明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 5

379.『道草』へ至る道(3)――漱石のウィルヘルムマイスター


 ついでと言ってはナンだが、漱石の年譜をさらに遡ってみよう。上っ面だけになるが、書生時代から洋行まで、あくまで『道草』の時代へ繋げるための年譜である。

漱石の徒弟時代》 (極楽水・猿楽町・江東義塾時代を除き、住所地は概ね牛込喜久井町

明治12年3月 府立1中入学
明治13年 (寄席に通い始める――講談は子供の頃から好きだった)
明治14年1月 母千枝死去(56歳)
明治14年4月頃 府立1中退学~二松学舎入学
明治15年3月 二松学舎退学
明治15年~16年 (この前後塩原家――昌之助・かつ・れん――に屡々出入りする)
明治16年7月 成立学舎入学(予備門入学準備・英語習得のため)(太田達人・佐藤友熊・中川小十郎・中村是公・橋本左五郎他と識る)
明治16年9月 小石川極楽水時代(橋本左五郎等と自炊生活)
明治17年9月 予備門入学(その前に明治英学校にも通ったらしい)
明治17年~18年 (この頃中村是公等10人近くと神田猿楽町の下宿末富屋に住む~予備門通学の2年間は下宿したりしなかったり、要するに自宅にあっても、長兄に英語を教わるとき以外は家族と口をきくわけでなし、漱石本人にとってはどちらでも同じような感じだったか)
明治18年5月 江の島徒歩旅行(俺が負ぶさる)
明治18年9月 予備門(2年次)
明治18年9月 虫垂炎
明治19年 (この頃日根野れん21歳平岡周造27歳と結婚)
明治19年4月 「東京大学予備門」を「第1高等中学校(予科3年・本科2年)」と改称
明治19年7月 腹膜炎~第1高等中学校進級試験落第
明治19年9月 第1高等中学校予科(再2年次)(米山保三郎と知る)
明治19年9月 江東義塾アルバイト時代(中村是公と)
明治20年1月 成績急上昇~以降卒業まで首席を通す
明治20年3月 長兄大助死去(32歳)
明治20年6月 次兄直則死去(30歳)
明治20年7月 三兄直矩家督相続
明治20年7月 江の島・箱根旅行・富士登山中村是公等と)
明治20年8月 大阪旅行
明治20年9月 第1高等中学校予科(3年次)(米山保三郎と親交)
明治20年9月 三兄直矩結婚(すぐ離婚)
明治20年9月 トラホーム~自宅へ引揚げる
明治21年1月 夏目家復籍(精算金240円)
明治21年4月 夏目家は塩原家と交際を絶つ
明治21年4月 三兄直矩30歳登世22歳と再婚
明治21年7月 第1高等中学校予科終了
明治21年9月 第1高等中学校本科(文科)進学
明治22年1月 正岡子規との交流始まる
明治22年2月 森有礼暗殺(43歳)
明治22年7月 興津旅行(直矩に同行)
明治22年8月 房総旅行(漱石のホリディキャンプ「木屑録」)
明治22年9月 第1高等中学校本科(文科)(2年次)
明治23年7月 第1高等中学校本科(文科)卒業
明治23年8月 眼病
明治23年9月 帝国大学文科大学英文学科入学
明治24年7月 眼医者にて(子規への手紙「銀杏返しに丈長」)
明治24年7月 富士登山2度目(中村是公等と)
明治24年7月 嫂登世死去(25歳)
明治24年9月 帝大英文科(2年次)
明治24年12月 「方丈記」英訳
明治25年4月 北海道岩内に送籍(学生の兵役免除が26歳で切れるため)
明治25年4月 東京専門学校講師
明治25年5月 三兄直矩34歳みよ17歳と再々婚(漱石はこの「義姉」を無視した)
明治25年7月 「哲学雑誌」編集委員
明治25年7月 岡山旅行・片岡家滞在・大洪水
明治25年8月 松山訪問
明治25年9月 帝大英文科(3年次)(子規は落第)
明治26年1月 塩原昌之助55歳・かつ47歳入籍
明治26年3月 子規退学
明治26年6月 ケーベル先生来日
明治26年7月 帝大英文科卒業~大学院進学
明治26年7月 鎌倉参禅・日光旅行
明治26年7月 帝大寄宿舎へ移る

