明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 2

298.『草枕』降臨する神々(2)――『一夜』との関係


 『坊っちゃん』といえば『草枕』であるが、『草枕』の価値についても多言を要しない。それらの製作時期を掲げるだけで充分計り知ることが可能である。

明治38年1月号 『猫』第1篇「吾輩は猫である
明治38年2月号 『猫』第2篇「太平の逸民」(三毛子の死~寒月吾妻橋事件)
明治38年4月号 『猫』第3篇「金田事件」(寒月の演説会予行演習~鼻子来訪~サヴェジチーだ)
明治38年5月号 『琴のそら音』(『七人』)
明治38年6月号 『猫』第4篇「金田事件Ⅱ」(細君の頭の禿~鈴木藤十郎来訪)
明治38年7月号 『猫』第5篇「泥棒事件」(泥棒陰士~多々良三平)
明治38年9月号 『一夜』(『中央公論』)
明治38年10月号 『猫』第6篇「夏来たる」(太平の逸民再び~4人の詩人俳人

明治39年1月号 『趣味の遺伝』(『帝国文学』)
明治39年1月号 『猫』第7篇「猫の文明論」(猫の大気焔~銭湯事件)
明治39年1月号 『猫』第8篇「落雲館事件」(ボール投げ事件~鈴木藤十郎再訪)
明治39年3月号 『猫』第9篇「省察」(手鏡事件と3通の手紙~迷亭の伯父と八木独仙の弟子~刑事巡査と鯔背な泥棒)
明治39年4月号 『猫』第10篇「艶書事件」(雪江登場~盗品還る)
明治39年4月号 坊っちゃん
明治39年8月号 『猫』第11篇「太平の逸民全員集合」(ヴァイオリン事件と寒月の結婚~文明の果の自殺クラブ~最後の事件)
明治39年9月号 草枕(『新小説』)
明治39年10月号 『二百十日』(『中央公論』)
明治40年1月号 『野分』
 ――発表誌は特記の他は『ホトトギス』。『猫』の目次については前著(『明暗』に向かって)にて作成したもの。尚雑誌の〇月号の表示は便宜的に付けている。

 漱石の最初の記念碑たる『猫』の栄光は、(初篇発表の明治38年でも完結の明治39年でもなく)明治37年に属するものである。夏目漱石はまさしく明治37年11月に、高浜虚子から何か面白いものを書いてみないかと言われて、『吾輩は猫である』という小説とも写生文とも(コントとも落語とも)つかぬものを書いた。『猫』はまず自分で読むためでなく、他人に読ませるために書いたのである。已むに已まれぬ自己の欲求によってではなく、それ以外の要請で書いたのが『猫』である。
 前項で述べた、多くの詩人がその命の灯火の燃え尽きる頃に、己の創作活動を開始したこと、そしてそのきっかけが他からの慫慂であったこと、この2点が漱石を他のほとんどすべての作家から隔絶させていると言ってよい。それがまさに則天去私ということであろう。(あるとき本人が作家になろうと決意したわけではない。いつのまにか漱石は作家になっていたのである。)
 明治37年という年は、日露戦争が忘れられる時代が来ても、このことによって永く記憶されるであろう。

 その意味では翌る明治38年の漱石のトピックスといえば、(『猫』ではなく)『一夜』であろうか。『一夜』は短篇小説とも散文詩ともつかない、(『猫』同様)何とも言いようのない代物であるが、唯一『猫』で言及されていることが破格である。漱石が己の作品の中で自分の他の作品名を挙げる。むろん半分洒落である。しかしまったくふざけているわけでもない。半分は真面目である。こんなことは後にも先にも『一夜』だけに限ったことである。何か特別な事情でもあったのだろうか。

「・・・先達ても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤と主意のある所を糺して見たのですが当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全く其辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた。・・・(『猫』第6篇、越智東(おちこち)による送籍『一夜』の紹介)

 ちょっと先走るようで申し訳ないが、『一夜』は内容としては『草枕』のプロローグとして読んだ方が分かりよい。
 自由な空想を許していただければ、『一夜』の髯のある主人公が、髯のない主人公および女と別れて、独り肥後小天温泉に出かけたときの旅日記が『草枕』である。画工は那美さんがその女に似ているのに驚く。まるで双子の同胞のようである。でも表情にどこか微妙な隔たりがある。それが何に由来するものか画工には言葉で説明出来ない。ある日従兄弟の出征を送る駅のプラットフォームで、偶然疑問は氷解した……。
 『草枕』の画工にも髭がある。この「髭」は漱石の髭であり、(『一夜』の)「髯」はデヴィル大人の髯、野武士の髯であるから、厳密に言えば異なるが、おそらく『一夜』は韜晦のために最初から「髯」の字の方を用いたのであろう。漱石としては姑息なことをしたものである。
 顎にもあるのが「髯」で、鼻の下だけが「髭」である。あごひげを生やせば家が建つと易者に言われたのは有名な話だが、漱石の顔は下が寸詰まりになっているので、顔相の観点から下部を補えばバランスがとれて長生きするというのであろう。返す返すも口惜しいことではある。

 それはともかく、『一夜』は単独では分かりにくい。わざと分からないように書いているとも言える。しかるに『一夜』を『草枕』の一部として読むと、この両作品が2つながら分かりやすくなる。『草枕』の語り手の不満の源泉が理解されるからである。語り手がなぜ家賃の安い所へ引っ越したくなったのか、那美さんがなぜいきなりの剝き出しで(そしてずっと剥き出しのまま)描かれるかが理解されるからである。
 言い方を変えると、漱石がなぜ後年『草枕』を全面書き換えたいと思うようになったのか、その理由もまた、そこから窺えるのではないか。
 難解な言葉の多い文章に嫌気がさしたのなら(『虞美人草』のように)否定すれば済む。嫰気の至りと捨て去って思い出さなければいいのである。要らぬことを書いたのであれば、(井伏鱒二のように)該当箇所を削除するという荒業も不可能ではない。そうではなく書き直したいということは、有り体にいえば書き足りていない箇所があるということだろう。たとえば『草枕』の頭に『一夜』を持って来るといったような、構成上の課題が漱石の頭の中にあったのではないか。

 そして明治39年。漱石かぞえて40年。太宰治の没年と同じ。
 前項でも述べたが漱石がいかに晩く小説を書き始めたことか。この年漱石は『猫』の完結と共に、『坊っちゃん』『草枕』『野分』を書くという偉業(異業)を成し遂げた。

「 Il a le diable au corps(悪魔が乗り移っている)」(『三四郎』6ノ7回)

 ではないが、何かが乗り移っていたかのようなハードな年であった。漱石が1年でこれだけの分量の小説を書いたのは、生涯にあと1回、『明暗』の大正5年だけである。この最後の年に漱石にある神が取り憑いていたことは、(歴史的に見て)間違いないが、『坊っちゃん』『草枕』の成立した明治39年にもまた、別種の神が降臨していたのである。