明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 33

368.『野分』おわりに――会津八一が地獄の入口で詠んだ歌


 先に述べた、『野分』は男の小説であるということに関連して、これは突飛な連想でもあろうが、本ブログ野分篇で折角会津八一を持ち出したからには、最後に彼の歌を1首紹介して終わりにしたい。ただ会津八一は、式場麻青を介して、『野分』とは縁なしとしない。

◎ひとりゆく 黄泉路よみぢつかさ 言問こととはば わが友柄ともがらと らましものを (会津八一『山鳩』昭和20年)

《論者の意訳――来世篇》
◎君が地獄の入り口で門番に誰何されたら、私の友人だと答えてほしいものだ。次に私が行くときは、私もきっと同じことをする。私たちの魂はそこで再びめぐり合い、通じ合うのだ。――今度は永遠に。

《論者の意訳――現世篇》
◎君が地獄の入り口で門番に誰何されたら、私の友人だと答えればよい。私の名は地獄の鬼にも伝わっていよう。私はこの世にあって早く既に冥界と通じている。君は君の知らないところへ行くのではない。私のよく知っているその場所へ行くのだ。――今と変わらないそこに。

 夫婦は二世(二生)と言うが、実際にこのような(それを具体的に表現した)歌を詠む人はいない(だろう)。漱石に夭逝した初恋の人があったとして、それでも漱石がそのひとに対してこのような感慨を抱くとは思えない。もちろん漱石は(ふつうの亭主同様)生まれ変わってもまた鏡子と結婚したい、と思うことは思うであろうが、たとえ鏡子に先立たれたと仮定しても、こんな(あの世で語り合おうという――会津八一の歌の趣旨ではないかも知れないが)発想は出て来ないし、むろん自分が先だと確信しているに違いないが、残された鏡子にこのような思いを託したいわけでもなかろう。
 この歌はむしろ男同士の「真の友情」を謳ったものではないか。漱石でいえば、『心』の先生がKの悲劇に正対して詠んだ歌とすれば、まだ理解されやすいだろう。その友情は『行人』の二郎と三沢に遡り、さらに『彼岸過迄』の敬太郎と須永の(あるいは敬太郎と森本の)仲をも辿ることができる。つまり中期3部作は「友情3部作」でもあった。その源流は『三四郎』『それから』『門』の青春3部作ではなく、直接『野分』に見ることが出来る。高柳周作と中野輝一が真の友情を結べば、あるいは高柳周作が(堤重久が太宰治を生涯の師と仰いだように)将来とも白井道也の真の理解者になれば、このように同じ黄泉路を歩むことにもなるだろう。

 当然だがそこに女人の付け入る隙間はない。中期3部作で漱石は女性の活躍を、(漱石にしては)少し控え目に書いた。青春3部作の方が人気があるのはそのためだろう。『行人』のお直は、「図々しいまでに落ち着いている」と書かれる。しかし男に対して図々しいのは、むしろ美禰子・三千代・御米の方であろう。
 ただし漱石は退化したわけではなく、方向転換したわけでもない。先の項でも述べたが、漱石は夫婦のあり方という観点からは、中期3部作の頃から、むしろそれを深化させようとしていたと言ってよい。そのテーマで漱石は『道草』『明暗』を書いて、正⇒反⇒合といった大いなる統合を目指した。漱石としてはゴールに近づきつつあるという感じを得ていたのではないか。その「感じ」が「則天去私」などという(本来の漱石なら使う筈のない曖昧な)キャッチフレーズにつながったと思われる。正直な漱石は(大嫌いな)主義のレッテルを貼ろうとしたわけではなく、自分の目指すものが目標に近づいたと、ただそう言いたかっただけであろう。

 それはともかく、会津八一のこの歌の底に流れているのは、悲しみ哀れみ愛しさというよりむしろ、(運命に対する)怒りの感情ではないか。作者は天上でなく地獄の場景を詠んでいるのである。門番としてなぜ(天使でなく)鬼が配置されているのか。つまり鬼だからこそ無情にも「言問う」のである。実際に地獄を見た者でなければ、なかなか起こり得ない発想ではあろう。
 会津八一のファンならずとも「山鳩」の連作を涙なしに読むことは難しいが、会津八一と養女某は真の友情で結ばれていたと確信する。
 そしてこのような「友情」の存在は、漱石といえど体感していたのではないか。少なくとも心の内で理解していたのではないか。
 さらに言えば、漱石は男女間の愛のせめぎ合いを、単に男と女のぶつかり合いとしてだけでなく、その中に男同士の友情を潜めて、それをすっぽり覆い隠すような描き方をした。漱石の小説(恋愛小説――意外に思えるかも知れないが『猫』もその範疇と言えなくもない)を何遍読み返しても飽きないのはそのせいであろう。ありふれた(ように見える)男女の愛憎を描いて、文字通り奥が大変深いと言わざるを得ない。

