398.『道草』番外編(4)――長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(2)
(前項より続き)
長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(つづき)
Ⅴ 明石の講演旅行(2年後のイベントを挿入)
其年だったか翌年だったか君は明石に講演に来た時も、海岸の料理屋で、平気で何でも食べて、とうとう飯蛸まで食べようとしたから、私は猛烈に攻撃した。でもとうとう食ってしまったようだったが、講演を終わって東京へ帰らぬうちに、前の病気が再発して、大阪の湯川病院へ入れられた。
其時ほど私を狼狽させたことはない。病気は、医師が必ずしも恢復を保証しない位重大なものであった。兎に角も夫人に電報で下阪を求めて、私は社の販売部長の小西氏と二人で特に此の急場の危険に対し出来るだけの尽力を求めるべく湯川博士に会おうとすると相憎の留守で、医員に会って病状を聴いている時の、ヤキモキした不安は、何時思い出しても慄っとすると、小西氏は今だに云っている。
私は、身体に微動も与えることを禁じられている俯向になったままの君を病室に見た時に、堪らなく焦ら立たしいほど、飯蛸を食った君に反感を持たぬ訳に行かなかった。で私は君を見るなり「だって蛸なんかを食うんだもの」と云った。君は夫れでも医師から命じられた通り頭も動かさずに、「蛸ッていうと思った」と例の通り顔の筋肉だけ動かして笑った。
この段落については変則的にも、本体の明治42年を回想した文章に、明治44年の大阪朝日の講演会のときのエピソードが追加挿入されている。漱石の大阪朝日の講演会は、「其年」でも「翌年」でもなく、正確には「翌々年」の夏である。このときの4回(明石・和歌山・堺・大阪)の講演に如是閑がすべて付き合ったかどうかは別として、如是閑は明らかに明石の蛸の年次を失念している。前項で述べた通り、自身の天下茶屋転居については正しく8年前と認識しているが、漱石の明石行きがその何年後だったか、まあそちらの方は業務・職務の位置付けであろうから記憶が曖昧なのは無理ならぬところ。
この関西講演旅行については後にまた触れることになると思うが、「蛸ッていうと思った」は、漱石という人の魅力をよく伝えている。断片とはいえ漱石の小説を読んだだけでは味わえない本人の魅力。家族、弟子や友人の書き残したものにも、これほどのものは滅多に見当たらない。例えば鏡花の「夏目さん、金之助さん、失礼だが、金さん。何うしても岡惚れをさせるじゃありませんか」(泉鏡花『夏目さん』大正6年1月「新小説」)などは、むしろ文人鏡花の魅力を際立たせるものであろう。如是閑の方は漱石自身のセリフを使って、漱石という人物を一語で穿っている。真のジャーナリストと言うべきか。
Ⅵ 浜寺の小僧
夫れ( 前段落Ⅴ 明石の講演旅行)は後日の話だが浜寺の粗末な食事をタカジヤスターゼと一伴(しょ)に食べる君を、私は不安な心持で見ていたことは事実だ。其うちに向うの広間の二階の廊下に、若い商家の小僧のような身装の男が出て来て、手摺につかまって二三度身体を前にのめらしたと思うと猛烈に嘔吐を始めた。すると同じような装をした少し年上らしい若者がよろめきながら出て来て、吐いている男の背を撫でてやる。夏目君は此方の座敷からそれを見て、「見給え、アレで介抱しているつもりなんだぜ」といって、頻りに「面白いナア」「面白いナア」と繰返した。
この段落が『行人/友達』そのものであることは言うまでもない。前項の引用箇所、Ⅳ 浜寺の大門の「トンネル」と、このⅥ 浜寺の小僧の「酔態」は、本体『行人』ではこう書かれる。
〇『行人』
三人は浜寺で降りた。此地方の様子を知らない自分は、大な松と砂の間を歩いて流石に好い所だと思った。然し岡田は此処では「何うです」を繰返さなかった。お兼さんも洋傘を開いた儘さっさと行った。
「もう来ているだろうか」
「そうね。ことに因ると最う来て待って入らっしゃるかも知れないわ」
自分は二人の後に跟いて、斯んな会話を聴きながら、すばらしく大きな料理屋の玄関の前に立った。自分は何よりもまず其大きいのに驚かされたが、上って案内をされた時、更にその道中の長いのに吃驚した。三人は段々を下りて細い廊下を通った。
「隧道(トンネル)ですよ」