漱石の遍歴時代》 (住所地は概ね本郷の寄宿舎・法蔵院・松山・熊本・倫敦)

明治26年10月 高等師範講師(この頃より父への返済始まる)
明治27年2月 初期の肺結核
明治27年7月 伊香保温泉行
明治27年8月 日清戦争
明治27年8月 松島旅行・湘南旅行
明治27年9月 帝大寄宿舎を出て菅虎雄の家へ移る
明治27年10月 法蔵院尼僧事件
明治27年12月 鎌倉参禅(父母未生以前の面目)
明治28年1月 『たけくらべ
明治28年3月 大塚楠緒子21歳・保治28歳結婚式
明治28年3月 東京専門学校・高等師範辞任
明治28年4月 松山中学着任
明治28年4月 藤野古白死去(25歳)
明治28年4月 下関条約
明治28年8月~10月 子規と同居(愚陀仏庵)
明治28年12月 鏡子と見合・婚約
明治29年4月 松山中学退任~五高へ転任
明治29年6月 鏡子と結婚
明治29年9月 寺田寅彦五高入学
明治29年11月 樋口一葉死去(25歳)
明治30年1月 一葉全集刊
明治30年1月 「ホトトギス」創刊
明治30年1月 『金色夜叉』連載開始
明治30年2月 評論『トリストラムシャンデー』(田岡嶺雲の「江湖文学」に)
明治30年5月 米山保三郎死去(29歳)
明治30年6月 父直克死去(81歳)
明治30年7月 帰省~鏡子流産
明治30年7月 寺田寅彦20歳夏子15歳結婚
明治30年8月 菅虎雄五高退職
明治30年10月 養母やすから長文の手紙来る
明治30年11月 佐賀県の中学(佐賀中)・福岡県の中学(修猷館・久留米明善・柳川伝習館)に出張
明治30年12月~明治31年1月 小天旅行
明治31年1月 狩野享吉五高教頭着任
明治31年3月 熊本で5回目の住居(白川に臨む)
明治31年5月頃 小天旅行(2度目)
明治31年6月 鏡子入水事件(白川)
明治31年7月 寺田寅彦との交際始まる
明治31年7月 熊本で6回目の住居(一番良い家で2年近く住む)
明治31年9月~11月 鏡子重度のヒステリーに
明治31年12月 狩野享吉一高校長へ転任
明治32年1月 日田旅行
明治32年5月 長女筆子誕生
明治32年7月 寺田寅彦五高卒業~帝大入学
明治32年8月 阿蘇旅行
明治32年9月 (この頃より姉高田房への仕送り始まる)
明治33年5月 洋行決定
明治33年8月 子規との「永訣」
明治33年9月 長崎から出帆
明治33年10月 欧州上陸
明治33年12月~明治34年8月 クレイグ先生の個人教授を受ける
明治34年1月 二女恒子誕生
明治34年2月 ヴィクトリア女王国葬
明治35年6月 エドワード7世戴冠式
明治35年9月 「東京専門学校」を「早稲田大学」と改称
明治35年9月 子規死去(36歳)
明治35年10月 寺田寅彦妻夏子死去(20歳)
明治35年12月 英国出航
明治36年1月 帰朝

 漱石の「徒弟時代」は、明治12年の1中入学から明治26年の帝大英文科卒業までの14年間を充てて特に異論はないだろう。現代の学制に置き換えると、中高3年ずつ、大学大学院3年ずつといったところか。合計すると12年で、2年足りない。これは中学と高校の間(二松学舎と成立学舎の間)が1年空いているのと、高校最後の年(予備門2年目)を落第してもう1年やり直しているせいである。
 分かりやすくするため再度まとめると、以下のようになる。右項は比定される現在の学制。予科というのはギムナジウムの和訳であろうか、教養課程とも言える。1高予科は今の東大教養課程にあたるだろう。

