明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 18

392.『道草』先行作品(7)――『思い出す事など』


 漱石旅行記に向かない作家である、と前の項(本ブログ道草篇16)で述べたが、(12月1月問題という)季節の連想でいえば、これは漱石の文学的出発点が俳句にあることと関係していよう。俳句は説明を嫌う。俳句は(本ブログ道草篇6でも引用した寺田寅彦へのレクチュアによると)扇の要(集注点)を書くものである。百何十度だかに開いた扇の扇たる部分は、読者に想像させる。想像させないまでも、その広がった部分はわざと書かない(詠まない)。
 それが漱石(に限らないが)の小説のリズムを生む。吾輩に名前が付かない理由を書かない。坊っちゃんの無鉄砲が父親譲りなのか母親譲りなのかを書かない。志賀直哉は俳句をやらないが、そのリズムは多とした。太宰治は弱年時俳句に凝っていたように、その文章の勢いは漱石を思わせるものがある。太宰治が嫌ったのは漱石の江戸庶民らしいプチブル(俗物)性であろう。猫に名前があろうがなかろうが、自分が両親のどちらに似ていようが、一文の得にもならない。得にならないからいい加減に書く。太宰治はいい加減に書いてはいけないと生真面目に思うクチである。志賀直哉はまたその反撥心を(太宰の稚さゆえの)甘えと受け取った。三者三様。だが目指す処は一致している。3人(に限らないが)とも「正確な文章」のために生涯を賭している。

 ところで志賀直哉の手紙は(小説と比べて)読んで面白いものではないが、漱石太宰治の手紙は(小説同様)大変面白い。
 思うに漱石は『満韓ところどころ』を、『心』の先生の手紙(遺書)とまでは言わないにせよ、『彼岸過迄/松本の話』の市蔵の手紙や『行人/塵労』のHさんの手紙のように書けばよかったのではないか。
 太宰治の「手記」は『人間失格』にせよ『津軽』にせよ、独自の光彩を放っているが、漱石も手紙を書くつもりで書いた『先生の遺書』が、事実として頂点を究めているのである。
 とは言うものの、『満韓ところどころ』は小説ではないので、いくらボヤいても始まらないのであるが、結局これは、漱石には「神」がいなかったという話に収斂するのであろう。訴える相手がいない以上、架空の手紙を(太宰治みたいに)書き続けるわけには行かない。

 漱石もまた自分の神は自分自身とする1人である。すべての作家が自分自身を神としていると言ってしまえばミもフタもないが、漱石が後年則天去私などと言い出したのも、それが大前提になっているのであろう。
 自身が神であるような人とは如何なる人物であるか。それは譬えて謂えば、危機に瀕して何物にも縋らないということである。神がいないのだから神様にお願いしない。死に臨んでも割と平気である(ように見える)。
 現実に修善寺で仮死状態に陥ったときのことを書いた次回作『思い出す事など』にも、頼るものは畢竟痩せさらばえた自分しかないという気分が充満しているようである。

・第3集『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月

 全32回もしくは33回。『思い出す事など』本体の32回は約4ヶ月かかって書かれた。4日に1回というペースであるが、ベッド(畳に簀の子)に寝たままの状態で書いていたのだから、むしろこの困難に立ち向かった文豪の律儀さに驚かざるを得ない。
 第33回(「病院の春」)のみ独立して明治44年4月に書かれており、漱石の中では別物だったのかも知れないが、『思い出す事など』の最終章として扱われることが多いようである。この場合本作の執筆期間は延べて6ヶ月ということになり、これは『明暗』(大正5年5月~11月の6ヶ月間)と同じ長さになる。『思い出す事など』は死の淵から生還した話であるが、『明暗』の方は行って戻らぬ旅となった。

 余談になるが、『思い出す事など』第1回は、東京朝日・大阪朝日とも明治43年10月29日付朝刊に掲載された。ところが同じ日の日記に、

〇中根栄という名古屋の人「思い出す事など」を読んで長い手紙をくれる。

 という不思議な記述がある。(『漱石全集第20巻日記断片下』明治43年日記7D――10月29日より引用)
 漱石は明治43年8月から11月まで、前半は修善寺日記、後半は胃腸病院日記とでもいうべき、漱石にしては割と細かい日録を残しているが、上に引用した記述は後から書き足したふうにも見えず、謎としか言いようがない。

①10月29日読者は朝刊を読んですぐ手紙を書いた。10月30日手紙を受け取った漱石はそのとき29日の日録を書いていたので、それをそのまま書き加えた。
②手紙の主は朝日の関係者で、東京か大阪に出張した際にあらかじめ漱石の原稿かゲラを読み、色々思うことを手紙に書いて新聞掲載に合うように投函した。(初回の原稿は1週間前に森田草平宛郵送されている。)
③(読者の手紙の)対象となった作品名を、漱石が書き間違えた。例えば前作の「満韓ところどころ」であったのを、今取り掛かっている「思い出す事など」と書いてしまった。

