明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 25

399.『道草』番外編(5)――長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(3)


(前項より続き)

長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』(つづき)

 江戸っ子の所作
 話は外れたが、夏目君とそうして相対しているうち、私はふと君の顔の表情や身体のこなしに、強く現れている特徴を観察することが出来て、何んだか擽ぐったくなった。夫れは全く私達の家庭の生活の夫れであった。私達の江戸趣味の家庭は、私自身の書生生活とは全然趣味の異ったものであった。私は此の意味でも二重生活をして来たものである。ところが夏目君と斯う二人きりで相対していると、私の平生の書生生活から、昔の家庭生活に飛び退(しさ)ってしまったような気がするのだ。そう思わせたものは、全く夏目式の表情とこなし、、、とであった。
 何か云ってから顔面の筋肉を動かす調子を見ると、先ず口の一方をキュッと締めて同時に夫れと反対の側の目尻の筋肉を収縮させる。つまり顔の筋肉を対角線的に運動させる。これは江戸ッ児でなければ滅多に見られない筋肉の収縮法であった。だから江戸ッ児を模倣しようとするものは、先ず此の顔面の筋肉の収縮法を模するのである
 此の対角線的の運動は顔面の筋肉のみに限らない、身のこなしにも出て来る。が夏目君は此時洋服を着て居たので、私は其の時は未だ十分に夏目君のこなしを観たとはいえなかった。後に屡和服姿で坐った君を見てから君の身体のこなしに江戸的特徴のあることを十分に認めた。
 夫れは、坐った格形が、腰を下ろして背を後にやって、膝の上の面積を広くして、一方の肩を落して、其肱を軽く膝に突き立てるという形である。そうして斯う坐った形が、話の調子で運動する時には、矢張対角線的に、一方の肩が動くと反対の側の肱や膝が動くのである。これは元より特徴で、何時も常に斯ういう格形で坐って斯う動いたのではないが、君が最もくつろいだ時に最も能く此の特徴に落ちる。
 君の此の特徴の余り顕著に現れた時に、私は何時も高座の上の落語家を思い出した。今の落語家は余り知らないが、一時代前の円朝から円喬に至る時代の落語家の優秀なものの態度や口調が、往々夏目君の会話や講演に現れていた。殊に君の講演は術として精錬されたものであった。高級の思想上の発表に、夫れを妨げない限り、夫れを毀けない限り芸術としての落語術を応用したものであった。勿論言語に於ても、態度に於てでもある。が其スタイルには、何等落語術としての聯絡を想到せしむるような露骨はなかった

 本段落の江戸っ子の所作は、これもその通りだとは思うが、顔の表情や肩の動き等、(論者が江戸っ子でないこともあって)なかなか真似するのは難しい。また真似て出来る仕草でもないだろう。江戸っ子、江戸の武士という連想から、やくざ、やくざ者の例の肩を揺らす歩き方も、そのルーツは同じ所にあるのかも知れない。
  前項の引用文Ⅴ 明石の講演旅行の末尾――「蛸ッていうと思った」と例の通り顔の筋肉だけ動かして笑った――という書き方も、そのような仕草をする時代劇俳優でもいれば分かりやすいだろうが、格別映画ファンでもない論者にとってはすぐに思いつく人もいない。往年の銀幕スターで謂えば、大友柳太朗のニッと笑う顔などはどうだろうか。大友柳太朗は(漱石の)松山中学の出身で、その後身の松山東高校を出た伊丹十三も、笑うとすれば捻ったような表情で笑うクチだろう。(大友柳太朗は自身の墜落死の直前に伊丹十三監督の第2作目の映画に出演していた。)――論旨がずれるが松山・高松・岡山といった地方は、距離的に近い京大阪よりは、人の気質としては東京に近いものがある。広島もそうだが、言葉遣いに乱暴なところがあり、(つまり情緒に訴えるのではなく理屈が勝る喋り方をする、)江戸の洒落や粋を感覚的に受け容れやすい人種ではなかろうか。
 とりとめのない話ついでにもう1人、萩本欽一というコメディアンがいる。漱石同様彼も純粋な下町っ子とは言えないが、あの(チャプリンのような)左右非対称になるような笑い方を、下町風と謂うのではないか。――共に国民的な人気を獲たことは別として、漱石との共通点は「キンちゃん」だけであろうが。

