明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 14

227.『心』最後の謎(承前)――私の秘密(つづき)


(前項よりつづく)

 『門』の宗助は三四郎と同じで殆ど例はないが、坂井と宣道にはちゃんと「わたくし」と言っているのに対し、坂井の下女には「わたし」と言っている。御米は宗助に対しては「わたくし」「わたし」混在、小六に対しては「わたし」である。坂井も基本は「わたくし」であるが、「わたし」と言うことも多い。小六はこの小説では自分のことを「私」と言わずに「僕」と言っている。ちなみに小六や代助は「僕」を使うが、宗助は使わない。年齢によるものでもないようだ。『三四郎』では、「僕」という言葉は、小説自体に一切出現しない。

 『彼岸過迄』は「僕」が主になるが、田口要作が「わたし」、田川敬太郎は「わたくし」である。須永の母が「わたし」、(千代子の髪を島田に結った)髪結が「わたくし」とルビを振られているのに対し、お作の「私」にはルビがない。(総ルビの全集版では「わたくし」である。)お作は所詮どうでもいい人物だったのか。女主人公田口千代子は一貫して「妾」である。「妾」は『彼岸過迄』では「わたし」でなく「あたし」である。

  『行人』ではお直が「妾(あたし)」と言うのはいいとして、原稿が失われているので、「私」の振り仮名については何とも言えない。(『道草』については後述するが、『道草』におけるバリエーションは概ね『行人』に類推適用可能と思う。)

「妾」については、『明暗』ではもう「妾」という字はやめて、お延は直接「あたし」と言っているが、「妾」という字の書かれた箇所もあり、これは(漱石が生きていれば)後で直されたであろうか。お延は「私(わたくし)」とも発声しているが、これはこれで問題のないところであろう。夫津田に対して、「あたし」と言おうが「わたくし」と言おうが、それは他人の容喙する話ではない。
 お延の「私」はまた、直接「わたくし」と平仮名で書かれることもあり、これは「妾」同様あとで直されるか、それとも「許・許り・ばかり」のように、漱石の書いたままが生かされるのか、何とも言えない。

 しかし『明暗』でいうともう一人、吉川夫人はずっと「私(わたくし)」で通して来たものが、あるときから「私(わたし)」になり、次第に熱したものか「私(あたし)」になったと思ったら、急に剥き出しの「あたし」と言い出して、まるでお延になったようで驚いていると、また「私(わたし)」に戻って、ひとまず現行の小説では落ち着いたかに見えるが、続篇で必ず実行されるであろうお延との最終対決で、吉川夫人の「私(わたくし)」が復活するのか、「私(わたし)」が継続されるのか、お延が「私(わたくし)」と言うのは眼に見えているので、ここはどちらかに決めるしかないが、お延と津田をセットで眺めている夫人の立場からすると、後半の夫人は津田に対して「私(わたし)」にシフトチェンジしたのであるから、「私(わたし)」を継続させるような気がする。ちなみに激昂していたお秀は案外冷静で、「私(わたくし)」を維持し続けたまま出番を終えている。

 それで『心』に戻って、「私」に振り仮名がないのは前述の通りであるが、不思議なことに平仮名で書かれた箇所が残されている。

「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、恐らくそんな意味じゃないでしょう。矢っ張り何か遣りたいのでしょう。それでいて出来ないんです。だから気の毒ですわ」(『先生と私』11回)

 もう1ヶ所、私の母親が「わたし」と言っている。これらは漱石が意図的に行なったとは思えないが、校正漏れを放置したのでもないようだ。「私」でなく平仮名を使って「わたし」と書いたのなら、それはそれでルビとも校正とも関係ない話になる。しかし1ヶ所だけ「わたくし」と書いてあったとすれば、担当者が一言確認してもバチは当たらない気がする。
 いずれにせよ総ルビの『心』初出も初版も、上記例外以外はすべて「私(わたくし)」となっていて、漱石はそれを(2年も3年も)実見して何も言っていないのだから、傍から文句を付ける筋合いではないのであるが、ではなぜ原稿に始めの1回でも、ルビを振らなかったのかという謎が残る。ルビ付き活字でもう「私=わたくし」が担保されていると安心したわけではあるまい。前述のように『明暗』ではほとんどの「私」に「わたくし」ないし「わたし」(ごく稀に「あたし」があったのは御愛嬌だが)と、漱石は自分の原稿にルビを振りまくっているのである。

 漱石は『心』に限って音読を拒否しているのであろうか。ルビなしの「私」のまま目で読んでくれと言っているのであろうか。それは流石に考えづらい。「わたくし」「わたし」好きなように読めというのであろうか。やはりルビ付きの初版本がわざわざ作家自身の装丁で、岩波書店の処女出版物として出ているのであるからして、そのような考えが受け容れられるとはとても思えない。
 しかし漱石の全作品から鑑みて、敢えて論者の意見を言わせてもらえば、書生の私の手記たる『先生と私』『両親と私』の「私」は「わたくし」でいいとしても、『先生と遺書』の、遺書の中の「私」は、「わたし」ではないだろうか。
 なぜなら先生の遺書は、遺書というより、年下の一友人に宛てた、ある意味遺書とは呼べない、フレンドリィな手紙または手記である。広田先生は三四郎に対しては「わたし」と言っている。
 しかし書き分けると面倒なので、漱石は始めからルビを廃したのではないか。繰り返すが、文法的には「私」は「わたくし」と読むしかないのであるから。

 この問題を(これが問題であると仮定して)回避する唯一の道は、平仮名で書くこと、これしかない。太宰治が平仮名を多用するのは、ルビを付す不粋さを嫌うのと、何より誤読してほしくないからであるが、しかし『心』で千も2千も書かれる「私」をすべて「わたくし」乃至「わたし」と書き換えるのは漱石の本意ではあるまいし、『心』の「私」を「あたし」と誤読する者もいないだろう。
 ここではとりあえず、「私」のままルビを付けないのが一番いいと言うしかない。
 多くの文庫本はたぶんそうなっているであろうから、漱石の本文を損なうこと甚だしいと思われつけてきた巷に溢れる文庫本も、結果としてそこだけは総ルビの全集本を上回るパフォーマンスを発揮しているわけである。