしても、まさかその自分の手紙が後世に公になるとは、(子規が手紙を捨てずに保存していたとは、)想像すらしていなかっただろう。
 好い思い出ということでは、芸者咲松・太田達人・大塚楠緒子もまた、『硝子戸の中』の好感トリオである。この調子で米山保三郎を、井上眼科の女をと思わざるを得ないが、天然居士については(談話を除けば)『猫』で曖昧に紹介されたに過ぎず、眼科の少女もまた、それが書かれているのは(登世と同じく)子規への書簡だけである。

Ⅱ 小さな謎
硝子戸の中』最大の謎は、何度も書くようにやはり、「母は私の十三四の時に死んだのだけれども」という第37回の記述であろうか。母千枝は漱石15の春に亡くなっている漱石がサバを読んだとはとても考えられないが、「母が死んで6年目の4月に中学を卒業した」という『坊っちゃん』の記述を信じれば、坊っちゃんもまた(『硝子戸の中』の「私」同様)14歳の春に母を亡くしている。――6年目、20歳の春に中学を卒業した。20歳で高等学校へ入学して23歳で卒業、帝大入学。これは漱石のすべての主人公に共通する履歴である。
 年齢といえば、4歳から「物心のつく」8~9歳まで浅草の養家にいたというが(第29回)、それでは漱石は(三つ子の魂百までといわれる)3歳の時まで牛込の自分の家にいたのか。赤ん坊は生れて満1年でよちよち歩きを始める。満2年は可愛い盛りである。漱石はこのとき既に塩原夫婦に「溺愛」されていたのではないか。だがこれは乳母等の第三者の証言がない限り、論じても栓のないことであろう。しかし3歳(満2歳)ならば、ぎりぎり本人の記憶には残っているのではないか。自分の原初の記憶が生家にあったか塩原にあったか、少なくとも若い頃の漱石は覚えていたのではないか。
 その喜久井町の旧宅について、2階の古瓦が少し見えたという記述があるが(第23回)、これは蔵の瓦屋根のことだろうか。漱石が生家で2階に住まわったような形跡はないが、これもまたはっきりした証言が残っているわけではない。
 もう1つ、有名な「喜いちゃん」(第31・32回)は、『永日小品/柿』の女の子の喜いちゃんではない。『永日小品』の喜いちゃんは、引きこもりがちでお琴の稽古をする銀行勤めの家の女の子である。いたずらっ子の与吉に柿を投げた喜いちゃんは漱石の友達ではない。漱石の友達は蜀山人の写本を持ち出した漢学好きの、(『硝子戸の中』の)喜いちゃんの方である。

Ⅲ 死は生き通せない(承前)
 漱石の作品が常に心に沁みるのは、その底流に生と死に対する根源的な洞察が潜んでいるからであろう。前項までの『思い出す事など』は言わずもがな、『硝子戸の中』においても、それは随所に伺われる。

 不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうして其死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
死は生よりも尊とい
 斯ういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
 然し現在の私はいままのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、乃至千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事が出来ないので、私は依然として此生に執着しているのである。(『硝子戸の中』8回)

 死は人間の到達しうる最上至高の状態である。そしてその(死という)状態は、生よりは楽なものである。しかしながら私は解脱することが出来ないので、この生に執着するばかりである。――
 これは弱年時から漱石につきまとっていた「父母未生以前の面目」という「提唱」に対する漱石なりの解答であろう。死が生より楽なものならば、生き物は皆歓んで死ねばいいわけである。しかるに生に執着するというのは、解脱が出来ないということの証左である、と漱石は言う。では解脱とは何か。解脱を死と解すれば話は無限ループに陥る。解脱は死ではない。「死とは何か」を考えることである。これを考究することが唯一残された解脱への途であろう。

 或人が私に告げて、「他(ひと)の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事丈は到底(とても)考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々斃れるのを見ていながら、自分丈は死なないと思っていられますか」と聞いたら、其人は「居られますね。大方死ぬ迄は死なないと思ってるんでしょう」と答えた。(同22回)

「自分だけは死なない」「人間死ぬまでは生きている」
 これは一見寄席落語的軽口に似て(苦沙弥先生は「僕は死なない事に決心している」「いえ決して死なない誓って死なない」と宣言している――保険会社のセールスマンに対してだが)その実、生と死の狭間に横たわる深淵を言い当てているようにも見える。「人は死を経験しない」「我々の生はふちを欠いている」「今を生きる者は永遠に生きる」という香気の高いヴィトゲンシュタインの言葉に近いものがある。生と死。最も身近で大切な友にして、永遠に交わらぬ友。