 余談はともかく、噺家の坐った姿勢に江戸っ子の粋の1典型を見るとすれば、漱石の中にそれを感じるということは大いにあり得るだろう。一方落語家ならぬ講談師・講釈師の「正しい」立ち姿というものもまた、弱年時から漱石が広く親しんだものの1つであった。漱石もまた教壇では姿勢正しく立っていたのであろう。姿勢(立ち姿)が好いということで、声が好くなる、講義・講演が上手いということにも自然につながる。
 考えようによっては、江戸っ子の一面と称する所作のアンバランスは、姿勢と声をわざと悪くしている、と言えなくもない。優男の風邪ひき声、という言葉があるかどうか知らないが、(風邪をひいて声が悪くなっているという)マイナス面も同時に見せる。好いところも悪いところも常に同時に見せる。それが洒落になっていると思い込んでいるフシがある。正装をしているのに寸法が合わない。チャプリンの笑いの王道の中にも、「江戸の粋」はちょっとだけ含まれているのかも知れない。

Ⅸ オートストロップ
 そういう事( 前段落Ⅷ 江戸っ子の所作は私は後に至って知ったのであったが、其の特徴は始めて見た洋服姿の君に於て既に隠されてはいなかった。そうして君の江戸的生帳面な其の風采のことを思い付いた私は、自然話を其方に持って行った。
 君の顔には薄イモがあって髯は可なり濃いようであったが、奇麗に剃られていたので、それを剃る剃刀のことを尋ねた。すると君はオートストラップを使用していると答えた。私は能く其のオートストラップなるものを米国雑誌の画で見ていたが、実物を知らなかったから説明を聴いた。君は其の簡便なることや安全であることなどを話して、砥皮が日本では時候によって黴が生えるが、満洲では黴びない。今持っているのは黴びたのを拭って満洲へ行って向うで使っている間は少しも黴びなかったが、下関に上ったらモウ黴びたといって「日本は黴の多いとこだ」と皮肉をいった。
 で私は其後間もなく其のオートストラップを十一円五十銭を投じて丸善から求めた。侃堂(丸山幹治)が「君の顔には高過ぎる」といったが、八年後の今日でも砥皮を一度代えて、代刃を一回求めたのみで、能く働いているから高いものではなかった。君が例の講演後の病気再発で幸いに事なきを得て東京へ帰ってから長与博士の病院に入った時に、私が訪ねたら、又話が何かの拍子から其のオートストラップに飛んだ。其時君は、不思議なことを話すようにして話した
 夫れは君の隣室の病人が、毎朝君の室で一定の時刻一種音響がするのをきく。始めは何か治療の機械でも動かしているのかと思ったが、看護婦や医者に尋ねてもそんな音のする機械はない。体操具にしては、君の病質から合点が出来ない。深呼吸にしては強過ぎて短過ぎる。というので其の人は定めしあらゆる似た音のするものを考えたことであろう。とうとう何うしても判断が付かない。となると愈夫れが神経を昂奮させる。堪らなくなって、君の室に其の音響の原因を質問に寄こした。夫れは即ち件のオートストラップを毎朝君が規則立って使った後で砥ぐ音であったのだ。君が其事を私に話す時に君は隣室の人が其の音響について疑念を抱いていた間の心理上の経過に余裕の趣味を持っていたらしく見えた。其後の君の小説には、そういう種類の心理的描写が屡々あったようだ。

 この段落は天下茶屋でのオートストロップの話に、『変な音』の楽屋落ちのような話が入り混じっている構成になっている。
 オートストロップが満洲では黴びなかったのが、下関に上陸したとたんもう黴びた。日本は湿気が多い。だが髯は綺麗に剃れる。如是閑もかねて知っていた舶来の自動革砥を早速購入に及んだ。それが「八年後の今日」まで無事であるというのはいいとして、その「八年後」とはどういう計算から出て来た数字であろうか。
 如是閑の回想文の冒頭を再度引用すると、

