明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 31

366.『野分』すべてがこの中にある(10)――漱石と秋(つづき)


(前項よりつづき)

《例題15 ア、秋(つづき)》
・『道草』
 『行人』『心』では秋というより夏起点になってしまったようだが、『道草』もスタートはさらに早まって、6月頃と目される。御住の3人目の子の懐妊から出産まで、その漱石唯一の安産エピソードと重なる、養父母との望まぬ再会物語は、季節と無関係のようでもあり、鬱陶しい梅雨と重なるようでもある。
 小説で語られる範囲が健三の父母まで遡る全人生にわたるからには、その回想シーン・ぐずぐず思い悩むシーンの「尺」( footage )は過去最高となる(それは書き癖のようになって次の『明暗』にまで引き摺られる)。それでもそれを語る小説のカレンダーはいつもと大きく変わるものではない。そうして小説は、正月前にまとまった金が入用であるという島田の強請で締め括られるから、やはり物語本体の終わりは、漱石の基本たる12月である。常に王道を歩もうとする漱石らしい構成であろう。
 健三と御住の性格は、道也と御政をそのまま受け継いだものであるが、「年の暮れに百円」というオチまで『野分』と同じであった。漱石が『道草』を書いているときに、『野分』のことは1秒も思い出さなかったであろうから、これは漱石の中に始めから消えずに残っていた記憶の1つだろうか。
 執筆は大正4年5月~9月。

 ちなみに物語の年次は(特定する必要もないが)、明治35年あたりであろうか
 『道草』本文に明示されている暦は、島田の養育料受取の書付に「明治21年」とある1ヶ所のみである(31回)。そのとき――それが明治21年の書付を明確に指し示しているかは断定できないものの――健三は22歳であったとされる(9回)。そして健三は自分で今36歳であると言い切っているから(5回)、物語の今現在はめでたく明治35年ということになる。しかしそんな単純な計算で片付くほど漱石の小説は「論理的に」書かれているだろうか。
 健三が自分の歳を「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」と言っているその同じ回(5回)で、51歳の姉は「健ちゃんとは16違う」と明言しているのである。姉の言うことが正しければ健三は今35歳であり、物語の今は明治34年である。あるいは健三22歳のときの養育料支払いを、上記書付の明治21年でなく、月賦金の完済した「明治23年」(漱石の父は実際に養育料の一部を2年間の割賦で支払っている)のことと見れば、健三36歳の今は明治37年である。健三が姉の言う通り35なら、今は明治36年である。

 姉はまた(九星については何の関心もない)健三のことを七赤と謂い、自分を四緑と謂っている(5回)。七赤なら慶応3年(1867年)生れで漱石と同い年である。彼らが36歳の年は明治35年である。16違うという姉は計算上は1851年生れの筈であるが、無筆で針仕事さえ覚えない姉の御夏は、引き算を暗算でするような質ではあるまいから、自分が16のときに健三が生れた(1歳)ことを言っている可能性は大いにある。すると姉の生年は1852年(嘉永5年)、四緑木星で合っていることになる。1852年生れの姉は明治35年(1902年)では51歳である。数字に疎い人でも(疎いからこそ)九星や干支で憶えるのである。比田が「未の三碧」というのは、比田が姉と1歳違いである(3回)ことの傍証に過ぎない。坊主や(神主や)貴族の作った暦の嫌いな漱石は、自分が卯年であることや、誰かが未(ヒツジ)であるとか、姉が子(ネ)であるか従兄で義兄の比田が丑(ウシ)であるかなど、まったくどうでもよかったに違いない。