お兼さんが斯ういって自分に教えて呉れたとき、自分はそれが冗談で、本当に地面の下ではないのだと思った。それで只笑って薄暗い処を通り抜けた。
Ⓐ座敷では佐野が一人敷居際に洋服の片膝を立てて、煙草を吹かしながら海の方を見ていた。自分達の足音を聞いた彼はすぐ此方を向いた。其時彼の額の下に、金縁の眼鏡が光った。部屋へ這入るとき第一に彼と顔を見合せたのは実に自分だったのである。(『行人/友達』第8回末尾)
Ⓑ四人(よつたり)のいる座敷の向うには、同じ家のだけれども棟の違う高い二階が見えた。障子を取り払った其広間の中を見上げると、角帯を締めた若い人達が大勢いて、其内の一人が手拭を肩へ掛けて踊かなにか躍っていた。「御店ものの懇親会という所だろう」と評し合っているうちに、十六七の小僧が手摺の所へ出て来て、汚ないものを容赦なく廂の上へ吐いた。すると同じ位な年輩の小僧が又一人煙草を吹かしながら出て来て、こら確かりしろ、己が付いているから、何にも怖がるには及ばない、という意味を純粋の大阪弁で遣り出した。今迄苦々しい顔をして手摺の方を見ていた四人はとうとう吹き出して仕舞った。
「何方も酔ってるんだよ。小僧の癖に」と岡田が云った。
「貴方みたいね」とお兼さんが評した。
「何方がです」と佐野が聞いた。
「両方ともよ。吐いたり管を捲いたり」とお兼さんが答えた。
岡田は寧ろ愉快な顔をしていた。自分は黙っていた。佐野は独り高笑をした。
四人はまだ日の高い四時頃に其処を出て帰路についた。途中で分れるとき佐野は「何れ其内又」と帽を取って挨拶した。三人はプラットフォームから外へ出た。(『行人/友達』第9回)
「すばらしく大きな料理屋」が、前項で引用した日記には、
「一力の支店という馬鹿に大きな家」と書かれていた。
漱石といえど、ただ精確を旨として頭に浮かんだことをそのまま書き綴っているわけではないことが(当然であるが)伺えよう。
それはともかく、如是閑は熱心な漱石読者ではないと自ら言っているから、『行人』は読んでいないかも知れない。しかし『行人』引用文Ⓐ(佐野が1人で片膝を立てて待っている)と、前項Ⅰ 天下茶屋での邂逅の、「潜戸を開けて内に入ると玄関のところに夏目さんが腰をかけていた」という漱石が1人で腰を掛けて待っているシーンは、まるで同一人の筆にかかるかのようである。
如是閑の丁寧さは、Ⅵ 浜寺の小僧の嘔吐シーンの記述でも明らかである。「手摺につかまって二三度身体を前にのめらした~」の方が、『行人』の「手摺の所へ出て来て」だけより迫力がある。加えてⅣ 浜寺の大門のくだりの、「トンネル」に続いて、料亭では2階の座敷に通されたと明記されているところも、やはり実見したままを報告している如是閑の筆の方に勢いがある。これに比して『行人』のもう1ヶ所の引用部分Ⓑは、主人公たちのいる座敷が1階にあるようにも読める。思うに二郎と漱石は岡田夫妻の家の「2階」に寝泊まりしていることを繰り返し強調しており、佐野を呼んだ昼食会場まで2階と書くのはくどいと感じたのだろう。処女作から絶筆まで、場面の高低差に常にこだわる(※)漱石にしては、珍しく曖昧な書き方になっている。もっとも前項でも述べたように、漱石は日記の段階から、なぜか「2階」の語を封印している。『行人』執筆時の思いつきではないということか。如是閑の方はそんなことを構う謂われはないから、2階の座敷で飯を食ったとそのまま書いている。
Ⅶ 江戸っ子の面目
私達は、満洲の話や、文学の話や、政治の話や、夫れから夫れへと止め度なく話し合った。『虞美人草』の話も出て私は其れに対する不満の数々を列べた。君は別に反対もせず賛成もせず、政府委員のような態度でいろいろのことを説明してくれた。主人公の自殺について話し合っていた時、私の云う事を聴いて君は、「······だッてえのかい」といってグッと口を結んだ。夫れが如何にも気六かしい人が如何にも気に入らないことを云われた時の表情としか私には思われなかった。後で知ったことだが、君は反対のことを人に云われると、其のまま其人のいうことを繰返して、其の語尾に「てえのかい」と付けて、夫れ切り何の説明をも与えないことがある。何うかすると君自身が面白いと感ずる言葉に対しても夫れをやるが、先ず反対の場合か又は条件を付ける必要のある場合に夫れをやることが多い。