明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 7

342.『野分』のカレンダー(2)――描かれなかった山陽路


 前項冒頭で物語の期間は明治39年10月下旬~12月中旬の2ヶ月間と述べた。もう少し詳しく見てみると、白井道也が借りた百円について、物語の大詰で(名目上の)債権者が道也に返済を迫るシーンがある。

「どうあっても百円丈拵えて頂かなくっちゃならんので」
「今夜中にですか」
「ええ、まあ、そうですな。昨日が期限でしたね
「期限の切れたのは知ってるです。それを忘れる様な僕じゃない。だから色々奔走して見たんだが、どうも出来ないから、わざわざ君の所へ使をあげたのです」
「ええ、御手紙は慥かに拝見しました。何か御著述があるそうで、夫を本屋の方へ御売渡しになる迄延期の御申込でした」
「左様」(『野分』第12章)

「俳句小説」とも言える『草枕』と打って変わって、俳味のないこと夥しい、あるいは殿様商売のような散文的やりとりである。それにしてもこの借金の言い訳はひどい。侍が町人から金を借りたときは、こんな感じになるのだろうか。夏目の家は武士ではないが、商人を「金さえ取れれば何でもする、素町人」(『猫』)と馬鹿にしていたのは事実である。漱石に金を貸すものではないと誰しも思うだろう。その道也の借銭百円の返済期限日は、前の章で12月15日と明記されていた。何とか安定した教師生活に道也を引き戻すべく、以前から細君は道也の兄に相談していたのであるが、その細君と道也の兄との秘密の会話。

「売れる所じゃ御座いません。どの本屋もみんな断わりますそうで」
「そう。それが売れなけりゃ反って結構だ」
「え?」
「売れない方がいいんですよ。――で、先達てわたしが周旋した百円の期限はもうじきでしょう」
慥か此月の十五日だと思います
今日が十一日だから。十二、十三、十四、十五、ともう四日ですね」
「ええ」
「あの方を手厳しく催促させるのです。――実はあなただから、今打ち明けて御話しするが、あれは、わたしが印を押して居る体にはなっているが本当はわたしが融通したのです。――そうしないと当人が安心していけないから。――それであの方を今云う通り責める――何かほかに工面の出来る所がありますか」
「いいえ、些とも御座いません」(同第10章)

 物語のハイライトにしてラストシーンの「百円原稿買取事件」は、明治39年12月16日(日曜日)の出来事であった。
 そして物語の実質的な始まりは、第2章の高柳君と中野君の日比谷公園散歩の場面である。冬服の季節だがそれを持たない高柳君はまだ夏服を着ている。その夏服の代金さえまだ一文も払っていないという。

 午に逼る秋の日は、頂く帽を透して頭蓋骨のなかさえ朗かならしめたかの感がある。・・・(同第2章冒頭)

「じゃ、どうしても妙花園は不賛成かね」
「遅くなるもの。君は冬服を着ているが、僕は未だに夏服だから帰りに寒くなって風でも引くといけない
「ハハハハ妙な逃げ路を発見したね。もう冬服の時節だあね。着換えればいい事を。君は万事無精だよ」
「無精で着換えないんじゃない。ないから着換えないんだ。此夏服だって、未だ一文も払って居やしない」
「そうなのか」と中野君は気の毒な顔をした。
 午飯の客は皆去り尽して、二人が椅子を離れた頃は処々の卓布の上に麺麭屑が淋しく散らばって居た。公園の中は最前よりも一層賑かである。ロハ台は依然として、どこの何某か知らぬ男と知らぬ女で占領されている。秋の日は赫として夏服の背中を通す。(同第2章末尾)


 これらの書きぶりを見ると、11月初めの可能性もなくはないが、漱石は寒がりだったから、まあ10月後半であろう。10月でも前半であれば高柳君が夏服を着ていて格別変ではないし、中野君が冬服を着ている方が却っておかしい。
 物語の季節の範囲が秋から冬にかけてのことが多いのは、学生時代・教師時代の長かった漱石にとって、長い夏休みを終えた9月始業が、自然に身体に染み付いたリズムとなっていたからであろうか。あるいは身体にさわやかな秋の季節が一番好きなのだろうか。もちろん例外はあるにせよ、このことは『明暗』の結末が、(執筆は越年しても)年を越えないだろうという推測を後押しする。この2ヶ月ないし3ヶ月内外という物語のコアな期間が、漱石にとってリアルタイムに語るのに一番語りやすい期間であったと言えるだろう。もっと短い期間の物語は(『草枕』のように)、漱石本人に何かが足りないという気を起こさせるし、それを逸脱すると(『行人』のように)、小説として破綻しているような感じを、今度は読む方に抱かせてしまうことになる。

 ここでもう一度、(ほぼ確定したと思われる)道也の年表を見てみよう。

明治6年 東京生れ(1歳)
明治28年9月 帝大入学(23歳)
明治29年9月 帝大2年次
明治30年9月 帝大3年次
明治31年7月 帝大卒業 長岡中学赴任(26歳)
明治32年8月 結婚
明治33年4月 長岡⇒柳川
明治34年
明治35年
明治36年4月 柳川⇒山口
明治37年
明治38年4月 山口⇒東京へ舞戻る
明治39年10月後半~12月16日(日曜) 物語の今現在(34歳)