①1中2年と二松学舎 ⇒ 中学3年間
②空白の1年間 ⇒ (何をしていたかよく分からない)
③成立学舎と予備門2年 ⇒ 高校3年間
④1高予科2年次(予備門2年次)をやり直す ⇒ (留年もしくは所謂1浪に相当するか)
⑤1高予科3年次と1高本科2年 ⇒ 大学3年間
⑥帝大3年 ⇒ 大学院3年間

 ここで⑤の新制の大学の3年間とは、第1高等中学校予科の最終年次(3年次)と本科2年間の計3年間を当てはめた。④と⑤を併せて大学4年間と称してもいいくらいだが、それはともかく、漱石は④の予科2年次をやり直した頃には既に学問(文学)で身を立てる覚悟を固めていたと思われる。以後首席を通したのはその証左であろう。⑤の2年目で本科(文科)に進むとき、今でいえば大学の専攻を決めるときは、もう自分の人生に対して後戻りするつもりはなかった。米山保三郎の助言を容れたというのは、まあ嘘ではないにせよ、進路を自分1人だけで決定したのであれば、その言い訳が面倒なので、敬愛する米山を引合いに出したのであろう。加えて、建築科 VS. 文科という大命題を立てれば、漢学 VS. 英文学( China VS. England )という図式は目立ちにくくなる。(こちらは自分自身への言い訳だろうが。)
 漱石に建築等へ進む希望があったとすれば、それは二松学舎で唐宋の古文を読んでいた時代か、晩くても成立学舎で英語を学び始めた頃のことであろう。英語は進学のために習得する必要が生じたので、その頃の学徒としての漱石は、むしろ正解のはっきりする理数科の方を好んでいたと思われる。(漢文はわざわざ学校で学ぶようなシロモノではない、そして英語も最初は見るのも嫌だったと後年述懐している。)
 ところが早くも③の2年目明治17年、予備門の入学試験のとき漱石は代数の問題(方程式)が解けなくて、橋本左五郎に教えてもらったという。また予備門に入ってからも、数学の時間は(当てられても)黒板の前で1時間立ち尽くすことが多かった(ともに『満韓ところどころ』『談話』による)。これでは将来理系のスペシャリスト(しかも東京帝国大学で)になれるわけがない。
 後に漱石は第1高等中学校(予科)で建築コースにいたようなことを言っているが、漱石の進んだ本科はあくまでも文科であって建築科ではない。しっかり勉強するようになったので理数科目も得意になり、そういう選択クラスにも地歩を占めたかも知れないが、めざしたのは文学を研究して名を揚げることである。もっとも周りの人間は漱石を理数系向きだと思った。人に調子を合わせない偏屈なところがあるからであろう。反対に米山保三郎のような一種超越した人から見ると、そんな忖度をするまでもなく、漱石の本質をあっさり穿ったに違いない。

 漱石の立場からすると、漱石が本気で英語に身を入れるようになったのは、bilingual が別人格の獲得に裨益すると考えたからではないか。これまでの(嫌な)自分を脱却できる、かどうかは別にしても、異なる言語で思考することは、もう1人の自分に繋がる――。話は飛躍するようであるが、後年周囲の制止を振り切って松山に飛び出したのも、そういう気持が働いたからであろう。違う自分になりたい。なるべく人の反対しそうなところを狙う。人の意表を衝く。人の思う壺に嵌らない。人と同じことをしない。人が書かないような小説を書く――。
 文学は職業にならない、と自宅で英語を教わっていたころ(唯一尊敬する)長兄に言われたが、結局は英文学で飯を食うことになった。根っからの天邪鬼とも言えるが、その性向が完成されたのが、もしかすると上記の②の、二松学舎と成立学舎の間にぽっかり空いた「謎の1年余」ではないか。しかしこれについては項を改めたい。