私が始めて君の此の調子に接した時に、気六かしい人だと聴いていたことが立証されたように感じた。けれども此の気六かしさは、私には馴染の多い気六かしさで、本場の江戸っ児に共通のものであった。つまり江戸っ児には、理智的立場の相違を直ぐに趣味的立場の相違と断じてしまって、ムッとするような気になる癖がある。夫れは殊に趣味性が発達しているので、人が理智から来た判断を以てやって来ても、直(じき)に夫れを劣位の趣味性から来た判断と思って、済度すべからずと諦めてしまうのだ。夏目君にも夫れがある。が君は中々諦めない。そうケナしつけて置いてから夫れを理智の方面から屈服させようとする。そう云う事から牽いて、君は感情又は感覚の問題を、論理の問題にすることが珍しくなかった。蟹堂(高原操)も話していたように、下読みをして来ない生徒に「先生でさえ下読みをして来るのに生徒の分際で」と小言を云ったというが、これは下読みをして来ない生徒に対する先生の腹立ちを表現するのに、外の先生にするように其まま「不埒」とか「横着」とか結論だけで叱り付けないで、三段論法に作って見せたのである。即ち
・出来ない者ほど下読みの必要がある。
・生徒は先生より出来ない。
・(故に)生徒は先生より下読みの必要がある。
夏目君の会話や演説には始終斯ういう論理的構造をもったものが挿(さしはさま)まれた。夫れは、若し君に機智と滑稽味とがなかったら、余程困ったものになったに相違ないが、君は其の論理の機関(からくり)を機智と滑稽味とで運転していたから夫れを喰わされたものも毫も停滞の感じを起こさないで、寧ろ一種の快感を覚える。此点も江戸趣味の特徴が現れたものといえる。江戸ッ児は、憤怒や悲哀の発見にも、往々機智を交えたり滑稽味を加えたりする。夫れが為めに、江戸ッ児の憤怒や悲哀は、地方の人には間々不真面目に見られる。此点に於て江戸ッ児は愛蘭人にそっくりなところがある。これは江戸ッ児の町人が、封建的階級制度に対する反抗から来たもののように思われる。武士階級に対する腕力の反抗が不可能だから、智的屈辱を之に与えて自ら慰めるのである。夏目君の行動にも往々明瞭に夫れと同じ経路のものがある。大学教授を嫌ったり、博士号を馬鹿にしたりするのは、君ほど偉大なる力を持った人には何の必要もない反抗であるのに、君は自分で何等の力のない人のするのと同じ反抗方法を取って居たのである。純江戸趣味を受継いだ人間は、君のような大きい力を持たない人ほど尚、皆君と同じような反抗心をもって、君と同じような態度に出ているのである。君はそんな小さい反抗心や小さい反抗方法を取る必要のないほど偉大な力を持ちながら、それほどの力のない人の持っている通りの反抗心を発揮したから、其江戸的遺伝性を諒解しない人は、君の態度を殊更らしいと評するのである。が君は其殊更らしさが、君の皮肉の刺激を一層強くすれば更らに結構なのである。多くの人が成金的の権威を有りがたがるのに対して君は其の成金的権威に紳士としての待遇を与えまいとするのである。そんな権威と交際は真っ平だというのである。若し今の社会が全く此の成金的権威によって維持されているならば、寧ろ自分は非社会的に生きようというのである。「懐手をして世間を狭く活らしたい」という君の我儘は、私達の心の底に沈んでいる政治上芸術上の反抗心と共通の血液の凝結から出来ているのである。であるから、其の反抗心を「小さい」というのは、月並の常識に従った言草なのだ。メレディスの機智や、ショーの皮肉も、此の反抗心を十分に表現するには足りないほど大きいものだと私は思っている。夏目君だって無論十分だったとはいえない。
如是閑は『額の男』の批評を漱石に書いてもらったにもかかわらず、漱石の忠実な読者ではなかった。大阪朝日に入ったとき、その前年に入社第1作として鳴り物入りで出た『虞美人草』だけは読んでいたが、おそらくその(作品構成上の)通俗性についての不満を、遠慮なくぶちまけたのだろう。『金色夜叉』と変わらない。何のために紅葉没後を俟つように登場したのか。(とは言わなかったと思うが、21世紀の現代から遡って斟酌すればそんなニュアンスのことを述べたのだろう。)
文章上の(衒学的な)修辞についての批評であれば、漱石も苦笑いを以って聞き流したであろうが、――事実漱石は『虞美人草』で頂点に達したかに見えた、誰も使わない古代の漢語をこれ見よがしに配置した華美な文体をその後は封印した。――作中人物の言動についての「不自然」を謂うのであれば、漱石も肯うわけにはいかない。ましてやその「通俗(紋切)」を云々されたのでは漱石も反論せざるを得なかったのだろう。
