明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 19

393.『道草』先行作品(8)――修善寺の大患


・第3集『思い出す事など』 (つづき)

Ⅰ 大吐血はなぜ起こったか
 直接の原因が漱石胃潰瘍にあることは言うまでもない。問題はなぜそれが暴発に至ったかである。

①塩原昌之助
 前述したように明治41年12月の伸六誕生が、翌る明治42年3月~11月の塩原昌之助百円縁切事件(所謂「道草」事件)につながり、明治43年夏漱石は昏倒する。もし漱石がそのまま帰って来なければ、その年の桃の節句に生れた雛子は、漱石の「忘れ形見」となるところであった。漱石はしぶとく生還し、生れて始めて病院で越年したが、その明治44年の末には雛子が身代わりのように亡くなってしまった。結果として伸六は(漱石と同じく)末子の男子になった。
 同じ年(明治44年)に起こった博士号問題・朝日退職問題・文芸欄問題などの鬱陶しい揉め事も、養父との絶縁の罰が当たったとは言わないが、その厄落しのためにも、『道草』はいつかは書かれなければならなかったのであろう。育てられた恩義に報いなかったのは誤りではない。漱石サイドにはそう主張する正しい(と自分が信じた)理由が存在した。『道草』はその申し開きのために書かれた小説とも言える。

②薬害もしくは医療過誤
 明治時代にはそういう発想はなかったかも知れないが、すでに足尾鉱毒事件も起きて久しい。漱石が人事不省に陥ったのは東京から医師団が到着した後の出来事である。
 薬が効きすぎるということがある。種痘から疱瘡を発症したのもその一例であろうか。漱石は酒が飲めない。酒を飲んでも苦しいだけで楽しくならないので、酒が薬にならない。例えば初恋の頓挫といった、誰にでもありそうな経験が、漱石のようなタイプの人にとっては、一生(妻以外の)女に近寄れないという「症状」を引き起こすことがある。自分では癇性・変人・潔癖と言い訳するかも知れないが、自然に順っているのではないことに薄々気付いている。
 空腹に耐えられる人とそうでない人がいる。漱石の大食いは有名だが、1日くらい絶食して割りと平気な人もいれば、(胃酸が強いのであろうか)非常に苦しむ人もある。シャロックホウムズは考え事に夢中になると食事することを忘れるようなイメジがあるが、実際には規則正しい英国紳士らしく、1食抜いただけで大騒ぎするようなところも見受けられる。読者は昼飯を食いそびれたホウムズがそのまま事件調査にかかって、夜遅く帰宅して(まるでこれ以上血糖値が下がると命が危ないと言わんばかりに)冷め切った皿のパイだかに突撃するシーンを思い出す。眠狂四郎は(少なくとも読者の前では)食事というものをまったくしない。まさか日本酒だけで生きているわけでもなかろうが、この稀有の武闘家は食うことにまるで関心がないかのようである。たった一撃で敵を斬り斃す膂力や、あの強靭な瞬発力・跳躍力を生む筋肉はどこから来るのだろう。戦中戦後の食糧難時代を過ごした作者の反語(皮肉・怒り)であろうか。

Ⅱ 『明暗』への道
 漱石のすべてのエセイが、自伝的作品たる『道草』を指し示しているように見えるのは理の当然としても、その中で彼岸の手前でとどまったことを書いた『思い出す事など』と、実際に行ってしまった漱石最後の作品たる『明暗』の間に、互いに結びつくものがあることもまた容易に想像されるであろう。すべての道は『明暗』に通じるとは言わないが、どちらも漱石がある究極を描いていると思われるからである。