 普通に考えると①が無難に見えるが、とくに衝撃的なことが書かれているわけでもない連作エセイの第1回目を読んだだけで、瞬時に「長い手紙」が書けるものだろうか。漱石の体調を心配して、あらかじめ書き溜めてあったファンレターのようなものだったのかも知れないが、それなら漱石が日記に単なるファンの名前をわざわざ書き込むのも合点がいかない。漱石は「思い出す事など」を読んで、とはっきり書いている。胃腸病院宛に出されているらしいことも変則的であるし、漱石が返事を出した形跡がないことも併せて、よく分からない話ではある。まさか中根家(鏡子)の係累ではあるまい。
 ②を想像することも難しいが、いっそ③であれば、おかしなところは何もないことになる。最近出た単行本『四篇』(前年までの『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところどころ』を収録)を読んで、最後の『満韓ところどころ』には続きがあると思っていたが、そうでもないらしい、いったいどうしたわけか云々というような読者の手紙が、たまたまその日自宅から届けられた。それを一読した漱石は気にはなるものの、どうしようもない。何より臥せったままで起き上がることも出来ないのだから、弁明するどころか1年前の満洲旅行を思い出すことすら退儀である。俳句と漢詩で脳漿を鎮めながら、修善寺臨死体験をなぞる予定の『思い出す事など』で精一杯である。その思いからつい「思い出す事など」と書いてしまったのではないか。

 それは何とも結論のつく話ではないが、『永日小品』からの2年間で、早くも3冊目の随想集である。
 漱石は所謂修善寺の大患をはさんだ明治42年と43年、『永日小品』『満韓ところどころ』『思い出す事など』の3冊の随筆を集中的に書いた。あとは漱石の残りのキャリア6年間の中で、『道草』の前に『硝子戸の中』が書かれたのみである。
 この随筆years には何か理由があるのか。
 明治42年~43年といえば、『それから』と『門』が書かれた頃である。小説家としての漱石の地位は揺るぎないものとなり、朝日の文芸欄も創設された。家庭的には次男伸六が生れたあと、塩原との絶縁を経て五女雛子の誕生まで、このとき鏡子も既に明けて36歳、夏目家9人の家族構成はいったん完成を見たと言ってよい。世の中も伊藤博文暗殺、大逆事件から日韓併合に至る、漱石にとっては面白くも何ともない「明治日本の集大成」の時代であった。

 それにしてもこの時期、青春3部作に前後して3つの随想集。これに比して『彼岸過迄』以降の中期3部作では随筆のようなものは1つも書かれない。どちらが漱石の常態か。どちらかがイレギュラーなのだろうか。それともまた、これも天才らしい気紛れ、「則天去私」なのであろうか。
 前記のように『道草』には『硝子戸の中』、(未完の)『明暗』には(未完の)『点頭録』が付着していることを思えば、やはり中期3部作の「随筆なし」の方が変則なのであろう。体調の問題(『行人』の中断事件・『心』のあとのダウン)もあるが、「短篇形式」という中期3部作共通の制作方法が影響しているのかも知れない。あるいは漱石に似合わないことだが、(『心』の)『先生の遺書』に全精力を注ぎ込もうとしていたのか。

 いずれにせよ青春3部作最後の『門』と、次の3部作緒篇の『彼岸過迄』をつなぐもの、そして漱石の作家人生を二分(分断)する修善寺の大患を回想して書かれたものが、外形的には『思い出す事など』という作品であることは動かしようがない。そして前述したように唯一年末年始を跨いで執筆された随筆であるからには、単に死に損なった話にとどまらない何かが、きっと見つかると思いたい。