話は飛ぶが後年にも漱石は、『明暗』連載中に、第45回で突然描写の主格が津田からお延に替わったとき、それを指摘した地方の新聞社勤めの読者(富山の大石泰蔵)に対し、自分は主格を変更したつもりはない・普通の小説と同じく普通に(津田とお延を)叙述しているだけであると、平然と言い放っている。
漱石の3人称小説には2種類(厳密には3種類)あって、多くは『三四郎』『それから』『門』『道草』のように、特定主人公の視点からすべてを描くものである。(ただ『門』では宗助のいない留守に御米と小六だけが登場するシーンが存在するが、基本は『三四郎』や『それから』と同じ書き方と見ていいだろう。)
『明暗』も運筆としてはそれらと変わらないが、途中から主人公が津田とお延の交代制になっているので、『明暗』だけは別物と考えるべきか。
残る1つが『虞美人草』とそのトライアル『野分』である。『野分』は白井道也と高柳周作のオムニバス形式のようになっていて、2人が共に登場するときには、何とも正直なことに、一方が急に目立たなくなってしまう。その意味で『野分』は『明暗』ほど徹底していないにせよ、2人主人公交代制の魁と見ていいかも知れない。
(『明暗』を通俗小説と見做すことをしなければ、)『虞美人草』だけが漱石にあって例外的な所謂通俗小説である。小野さんと藤尾の恋愛物語。小夜子と井上孤堂の父娘愛。甲野さんと宗近君の友愛。(『二百十日』はその外伝であろう。圭さんと碌さんの友情は、『野分』高柳周作と中野輝一を経て、甲野欽吾と宗近一の友愛レベルにいったん到達した。「同級生」はその後も漱石作品で進展を見せるが、だんだんその間柄は込み入って来るようである。友愛の名残は『彼岸過迄』敬太郎と市蔵にかろうじて見られるものの、『行人』二郎と三沢には互いに通い合うものがあるとは書かれない。『心』は語るまでもなく危機の頂点を迎え、『明暗』での津田と小林は、『それから』の代助・平岡と比べるとすぐ気がつくように、明らかに最初からの仇敵である。)
『虞美人草』の人間関係はさらに入り組み、甲野さんと藤尾、宗近君と糸子の「兄妹愛」は当時は広く書かれたもの。(今ははやらないが、その過去を総括するように登場して国民的な人気者となったのが「寅さん映画」であろう。)
謎の女と藤尾は母娘愛とでも言うべきか、愛がないと言いいたいのか。物語としてのヒーローとヒロインは小野清三と甲野藤尾であるが、この1組のヒーロー・ヒロインの書かれ方は漱石の他のどんな作品とも異なる。漱石は小野さんとことさら一体化していないし、藤尾は始めから殺すつもりで造型している。
しかし問題はこんな所(ステレオタイプな登場人物の性格と配置)にあるのではない。如是閑の言に関係なく、驚くべきことに漱石はどの小説も同じ書き方をしていると信じていた節がある。「私」と書く代りに「健三」と書いているだけ。健三と御住も、津田とお延も、代助と三千代と同じ書き方である。それどころかロシアの文豪の小説も皆、同じアプローチであると信じて疑わなかった。津田であれお延であれ、アンナであれイワンであれ、皆同じ書き方で書かれている――。
如是閑の言う『虞美人草』の疑問点については、ここで想像しても始まらないが、如是閑もまた藤尾服毒説の1人であった。慥かに物語の始めからクレオパトラ・清姫とくればが、誰もがそういったことを連想する。だが漱石はそんな月並を許す作家だろうか。漱石は藤尾の死因の特定には関心がなかった。読者がどのように取るかは読者の自由である。漱石が書いたのは、小野さんの決断に(半分は覚悟もしていたが)ショックを受けた藤尾の身体が、突然どうと倒れて別の世へ行ってしまったということだけである。そもそもクレオパトラや清姫にしても、その死は自殺とか他殺というありきたりの言葉で表現しきれるものではなかろう。
如是閑は『虞美人草』の主人公の書き方や死に至る結末が定型的であると評した(と思う)。漱石はもともとそんな意図はない。自分が書くものが通俗小説であるとは一瞬たりとも思ったことはなかった(はずである)。