 漱石の年表を見ると、明治35年はまだ倫敦におり、明治36年は1月の帰朝から、千駄木転居、小泉八雲辞任、五高退官、退職金受領、一高帝大任官、藤村操事件、神経衰弱亢進、呉秀三による診断、鏡子別居(離縁事件)、義父中根重一の没落、所謂『文学論』の「蟻の頭」ノート作成、三女栄子誕生――と、『道草』の骨格となる出来事も多く続く。明治37年は黒猫迷い込みから、明治大学アルバイト、小泉八雲死去、『猫』第1篇脱稿(※1)。翌明治38年、『猫』(「ホトトギス」)『倫敦塔』(「帝国文学」)、『カーライル博物館』(「学燈」)、『幻影の盾』、『猫』続篇(以上「ホトトギス」)、『琴の空音』(「七人」)、『一夜』『薤露行』(以上「中央公論」)(※2)。
 常識的には『道草』の物語で想定されるのは、明治36年か37年のどちらかであろうが、漱石の中ではそんなことはどうでもいいのであった。登場人物の互いのセリフに齟齬があったとしても、それもまた小説のうちである。ある日島田と偶然道ですれ違ったというのも、鏡子の『思い出』に披露されていない以上、フィクションかも知れない。漱石はそういった類いのことは鏡子にしゃべるタイプの人間であるし、鏡子も実際に聞いたのなら覚えている筈である。

 いずれにせよ漱石が、塩原昌之助に百円渡して昔の書付を取り戻したのが、明治42年11月であるという事実が現前する以上、創作たる『道草』が明治何年の物語であっても、そんなことは詩的真実に関係しないというわけである。いっそ漱石が倫敦にいた明治34年か35年のこととした方が、漱石としては(アリバイがあるので)気分が清々するかも知れない。

※注1)健三の第1作は『猫』である

 健三は此間余所から臨時に受取った三十円を、自分が何う消費してしまったかの問題に就いて考えさせられた。
 今から一ヶ月余り前、彼はある知人に頼まれて其男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それ迄細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取っての此文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先に滴る面白い気分に駆られた。彼の心は全く報酬を予期していなかった。依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾ったように喜んだ。
 兼てからわが座敷の如何にも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ団子坂にある唐木の指物師の所へ行って、紫檀の懸額を一枚作らせた。彼はその中に、支那から帰った友達に貰った北魏の二十品という石摺のうちにある一つを択り出して入れた。・・・(『道草』86回)

 『道草』が自叙伝なら、あるいは自然主義文学なら、この健三の原稿があの『猫』(第1篇)であることは言を俟たない。「長い原稿」が「30円」であること、「知人」高浜虚子の「ホトトギス」に書いたこと、「今」が年末であるから、(明治37年であろうとなかろうと)その原稿を書いたのが「1ヶ月前の」11月であったことが推察されるように書いてある。
 ただし『道草』がそれまでの『心』や『行人』と同じに列せられる小説であるならば、漱石は『猫』の時代を(千駄木の時代を)素材にしてはいるが、すっかり事実のままに書いたわけでもないと言える。鏡子の『思い出』によると、『猫』の最初の稿料は「12、3円くらい」(「猫の話」)、次の夏に15円貰ったことも書いてあるが(「猫の出版」)、『猫』の続篇は大体緒篇の2倍から3倍以上の枚数であるから、そのとき(おそらく『猫』第5篇)の15円というのは前後の月に分割した分を貰ったのだろう。原稿料としては、「ホトトギス」1枚50銭、後に1円、「新小説(草枕)」1円、「中央公論(一夜・薤露行)」1円2、30銭とある(「猫の出版」)。

※注2)健三の第2作もまた『猫』であった

 歳が改たまった時、健三は一夜のうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。
 ・・・途中で島田に遣るべき金の事を考えて、不図何か書いて見ようという気を起した。
 ・・・新らしい仕事の始まる迄にはまだ十日の間があった。彼はその十日を利用しようとした。彼は又洋筆を執って原稿紙に向った。・・・
 予定の枚数を書き了えた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。
「ああ、ああ」
 彼は獣と同じような声を揚げた。
 書いたものを金に換える段になって、彼は大した困難にも遭遇せずに済んだ。ただ何んな手続きでそれを島田に渡して好いか一寸迷った。・・・(『道草』101回)

