明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 22

396.『道草』番外編(2)――田岡嶺雲


 論者は先の項(本ブログ道草篇3~5)で漱石の年表を作成したが、その中に田岡嶺雲の名を何箇所か書き込んだ。漱石が『猫』で世に出てすぐに、田岡嶺雲が『作家ならざる二小説家』という短文を書いた事実を、ことさらに言いたいがためである。ここで改めてその前後の漱石著作年表を掲げてみよう。ただし議論の性格上、作品は(執筆月でなく)発表月に変えてある。

《明治38年――雑誌発表ベースでの著作年表》
1月 『猫』(ホトトギス)・『倫敦塔』(帝国文学)
2月 『猫(2)』(ホトトギス)・『カーライル博物館』(学燈)
4月 『猫(3)』(ホトトギス)・『幻影の盾』(ホトトギス
5月 田岡嶺雲『作家ならざる二小説家』(天鼓)
6月 『猫(4)』(ホトトギス)・『琴の空音』(七人)
7月 『猫(5)』(ホトトギス
9月 『一夜』(中央公論
10月 『猫(6)』(ホトトギス
11月 『薤露行』(中央公論

 これより先の明治30年3月、既に漱石は評論『トリストラムシャンデー』を田岡嶺雲らが創刊した「江湖文学」に発表している。(嶺雲はその前年6月に津山へ行っているから、原稿依頼は笹川臨風か誰かによってなされたのであろうか。)原作者(スターン)も評者(漱石)も、変人度合いでは互いに負けていないが、漱石の感想文がこの奇書の紹介の、本邦における皮切りであった事実は記憶されてよい。
 Laurence Sterne " The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman " は『猫』との共通点を云々されることがあるが、漱石は最初山会のために名前のない猫を主人公とした写生文を書いたときには、スターンのことはこれっぽっちも思い出さなかったであろう。ところが回を重ねるにつれてだんだん収拾がつかなくなって行き、最終回の寒月のヴァイオリン事件など、(「トリストラムシャンディ」みたいになって構わないと言わんばかりに)半ば開き直っているようにさえ見える。

 田岡嶺雲は明治3年生れ、土佐の人。坂本龍馬中岡慎太郎亡き後の板垣退助中江兆民を親とし、幸徳秋水を兄弟として、とはいえあくまで自主独立を通して土佐っぽうらしい反骨の生涯を送った。漱石と同じく漢文にも欧文にも堪能で、またこれも漱石同様、生涯病気と縁の切れない人でもあった。江湖での言論活動では一葉と鏡花を早くから評価して文芸への造詣も伺わせるが、本質は思想家ジャーナリストであろう。その後津山中学へ赴任するところは、まるで漱石を思わせる。『坊っちゃん』か『野分』の白井道也と言ってもいい。道也先生は「江湖雑誌」の編輯をして糊口を凌いでいると書かれるが、田岡嶺雲らの「江湖文学」を念頭に置いたものか、それとも一般的な用語としての命名なのか。女性問題で津山中学を去った後は新聞記者・編輯者として東京・水戸・支那を巡り、岡山にもしばらくいたことがある。そのとき知事の不正を糾弾した廉により獄に繋がれた経験を有つ(公務員侮辱罪)。漱石が晩い文壇デビュゥを果たしたときは、幸いにも東京で堂々たる「天鼓」を主宰していた。
 雄大で峻烈な言論は現代から見ても充分過激であるが、惜しむらくは明治大帝御大葬の頃に亡くなってしまった(大正元年9月43歳にて病没)。まさに明治とともに生きた士と言えよう。没後追悼のため、あるいは遺子のために上梓された文集に、漱石も『夢十夜』を提供している。漱石との縁は深いものではないが、幸徳秋水が拘引された時の湯河原の天野屋旅館に、田岡嶺雲がたまたま同宿していた偶然には驚かされる。もちろん天野屋は漱石終焉の地ではないが、絶筆『明暗』において津田が踏んだ最終地には違いない。津田と清子の遭遇した旅館に墓碑銘を篆刻する書家が同宿していたのは何の象徴であろうか。
 つむじ風のように漱石の視界から消え去った田岡嶺雲は、まるで漱石が松山中学で(坊っちゃんみたいに)暴力事件を起こしてその後の官途を棒に振ったような、斎藤緑雨がもう10歳生き延びたような、あるいは『野分』の白井道也がさらに高柳周作の病身を背負い込んだような、どの局面を切り取っても漱石読者の心を熱くさせるような重い人生であったと言える。