 変な事には、私は何時初て夏目君に逢ったか判然と覚えていない。今から八年ほど前のことだ。私が大阪に来て間もなく、天下茶屋の下宿を引払って、其近辺に家を借りて・・・其頃のことで、社に出ていると、其婆やから夏目さんが見えたという電話だか電報だか使いだか通知を受けて、昼頃に其家に帰ったことを覚えている。潜戸を開けて内に入ると玄関のところに夏目さんが腰をかけていた。(長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』冒頭再掲)

如是閑年表
明治41(1908)年春 大阪朝日入社
明治41(1908)年夏 天下茶屋の高等下宿(遠藤)
明治42(1909)年春 近所の2階建て借家(婆や)
明治42(1909)年10月 漱石天下茶屋訪問~浜寺での会食~オートストロップの話
明治44(1911)年8月 漱石大阪講演旅行
大正5(1916)年12月 『初めて逢った漱石君』執筆の今現在

 如是閑が天下茶屋の借家に家を構えたのが正しく今から8年前である。漱石満洲帰りに立ち寄ったのが7年と2ヶ月前。如是閑がオートストロップを購入した時期は、漱石天下茶屋を去った後であろうから、どう考えても今から7年前であって、8年前にはなり得ない。如是閑はつい前の文言に引きずられて「8年後の今日」と書いてしまったのか。それとも漱石との天下茶屋の諸々を丸ごと「8年前」にまとめてしまったのか。まあ7、8年前と書けば何の問題もないところではあるが、漱石と如是閑、ヘンなところに共通点があると言わざるを得ない。

 そのオートストロップについて、漱石は長与胃腸病院への最初の入院(明治43年6月~7月)、修善寺の大患(同年8月~10月)、長与病院再入院・『思い出す事など』(同年10月~明治44年2月)のあと、半年後の7月に『変な音』という小品を書いている。
 続く明治44年8月には明石旅行で如是閑に再会して、蛸を食って大阪の湯川病院に入院したのであるが、入院ということでいえば(痔の手術を受けた佐藤病院を除いて)、もう漱石はどこの病院にも入院しないまま終わった。
『変な音』は『病院の春』と同じく、『思い出す事など』の外伝という位置付けであろうか。

①1回目の長与病院入院時。隣室から大根卸しを擦るような音が聞こえて気になって仕方がない。しかし黙って退院した。
②(大患後)2回目の入院時に当該異音の隣室の看護婦に当たった。
③その看護婦は漱石を覚えていたが、思いがけず「前回のとき毎朝きまって変な音がしたが、あれは何をしていたのか」と「逆襲」された。
④驚いた漱石はオートスロップの音である旨応えるが、ではそっちの部屋で音をさせたものの正体を問うと、熱冷ましのため大根ならぬ胡瓜を擦っていたというのが看護婦の返答。
⑤その隣室の患者は、漱石の部屋から聞こえる(革砥の)異音を気にしたまま亡くなったという。

「異音」をモチフにして若い看護婦との交渉を綴った掌篇小説ともいえるもので、二転三転の落ちまでついている。また病と死という通奏低音に目を留めれば、渋い随筆とも評されよう。ユーモア、諦念、悲哀、女に対する吟味、探偵趣味、――あらゆる漱石の要素に加え、他人の出す騒音を気に病みながら、自ら発する音響にはまったく無関心という、(苦沙弥先生さながらの)いかにも漱石らしい建付けになっているところも、ファンにとってはたまらなく贅沢に感じる一品であろう。
 その『変な音』に対して、如是閑の方の文章では、同じ素材を扱っておりながら上記①~⑤のいずれにも当てはまらない書き方になっていることが分かる。