 正月明け、新学期の始まる前に10日間で書いていること、島田に遣る100円を想定して書いていること、何をどのようにどれくらい書くか、ある程度自分の裁量に任されていること。――
 漱石は明治37年11月に『猫』(第1篇、岩波の平成版定本全集で19頁)を書いて、それは「ホトトギス」明治38年1月号に掲載された。健三は30円貰った。『猫』続篇(第2篇、全集で65頁)は正月に書かれて2月号に発表された。19頁で30円なら65頁はちょうど100円になる。時期、ボリュウム、金額とも『道草』の話と辻褄は合う。(漱石が実際手にしたのは、上記鏡子の『思い出』が正しければ、第1篇12、3円、第2篇43円である。)
 『道草』の書きぶりからは健三の第2作は、第1作(『猫』)とは別種の作物のようにも見える。ただし『倫敦塔』27頁、『カーライル博物館』12頁(ともに12月執筆・1月発表――鏡子によると『カーライル博物館』の原稿料は8円)、『幻影の盾』37頁(2月執筆・4月発表)、どれもしっくり来ないし、4月は『猫』の第3篇さえ出ているのである。まさか1年あとの『趣味の遺伝』62頁(明治38年12月執筆・明治39年1月「帝国文学」)や『坊っちゃん』152頁(明治39年3月執筆・4月「ホトトギス」)のことをデフォルメして書いているのではないだろう。
 もちろん『猫』の続篇は養父とは無関係である。所詮はフィクションである。漱石は誰のためであれ金を直接の目的としていかなる小説も書かなかった。むしろ漱石は1枚いくらで自分の原稿を売ることが厭で堪らなかったのだろう。もともと商売はしたくないのである。物を売って儲けたくない。それは実業家・素町人のすることである。自分はただ報酬を受けたい。給料・俸禄をもらう分には問題ない。これが朝日入社の一番の理由であったと思われる。

 フィクションといっても漱石の場合はその核になる事実は厳然と存在するのが常であるから、まあ『道草』の叙述をなるべく事実に即して解釈すれば、健三の第1作は『猫』の第1篇と第2篇を合体したもの、健三の第2作は明治38年に「帝国文学」等の気の置けない雑誌に書いたものの集合体と見做していいだろう。当時漱石も脱稿時に疲れ果てて噫と倒れ込んだことがあったのかも知れない。

・『明暗』
 苦難の『道草』を経て、漱石の王道が帰って来た。前著(『明暗』に向かって)で述べた通り、物語の開始は大正4年10月27日(水)、中断した天野屋の清子の部屋のシーンが11月10日(水)である。物語はおそらくあと10日を経ずして決着が付くはずであったが、『明暗』の時間はいまだに停止したままである。

 物語で消光される月日はいつもの漱石の小説の半分以下(4分の1以下)である。それなのに分量は2倍。正比例するどころか激しく反比例している。人の意表を衝くのが天邪鬼の漱石らしいというべきか。それともこれが「則天去私」ということか。
 起筆は大正5年5月19日(金)。絶筆が11月21日(火)。異例の半年という執筆期間。こちらは当然ながらちゃんとそれだけの執筆日数がかかっている。しかしそれが却って災いしたのか。いつもなら3ヶ月か4ヶ月で書き了わる新聞小説。それが『明暗』に限って半年を超えた。ミューズの神が嫉妬したのであろうか。なまじ「則天去私」などと言い出したがために。

 * * *

 いかがであろうか。ここまで全作品を見て来ると、漱石の小説はまるで秋から冬にかけて冷たい海で捕獲される秋刀魚のようではないか。夏に始まるものもある。春までかかるものもある。多少のズレはあるものの、物語の中心が「秋」に偏っていることがお分かりいただけよう。
 なぜそうなるのか。「秋」に何かあるのかということについては、今はただ何も分からないと言うしかない。『草枕』『虞美人草』が例外であることは明白であるが、そこから何か浮かび上がるものがあるのか。そして『それから』についても。