明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 1

336.『野分』はじめに――小説の神様が愛読した小説


 本ブログは『三四郎』『それから』『門』の初期(青春)3部作、『彼岸過迄』『行人』『心』の中期3部作のあと、『道草』に入る前に、『坊っちゃん』『草枕』と寄り道したが、本ブログ草枕篇(28)で述べたように、漱石の「明治39年版怒れる小説」として『坊っちゃん』『草枕』『野分』の3作の名を掲げたからには、ここで(明治39年12月に書かれた)『野分』も取り上げざるを得ない。これを以って本ブログも「明治39年怒りの3部作」の完成となるだろうか。

 本ブログ心篇(4)でも触れたことがあるが、志賀直哉のエッセイにこんな記述がある。(引用は昭和49年岩波書店版『志賀直哉全集』第7巻「随筆」による。)

 夏目漱石は最も愛読した作家で、「猫」でも、「坊っちゃん」でも、「野分」でも、「草枕」でも、みんな繰返して読んだ。人間の行為心情に対する漱石の趣味、或いは好悪と云ってもいいかも知れないが、それに同感した。漱石の初期のものにはユーモアとそういうものとが気持よく溶け合っている。ユーモアだけでなく、そういう一種の道念というようなものが一緒になっている点で、少しも下品にならず、何か鋭いものを持っていた。
 雑誌の出るのを待ち兼ね、むさぼり読んだ。年末に、正月の特別号が出るのを待つ気持は実に楽しかった。今の若い人達が今の雑誌をあれ程に待つかしらと思う。(志賀直哉『愛読書回顧』/「向日葵」昭和22年創刊号)

 漱石の愛読者は多いといっても、『野分』を繰り返し読んだのは志賀直哉だけではないか。昭和22年といえば太宰治自裁の前年、志賀直哉は既に「老大家」であったから、発表誌「向日葵」が(容易に想像されるように)武者小路実篤の主宰であることを考えても(あるいは考えなくても)、この発言は志賀直哉の本心からのものであったろう。上記引用文の、年末から楽しみにしていた「正月の特別号」というのは、『野分』の載った「ホトトギス」明治40年1月号のことを指すと考えて、まず間違いない。

・明治39年1月号 『猫』第7篇・第8篇(ホトトギス
・明治39年1月号 『趣味の遺伝』(帝国文学)
 ―― 以下明治39年に執筆 ――
・明治39年3月号 『猫』第9篇(ホトトギス
・明治39年4月号 『坊っちゃん』(ホトトギス
・明治39年4月号 『猫』第10篇(ホトトギス
・明治39年8月号 『猫』第11篇完結(ホトトギス
・明治39年9月号 『草枕』(新小説)
・明治39年10月号 『二百十日』(中央公論
・明治40年1月号 『野分』ホトトギス

 明治39年は1906年であるが、その57年後の1963年、前の年にレコードデビューしたばかりのビートルズは、ミリオンヒット(シングル盤)を連発しながら並行して、”Please Please Me” と ”With the Beatles” という LP を続けざまにリリースした。このときの英国の若者も同じ気分を味わったのだろう。(どうでもいいことだが極東の中学生だった論者も、後日少しだけ味わった。)
 明治39年の著作年表を見ていると、若き志賀直哉が「雑誌の出るのを待ち兼ね、むさぼり読んだ」というのも納得できる。『猫』『坊っちゃん』『草枕』と続けざまに発表されて、二十代半ばとはいえまだ帝大英文科へ入学したばかりの志賀直哉は、真の才能を持つアイドルに対する崇敬の念で(漱石はまだそこで最後の教鞭を執っていた)、正月に特別号の「ホトトギス」を待ち望んだのであろう。ところで更にどうでもいいことであるが、そのまた57年後、2020年に(始めての出版と共に)本ブログはスタートした。人生は長いというべきか、短いというべきか。

 冒頭にも述べたが『野分』は怒りの小説である。志賀の内面に立ち入るつもりはないが、彼もまた「怒り」の感情で生涯を通した人であったとは言える。
 ちなみに志賀直哉は上記引用文で、(『猫』『坊っちゃん』に続いて、)『野分』、『草枕』の順に作品名を掲げているが、おそらくその順に書かれたと勘違いしたのであろう。事実は上記の表のように、『草枕』のすぐ後に(短篇『二百十日』を挟んで)『野分』が書かれたのである。しかし『野分』の方が『草枕』に比べて(『坊っちゃん』に比べても)、稚い感じ、習作という感じがする。
 思うに『野分』は漱石が始めて小説らしい(かっちりした構成の)小説を書こうとして、何人かの登場人物に各々立場や性格の異なる主人物的な要素を与えたのはいいが、その分作品の印象が散漫になってしまうようだ。それは朝日入社後の第1作『虞美人草』で改善・洗練されたようにも見え、また同じ轍を踏んだようにも見えた。つまり相変らず通俗小説になってしまったということであるが、その議論はさておき、新年号を読んだ志賀直哉も日記でこんなことを言っている。

 ・・・午前は夏目さんの野分を見る、野分は二つの見方を一時にするを要す。部分々々の論旨大いに味深く此議論が集まって又一つの小説とも議論とも成って居るのだ。(昭和48年岩波書店志賀直哉全集第10巻「日記一」明治40年1月3日より)

 この「2つの見方」というのは、『野分』の主人公たる白井道也と高柳周作の性格・物の考え方や境遇の違いという意味であろう。同時に高柳周作と中野輝一、白井道也とその細君御政の世界観の違いをも指すのだろう。それぞれの2人の主張を統合して読むところに『野分』の佳さが燻蒸されるという、漱石贔屓らしい感想である。それは『二百十日』で圭さんと碌さんという2人の主人公の対照として実験済であるから、その見方からすると、『野分』は『二百十日』を進化させたものである。
 『野分』の主人公については後述したいが、このときの志賀直哉は、(講談等でおなじみの)主人公が複数登場することについては、とくに違和感を感じなかったのであろう。(志賀直哉が時任謙作を書こうとして、主人公に対する作者の態度・人生観に悩んで書けなくなったのは、それからさらに10年後のことである。)

 それより『野分』に対する日記での意見の表明は、志賀直哉としては大変珍しい部類に属することと言える。志賀直哉は日記に読んだ本の感動を書くタイプの青年ではなかった。作家や作品のタイトルが(名称だけでも)書き込まれることは本当に少ない。つまり小説家志望の頃からすでに、根っからのプロフェショナルであった。彼の日記の中に『野分』の前の、『猫』『坊っちゃん』『草枕』に関する言及は一切ない。(普通なら『野分』にコメントするくらいなら、『猫』『坊っちゃん』『草枕』の感想は山ほどあっていいはずである。)それが却ってこの偉大な3作品に対する志賀直哉のリスペクトを表わしていると見ることも可能であるが、その後の作品についても同様である。日記の存在しない年次も多くあるので断定的なことは言えないが、唯一残っているのは、『行人』の長い中断の後に連載の再開された『塵労』について、

「行人」の続きを読んで見た。夏目さんのものとしてはいい物と思う。漾(ただよ)っている或気分に合わぬものがあるが、筆つきのリッチな点は迚も及ばぬ。(同大正2年9月27日より)

 これだけである。本ブログ心篇(2~4)で述べたように、志賀直哉は『道草』の始めの方まではリアルタイムに漱石を読んできたことが確実である。それでいてなお、『野分』についての僅か1行か2行ばかりの指摘は、稀有であると同時に今に至るまで貴重であると言って差し支えない。