 この世で絶対の閾に達する1つの道は男女の愛である(もう1つは芸術である)、と漱石も(『猫』で東風が)言っているが、男の友情、兄弟の契りというのは、思うに源氏の血筋のなせる業であろうか。源氏は八幡太郎義家の弟新羅三郎の名が示すように、新羅の血を一部混じているることは疑いがない。その新羅は源花・花郎という、一般に男の結束を重んじた組織が有名である。しかし断るまでもないが、源花と謂い花郎と謂っても、女性を排除した組織ではない。(むしろ女に取り込まれた男たちと言っていいくらいである。)

 * * *

 さて30回以上に亘って書き進めてきた本ブログ野分篇も、本体は今回で終了である。1読者たる式場益平から寄せられた疑問、初出の「越中の高岡」から始まり、それが漱石の心算では「越後の高岡」であったこと、さらにそのベースとしては「越後の長岡」という小説的事実があったこと、それなのになぜか漱石の死後「越後の高田」という正体不明のモンスターが、爾後1世紀の間漱石全集に君臨して来たこと、『野分』について真に言うべきことはこの一事に尽きよう。その式場益平と同級生であった(※)会津八一の歌1首を以って彼へのはなむけとした。

 最後に繰り返しになるが「越後の高岡」の生涯をもう一度振り返ってみる。

《「高岡」「高田」2大怪物変遷史》(再掲)
・明治39(1906)年12月「越後の高岡」(漱石原稿)
・明治40(1907)年1月~「越中の高岡」(ホトトギス
・明治41(1908)年9月~「越後の高岡」(『草合』初版)
・大正6(1917)年12月~「越後の高田」(第1次漱石全集)

 ~ ~ (以後各次の漱石全集すべて) ~ ~

・平成6(1994)年2月~「越後の高田」(原稿準拠漱石全集)
平成28(2016)年11月~「越後の高岡」(岩波文庫二百十日・野分』改版)
・平成29(2017)年2月~「越後の高岡」(定本漱石全集)
・令和4(2022)年10月~「越後の長岡」(本ブログ改訂案)

 本ブログ野分篇第3項では見落としていたが、2017年2月に岩波版定本漱石全集第3巻で百年ぶりに改訂されたかに見えた「越後の高岡」は、その3ヶ月前2016年11月に、岩波文庫の改版でひっそりと蘇っていた(上表下線強調部分を1行追加)。文庫本が全集本に(3ヶ月でも)先んずるというレアケースであるが、これもまた漱石漱石全集)ならではの変則技ないしは反則技であろう。
 もっとも「百年ぶり」という言葉を厳密に適用すれば、「越後の高田」の出生は1917年12月第1次漱石全集であるから、2016年11月改版の岩波文庫の方が(定規で測ったように)ぴったり一致する。「ちょうど百年」を待っていたのは読者か、それとも漱石の霊か。

 しかし『野分』の確定本文としては、くどいようだが「越後の長岡」もしくは「越後の〇〇」の方が正しいと思われる。今後とも人類(日本人)のある限り生き残るであろう漱石文学には、正しい方がふさわしいことは言うまでもないだろう。

※注)主人公の同級生
 『野分』の主人公高柳周作(明治14年生れ)は、式場益平(明治15年早生れ)、会津八一(明治14年遅生れ)のもう1人の同級生でもある。ここで改めて彼らの前後に生れた文人のリストを見てみよう。

《1級上》
・明治13年遅生れ 吉江喬松(塩尻)・厨川白村(京都)・山川均(倉敷)・熊谷守一(中津川)・津田青楓(京都)
・明治14年早生れ 森田草平(岐阜)

《同級》
・明治14年遅生れ 会津八一(新潟)小山内薫(広島)・岩波茂雄(諏訪)・橋口五葉(鹿児島)
・明治15年早生れ 式場益平(五泉坂本繁二郎(久留米)

《1級下》
・明治15年遅生れ 鈴木三重吉(広島)・生田長江鳥取)・小川未明(高田)・青木繁(久留米)・金田一京助(盛岡)・斎藤茂吉(上山)・野口雨情(茨城)
・明治16年早生れ 秋田雨雀津軽)・志賀直哉石巻

《2級下》
・明治16年遅生れ 阿部次郎(酒田)・安倍能成(松山)・野上豊一郎(臼杵)・相馬御風(糸魚川)・前田夕暮(秦野)・北一輝佐渡
・明治17年早生れ 安田靫彦日本橋)・片上伸(今治)・小宮豊隆(福岡県京都郡

