明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 9

344.『野分』主人公は誰か(1)――見分けるコツは「こっち」


 さて本題に戻って『野分』の主人公は誰か。
 書出しの「白井道也は文学者である。」を見ても、白井道也であるとするのがふつうかも知れない。年齢も先の年表にあるように明治39年で34歳。漱石の40歳に近い。というより明治6年生れで、『草枕』の画工と同い年である。
 しかし次の章で中野君と高柳君が登場すると、白井道也は「道也先生」とお客さん扱いになってしまう。漱石の筆はひとまず中野君と高柳君に平等に降臨する。そのうち道也の細君まで主役争いに加わるが、さすがに章を追ううちに、小説としては自然に主人公は白井道也と高柳周作の2人に収斂してゆくようである。このことを志賀直哉は日記に、「二つの見方を一時にするを要す」と書いたことは前述の通り。
 要するにこの手法を通俗小説というのであるが、根が通俗小説作家でない漱石にとって、最終的には基準点たる主人公を定めなくてはいけない。(このときの志賀直哉には、『野分』と通俗小説を結びつける意識はなかったであろうが。)

 そこで登場するのが「こっち」という漱石時代特有の用語である。高柳君と道也の(小説における)初対面シーン。

「私は高柳周作と申すもので……」と丁寧に頭を下げた。高柳君が丁寧に頭を下げた事は今迄何度もある。然し此時の様に快よく頭を下げた事はない。教授の家を訪問しても、翻訳を頼まれる人に面会しても、其他の先輩に対しても皆丁寧に頭をさげる。先達て中野のおやじに紹介された時抔は愈以て丁寧に頭をさげた。然し頭を下げるうちにいつでも圧迫を感じて居る。位地、年輩、服装、住居が睥睨して、頭を下げぬか、下げぬかと催促されてやむを得ず頓首するのである。道也先生に対しては全く趣が違う。先生の服装は中野君の説明した如く、自分と伯仲の間にある。先生の書斎は座敷をかねる点に於て自分の室と同様である。先生の机は白木なるの点に於て、丸裸なるの点に於て、又尤も無趣味に四角張ったる点に於て自分の机と同様である。先生の顔は蒼い点に於て瘠せた点に於て自分と同様である。凡て是等の諸点に於て、先生と弟たりがたく兄たりがたき間柄にありながら、しかも丁寧に頭を下げるのは、逼まられて仕方なしに下げるのではない。仕方あるにも拘わらず、此方(こっち)の好意を以て下げるのである。同類に対する愛憐の念より生ずる真正の御辞儀である。世間に対する御辞儀は此野郎がと心中に思いながらも、公然には反比例に丁寧を極めたる虚偽の御辞儀でありますと①断わりたい位に思って、高柳君は頭を下げた。道也先生はそれと覚ったかどうか知らぬ
「ああ、そうですか、私が白井道也で……」とつくろった景色もなく云う。高柳君にはこの挨拶振りが気に入った。両人はしばらくの間黙って控えている。②道也は相手の来意がわからぬから、先方の切り出すのを待つのが当然と考える。高柳君は昔しの関係を残りなく打ち開けて、一刻も早く同類相憐むの間柄になりたい。然しあまり突然であるから、ちょっと言い出しかねる。のみならず、一昔し前の事とは申しながら、自分達がいじめて追い出した先生が、その為めにかく零落したのではあるまいかと思うと、何となく気がひけて云い切れない。高柳君はこんな所になると頗る勇気に乏しい。謝罪かたがた尋ねはしたが、愈と云う段になると少々怖くて罪滅しが出来かねる。心に色々な冒頭を作って見たが、どれも是も極りがわるい。
「段々寒くなりますね」と③道也先生はこっちの了簡を知らないから、超然たる時候の挨拶をする。
「ええ、大分寒くなった様で……」
 高柳君の脳中の冒頭は是で丸で打ち壊されて仕舞った。いっその事自白は此次にしようと云う気になる。然し何だか話して行きたい気がする。
「先生御忙がしいですか……」(『野分』第6章冒頭)

 文章は高柳君と道也を交互に描写しているに過ぎないように見えて、引用文における2ヶ所の「こっち」は、いずれも高柳君を指している。加えて①②③のように、読者に披歴済の高柳君の胸の内を、道也は知らないと繰り返し書かれる。叙述上は明らかに高柳君が主で道也が従である。
 3人称の小説で、セリフの中でなく、地の文として登場人物とあたかも一体化したように「こっち」と書かれるのは、『野分』では6例あって、その対象は4回までが高柳君、残りの2回が道也の細君である。それも含めて漱石の3人称小説における事例は以下のようになる。

《3人称小説において、漱石が地の文で主体的に「こっち」と記述する登場人物の一覧》
・『野分』・・・高柳君(2ヶ所だけ道也の細君)
・『虞美人草』・・・小野さん(1ヶ所だけ藤尾)
・『三四郎』・・・三四郎
・『それから』・・・代助
・『門』・・・宗助(1ヶ所だけ御米)
・『彼岸過迄』・・・敬太郎
・『道草』・・・健三
・『明暗』・・・津田・お延(1ヶ所だけ小林)

