明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 30

365.『野分』すべてがこの中にある(9)――漱石と秋


 漱石にとって「生老病死」の話は無限ループに似て、きりがないのでこの辺でやめにしたいが、最後にもう1つ、漱石の全作品の棚卸ついでに、本ブログでもさんざんこだわっている、漱石の小説の「暦」について触れてみたい。

《例題15 ア、秋》
(『ア、秋』というのは言うまでもなく太宰治の短文のタイトルであるが、)漱石の語る物語の季節には、ある一定の法則があるのではないか。それは「秋」を必ず含むという不思議である。詩人漱石の辞書に書いてある最初の言葉はもちろん「愛」であるが、その次に来るインデッキスが「秋」であるというのである。
 漱石の小説は秋に始まり、冬にかけて終わるものが多い。本ブログ第7項でも述べたことがあるが、これは学生時代・教師時代の長かった漱石にとって、「9月始業」は自ずと身体に染み付いたリズムになっていたのであろう。漱石自身秋の澄み渡った気候が一番好きということもある。
 それともほかに、そんな一般論でなく、もっと何か漱石らしい秘密の理由があるのだろうか。

・『猫』
 
漱石の記念すべき第1作『猫』は、明治38年1月1日「ホトトギス」に発表されたが、執筆は明治37年11月とされる。いきなりサンマを盗むエピソードが語られるから、物語の始まりが秋であることは疑いようがない。そして秋の短い日が過ぎて木枯らしの吹く頃、(第1篇の)物語は終わる。
 いつ書かれたかは物語に直接関係ないようなものだが、漱石の場合は時計を見ながらというか、(日記や手紙みたいに)その日その時に応じて小説が書かれることも多い(これを写生文というのであろう)。とくに『猫』は物語の暦と執筆の暦がリンクしていて、独特のリズムを生んでいる。(猫には語るべき過去がないので、常に現在と未来を見つめているところに『猫』の明るさがある。それでも時折苦沙弥の昔話が飛び出すのは御愛嬌だが。)
 『猫』は例外的に続篇が発生したが、第2篇以降は正月から始まり、春と夏をずるずる経て、大団円は神嘗祭(明治38年10月17日)の後の10月末か11月初めのあたりか(本ブログ第25項)。結果として『猫』全体では、秋に始まり秋に終わる小説になってしまったが、これは(いきなりで恐縮だが)『猫』ならではの特例であろう。ベースたる第1篇は、あくまで秋開始・冬終了であった。

・『坊っちゃん
 
本ブログ坊っちゃん篇で考察したように、坊っちゃんは明治38年9月2日(土)、清と別れて独り新橋を発つ。同年11月10日(金)、山嵐と同伴で新橋駅に帰着した。坊っちゃん生れて始めての「大旅行」(江戸っ子が瀬戸内海を横断したのである)は2ヶ月と少しで終わった。そして年末から翌春にかけての後日談が、あとがき風に語られる。執筆は明治39年3月、発表は4月である。

・『草枕
 『草枕』は春の話である。秋ではない。『草枕』については後述することにする。(執筆は明治39年7月~8月、発表は9月。)

・『野分』
 本ブログ第6項(『野分』のカレンダー)で述べた通り、『野分』の物語は明治39年10月下旬に始まり、同年12月16日(日)に百円の大金とともに終わる。回想シーンで物語がふくらむのは従前通りで、この後も漱石作品の定番となった。主人公が過去を思い起こさない漱石作品は存在しない。思い切りが悪い(過去の出来事を忘れない)というのは、癇性どころでない、漱石の主人公全員に共通する性格となった。(「過去の出来事を忘れない」をどこまでも自己に即して突き詰めると、自分の言ったこと、自分が言われたことをいつまでも覚えているということで、誠実だがさばけない、漱石の特徴的な性格であるとも言えよう。)
 執筆は明治39年12月、発表は明治40年1月である。ここまで漱石は教師が本業であった。