 総勢30名のうち、作家のビッグネームが決して多くないのはさておき、漱石全集の総索引に出て来ない人は、明治13年の吉江喬松・山川均・熊谷守一、明治15年の金田一京助、野口雨情、明治16年の相馬御風、北一輝、計7名である。このうち生前の漱石がたぶん知らなかっただろうと思われるのは、当時の野口雨情くらいであろうか。それでもこの根っからの詩人は啄木同様、妙に漱石の琴線に触れるような半生を送っている。あとは同業、著名人、熊谷守一にしても青木繫、坂本繁二郎と並べれば、漱石が好まない筈はない。
 それにしてもこの4年の間で、漱石の教え子の年代とはいえ、いくら漱石が国民作家とはいえ、漱石門下が(30名のうち)8名もいるのは驚ろきである。そして東京出身者1名に比べ、新潟県人を5人数えるのも式場益平、会津八一の不思議な力であろうか。

 ついでに漱石作品の主人公の生年について、本ブログで調べて来たことでもあり、ここでまとめてみる。(参考までに、漱石の一番弟子寺田寅彦は明治11年生れ、早くに名を成していた荷風と、漱石の同情厚かった長塚節は明治12年生れ、漱石の2倍生きた野上弥生子は明治18年生れ、菊池寛明治21年、変人の弟子内田百閒は明治22年生れ、最晩期の友人芥川龍之介は明治25年生れである。)

・明治13年生れ 宗近一・長井代助・野中宗助・安井
・明治14年生れ 高柳周作・中野輝一・小野清三・甲野欽吾
・明治16年生れ 坊っちゃん
・明治18年生れ 須永市蔵・田川敬太郎・三沢・長野二郎
・明治19年生れ 小川三四郎・私(心の)・津田由雄

 論者が(本ブログ坊っちゃん篇で)想像したように、もし坊っちゃんの松山での戦捷祝賀会が日露でなく日清戦役時のものであるとすると、つまり坊っちゃんが松山の地を踏んだのが漱石と同じ明治28年のことだとすると、オルタネイトの坊っちゃんは明治16年でなく明治6年生れということになり、明治15年~明治17年生れの主人公は皆無になる。これは(森田草平以外の)漱石門下の人たちにとって、喜ぶべきことか悲しむべきことか。
 明治6年生れということでは、本ブログ第7項でも述べたが、『草枕』の画工、『野分』の白井道也も同い歳である。苦沙弥先生や『道草』の健三は漱石と同年輩だから別格として、漱石作品でもうあと1人だけ残った主人公、『心』の先生(とK)については、本ブログでは明治8年生れを想定しているが、それは先生自裁の年を38歳にしたいがための措置でもあった。もちろん先生の没年が40で構わないなら、明治6年生れとして何の支障もない。この場合は奥さん(母親)は日清戦争で夫を亡くしてすぐ小石川に転居し、さらにあまり間を置かずに下宿人を入れた計算になる。――先生が下宿したとき、その形跡(線香の匂い)がまったく無かったのは、さすがに気になるが。
 ちなみに漱石の残りのヒーローが全員明治6年生れだとして、この年に生れた文人は、その前後も含めると次のようになる。

・明治5年生れ 島崎藤村徳田秋声樋口一葉・佐々木信綱・杉村楚人冠・佐々醒雪
・明治6年生れ 岩野泡鳴・河東碧梧桐・與謝野鉄幹・泉鏡花津田左右吉
・明治7年生れ 高浜虚子上田敏佐藤紅緑・河井酔茗・児玉花外・菱田春草上司小剣

 いかがであろうか。漱石の創った第1世代の主人公の同級生には、藤村秋声一葉鏡花の方が相応しいような気もするが、(第2世代に属するらしい)坊っちゃんがそこに仲間入りした方がいいのかどうかは、また別の問題かも知れない。

 もう1人、ここで採り上げるのは場違いかも知れないが、魯迅という人がいる。この漱石に似た風貌を有つ杭州文人中華民国を代表する明治14年(1881年)生れの作家は、高柳周作と同い年であり、漱石が倫敦にいた頃には既に来日していた。そして仙台医専から『野分』の頃には(弟とともに)東京にいて、漱石の愛読者であったという。国家中枢の端っこにいた漱石がこの留学生の兄弟を名前だけでも見知っていた可能性はなしとしない。その魯迅漱石早稲田南町へ出た後の西片町の旧居へ住んだことがある。4歳下の弟の名は周作人である。漱石がもう少し長生きしていたら、魯迅の作品を賞翫したであろうか。温かくも厳しい助言を与えたであろうか。

※追記:明治16年早生れに魚住折蘆(兵庫県)を加えたい人もいるかも知れない。魚住影雄は藤村操の友人で漱石の教え子であるが、気の毒にも早逝している。