③釣台に乗って旅館を出る
『明暗』続篇の話になるが、書かれなかった部分の設定としては、津田もまた漱石みたいに釣台に乗ったまま、旅館の我が部屋を出ることになるのではないか。温泉毒に当たって大出血した津田は、もう自分の力で歩く自由を持たない。下手に歩くとまた傷口が破裂する。階段の多い入り組んだ造りの旅館の廊下では、戸板に担がれる方が勝手である。
 そのための担ぎ手が勝さんと手代、加えて東京からわざわざそのためにやって来る小林と原であろう。お延ももちろん一緒である。鏡子が何度旅先で寝込んだ漱石の許へ駆け付けたか。
 皆で大騒ぎして津田を表玄関の庭へ出す。以下漱石の経験は少しアレンジされ、戸板の釣台は地べたから馬車に渡されて、津田は周りを支えられながら馬車の座席に半ば寝そべるように乗り移る。宿の人々と別れて湯河原の駅へ。馬車を降りたらそこから先は小林と原の肩を借りるしかない。軽便、小田原鉄道の電車、東海道線と乗り継ぐ「懺悔の鉄路」。一部の読者はここで小林が医師と同姓であったことに得心がいく。

 勿論これらのくどくどしい道行のさまがそのまま叙述されることはないだろう。漱石は主人公の旅を書くとき、往復とも描写するということはしない。「裁かれたる復路」は実際には「省かれたる復路」となって、小心な津田の「不安」としてのみ語られよう。
 その大団円たる哀れな旅路を読者に想像させながら、『明暗』の最後の物語は進行する。
 小説の流れとしては、温泉宿で動きの取れなくなった津田の回が終わったあと、お延が吉川夫人、小林とそれぞれ対決し、物語は津田の許へ向かうお延ら3人の変則的な道中で幕を閉じる。
 漱石はここでも最後まで書き切るということをしない。お延(と小林)が天野屋で津田と久しぶりに顔を合わせるシーンとそれから先の道のりは、現実の物語としては語らないのが江戸の粋であり、江戸っ子漱石の流儀である。

《『明暗』続篇概要》
・昼食後、連れ立って不動滝を見に行く。滝の前に佇む清子と浜の夫婦。滝がよりよく見える高台への坂道を独り上る津田。
茶店のかみさんは葭町の元芸者。太鼓持ちの亭主との滑稽な会話。津田と清子の会話も同じように嚙み合わない。対照の妙。
・夕刻、下の階の(効き目の強い)湯に浸かった津田は傷口が開いて悶絶する。
・倒れた津田に対し、清子は吉川夫人に援けを求める。(津田の回の終わり)
・お延は突然やって来た吉川夫人から津田のアクシデントを聞かされる。(お延の回の始まり)
・吉川夫人は(清子の名を出すわけにはいかないので)宿の番頭からの話としてお延に伝える。
・吉川夫人の帰ったあと一人悩むお延。温泉逗留をいつまでも続けるわけには行かない。
・しかし動けない津田を女の手だけで東京へ連れ戻せるものだろうか。
・津田には一刻も早く再手術を受けさせたい。お延は津田を迎えに行く決断をする。
・お延はそれを告げに吉川夫人の許を訪れるが、そこには小林と原が(画の商談に)来ていた。
・お延は吉川夫人と相談の上、小林たちに同行を依頼する。資金の手当てのことはすべて現行の『明暗』の中に書き込み済である。流石に3人分の1泊旅行には足りないので、お延は指輪を質入れする。これが吉川夫人の謂う「奥さんらしい奥さん」のことであろう。
・湯河原へ向かうお延・小林・原の凸凹トリオ。途中の乗換駅のどこか(早川口か国府津)で、上京する清子と遠くすれ違う。

 漱石作品の常套では、津田の湯河原行きの叙景が既になされている以上、お延たちの旅の様子は一切書かれないのが通則であるが、『明暗』ではお延は津田と同じことをする。それがまた『明暗』の長大化につながるのであるが、津田の許へ向かうお延の心情は、現行の『明暗』に書かれた車中の津田に匹敵する丁寧さで描かれよう。

④「嬉しい所なんか始めからないんですから」
 漱石修善寺で一度死んだ。貴重な体験ではある。そして図らずも回復して、大勢の人の世話になりながら蒲団に横たわる自分を見出した。ありがたいという感謝の念は当然ある。しかし心を揺さぶられるような思いは湧いて来なかった。三途の川の向こう岸も手前の景色も、垣間見ることすらなかった。臨死体験漱石には何の感慨も大悟も齎(もたら)さなかった。
 前述した「神」の話はひとまず措くとしても、諦念は漱石に始めから備わった特質であろう。生に執着がない。自分自身(の思想・行動・正邪・倫理観)に対する執着はとてつもなく強いが、それが却って自身の生に対する無頓着につながる。