・『虞美人草
 朝日入社第1作だが、これも春の話なので後述する。執筆は明治40年6月~8月、連載は10月までの4ヶ月。

・『三四郎
 『三四郎』は『坊っちゃん』とほぼ同じ日(9月1日あたりか)に始まり、小説が長いぶん11月でなく12月までかかっている。暑い日ではあったが、(『坊っちゃん』同様)秋の新学期のための移動であるから、始まりは秋といって差し支えあるまい。年が明けたあとに後日談が語られるところまで『坊っちゃん』と同じ。
 執筆は明治41年8月~9月、連載は12月までの4ヶ月。

・『それから』
 一般には『それから』もまた春の物語であると信じられている。ところが実は秋の物語とする説がある。これについては話がやや混み入っているので、別途論じてみたい。
 執筆は明治42年6月~8月、連載は10月までの4ヶ月である。

・『門』
 『門』の季節カレンダーは『三四郎』のちょうど2ヶ月分、後ろへずれる。明治42年伊藤博文暗殺の後の日曜日、10月31日スタート。鎌倉参禅(1月)と小六の坂井行(2月)で物語は終わる。そして鶯の鳴き始めの3月、後日譚風に宗助の昇給とお祝いの目出度いご馳走膳が語られる。『門』もまた暦の上では『坊っちゃん』『三四郎』の流れを汲む「正統派」であった。
 執筆は明治43年2月~6月、連載は執筆とほぼ近似の3月~6月までの4ヶ月。『門』のあたりから漱石の「1日1回」が定着し始めたようである。

 ところが明治43年8月~10月、漱石はそれまでの安定した執筆活動に翳が差すような、所謂修善寺の大患に見舞われる。
 翌明治44年は「死の年」となって、ついに(1年1冊という)毎年の習慣は途絶えた。博士号騒動、胃潰瘍の延長たる痔の手術、庇護者池辺三山の辞職、朝日文藝欄問題、そして雛子の突然死を以ってこの碌でもない年は暮れた、かに見えたが、その直前に『彼岸過迄』を(1回分でも2回分でも)起筆したプロ根性には頭が下がる。基本的に漱石は頑張り屋なのである。

・『彼岸過迄
「この夏学校を出たばかりの敬太郎」が、そろそろ求職運動に倦んできたという設定であるから、やはり秋のスタートである。「東窓から射し込む強い日脚」「日がかんかん当ってる癖に靄がいっぱい」という記述に加えて、森本がドテラを着ているのであるから、『門』同様秋は深まっていた。
 オムニバス形式のため物語の結末は幾通りにも考えられるが、3月か4月で擱筆することは題名が示していよう。漱石は小説のタイトルを適当に付けているように見えて、ちゃんと(遅くなっても春には終わるという)約束事に順おうとしているかのようである。しかし余計な気遣いをしたせいか、物語の方は春には終わらなかった。卒業諮問を終えた市蔵は須磨明石を訪れて、そこから叔父の松本に手紙を書く。6月くらいまでズレ込んでいると思われるが、西洋人が海水浴をしていたとも書かれるので、もしかしたら7月に入っている知れない。ただ西洋人は四季に関心はないし、この明石須磨旅行そのものが、後日譚の位置付けであった(物語本体は春に終わっていた)とする見方は可能である。
 執筆はおおむね明治45年1月~4月。以下連載は執筆にリンクしているので省略する。

・『行人』
 二郎(と三沢)の「卒業旅行」から始まる。前半のハイライトが盆波の和歌山1泊事件であるから、立ち上がりは少し早い。太宰治のように「秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル」(『ア、秋』)とまでは、さすがに言うつもりはないが、しかし8月を「秋」というのは強弁には当たらないだろう(歳時記的にも)。
 物語は二郎の独立とお貞さんの結婚式を経て、冬の終わりとともに閉じられる、――はずであった。ところが病気による中断は仕方ないとしても、「塵労」が書き足されたのは読者にとっても想定外であった。『猫』の場合とは事情が異なるが、予定にない続篇によって、(『猫』同様)季節のルールからも逸脱してしまったようである。