 文芸評論は嶺雲の本業ではないが、ここに全文引用する『作家ならざる二小説家』だけ見ても、漱石の才能を過たずに穿つ、その並々ならぬ洞察力が偲ばれよう。

田岡嶺雲『作家ならざる二小説家』

 今日の作家概ね皆其想枯れ、其筆荒びて、文壇寂寞を極むるの時に際り、二個の客星の突如として天の一方に現れ、煌々として異彩を放つ者あり、此二人者共に小説家を以て自ら任ずるものに非ず、又小説家を以て其職業とするものに非ずして、而して其作る所、則ち意深く語永く、光焔あり活趣あり、他の群小説家を推倒して、今の浅俗浮靡なる所謂写実小説以外に一新生面を拓けり、二人者共に其作物未だ多からずと雖ども、想うに共に當さに来るべき文壇の新傾向を指導する先達たらん歟、此二人者を誰とかなす、曰く夏目漱石氏、曰く木下尚江氏。
 夏目漱石氏は英文科出身の文学士にして、一たび英国に遊学し、帰来教鞭を大学に執る、①氏未だ彼の世俗の誇たるべき博士の栄号を戴かずと雖ども、氏が英文学に精通せること、既に定評あり、但氏が作家としての文名は、其のホトトギスに『吾輩は猫である』の一文を掲げしより頓(とみ)に揚がり、次で帝国文学に掲げられたる『倫敦塔』、ホトトギスに掲げられたる『幻影の盾』によりて氏が作家としての実力は愈々世の認むる所となれり、但氏が此才あるを以てして、②今に至る迄顕わるるなかりしは寧ろ怪しむべしと雖ども、是れ畢竟するに氏が此を以て他の如く名利を釣らず、又虚名を売ることを敢てせざりしが為めにして、氏が人物の仰ぐべき所亦此に存する也、氏の筆致は一種俳文的の寯味(しゅんみ)を有し、之に加うるに欧文的精緻を以てして、而して氏が為人(ひととなり)を表現せる一種沈鬱なる想を遣れる者、吾人は其文によって氏が三様の才を見る、一は俳人としての氏也、一は英文学者としての氏也、③一は多病多恨の人としての氏也、而して其の④吾輩は猫である』は満腔の抑鬱を冷峭(れいしょう)なる風刺に寓(よ)せたるものにして、最も其俳的軽寯(けいしゅん) 簡錬の筆致を発揮せし者也、『倫敦塔』は処々に奇警なる俳的筆致を交えて而して最も其欧文的の精緻周密を以て優り、『幻影の盾』は固より其文の精緻を具うれども、寧ろ其沈痛幽渺の想に於て優れるものたり、今の小説家其写実の精細を以て誇るものは其行文多く冗漫に流れ、其神韻を尚ぶものは其落筆多く粗鬆に失するを免れざるに、⑤氏の文は則ち精緻にして而かも含蓄あり、幽渺にして而かも周匝(しゅうそう) なる所、蓋し氏が独壇の長処なり、殊に其幽渺窈冥の景象を描く処鏡花に似て、而して鏡花の妙は其着筆軼宕(てつとう)飄逸なるを以て勝れど、氏は其森厳深刻なるを以て勝る也。⑥唯氏に少(か)くる所ありとせば其較々(やや)雄渾博大の気魄に乏しきに有りと雖ども、其能く東西の文学を咀嚼し醇化して、一家の体を為せる、亦多しとせざる可らず。