⑥隣室の患者が、漱石の(オートストロップの発する)異音を怪しんで種々悩み、ついには看護婦をしてその原因を聞きに来させた。

 両者は似て非なるもので、大根卸しの話がないのはいいとして、如是閑の記事の方は、隣人の疑問だけの話に集約され、完結している。漱石の異音によって生起した隣人の悩みは、漱石(と看護婦)の回答によって解消・解決した。本当に漱石はそのように話したのだろうか。漱石が自己の体験通りに『変な音』を書いたのだとすれば、漱石はかなり脚色(省略)して如是閑に話したことになる。つまり漱石は異音のエピソードを、人に話すときは他人(隣室の患者)の心情に即して、自分の作品( essay )に書くときは自己に即して語っている。小説( novel )の場合はその統合であろうが、それを小説家でもあった如是閑は、主人公が相手の心理状態の流れ(経過・変化)に逐一対応するという、漱石作品の特質をちゃんと指摘しながら、この話を紹介している(引用部分末尾)。

 ところで如是閑が漱石から入院病棟でオートストロップの「音響事件」について話を聞かされたのはいつのことか。如是閑の記憶には一部混同があるようだ。

オートストロップ年表
明治42年10月 天下茶屋訪問~オートストロップを使っているという話
明治43年6月~7月 長与胃腸病院入院~異音の話
明治43年8月~10月 修善寺の大患
明治43年10月~翌年2月 長与胃腸病院再入院~異音の話の続き(オートストロップの落ち)
明治43年10月~翌年2月 『思い出す事など』
明治44年7月 『変な音』
明治44年8月 明石和歌山堺大阪旅行
明治44年8月~9月 湯川胃腸病院入院(最後の胃病治療入院)
大正5年12月 『初めて逢った漱石君』執筆の今現在

 引用文Ⅸ オートストロップ下線部の「君が例の講演後の病気再発で幸いに事なきを得て東京へ帰ってから長与博士の病院に入った時に、私が訪ねたら」について、この「講演」というのは明石大阪の講演のことであろうから、前述のように帰京した後の漱石はもう入院はしておらず、これは湯川病院で聞いた話を如是閑が勘違いしたものか。しかし如是閑は(「湯川病院」でなく)「長与博士の病院」とはっきり書いており、漱石の日記書簡に記載がないからといって如是閑が上京の折に漱石を見舞っていないとは断言出来ない。実際に長与病院で聞いたとすれば、「講演後の病気再発」という語句が難解なものになるが、まさかこの講演が明治41年如是閑が大阪朝日に入社した頃の東京朝日主催の講演『創作家の態度』を指すのではないだろう。
 大阪へ行ったのちの如是閑が漱石と確実に対面しているのは、上記オートスロップ年表の下線部付き3箇所だけである。如是閑が「音響事件」を聞いたのは長与病院でなければ湯川病院だけということになる。漱石の小品『変な音』は如是閑の回想と微妙な点で全てずれているから、如是閑の方のオリジナリティは疑いようがない。では如是閑の書いた方が漱石の実体験で、『変な音』が漱石の創作かというと、その場合もまた如是閑がその話をどこで聞いたかという問題は残ったままである。藪の中とはこのことか。

Ⅹ おあとがよろしいようで
 私達二人の話が、腸のことに移って更らに下の方へと移って行く頃、夏目君の大阪を起つ時間が迫って、私達は浜寺を去らなければならなかった。二人は話が偶然にも因襲的の結末に帰着したのを笑いながら立ち上った。そうして君は夜の汽車で東京へ帰った
 東京へ着いた後の君の身体の模様などを尋ねようと思って果さないうち、君から手紙と小包と貰った。開けて見たら味付海苔の罐詰であった。そういう生帳面の点で江戸趣味を継承していない私は、君の生帳面にたじろいだ。(長谷川如是閑『初めて逢った漱石君』全文引用畢)