 この一覧表で明らかなように、『野分』の真の主人公は高柳周作であった。漱石の分身たる道也先生は、意外なことに漱石と肝心な所で一体化していなかった。どこかに決定的な断層が存在するのだろうか。

 漱石と真の主人公の高柳君の共通点は、

①貧書生。着る物も満足に揃えられない。
②昏い生立ち。子供の頃にトラウマになるような経験をする。
③孤独癖。容易に人に打ち解けない。
④初期の肺結核に罹る。

 が挙げられよう。もちろんこれらは表面的なものに過ぎない。一番重要なのは、自分の言論で世に立ち向かう決意を有っていることであるが、それは少なくとも書かれた範囲内では、意思表明だけにとどまっているようである。
 漱石の生まれに(高柳君みたいに)暗い影が差すというのは、間違いではないと思うが、反対意見もあるかも知れない。漱石がこの部分の描写に森田草平の生い立ちからインスパイアを得たという話はさておき、里子に出されることは身分のある家でもよく行なわれていたことであり、養子に出たり戻ったりも、当時としてはそのことだけを以ってとやかく言われる話でもあるまい。漱石の生い立ちは特に問題ないと、言えば言えるのである。養父母の強欲や実父の冷淡も、とくに漱石に限った話でもない。漱石が高名な小説家にならなければ、ごく普通のエリート学者と、世間一般には思われたことであろう。現実の漱石本人でさえ、彼の妻子が実際に蒙った被害に比べると、そこまでは1個人として貶められてはいない。夫として父親として、せいぜい(坊っちゃんのように)「神経に異状がある」(『坊っちゃん』第11章)程度でお茶を濁されている。

 ではもう1人の(主人公になりそこねた)主人公、ペン1本で世間に立ち向かうという意志を、実際に行動に移している白井道也はどうか。学問・道徳・人生に対する態度は多く漱石と一致するが、表面的な共通点だけ見ても、ただちにいくつも挙げられるだろう。

①偏屈文学者。
華族紳商嫌い。
③元教師。
④夫に現実的世俗的価値しか認めない細君を持つ。

 まさに漱石そのものであるが、漱石と根本的に異なるのは、道也が自分のみの決断で後先を考えずに教師を辞めてしまったことである。漱石は違う。このとき漱石はまだ教師を辞めていないが、朝日に入るときも慎重な年収比較が行なわれ、先々の生活に対する見通しを立てて鏡子の了解も取り付けている。(漱石は待遇については細部まで話し合った末入社したと思われがちであるが、入社してすぐの賞与を満額貰えるものと思っていた。当時まだ広くは浸透していなかった勤め人の賞与を、配当のように理解していたのだろう。これは間違いというわけでもない。社員という身分を株とか債券の類いと考えれば、入社と同時に配当の権利を有していても不思議はないわけである。)
 もう1つ異なるのは、道也先生の方は漱石のような癇癪持ちには描かれない。細君がそう疑うシーンはあるものの、道也は珍しく癇性であるとはされない。その代わり強情であると書かれる。

「あら、まだあんな事を言って入らっしゃる。あなたは余っ程強情ね」

「うん、おれは余っ程強情だよ」(『野分』第1章末尾)

 漱石も強情には違いないが、「癇性」は漱石の代名詞である。それを除けばあとは漱石と瓜二つである。乱暴で不器用に見えてその実丁寧な性格。演説のやや気取った駆け引きやセンスも漱石そのものである。

 漱石は中野君とも似ていないことはない。

①裕福。
②お洒落で口も奢っている。
③友人とへだてのない真摯な交際。
④小説を書いているが他の芸術についても深い理解を示す。

 漱石の生れた家は元はそこそこの名家であった。養家にも裕福と言えなくもない時期があった。実家は中途半端に時代に取り残され、復籍事件もあって本人は書生時代は常に金に困っていたが、卒業後はそれなりに高給を得ていたとは言える。1人残った兄(直矩)も相続したあと先祖伝来の家屋敷を売り払い、(菩提寺もあるので)近所に住み直した。

 以上の高柳君、道也先生、中野君の3名の役柄については、漱石自身の口からまとめて説明されているようである。
 荒正人のやたら詳しい『漱石研究年表』に、明治40年1月27日付『国民新聞』の「文芸消息」欄の記事として、こんな逸話が紹介されている。

 三上参次博士が漱石の面前で、「夏目君の傍に寄ると書かれるぞ」と云うと、漱石は答えて、「何大抵は僕自身で間に合わせるよ。『野分』の人物も僕を三分したものと思えば可かろう」と返している。(荒正人著小田切英雄監修/昭和59年集英社版『増補改訂漱石研究年表』/明治四十年の項より)

 もちろんこの謂いは漱石の洒落には違いなかろうが、高柳君と道也先生のダブル主人公に見えた『野分』は、中野君も加えた三つ巴となった。ところがもう1人、これは前述の「こっち」の件がなければ見過ごされるところであったが、主人公として(控え目ながら)名乗りを上げた人物がいた。それは御政という道也の細君である。