1回「釣台での帰京」 舟形の寝台のまま3ヶ月ぶりに胃腸病院に帰って来た~新しい畳~是公とステト2通の電報
2回「長与院長」 長与院長は亡くなっていた~森成医師に修善寺行を命じて逝ってしまった
3回「多元的宇宙」 ウィリアムジェイムズも亡くなっていた~病床で読み終えた「多元的宇宙」
4回「忘れるために書く」 原稿を書くのは忘れるため~池辺三山の叱声~退屈しのぎの執筆~退屈すると胃に酸が湧く
5回「病中佳句有」  病気をして世間を退くと心は俳句や漢詩に向かう~漢詩の心は久しい前から大和化して不足がない
6回「明代の列仙伝」 渋川玄耳の送ってくれた「酔古堂剣掃」を読む~若いころ図書館に通って徂徠の「蔀園十筆」を書写したことがある
7回上「ウォードの大冊」 ウォード「力学的社会学」を読む~頁数がダイナミックなのであった
7回下「宇宙はガス星雲」 渦巻の塵から成るこの宇宙に比べれば人の生はほんの偶然にすぎない~大塚楠緒子さんの死
8回「8月24日へ向かって」 毎日いろんなものを吐く~医者は黒いものは血であると言う
9回「咽喉が痛い」 京都への行き方を尋かれた英国人に対し答えたくても声が出ない~修善寺には北白川宮が滞在していた
10回「出水」 大水が出て新聞も郵便も来なくなった~ほとんど雑音しか聞こえない長距離電話
11回「都の洪水被害」 外出中大水に流された鏡子の妹の話~潰れた森田草平の家の話
12回「隣座敷の裸連」 汽車が開通して隣座敷のうるさい連中が引き揚げた~東京から鏡子や森成医師たちが来て2階は貸切り状態に
13回「大吐血」 杉本医師が到着して運命の8月24日~2度目の吐血で仮死状態になる
14回「彼岸」 3度目の吐血~大量の食塩注射~「私は子供になど会いたくはありません」
15回「生還」 死は我が経験の外にあった~生と死の狭間はアキレスと亀の譬えに似ている
16回「安らぎ」 夜が明けると苦しみは去った~杉本医師は東京へ戻り看護婦を2名派遣した
17回「死後の生」 意識は死後も生き残るだろうか~仮死の経験は我が意識に何の影響も与えなかった~私は幽霊にもなれず至福の境地にも達しなかった
18回「脈を打つ氷嚢袋」 手を顔のところへ持ってくることさえ出来ない~骨と関節が硬く軋む
19回「感謝の心とは」 日常生活の裏面に潜む心臓の鼓動と汗の玉~安寧をめざすべき自分の敵とは――社会も朋友も妻子も、あるときは自分自身さえ――
20回「癲癇」 ドストエフスキィと神聖なる疾~恍惚に似た精神状態は単に貧血が引き起こしたものか
21回「生の歓び」 ドストエフスキィの処刑事件~病床で寝ながらドストエフスキィのことを考える
22回「犬の眠り」 黒い覆いのかかった電球~身体を少し動かすと看護婦が反応する~いつまでも続く浅い眠りと動かない身体
23回「ありがたい」 社会に対峙する自分は常にぎこちない~その中に生じる感謝の念だけが安定している~その気持ちを大事にしたい
24回「自然を愛す」 子供の頃に見た蔵の南画~自然の中に棲むのはいいが暮らすには不便である~小宮豊隆を罵った話
25回「子供を見てやれ」 12歳10歳8歳子供が3人見舞いに来た~3人は畏まって座っている~1週間後見舞状を書いて寄越した
26回「あれも食いたい」 50グラムの葛湯で生きる~渇きが止むと飢えが来た~重湯の不味いのに驚く~ソーダビスケットに礼を言う~白粥こんな旨いものが世にあるか
27回「公平とは何か」 公平即ち恣意を避ける即ち既に自由ではない~文芸もそれを職業としたからには自由ではいられない~オイケンの説く自由な精神生活とは机上の空論であろう
28回「法蔵院の占い師」 豊田立本の顔相占い~親の死目には逢えません~西へ西へ行く~顎髯を生やして居宅を建てよ(そうすると腰が落ち着く)
29回「修善寺の太鼓」 鐘の代りに太鼓が鳴る~夏が終わってだんだん寒くなり夜が長くなる~独り夜明けを待ち望む
30回「野の百合」 聖書の謂う野の百合とはグラジオラスのこと~病床で眺める秋の草花~コスモスは干菓子に似ている
31回「鏡を見る」 若い時兄を二人失った~亡くなるまで漆黒の髪と髭~鏡を見ると兄がいたが鬢には白いものが~墓と浮世の間に立つ
32回「出修善寺 あと2週間~白布を巻いた舟のような寝棺に担がれ宿を出る~雨の中を見送る人々~2度目の葬式とは
付録『病院の春』 胃腸病院で迎えた始めての正月~看護婦の「石井町子」さん~死の淵から生還した~しかし何の感動もない

 本篇は東京へ帰着したところから始まり、いったん修善寺の大患に遡ったあと、その修善寺を出発するところで終わるという、倒叙というほどでもないが、(本作に先行して書かれた)『それから』『門』に、やや通じる書き方になっている。胃腸病院の簡易ベッドの上での屈託した述懐が、いつのまにか修善寺の病床に遷移し、おもむろに8月24日の「主題」が登場する。小説的というより、いっそ音楽的な展開と言えよう。「病院の春」は再び長与胃腸病院の冒頭に戻る、エピローグ的な配置とも考えられる。
 ここで書かれた漱石中期最大の難関については、本作に加えて鏡子の回想も残されている以上、他がとやかく言うことはないのかも知れない。しかし一通り読んだだけでも、いくつかの問題点は挙げられるようである。次にそれを述べてみよう。