「嬉しい所なんか始めからないんですから、仕方がありません」(『明暗』10回)

 津田はお延との新婚生活について、吉川夫人にこう釈明したが、これは自分の人生全般に対する漱石の述懐でもある。
 津田(漱石)は結婚しても、おそらく子供が生まれても、世間一般の男がするようには感動しない。単純に喜ばない。そのときだけ(例えば)神を祝福したりしない。クールという言い方があるが、自分自身のこと(自身の生き方・生きる上での問題)に関心が集中するので、他のことにかまっていられないのである。漱石は暖かい性格の持ち主であるとも言われるが、その話はまた別であろう。

Ⅲ 死は生き通せない
 何度も書くように、『思い出す事など』は彼岸からの帰還について綴った記録であるが、その中で漱石は、珍しく生と死について自分の意見を「哲学的に」開陳する。
 漱石の経験した「生と死」には狭間(境界)が無かった。生から死へは、移行しなかった。それはあたかもアキレスと亀の譬えのごとく、生はどこまでも果てしなく続いて、何物かに置き換わるということをしなかった。生は死によって、あるいは何かによって、断絶しなかった。

 強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。其間には一本の髪毛を挟む余地のない迄に、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。程経て妻から、左様じゃありません、あの時三十分許は死んで入らしったのですと聞いた折は全く驚いた。・・・余は眠から醒めたという自覚さえなかった。陰から陽に出たとも思わなかった。微かな羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂い、古い記憶の影、消える印象の名残――凡て人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽して漸く髣髴すべき霊妙な境界を通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦しくなって枕の上の頭を右に傾むけ様とした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めた丈である。其間に入り込んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とは夫程果敢ないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃めいた生死二面の対照の、如何にも急劇で且没交渉なのに深く感じた。何う考えても此懸隔った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得出来なかった。よし同じ自分が咄嗟の際に二つの世界を横断したにせよ、其二つの世界が如何なる関係を有するがために、余をして忽ち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然として自失せざるを得なかった。
 生死とは緩急、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束に使用される言葉である。よし輓近の心理学者の唱うる如く、此二つのものも亦普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにした所で、斯く掌を翻えすと一般に、唐突なる掛け離れた二象面が前後して我を擒にするならば、我は此掛け離れた二象面を、如何して同性質のものとして、其関係を迹付ける事が出来よう。(『思い出す事など』15回)

 大いなるものは小さいものを含んで、其小さいものに気が付いているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己等の寄り集って拵らえている全部に対しては風馬牛の如く無頓着であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、又結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識も亦より大いなる意識の中に含まれながら、しかも其存在を自覚せずに、孤立する如くに考えているのだろうとは、彼が此類推より下し来るスピリチズムに都合よき仮定である。
 仮定は人々の随意であり、又時にとって研究上必要の活力でもある。然しただ仮定だけでは、如何に臆病の結果幽霊を見ようとする、又迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずる事が出来ない。
 物理学者は分子の容積を計算して蚕の卵にも及ばぬ立方体に一千万を三乗した数が這入ると断言した。・・・想像を恣まにする権利を有する吾々も此一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
 形而下の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみ尤もと首肯く丈である。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云う迄もない。よし物理学者の分子に対する如き明暸な知識が、吾人の内面生活を照らす機会が来たにした所で、余の心は遂に余の心である。自分に経験の出来ない限り、如何な綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。果して時間と空間を超越した然し其超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事丈が明白な許りである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合出来よう。臆病にして且つ迷信強き余は、ただ此不可思議を他人に待つばかりである。(同17回)

 これはヴィトゲンシュタインの世界観を思わせるものである。本ブログ(道草篇9)でも『三四郎』広田先生の夢のシーンで、「世界の意味(が世界の外にあること)」について述べたことがあるが、(本ブログ坊っちゃん篇・野分篇でもさんざん引用してきた)『論理哲学論考』の一部を再度紹介することをお許しいただきたい。

