明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 15

228.『先生と私』1日1回(1)――名無しの主人公は本卦還りか


 『先生と私』 (全36回)

第1章 鎌倉の海
    私・先生・先生の海水浴の連れの西洋人・私の中国地方の資産家の息子たる友人

1回 鎌倉で一夏を過ごす~海水浴に無聊を紛らわす
2回 先生を始めて見る~「どうも何処かで見た事のある顔の様に思われてならなかった」
3回 先生と始めて口をきく~「私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かして海の中で躍り狂った」

 私は其人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書く丈で本名は打ち明けない。是は世間を憚る遠慮というよりも、其方が私に取って自然だからである。私は其人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字抔はとても使う気にならない
 私が先生と知り合になったのは鎌倉である。②其時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達から是非来いという端書を受け取ったので、私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。私は金の工面に二三日を費やした。所が私が鎌倉に着いて三日と経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。③友達はかねてから国元にいる親たちに勧まない結婚を強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の当人が気に入らなかった。夫で夏休みに当然帰るべき所を、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せて何うしようと相談をした。私には何うして可いか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固より帰るべき筈であった。それで彼はとうとう帰る事になった。折角来た私は一人取り残された。(『先生と私』1回小説冒頭)

 小説の書き始め①はいつもの漱石らしくない。物語の舞台の今現在にどっぷり浸かって、その情景をおもむろに語り始めるという、『三四郎』以来の手法は影を潜め、舞台(情景)を離れて、出し抜けにある種の宣言から開始せられている。それは『猫』『坊っちゃん』への回帰をさえ思わせる。漱石は本卦還りしたのか。
 漱石が本卦還りしたとすれば、それはもう一つ、それは主人公に名前を付けなかったことであろうか。私は名前どころか生まれた土地さえ明かされない。
 しかし先生の名を書かないことは、この作品では格別問題でない。ずっとその人を先生と呼んで来たのであれば、却って名前で呼ぶ方が不自然になる。ましてやイニシャルなど使う意味がない。後の先生の遺書がKと書くのは、それはそれでまた、その方が先生にとって自然であるからである。先生と書くのは私であり、Kと書くのは先生である。対照もシンプルでいっそ美しい。何よりそれが一番自然であるから、漱石はそのように書いたのである。ほかに理由があるとも思えない。

 ②の記述は議論の分かれるところであるが、私は今現在(大正3年)までのどこかの時点で、この手記を書いているのだが、事件の最後(最新)は私が卒業した大正元年の御大葬であり、事件の始まりはその数年前の学生時代である。2年前に卒業した自分の学生時代を振り返って、「若々しい書生」ということは、あまりないことではあるが、私が2年前に先生の遺書を読んで「覚醒」したと言うなら、この書き方もある意味をもつのかも知れない。単純にこの文章を読んで、私の10年前20年前の話をしているのだなと思った読者には、誤解を与えた書き方ということになるが、決して2年前まで大学生であったことに比して、先生との初会のとき高等学校生徒であったことを強調するために「若々しい書生」と言っているのではあるまい。先にも述べたように、論者は大学入学1年後の夏休み邂逅説を採る。私は大学2年生になる直前に先生と出会い、卒業するまでの3年間強の交流を経て、先生の遺書に到達したのである。
 これは③の結婚を強要される学友が大学生であったという推論にも繋がる。暑中休暇を帰省せずに鎌倉の海で過ごす。結婚話がある。もちろん一高生のエピソードであってもおかしくないが、後に先生の境遇として一部使われるような話をこんなところで先取りしては、それは序盤に埋められた芋というよりは、芸のない繰り返しになってしまう。結婚年齢については、20歳も23歳も、知識人として早過ぎることに変わりはない。

 ・・・どうも何処かで見た事のある顔の様に思われてならなかった。然し何うしても何時何処で会った人か想い出せずに仕舞った。(同2回)

 ・・・私は最後に先生に向かって、何処かで先生を見たように思うけれども、何うしても思い出せないと云った。若い私は其時暗に相手も私と同じ様な感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。所が先生はしばらく沈吟したあとで、「何うも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」と云ったので私は変に一種の失望を感じた。(同3回末尾)

 この「一種の失望感」は以後も繰り返し消えては現れ、「一種の静寂感」として小説の通奏低音になって先生の遺書にまで流れ続ける。考えて見ると漱石の小説は、常に挫折と失望に充ち溢れていて、その他の感情はまるでこの世に存在しないかのようである。それは最も明るいと思われている『坊っちゃん』をさえ、すっぽり押し包んでいる。

第2章 雑司ヶ谷の墓地
    私・先生・先生の奥さん・下女

4回 東京の先生の家を始めて訪れる~先生は今は亡くなっている
5回 雑司ヶ谷墓地での邂逅~「あすこには私の友達の墓があるんです」
6回 先生のただ一人の門人となる~「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
7回「何でそう度々遣って来るのか」「邪魔だとは云いません」「又来ましたね」~「私は淋しい人間です」

 私の失望感はなぜか却って私と先生の距離を近づけた。

 私は何故先生に対して丈斯んな心持が起るのか解らなかった。④それが先生の亡くなった今日になって、始めて解って来た。先生は始めから私を嫌っていたのではなかったのである。先生が私に示した時々の素気ない挨拶や冷淡に見える動作は、私を遠ざけようとする不快の表現ではなかったのである。傷ましい先生は、自分に近づこうとする人間に、⑤近づく程の価値のないものだから止せという警告を与えたのである。他の懐かしみに応じない先生は、⑥他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものと見える。(『先生と私』4回)

 ④の記述でやっと今が先生の亡くなった2年後であるらしいことが腑に落ちる。それより⑤で早くも前回の「失望感」の理由を書いているのには驚かされる。長年の教師癖であろうか。それともこれが漱石の誠実というものだろうか。そしてそれを敷衍する⑥「他を軽蔑する前にまず自分を軽蔑する」というのは、いつも見せる漱石らしい非論理的な理屈だが、『それから』の代助の、

「何笑っても構わない。君(平岡)が僕を笑う前に、僕は既に自分を笑っているんだから」(『それから』6ノ6回)

 というセリフで印象深いこの非論理は、『心』でもこの後飽かず繰り返されるが、例えば私が不信感から先生を避けるようになると断言する先生に、私がそんなに信用できないのかと詰め寄るシーンがその典型である。

「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
 ・・・
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして⑦直接の答えを避けた
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです」(『先生と私』14回)

 漱石も半ば分かって書いているのである。⑦の「直接の答を避けた」というのは、非論理の担保にはならないが、相手の問いに直接答えないで別の言い方をするというのは、漱石作品にそれこそ枚挙に暇がないので、例えば先ほどの『それから』で、代助が平岡のために借金を申し込んだときの誠吾の返事「そりゃ、御廃しよ」(『それから』5ノ5回)等、それだけで1つの項立てが可能なほどである。これは決して東京人の「方言」ではあるまい。