 この年表の柳川(福岡)から山口への移動時期であるが、ここでは新潟2年、福岡3年、山口2年となるよう設定している。福岡を長くしたのは勿論漱石が九州に4年半住んでいたからである(その熊本でも何度も転居した)。後に『門』で宗助が渡り歩いた西国は、京都・広島・福岡、推定だがそれぞれ2年ずつ、長くても3年を超えないのであった。漱石の徒弟時代を振り返ってみても同じことがいえる。これはたまたま学制に順っただけとは言い切れないものがある。同じ場所に数ヶ月、1年、2年、長くて3年、これ以上は生理的・精神的に受けつけなかったのかも知れない。引越癖・引越貧乏という言葉があるが、これもまた幼少時の特異な境遇がその一因となっていただろうか。(志賀直哉太宰治もそうだが)性分として尻が落ち着かないという人は居るのである。
 その意味で千駄木に4年住んで(漱石はもっと住むつもりだった)その後半に『猫』『坊っちゃん』『草枕』を書き、『野分』の脱稿後に引っ越した西片町の9ヶ月で『虞美人草』だけを書いて、明治40年9月から早稲田(南町)に転居したあと、そこを死ぬまで動かなかったのは、漱石としては(千駄木時代の後半から)「人が変わった」とも言えよう。――漱石は否定するだろうが、慥かに教師から小説家に変った。そして棲む家によって(結果として)なぜか作風も違ってきたのである。生家に近い早稲田で偉大な作品群が産み出されたのは何人も認める事実であるが、「仮住まい」たる千駄木で書かれた『猫』『坊っちゃん』『草枕』の方を好む人が多いのも、また厳然たる事実である。(千駄木の家には福猫たる斑猫が附いていた。いっぽう西片は単に方角が悪かったのだろう。漱石はあくまでも西へ西へ行かねばならなかったのである。千駄木から西片は西の方角にない。西片という町名を除けば。)

 ところで道也が新潟からはるばる九州へ落ちて行ったのはいいとして、そこからさらに動いたのを、漱石は「中国辺」と書いた。山口は海を隔てているとはいえ一応福岡県の隣県である。いくら物語の今現在が東京にあるとしても、新潟から(東京からでも)直接行くのが「中国辺」であって、起点が福岡ならまた別な書きようがあるのではないか、とつい思ってしまうが、その地が(ほとんで熊本に近い)柳川であれば、山口まではかなりの距離がある。「中国辺」という表現でさほど不都合はないことになる。

 余談だが漱石は中国辺・四国辺とは言っても、九州辺とか東北辺とは言わない。これは漱石が(坊っちゃんが強調したように)源氏の末裔であることに拠るのだろう。中国辺・四国辺というのが瀬戸内海地方を指すとすれば、そのあたりは所謂平氏のテリトリィというわけである。坊っちゃんが始めて上陸した浜で見た船頭は真赤な褌を締めていた。そして仇役教頭は年中赤シャツを着ている(らしい)。一方坊っちゃんの腹の中は何もない、真っ白けなのであった。(でも毎日温泉に行くたびに坊っちゃんのタオルは赤く染まってゆく。坊っちゃんの渾名の1つは赤シャツならぬ赤手拭である。坊っちゃんが赴任した学期の終わらないうちに当地を去った真の理由も、何となく分かろうというもの。)
 しかしそう考えれば、『三四郎』の冒頭の上京のシーンや、『坊っちゃん』の東京松山往復の行程に、山陽道に関する言及が一切ないことも、一応(納得できないまでも)理由は付くのではないか。漱石は若い頃何度も往復した瀬戸内海航路や山陽線はおろか、帝大時代の夏休みに比較的長く過ごした岡山や(早逝した次兄栄之助の嫁小勝の実家と再嫁先がある町が岡山である。栄之助は転勤で岡山に住んでいた。かねて銀の懐中時計を金之助に遣ると言い言いして小勝もそう思い込んでいたが、時計は結局金之助の手に渡らなかった。漱石がそれを死ぬまで忘れなかったのは有名な話)、後年講演旅行で辿った神戸-明石の道中さえ、具体的に語ることは遂になかった。『坊っちゃん』『三四郎』だけでなく、ほとんどすべての作品に(紀行や随筆も含め)それらを語る機会は山ほどあったのである。京大阪までは(和歌山も含め)あれほど書きまくったのに、漱石は山陽路だけ書かなかった。思うに漱石の心のどこかに(先祖の霊とは言わないが)、語るのに何となく憚られるものがあったのではなかろうか。その意味で『野分』において「中国辺」でのエピソードが、(たとえ作り話であっても)10行でも20行でも具体的に語られたのは、漱石読者としては貴重な体験となった。

 最後にもう1つだけ、道也先生の明治6年生れというのは、本ブログ草枕篇(16)で述べた『草枕』の画工と同い年である。そして坊っちゃん日露戦争を、実は日清戦争のことを語っているのだと仮定すれば(つまり坊っちゃんが明治38年でなく漱石と同じ明治28年に松山に行っていたのだとすれば)、坊っちゃんはそのとき23歳だったのであるから、坊っちゃんの(オルタネイトの)生年とも一致することになる。
 漱石は明治39年に明治6年生まれの主人公を立て続けに書いた。教師を辞める決心が固まって、帝大に進んだ6年間を(小説家に学士号は必要ないのであるから)抹消しようとする気持ちが働いたものか。
 御改暦の年たる明治6年生まれの男は、明治39年では34歳である。あるいは39年マイナス6年で33年と言うこともできる。漱石が33歳~34歳のときと言えば、留学中で倫敦にいたときと一致する。『坊っちゃん』『草枕』『野分』の「怒れる明治39年3部作」は、まさにその失われた2年間の代償だったのか。
 それともそれらの2年間なり6年間なりを隠蔽しようとする何らかの力が作用して、それが暴発したものだったのだろうか。