『虞美人草』の話は置いておくとして、この段落における漱石と江戸っ子文学についての論評はその通りであろう。江戸っ子としての漱石の特質をよく言い表して、ごもっともと言うしかない。「だッてえのかい」という切り返しは漱石の江戸っ子ぶりの第3弾か。前の段落の漱石ぶり「蛸ッていうと思った」は、仮にこの段落の言い方「蛸のせいだッてえのかい」と、一見正反対に見えて、その底には似たようなメンタリティが漂っているということだろう。それを敷衍した「江戸っ子アイルランド人説」は、また別の驚きである。英国の中ではアイルランドはユダヤの血が濃い方であろうが、ユダヤの風習は日本にすら残っている。
ところで如是閑の言いたかったのは民族的な血統の話ではなく、前項でも述べた権力者への反抗心ということであろう。それこそが如是閑が真のジャーナリストであった証左である。多くの変人が自分は変人でないと信じているように、真のジャーナリストは自分がジャーナリストであるという自覚がない。ジャーナリストは特別な存在ではない。如是閑のような人は(漱石でもいいが)、人は誰しも(権力者当人以外は)反権力であると信じている。ことによると「権力者」自身でさえ、(他のよく分からない)より大きな「権力」に対して、自分こそ反権力であると思っているかも知れない。だからことさら反権力を言わない。翻って自分のことをジャーナリストであると主張しない所以である。
漱石は反権力を標榜しない。引用文の最後で如是閑も言うように、「私達の心の底に沈んでいる政治上芸術上の反抗心」つまりもともと人間の出来が反権力に仕上がっているのであるから、言う必要がないのである。しかし漱石がそんなラディカルな江戸っ子の中に交わって居心地が好いかどうかは、また別の問題であろう。アイルランドに住むアイルランド人が皆幸福を感じるわけでもない。
※注)場面の高低差に常にこだわる
漱石の作品には小説小品を問わず、見上げる女・見下ろす男という場景が頻出する(男と女が逆になることもたまにある)。男女を離れても、見上げる見下ろす・昇り降り・上下落下・高い低いといった動作・光景・シチュエーションに充ち溢れている。というのは大袈裟だが、この「高低差」(海抜の)が何に由来するものかは、考えて分かるものでもないだろう。例えば見上げているのが専ら女であることを思うと、女性のうなじ・顎から喉へかけてのライン、当然それは上体の(正しい)姿勢も含まれるのであるが、そういうものへの嗜好・憧れがあるのだろうか。それとも単に見る者に美しい映像や躍動感を提供したいだけなのか。
こうした艶っぽい感覚と一見無縁に思える『猫』にしても、寒月の吾妻橋飛び降り事件、ヴァイオリン試奏山登り事件、窓の「下」に身を隠して東風たちの朗読会を盗み聞きする女学生、苦沙弥の眼前で上下する迷亭の喉仏と蕎麦、庭に落下して来る落雲館中学の野球ボール、池の中をぶくぶく歩きながら沈んで行く理野陶然、女の行水を見下ろす烏、その烏に馬鹿にされて跳び上がり、着地に失敗して垣根から転落する吾輩、その吾輩も最後は金田富子と婚約した多々良三平の土産のビールを舐めて水甕に落ちる。そもそも吾輩は登場したときから、くるくる放物線を描いて空を跳んでいたのである――。
『彼岸過迄』鎌倉から独り帰宅した市蔵は、「1階」での食卓で作に、結婚したくないかと不躾な質問をして赤面させる。何か感じるところがあったかも知れない作の心が打ち砕かれるのは、翌日「2階」に上がって、市蔵と千代子のよく馴染んだ様子を目にしたときであった。作はどんな気持ちで梯子段を降りたのか――。
枚挙に暇がないので例証については項を改めたいが、唯一の例外が『それから』の代助が三千代に告白するシーンであろうか。両者は終始洋間の椅子に腰掛けたまま額を寄せるよう向き合っている。しかしこれが漱石作品唯一の「告白」であるとするならば、このとき漱石がなぜ両者の位置(立ち位置)に高低差を設けなかったのかという理由も、何となく解かろうというもの。
漱石の男主人公がなべて背が高い設定になっているのも、漱石自身の劣等感の補償などという卑近な動機ではなく、頭の位置の違いを読者の脳にイメジとして残すのが主目的なのであろう。男は高く女は低い。(あくまで外見の話であるが)男は強く女は弱い。男が上で女は下。そしてその高さの違いは、プロポーズシーンでもない限り、小説の中ではどこまでも保たれるのである。
(この項続く)