412.『虞美人草』(8)――藤尾はなぜ死んだのか
最後に昔から言われる疑問、藤尾は自殺したのかそれとも病死(突然死・自然死)かという疑問について簡単に触れてみよう。
『虞美人草』が発表された当時は服毒説が大勢を占めていたのではないか。本項で取り上げた長谷川如是閑も何の迷いもなく「主人公の自殺」と書いている。(『初めて逢った漱石君』――第24項を参照)
独りで漱石全集を造ってしまった感のある荒正人にしても、その集英社版全集第3巻『虞美人草』の解説を読む限りでは、藤尾の服毒を疑っていないようである。
思うにそれは物語の大詰、衆人環視の中で大恥をかいた主人公が、そんな都合よく脳溢血だか心臓麻痺で死ねるわけもないだろうという常識論と、実際に小説に書かれた次の1行が根拠になっているのだろう。
我(が)の女は虚栄の毒を仰いで斃れた。(『虞美人草』19ノ1回)
「虚栄の毒」と書かれる。虚栄の毒とは本物の毒ではなく偽物の毒という意味であろう。あくまで比喩である。
藤尾は終始クレオパトラとセットで描かれ、クレオパトラにあこがれさえする。小説の最初には安珍清姫も話頭に上るのであるから、藤尾の物語は自殺号という筏に乗って漕ぎ出したようにも見える。
慥かに藤尾はいざという時、いかにも毒薬を呑んだり崖から飛び降りそうな女として造型されているが、そもそも漱石という作家は、そんな人の思う壺に嵌るような作家であろうか。元来天邪鬼でつむじが曲がっているのである。死ぬ死ぬと言って死んだ人はいない。
この勁さ・乱暴さを有つ女として、漱石読者はすぐに那美さん・よし子・千代子・お直・お延を思い浮かべる。(作品の中で現実に行動に移す勁さを発揮するのは、むしろ美禰子・三千代・御米の3部作トリオの方であるが。『道草』の御住でさえ、シチュエーションは異なるが、「死んだ方がよければいつでも死にます」というセリフを発している。)
そんな藤尾について『虞美人草』で漱石が提示したのは、彼女を襲った血管のトラブルであった。第18章の最後の回で、それは丁寧に段階を踏んで書かれる。ここではその後半部分を全文引用してみよう。分かりやすくすため5つのブロックに分けて、各々小見出しも附す。
当該回(18ノ14回)、大森行きの約束をすっぽかされた藤尾は怒り狂って小野さんと宗近君に当たり散らすが、宗近君は自信たっぷりに切り札の小夜子を出して来る。
Ⅰ 化石(憎悪)
「僕が紹介してやろう」と一足小野さんを横へ押し退けると、後ろから小さい小夜子が出た。
「藤尾さん、是が小野さんの妻君だ」
藤尾の表情は忽然として憎悪となった。憎悪は次第に嫉妬となった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。
Ⅱ 破裂(憤怒)
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
小夜子は泣き腫らした眼を俯せた儘、細い首を下げる。藤尾は白い拳を握ったまま、動かない。
「嘘です。嘘です」と二遍云った。「小野さんは私の夫です。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。
「僕は只好意上事実を報知する迄さ。序(ついで)に小夜子さんを紹介し様と思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の怒を満面に注ぐ。
Ⅲ 吸収(侮蔑)
「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君は寧ろ平然としている。――小野さんは漸く口を開いた。――
「宗近君の云う所は一々本当です。是は私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、今日(こんにち)迄の私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真面目な人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたの為にも、私の為にも悪いです。だから行かなかったです。許して下さい」
藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、侮蔑の色のみが深刻に残った。仮面の形は急に崩れる。
Ⅳ 粉砕(逆襲)
「ホホホホ」
歇私的里(ヒステリ)性の笑は窓外の雨を衝いて高く迸った。同時に握る拳を厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。深紅の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ揺く。
「じゃ、是はあなたには不用なんですね。よう御座んす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭黒い宗近君の掌に確と落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒い拳が空に躍る。時計は大理石の角で砕けた。
