明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 8

343.『野分』のカレンダー(3)――式場益平と会津八一は高柳君の同級生


 ここで高柳君の年表をもう1度(簡略化して)掲げる。

〇高柳君
明治14年 新潟県生れ(1歳)
明治28年 長岡中学入学(15歳)
明治33年 長岡中学卒業 上京、一高入学へ(20歳)
明治36年 帝大入学(23歳)
明治39年7月 帝大卒業(26歳)
明治39年10月~12月 『野分』物語の今現在を生きる

 先の項で紹介した式場益平の年表は次のようになる。なお式場益平の経歴は概ね、生前の歌集『摩星樓歌帖抄』(大正13年刊)及び生誕100年、没後50年を記念して遺族がまとめた私家集『剪燈残筆』(昭和56年刊)による。

〇式場益平
明治15年3月 新潟県五泉生れ(1歳)
明治30年4月 新潟中学入学(16歳)
明治35年3月 新潟中学卒業 上京、二松学舎入学へ(21歳)
明治39年7月 二松学舎卒業(25歳)
明治40年1月 『野分』を読んで漱石に手紙を書き、返事を貰う(26歳)
明治40年4月 郷里へ帰り生家の精米業を継ぐ(会津八一とは交流を続ける)
明治45年7月 結婚(31歳)
大正13年8月 『摩星楼歌帖抄』出版(会津八一の奨めによる)
大正15年10月 大阪女子師範学校教授(単身赴任)
昭和7年3月 同校辞職
昭和8年4月 肺結核にて死去(52歳)
昭和56年8月 遺歌集『剪燈残筆』出版

 式場益平は早生れだが高柳君と同級になる。中学入学は遅れたようである。家業(精米業)を継ぐべく高等小学校へ進んだのか(太宰治みたいに)。当時国民の大多数を占める農民や商人の子は中学へ進学しなかった。あるいは単に身体が弱かったせいか(太宰治が虚飾の理由付けに択んだように)。
 もう1人、高柳君の同級生として、式場益平とは旧知の盟友にあたる会津八一(明治14年生れ)の例を引いてみる。

会津八一
明治14年8月 新潟県新潟市生まれ(1歳)
明治28年4月 新潟中学入学(15歳)
明治33年3月 新潟中学卒業(20歳) 上京、兄の下宿へ同居
明治33年6月 子規を訪ねる
明治33年7月 脚気を病み帰郷
        この頃、子規へ『僧良寛歌集』を贈る
明治35年 再上京、東京高等専門学校入学へ(22歳)
明治35年9月 子規没
明治39年7月 早稲田大学英文科卒業(26歳)
明治39年9月 有恒学舎(新潟)英語教師
明治42年3月 漱石に手紙を出す
明治43年9月 早稲田中学英語教師
大正13年12月 処女歌集『南京新唱』出版(式場益平に出版を勧めたついでに自分も)
大正14年4月 早稲田高等学院教授
大正15年4月 早稲田大学文学部講師(兼任)
昭和6年2月 早稲田大学文学部教授
昭和8年4月 式場益平没
昭和20年4月 戦災、早稲田大学教授を辞任(65歳)
昭和21年6月 夕刊ニイガタ社長
昭和22年4月 随筆『麻青居士』(夕刊ニイガタ)
昭和31年11月 冠状動脈硬化症のため死去(76歳)(年齢はすべて数え)

 同級たるべき会津八一は新潟中学では式場益平の2級上になった。新潟中学卒業後は上京して正岡子規を訪ねたりしていたが、脚気に罹って郷里に帰り、新聞社の俳句選者として句作に専念していた。子規が亡くなる少し前に、当時まだ中央に知られていなかった良寛の歌集を贈っている。子規や間接的に漱石に、良寛を紹介したのは会津八一の功績と言える。その後同じ明治35年に、会津八一と式場益平は進学のため上京した。
 しかし論者は無理に(新潟つながりで)式場益平と会津八一を持って来たわけでもない。高柳君の同級生にあたる文人を日本中から探そうとしても、特に見つからないでのである。
 多少なりとも名の知れた文人で、式場益平と同じ明治15年の早生れは、画家の坂本繁二郎(久留米)だけと言っていい。いっぽう会津八一と同じ明治14年生れは、小山内薫(広島)と岩波茂雄(諏訪)くらい。岩波茂雄文人ではないかも知れないが、別に漱石と所縁があるとかに関係なく、本当にもう誰もいないのである。森田草平は明治14年だが早生れなので、級は1つ上である。(森田草平の場合もことさらに漱石門下だから挙げているわけではない。)