 物語はもともと冬の寒い時期に、お直が二郎の下宿を訪れるシーンを描いたあと終わるはずであった。それが中断によってなぜか物語のカレンダーごと春に移動してしまった。ふつうでは考えられないことであるが、漱石らしい律儀さと言えなくもない。
 高等下宿で火鉢にあたりながら対座するお直と二郎のシーンが、お彼岸にもかかわらずまるで真冬のように描かれるのは、そのせいであったと言えるが、これが災いしたのか「彼岸の中日」についてのあからさまな誤記を生んでしまった。詳しくは本ブログ行人篇(32)をご覧いただきたいが、思い違い1つにも漱石らしい誠実さが滲み出ている。
 小説はその後一郎(とHさん)の学年末終了後の旅行で終わる。形の上では『彼岸過迄』を踏襲しているように見えて、そもそも始まりが前年の「卒業旅行」であるからには、物語は丸1年を要して、カレンダー的にも『猫』に倣うことになった。
 執筆はおおむね大正1年12月~大正2年3月。病気休載を挟んで「塵労」復活執筆は大正2年9月~11月。
 『猫』は虚子の慫慂がなければ、「秋開始・冬終了」であった。『行人』も胃の再発がなければ、「8月開始・冬終了」となるところであった。

・『心』
 『心』は不思議な小説である。いつもの「漱石開始」は影を潜め、「私」が大学2年になる夏休み(※)から、卒業(大正元年の御大葬・先生の自裁)までの3年間の出来事を、さらにそれから2年経った今現在(大正3年)から回顧している。小説は私の手記と先生の手記(遺書)の2重構造になっているが、私の手記でいえば季節ははっきりしている。夏休み(たぶん8月)の鎌倉の海で始まり、大喪の礼で終わる。乃木大将の殉死は9月13日であるから、小説も10月に入るまでには終わっているはずである。話が複数年に渉ってはいるが、季節の主眼が最後の「秋」に置かれていることだけは慥かである。
 ちなみに先生は「遺書」を9月下旬の10日ほどで書き上げたことになっている。漱石が『坊っちゃん』を書いた2週間を上回るスピードであるが、先生はこのとき奥さんを遠避けて、独りで他にすることもなかったのだから、本当はもっと速く書けてもいいのだが、「馴れないので」時間がかかったと珍しく言い訳している。遺書を猛スピードで書けるのは太宰治くらいであろうが、実際には漱石は(「先生と遺書」は全56回だから)、2ヶ月近くかけて遺書を書いたことになる。
(『心』という小説の)執筆はおおむね大正3年4月~7月。

※注)私は大学生のときに先生と出会った
 あるとき先生は洋行する友人を新橋まで送りに行って留守だった。私は先生の言いつけで座敷で待つことになった。

 其時の私は既に大学生であった。始めて先生の宅へ来た頃から見るとずっと成人した気でいた。奥さんとも大分懇意になった後であった。私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。差向いで色々の話をした。然しそれは特色のない唯の談話だから、今では丸で忘れて仕舞った。・・・(『心/先生と私』11回冒頭)

 この『心』の本文を以って、私と先生の初会を私の高等学校時代とする説があるが、短絡に過ぎよう。漱石には寺田寅彦みたいに息の長い友人はいただろうが、寺田寅彦とだけ付き合っていたわけではない。私が高等学校時代から、そんな人を遠ざけているような先生とお付き合いしているのであれば、『心』のテーマはまた別のところに向かうであろう。このくだりで漱石の言いたかったことは、下線部で示した、奥さんに対して屈託しないという一事である。私は24歳のとき始めて先生と出会った。当然(漱石みたいに)女性というものに初心であったと見ていい。そして今は(先生自裁の年に27歳だったと目されるから)まず26歳くらいであろう。女性にどう対応したらよいか、まったく分からない年齢ではなくなっていたということ、それでいて先生の奥さんに初対面から馴れ馴れしい口を聞くほどのすれっからしでもない、それがこの文章の本意である。高等学校時代は女に寄り付きもしなかった私が、大学生になって女との接触も1つ2つあった、と言外に示したかったのだろう。

(この項つづく)