6- 4311 私の死は、私の人生の1イベントではない。私は、私の死を経験しない。私の死は、私の経験するものの範囲を超えた、何物かである。(人は死を経験することが出来ない。)
 永遠を、終わりのない無限に続く時間の連続としてでなく、「非時間」と解するなら、今の瞬間を生きる「私」はまた、(瞬間という時間は認識し得ないのだから、)永遠の中に生きると言えるだろう。
 我々の視野に境界線がないように、我々の生もまた、奇妙なことに縁(ふち)を欠いている。

6-4312 人間の魂が死後も生き続けることを証明した者はいないが、たとえそんなことがあったとしてもそれが何の役に立つだろうか。私が永遠に生き続けたとして、それで謎が1つでも解けるか。その永遠の生なるものもまた、現在の私の生と同様、謎に満ちたものではないか。時間と空間の内にある生の謎を解くものは、時間と空間の外にある。(以上ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』より論者訳)

 漱石は死を経験したと言う。ヴィトゲンシュタインは人は死を経験できないと言う。両者は一見正反対のことを述べているようで、その意味するところは同じではなかろうか。生還した漱石は、結局死は経験できるようなシロモノではないと言っているに等しい。漱石が謎と考えたものとヴィトゲンシュタインの唱える謎は、2人が一致して結論を下したように、時間と空間の外でしか解けないのである。

Ⅳ 作風の変化
 もし漱石作品を前期と後期に分けることが許されるなら、その分岐点は『門』と『彼岸過迄』の間に位置する修善寺の大患であろう。こじつけるわけではないが、大患前の『門』までの諸作と『彼岸過迄』以降の作品の間には、いくつかの違いが感じられる。
 その最たるものは主人公に対する作者の「感情(同情)」であろうか。『猫』『坊っちゃん』『草枕』から『三四郎』『それから』『門』にかけて、漱石は時には冷笑を装いつつも、おおむね暖かい眼差しで主人公(たち)を見ている。漱石は常に、彼らにある感情を注いでいる。登場人物は年齢性別を問わず、あたかも漱石学校の生徒であるかのように描かれる。生徒であるから当然漱石は彼らのことをよく識っている。大事にもする。同時に評価(採点)もしなければいけない。
 それが『彼岸過迄』からは、人物は少しずつ(身内でない)外部の人間になっていくかのようである。冷たくなったと言ってもいい。漱石は人物に対して自分の感情を決める前に(同情する前に)、彼らに勝手に行動させる。主人公たちの行動が正しいか否か。それは問うことさえなされないまま、1つ1つの物語はどんどん進んで行く。漱石はもうかつてのようには彼ら1人1人にかかずらうことをしなくなった。主人公たちもまた、より露骨に自分の意思で行動し始める。漱石はこれを後から振り返って、「則天去私」と名付けた。
 この変化に原因があるとすれば、それはやはり修善寺臨死体験に行き着くのだろう。漱石は朝日に入社して、辞めたくて仕方なかった教師は辞めることが出来た。けれども人間が変わったわけでは無論ない。漱石はある意味では教師のように小説を書いてきたと言えるだろう。修善寺漱石は一度死んだ。このとき死んだのは教師としての漱石ではなかったか。
 死は尊いものであるが生はランダムな運命のいたずらに過ぎない。自分の垣間見た尊い、巨大なものに引き比べ、現実の人間の生の、いかにちっぽけで取るに足らないものであることか。漱石もそれに気付いて、主人公たちの「生」から徐々に手を引いていった。生きる価値を認めなくなったというのではない。そうではなく(教師のように)評価することを、やめたということである。
 先生のいなくなった生徒はいよいよ我が物顔に振舞い始める。『心』の「先生」の「振舞い(自裁)」はその極北であり、『道草』は自伝という看板につい見過ごされてしまうが、健三と御住の身勝手さは洗練を極め、その「身勝手さ」は『明暗』の津田とお延によって一旦完成を見る――筈であった。