 浜寺を出たあと、漱石はいったん大阪の朝日社屋近くのホテルに戻り、その夜改めて如是閑や高原操ら朝日の連中に見送られて、梅田から(東京へ直行するのでなく)京都へ向かった。漱石は京都の汚い宿で1泊し、次の日の夜行急行で東京へ帰ったのである。
 如是閑の書く「そうして君は夜の汽車で東京へ帰った」というのは、間違いではないにせよ、何かと混同しているような感じも受ける。2年後の明石の蛸のときは、梅田駅発寝台急行に鏡子夫人も同伴しているから、そのときの記憶と取り違えているとも思えないが。
 いずれにせよ如是閑自身も、Ⅲ 立小便する漱石で「私の記憶はモヤモヤになって」と書いているくらいだから、新聞に出た記事だからといって、正確性を求めても仕方がないのである。
 それで如是閑の記憶力の補完として、漱石の日記を再録してみよう。

〇日記/明治42年10月15日(金)
 昨夜九時三十分広島発寝台にて寐る。夜明方神戸着。大坂にて下車直ちに中の島のホテルに赴く。顔を洗い食堂に下る。ホテルの寝室の設備は大和ホテルに遠く及ばず。車を駆りて朝日社を訪う。素川置手紙をして東京にあり。天囚は鉄砲打に出で、社長は御影の別荘なり。天下茶屋迄車を飛ばして遊園地の長谷川如是閑を訪う。遊園地の閑静にて家々皆清楚なり。秋光澄徹頗る快意。如是閑遠藤という高等下宿を去って近所に家を構う。去って尋ぬるに不在待つ少らくにして帰る。二階で話をする。好い心地也。鳥居素川の留守宅で妻君に逢う。如是閑浜寺へ行こうという。行く。大きな松の浜があって、一力の支店という馬鹿に大きな家がある。そこで飯を食う。マヅイ者を食わせる。其代り色々出して三円何某という安い勘定なり。電車で帰る。難波の停車場から車を飛ばして大坂ホテルに入るともう六時であった。六時四十四分の汽車にのる。如是閑と高原と金崎とがやって来た
 此汽車の悪さ加減と来たら格別のもので普通鉄道馬車の古いのに過ぎず。夫で一等の賃銀を取るんだから呆れたものなり。乗っていると何所かでぎしぎし云う。金が鳴る様な音がする。暴風雨で戸ががたがたいうのと同じ声がする。夫で無暗に動揺して無暗に遅い。
 三条小橋の万屋へ行く。小さな汚ない部屋へ入れる。湯に入る。流しも来ず御茶代を加減しようと思う。(最中を三つ盆に入れて出す抔は滑稽也。しかも夫をすぐ引き込めて仕舞う。)此宿屋は可成人に金を使わせまいと工夫して出来上がったる宿屋也。金のあるときは宿るべからざる所也。(定本漱石全集第20巻日記断片下)(再掲)

 一別後漱石から手紙と小包が届いたが、その手紙はもちろん残っている。

〇書簡/明治42年10月30日(土)長谷川如是閑
 拝啓。浜寺では御馳走になりました。あの時向坐敷の小僧が欄に倚って反吐をはく処は実に面白かった。ここに御礼として浅草海苔二鑵を小包にて呈上すどうぞ御受取被下。小供がいたずらをして一つの箱の貼紙を剝がして仕舞いました。以上。(定本漱石全集第23巻書簡中)

 どうでもいいことだが、浜寺の座敷の欄干から反吐を吐く小僧が、文芸上この世に始めて出現したのが、この書簡である。2度目が大正2年の『行人』、3度目が本項、大正5年の如是閑の回想文ということになる。浜寺の小僧は足掛け8年に亘って日本近代文学に(ほんのちょっぴり)貢献した。

 最後にもう1つ、如是閑の引用文の最後、話題が胃腸の話から下腹部に移って、つまり下ネタになったのだろう、如是閑は「因襲的の結末に帰着した」という書き方をしている。このとき漱石43歳、伸六が前年生れているから2男4女の妻子持ち、8歳年下の如是閑35歳、独身である。漱石は猥談は好きではないが、受け付けないというわけでもない。狩野享吉みたいに生涯独身を通した如是閑と、どのような話で盛り上がったのだろうか。

(この項終わり)