 客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続中のものは恐らく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、――凡て是等の人の心の奥には、私の知らない、又自分達さえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼等は果して何う思うだろう。彼等の記憶は其時最早彼等に向って何物をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔と又其昔の間に何等の因果を認める事の出来ない彼らは、そういう結果に陥った時、何と自分を解釈して見る気だろう。所詮我々は自分で夢の間に製造した爆裂弾を、思い思いに抱きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。唯どんなものを抱いているのか、他も知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。(同30回)

 我々の生はただ「継続中」であるに過ぎない。生が継続中であるというだけの状態。それ以外は誰にも判らない。死は経験出来ない。死が何物であるかは誰にも判らない。自分にとって死がどういうもの(状態)であるか、それは所詮考えて判る話ではない。

Ⅳ 一番大切な事
 人を信じるべきか疑うべきか。その人は善人か悪人か。(『心』の先生が断じたように、)世の中には鋳型に入れたような悪人がいるわけではないのは慥かであろうが、多くの人にとってその見極めは悩みの種ではある。しかし善であれ悪であれ、所詮相手のことである。騙されるのは悔しいが、相手が悪かったと思うしかない。(金銭的な)実害でもない限り、それほど自分を責める話でもないだろう。ところが何でも自己に即して考えたがる漱石のような人にとっては、その判断の「誤まり」は直接自身の評価に結び付く。相手の正邪を判定し損なうことが自分の正邪に直結するので、(相手の前に)自分が許せない。

 もし世の中に全知全能の神があるならば、私は其神の前に跪ずいて、私に毫髪の疑を挟む余地もない程明らかな直覚を与えて、私を此苦悶から解脱せしめん事を祈る。でなければ、此不明な私の前に出て来る凡ての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私と其人との魂がぴたりと合うような幸福を授け給わん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙されるか、或は疑い深くて人を容れる事が出来ないか、此両方だけしかない様な気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。(同33回)

 これではまるで『人間失格』の大庭葉蔵ではないか。いったいどんな大事件が出来(しゅったい)したのかと読者は驚くが、漱石が書いているのは世間に行われる普通の交際の話である。一般論である。これでは胃に孔があくのも仕方がない。
 漱石はあらゆる人の倫理観(正邪善悪)を見抜くべく、すべての小説を書いている。それが自分の小説は倫理的であるという自負につながる。あらゆる人の正邪善悪が見抜けないとすれば、漱石の「倫理」は音を立てて崩壊するというのである。

Ⅴ 『道草』への途
 後書きのような最終回で、漱石は珍しくこれまでの連載を総括するような筆致を見せる。

 私の冥想は何時迄坐っていても結晶しなかった。筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持もするし、彼(あれ)にしようか、是にしようかと迷い出すと、もう何を書いても詰らないのだという呑気な考も起ってきた。しばらく其所で佇ずんでいるうちに、今度は今迄書いた事が全く無意味のように思われ出した。何故あんなものを書いたのだろうという矛盾が私を嘲弄し始めた。有難い事に私の神経は静まっていた。此嘲弄の上に乗ってふわふわと高い冥想の領分に上って行くのが自分には大変な愉快になった。自分の馬鹿な性質を、雲の上から見下して笑いたくなった私は、自分で自分を軽蔑する気分に揺られながら、揺籃の中で眠る小供に過ぎない
 私は今迄他の事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、成る可く相手の迷惑にならないようにとの掛念があった。私の身の上を語る時分には、却って比較的自由な空気の中に呼吸する事が出来た。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘を吐いて世間を欺く程の衒気がないにしても、もっと卑しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずに仕舞った。・・・私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――頗る明るい側からばかり写されていただろう。其所にある人は一種の不快を感ずるかも知れない。然し私自身は今其不快の上に跨がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今迄詰らない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、恰もそれが他人であったかの感を抱きつつ、矢張り微笑しているのである。(同39回)

 漱石はみずから描いた自画像を、(作品の出来栄えだけからの評価にせよ)佳しとしている。これはそれまでの漱石には見られなかったことである。いったいどうしたと言うのか。

「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時迄も続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
 健三の口調は吐き出す様に苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
 細君は斯う云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。(『道草』102回小説末尾)

 次作『道草』を読み終わった読者は、この『硝子戸の中』の最終回を思い出して、漱石が『道草』を結んだときの心情を忖度する。健三のセリフは(わざわざ)「苦々し」いとは書かれるものの、意外にも健三と赤い頬の赤ん坊には、作者の分け隔てない同情が注がれていたのである。試しに引用下線部が書かれなかったと仮定して読み直してみると、健三が(『硝子戸の中』の漱石のように)「微笑してい」てちっともおかしくないことが解かる。