Ⅴ 昏倒(絶望)
「藤尾さん、僕は時計が欲しい為に、こんな酔興な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯をしたんじゃない。こう壊して仕舞えば僕の精神は君らに分るだろう。是も第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
呆然として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬くなった。足が硬くなった。中心を失った石像の様に椅子を蹴返して、床の上に倒れた。(『虞美人草』18ノ14回後半)
最初に破裂した血管は動脈ではあるまい。あるいはそれこそ何かの比喩であるという解釈が可能である。しばらく藤尾は正気を保っている。会話さえ交わしている。藤尾の生前最後のセリフ(赤字で示した部分)は、宗近へ時計を贈るという明確な意思表示である。このときまで藤尾に毒を飲む理由は一切ない。宗近が時計を受け取れば、藤尾は(小野さんを軽侮したまま)新しい人生に踏み出す。
だが金時計は当の宗近によって無惨に打ち砕かれてしまった。それとともに藤尾の野望も終わりを告げたというのが小説の建付けである。藤尾はへしゃげた金時計を確認してから毒薬を服用したというのか。その前に破裂した彼女の血管はどうなったのか。
この日藤尾は小野さんと愉しい大森に出掛けるべく家を出ているのであるから、毒を忍ばせる理由などあるはずがない。だいいちそんな険吞なものをどこで入手したというのか。
藤尾には小野さんに逃げられるかも知れないという不安が無かったとは言わない。博覧会の夜、茶店で小夜子と小野さんの姿を見てしまっているのである。しかし藤尾は我を通す女である。自分に自信がなければ我は通せない。自殺してもいいが、自信のある者があらかじめ自殺の用意をしておくだろうか。はっきり書かないのはすべて漱石による創作上の技法である。
漱石は藤尾が毒を飲んだという読者の誤解を匡さなかった。読者が思うままに任せた。どうせ藤尾は最初から殺すつもりである。その藤尾を襲う神の一撃が、異常なストレスによるものか青酸カリが齎すショックによるものか、所詮五十歩百歩である、と漱石は考えたのであろう。
漱石は読者が誤解するのを気に留めなかった。誤解するのは誤解する方が悪いので、自分は悪くない。誤解の材料を与えたかも知れないと自責の念に駆られることもない代わりに、誤解した相手を責めるようなこともしない。これを人は寛容・心が広いと言い、また身勝手・自分のことしか考えないとも言う。
* * *
漱石は藤尾の死因に関心がなかった。藤尾が死にさえすればそれでよかった。ではなぜ藤尾は死んだのか。漱石はなぜ藤尾を殺したか。
生意気・傲慢・意地悪というのがその理由なら、漱石の女は半分は死ななければならない。そんなことではなかろう。藤尾は明らかに漱石によって罰せられている。藤尾は何か大失態を演じたのだろうか。漱石に許してもらえないようなことを仕出かしたのだろうか。
数日空けて甲野家を訪れる小野さんは、その博覧会の夜、皆に見られたかどうか心配でたまらない。
只の女と云い切れば済まぬ事もない。其代り、人も嫌い自分も好かぬ嘘となる。嘘は河豚汁である。其場限りで祟がなければ是程旨いものはない。然し中毒ったが最後苦しい血も吐かねばならぬ。其上嘘は実を手繰寄せる。黙って居れば悟られずに、行き抜ける便もあるに、隠そうとする身繕、名繕、偖(さて)は素性繕に、疑の眸の征矢はてっきり的と集り易い。繕は綻びるを持前とする。綻びた下から醜い正体が、それ見た事かと、現われた時こそ、身の錆は生涯洗われない。(『虞美人草』12ノ11回)
これでは漱石は浮気は一生出来まい。河豚にあたれば死ぬ。あたらなくても、吐いた嘘の毒は生涯洗われないというのである。
果たして小野さんは藤尾に見られていた。小野さんはどう切り抜けたか。
「小野さん、昼間もイルミネーションがありますか」と云って、両手をおとなしく膝の上に重ねた。燦たる金剛石がぎらりと痛く、小野さんの眼に飛び込んで来る。小野さんは竹箆でぴしゃりと頬辺を叩かれた。同時に頭の底で見られたと云う音がする。
「あんまり、勉強なさると却って金時計が取れませんよ」と女は澄した顔で畳み掛ける。男の陣立は総崩となる。
「①実は一週間前に京都から故(もと)の先生が出て来たものですから……」
「おや、そう、些とも知らなかったわ。夫じゃ御忙い訳ね。そうですか。そうとも知らずに、飛んだ失礼を申しまして」と嘯きながら頭を低れた。緑の髪が又動く。
「②京都に居った時、大変世話になったものですから……」
「だから、いいじゃありませんか、大事にして上げたら。――私はね。昨夕兄と一さんと糸子さんと一所に、イルミネーションを見に行ったんですよ」
「ああ、そうですか」
「ええ、そうして、あの池の辺に亀屋の出店があるでしょう。――ねえ知って入らっしゃるでしょう、小野さん」
「ええ――知って――居ます」
「知って入らっしゃる。――入らっしゃるでしょう。あすこで皆して御茶を飲んだんです」