 その会津八一の戦後(昭和22年)の随筆に『麻青居士』というのがある。会津八一は早稲田で教師としてのキャリアをスタートさせたが、大正期式場益平は郷里で独自の活動を続けていた。

 ・・・少し気持の嶮しく狭いところがあって、自らいやしくもしない代りに、みだりに人にも許さない方の性分であったから、いつも孤高独行で味方が少なかったのだろう。それだけ私には厚かった。
 こんな風の人であったから、一面には相当に高い見識と意気込を持って居り、随分思い切ったことを、したり云ったりしたものらしい。ある時私に云ったところでは、どこかの地方新聞に、夏目漱石の批判をしたものを漱石へ送ってやったら、あちらからかなり長い手紙で、言い訳を云って来たというし、またある時は、もちろん面識もない齋藤茂吉のところへ手紙をやって、どうも子規や節や左千夫などの居なくなった後のアララギ派の歌は、安っぽくなって、見劣りがしていけないということを云ってやったら、齋藤氏からの返事に、只今のところは御もっともでもあろうが、藉(か)すに数年を以ってすれば、我々の精進によって、必ず天下を縦断して御目にかけるというようなことを云って来たという。
 しかしこれは私にその手紙なり返事なりを見せたのではなく、二人きりのところでの、ただの話であるから、実際のところ、どんな程度のやりとりがあったのか、にわかにはそれを取り立てて何ともいえぬが、その間に何かあったにはあったのであろうから、相手が今日の齋藤氏でないにしても、式場君も相当なものだといえる。(『麻青居士』昭和57年中央公論社会津八一全集第7巻)

 地方新聞に漱石のことを書いたというからには、明治40年に式場益平が新潟に引揚げて、家業の傍ら俳句の雑誌を立ち上げたり、和歌を詠むようになって、新潟新聞に作品を発表するようにもなった大正の初めにかけてのことであろうか。漱石の作品としては『彼岸過迄』『行人』『心』の中期3部作の頃であろうか。例えば新潟新聞に(匿名や無署名でなく)批評を書いたものを漱石に送り、漱石は新聞社宛に返事を出す。武者小路実篤の書生っぽい「それから論」に丁寧に返信していることを思えば、あり得ない話ではない。式場益平は新聞社経由でそれを読むが、手紙の現物は新聞社に置かれたまま、その後繰り返された経営者や社名の変更騒ぎに紛れて失われた。
 明治40年の漱石の1枚の葉書は70年の風雪を耐え抜いて読者の前に曝された。新潟市は空襲に遭っていない(長岡市は焼かれたが)。もし漱石の「かなり長い手紙」が式場益平の手許で保管されていたなら、それだけが消失したとは考えにくい。

 斎藤茂吉の式場麻青宛書簡というのも(全集を見る限りでは)現存していないようである。真面目でひたむきな式場益平が法螺を吹くとも思えないが、相手が会津八一であったがゆえの mystification であれば、この「逸話」の責任ないし手柄は、半分会津八一のものであろう。

 ところで漱石の日記に1ヶ所会津八一の名が出現する。それは明治42年3月20日(土曜)の「来信」欄に、

会津八一(越後針村)短冊所望」

 とあるものである。(漱石全集第20巻「日記断片下」)
 漱石会津八一は、子規や早稲田の糸で細く繋がっていると言えなくもないが、こんなところに名前が出て来るとは。これもまたホトトギスの勢力の証しであろうか。