 夏目氏の職業的小説家たらざるも猶文科出身として、俳人として、文学に因縁深きあるに似ず、木下尚江氏に至っては全く文学の門外漢なり、唯氏が新聞記者として操觚(そうこ)の事に従うという一事を除かば、全く文学の門外漢たり、氏は弁護士出身にして、今新聞記者たりというも、そは単に政治記者たりというに止り、其文学的経歴は実に『火の柱』を以て破天荒なりとなすべし、而して『火の柱』に次いで『良人の告白』の著あり、『火の柱』は其筆猶生硬を脱せず、其主張を説くこと露骨に過ぎたるものありて、小説としては穉気を帯びたるの観ありしも、『良人の告白』に至りては、其着想漸く円融の域に達し、其筆致亦渾熟し来り、其結構及人物の描写の上に多少の至らざる所あるを除いては、単に小説として見るも、亦上乗の作たるを失わず、氏の筆は明快なり、奔放なり、雄渾なり、熱烈なり、丈夫的也、跳騰淘湧也、従って夏目氏の穏健と、精鑿と、窈冥と、洒脱と、絲理秩然と無く、往々其筆の之く所に任せて一気呵成、整栗を欠くものありと雖ども、而かも全篇を通じて一道の霊火灼々として人を撲つものあり、譬えば夏目氏の文は深淵の如く其深きを以て勝り、木下氏の文は飛瀑の如く其勢いを以て勝る、夏目氏に於ては其学を見、木下氏に於ては其才を見る、⑦夏目氏の文は嘔心鏤膓(るちょう) 一字一句を忽(ゆるがせ)にせず、其細なるに巧を見る。木下氏の文は汗漫縦横細瑾を嫌わず、其放(ほしいまま)なる所に妙を見る。⑧夏目氏の文を読めば、悽(せい)、人の情に切に、木下氏の文を読めば、峻、人の魄を奪う、此くの如く二人者の長ずる所各同じからずと雖ども、然れども其脂粉の気を帯びず、浮華の調を帯びず、真摯人を動かすものあるは則ち一なり、今の如き余りに理想なく余りに素養なく、あまりに熱誠なき小説界に、篤学にして誠愨(せいかく)なること夏目氏の如く、多才にして峻峭(しゅんしょう)なること木下氏の如きを得たるは、我文壇の為めに之を祝せざる可らず。(明治38年5月「天鼓」)
(※語注:寯味=味わいがある 周匝=行き届いている 軼宕=優れて大きい 窈冥=奥が深い 絲理=口をついて出る論理 誠愨­=質実)

 明治38年5月、『猫』が「ホトトギス」の誌面に現れて僅かに数ヶ月、いくら評判になっていたとはいえ、『猫』は続篇まで発表されたに過ぎず(第1篇と第2篇)、短篇も『倫敦塔』『カーライル博物館』『幻影の盾』の3作のみであった。嶺雲は(当然ながら)それだけの材料で漱石の桁外れの資質と価値を過たずに穿ったのである。しかも嶺雲は当時食うや食わずの状況下にあり、決して余裕を持ってこの「遅れて来た中年」を迎えたわけではなかった。むしろ時代の閉塞感と闘いながら新しい潮流を模索していたのである。だからこその「発見」であったとも言えるが。
 そもそも笹川臨風や佐々醒雪たち嶺雲の仲間は皆緑雨の信奉者でもあり、同時に漱石の文学を正当に評価していたことでも共通している。漱石は読者や弟子たちによって持ち上げられてビッグネームになったような印象もあるが、その前に、ある言論層の同時代人・同業者によっても深く理解されていたのである。

 漱石がそのキャリアのスタートから、博士でなかったことが広く知られていた(①)のはご愛敬だが、紅葉や緑雨などの同期生が死に絶えたあとに小説を書き始めたことは、長く学堂の人であったというより、名を求めることをしなかったため(②)という指摘は、いきなり漱石を勇気づけたのではなかろうか。唯一の欠点が大風呂敷を広げないことだというのも(⑥)、充分漱石を喜ばせる物言いに違いない。悪評には耳を貸さないで通したように思われている漱石であるが、このような好意的な見方もされていたがゆえの「自信」だったのではないか。
 嶺雲はまた『猫』の始めの部分だけで早くも漱石の「多病」を見抜いている(③)。そして『猫』がその裏面に鬱屈したもの、苦しみ・悲しみを隠し持っていることを指摘する(④)。『猫』の描写が「精緻」「含蓄」「幽渺」「周匝」行き届いていると言っている(⑤)。「森厳」「深刻」「穏健」「精鑿」「窈冥」「洒脱」「絲理秩然」であると言う。いったい『猫』の第1篇と第2篇を読んだだけで、漱石が文章に細心の注意を払い、彫心鏤骨、一字一句をゆるがせにしないなどということが分かるものだろうか(⑦)。まさに嶺雲は漱石の最初期の文章のみから、それを感じ取っている。「悽」いたましいという感情を、読み手に正しく伝えることに成功しているとも言う(⑧)。漱石文学が誠実で倫理的であることにいち早く気付いているのである。普通の人ならせいぜい自由奔放なユーモア・江戸落語的飄逸くらいが頭に浮かぶ程度であろう。そしてこの嶺雲の評はその後の漱石の全業績に対しても、信じられないことであるが、そのまま通用するのである。偉いのは嶺雲か、はてまた漱石か。