男は席を立ちたくなった。女はわざと落ち付いた風を、飽く迄も粧う。
「大変旨しい御茶でした事。あなた、まだ御這入になった事はないの」
③小野さんは黙っている。
「まだ御這入にならないなら、今度是非其京都の先生を御案内なさい。私も又一さんに連れて行って貰う積ですから」
藤尾は一さんと云う名前を妙に響かした。(『虞美人草』12ノ12回)
このくだりに『虞美人草』のオチがすべて詰まっている。それはそれとして、これで小野さんが嘘を吐いたことになるのだろうか。大概の読者は小野さんは余計なことを言わずに何とか逃げおおせたと思うのではないか。
小野さん(漱石)はそうは思わなかった。
第13章、甲野さん宗近君糸子の短い章を挟んで、第14章、買い物をして井上家に向かう小野さんは独り悩む。
藤尾には小夜子と自分の関係を云い切って仕舞った。あるとは云い切らない。世話になった昔の人に、心細く附き添う小(ち)さき影を、逢わぬ五年を霞と隔てて、④再び逢うた許りの朦朧(ぼんやり)した間柄と云い切って仕舞った。恩を着るは情の肌、師に渥きは弟子(ていし)の分、⑤其外には鳥と魚との関係だにないと云い切って仕舞った。出来るならばと辛防して来た嘘はとうとう吐いて仕舞った。漸くの思で吐いた嘘は、嘘でも立てなければならぬ。嘘を実と偽わる料簡はなくとも、吐くからは嘘に対して義務がある、責任が出る。あからさまに云えば嘘に対して一生の利害が伴なって来る。⑥もう嘘は吐けぬ。二重の嘘は神も嫌だと聞く。今日からは是非共嘘を実と通用させなければならぬ。(『虞美人草』14ノ6回末尾)
小野さんには嘘を吐いたという自覚がはっきりある。上記①と②の小野さんの発言の真意は、単なる事実を述べたのではなくて、小野さんの中では、④と⑤のように感じられたというのである。③の「黙っている」の真意は、⑥の「もう嘘は吐けぬ」であった。
夫が何となく苦しい。是から先生の所へ行けば屹度二重の嘘を吐かねばならぬ様な話を持ちかけられるに違ない。切り抜ける手はいくらもあるが、手詰に出られると跳ね付ける勇気はない。もう少し冷刻に生れていれば何の雑作もない。法律上の問題になる様な不都合はして居らん積だから、判然断わって仕舞えば夫迄である。然しそれでは恩人に済まぬ。恩人から逼られぬうちに、自分の嘘が発覚せぬうちに、自然が早く廻転して、自分と藤尾が公然結婚するように運ばなければならん。――後は? 後は後から考える。事実は何よりも有効である。結婚と云う事実が成立すれば、万事は此新事実を土台にして考え直さなければならん。此新事実を一般から認められれば、あとはどんな不都合な犠牲でもする。どんなにつらい考え直し方でもする。
只機一髪と云う間際で、煩悶する。どうする事も出来ぬ心が急く。進むのが怖い。退ぞくのが厭だ。早く事件が発展すればと念じながら、発展するのが不安心である。従って気楽な宗近が羨ましい。万事を商量するものは一本調子の人を羨ましがる。(『虞美人草』14ノ7回冒頭)
小野さんと藤尾がめでたく結ばれれば、当然何も起こらない。ところが小野さんは藤尾と結婚出来なかった。小野さんの「嘘」は発覚してしまったのである。
漱石が藤尾を殺した最大の理由がここにある。藤尾は小野さんに嘘を吐かせたがゆえに死んだのである。
漱石にとって嘘を吐くこと(自分が正しくない振舞いをすること)は死よりも怖ろしいことであった。
『心』の悲劇の骨格も、一義的には先生が嘘を吐いてKを騙したことにあるが、小説ではKはその前に責任を感じて自死してしまう。作者の漱石に謂わせれば、Kは先生に嘘を吐かせたが故に死んだのである。
嘘を吐いてパニックになる主人公は死なない。嘘を吐かせた方が死ぬ。藤尾は死んで小野さんは生きる。Kは死んで先生は生きる。――少なくとも『心』という作品の中では、先生は(抜け殻のようになりつつも)小説のおしまいまで生きている。
これは『明暗』の結末までつながる話かも知れない。『明暗』では夫婦が同じことをする。津田はお延のために嘘を吐き、お延も津田のために嘘を吐く。その結果、津田もお延も罰を受ける。津田は湯河原で清子に肩透かしを喰わされた挙句、大出血で倒れておそらく寝台に括り付けられたままの帰京を余儀なくされる。お延はその無様な夫を連れ戻すために軽蔑すべき小林に首を垂れなければならない。夫婦とも死んでしまうという発想は、『虞美人草』『心』から導き出される帰結ではあるが、つむじ曲がりの漱石は必ず人の意表に出るのである。漱石は、「正・反・合」でオチをつけているつもりなのかも知れないが。
死は俗世間(『虞美人草』や『明暗』の主人公たちが生きてうごめく世界)と詩の世界(甲野さん・小野さん・『心』の先生・津田のある部分)を分かつ魔法の扉である。藤尾とKの死は舞台背景に過ぎない。甲野さんや小野さんの「それから」は書かれないが、さんざん揺れ動く心は小説に書き尽くされている。先生は自ら重大な覚悟を決めて実行することにした。津田は、――何も出来ない。津田と同じことをするお延も当然何も出来ない。漱石はこの不本意なオチについて、「則天去私」という言葉を発明した――。