明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 1

297.『草枕』降臨する神々(1)――不惑の詩人


正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」

 これは昭和19年、有名な太宰治津軽』の書き出しであるが、この顰に倣えば太宰治本人も後年誰かに、

中原中也三十一、中島敦三十四、織田作之助三十五、太宰治四十・・・」

 などと書かれるところであろうか。(年齢は数えによる。)

 太宰治が亡くなったのは戦後である。戦後の民主主義の世の中では年齢は満年齢である。
 そもそも人間の年齢を数えで表わすのは、人間を商品と見ているからで、勘定する側にとってはそれが簡便で合理的だからであろうが、1日でも早く出荷・収穫・換金・徴兵したい(しかも一律に)という心根が透けて見える。奴隷や家畜も同じである。決して母親の胎内に宿った生命を0歳と見做し、それがめでたく娑婆の空気を吸った頃が1歳であるという、神秘の考えに基づくものではなかろう。
 満年齢でいくと上記例文の太宰は、

太宰治三十八

 ということになり(あと1週間で満39歳になっていたとはいえ)、太宰治本人及び多くの太宰治ファンを(視覚的にも)満足させる。

 と言って太宰治自身が自分の38歳(あるいは40歳)という年齢に対して、まだ(死ぬるには)早過ぎると思っていたわけではない。むしろその反対であろう。
 防空壕の中で書かれた(実際には書斎の机であるが)『カチカチ山』(昭和20年)の狸は、37歳(当時の太宰と同じ歳)の猥雑な「中年男」である。自分の歳を17であると偽って16歳処女の兎に言い寄り、相手にされないのはいいが、騙された挙句に溺死してしまう。数え37は太宰自身にとってもう充分生きたと感じる年齢だったに違いない。

 それでというわけではないが、論者が先に本ブログ心篇で、先生の御大葬時の年齢を38に比定したのは、もちろんそれが小説『心』の記述により合致しているからであるが、ひとつには漱石は彼らの亡くなった年齢から小説を書き始めたということを強調したかったためでもある。とくにこの『津軽』冒頭に太宰治が挙げた人々のうち、最初の3人は漱石の同級生にあたる。

 太宰治漱石についてはほとんど言及しないままに了ったが、一ヶ所だけ、自分の二十代なり三十歳の頃の修業時代に、漱石の方はまだ何も文筆上の活動をしていない、習作すら書いていないではないか、と控え目ながら言っている。
 つまり太宰治が弱年時に最も苦しんだ、
「小説を書いて生きることが可能か」
「(小説を書いて、あるいは書かずに、)自分はどうしたら生きられるか」
 ということでは、漱石の生き方は何の参考にもならなかったということである。つまり好むと好まざるとに係わらず四十まで教壇に立っており、それから突然(でもないが)古い殻が弾け散ったように小説家になったというのでは、その弾け散る理由が何であれ、何人もその生き方を学習するわけにはいかないではないか。

 人生の参考にはならなかったかも知れないが、漱石の業績は直接間接に太宰治に影響を与えているはずである。漱石晩年の一時期にせよ、芥川龍之介菊池寛が先生と呼んで師事していたことだけ取っても、それは否定できない。愛読はしなかったにせよ、職業作家の務めとして一通りは読んだことであろう。太宰治は藤村さえ全部読んでいる(『夜明け前』を読了して感じるものは何もなかったと述べている。)
 太宰治漱石。べつに隠しているわけではないのだろうが、詩人として両者の体質が似ているのか、あるいはその反対か、とにかく得るものが無いと感じていたことだけは慥かである。太宰治にとって漱石をいくら読んでも自分にプラスになることが何もない。
 昭和の作家太宰治にとって、芥川龍之介が大正の作家であれば、漱石は単に明治の作家に過ぎなかったのであろうか。
 これは凡人にしてみれば悲しむべきことかも知れないが、それが太宰治のような才能豊かな人ゆえであるとすれば、却って太宰治の方を讃えるべきか。

 とはいえ、太宰治が『津軽』の劈頭に掲げた、中年で挫折した文学者の筆頭に、(漱石の唯一と言ってよい親友の)子規を置いていることの方が気になる。子規は小説家ではない。この中で子規だけが小説を書いていない。太宰治は若い頃俳句に凝っていた時期があるといっても、それだけで子規の名を持ってきたわけではないだろう。(太宰は宮沢賢治三十八さえ入れていない。)太宰は子規と漱石の交流は、(常識として)当然知っていたと思われる。漱石の不朽の業績は(志賀直哉のそれと同じように)、常に太宰治の頭のどこかにあったのではないか。

 三島由紀夫もまた(太宰治と同じく)漱石について何のコメントも残さなかった一人である。三島由紀夫太宰治の確執あるいは同質性はつとに知られるところであるが、してみると三島由紀夫もまた漱石には、自身を向上させる何物も見出せなかったということであろうか。(前述したことがあるが三島由紀夫の師川端康成も、漱石を第一位のグループに置く人ではなかった。)
 それはともかく、太宰治の代表作『人間失格』の語り口は、漱石の『心』の「先生の遺書」と驚くほど似ている。遺書のつもりで文章を書くと誰でもあんなふうになる、というものでもあるまい。そもそも『人間失格』は太宰治の遺書ではないし、(遺書のつもりで書いた)『晩年』もそうだが、『斜陽』の直治の遺書も、読んだ感じは(『心』と)まったく異なる。
 しかし『人間失格』が『心』と(筆致が)似ているということよりも、この2つの作品が日本で最も読まれているという事実の方が興味深い。
 極めて広く読まれるということは、人々が読んで感動するということであろう。ファン以外の読者にも感動を与えるということであろう。
 そして太宰治の小説が人々に感動を与えるのはまあ分かるとして、漱石がいまだになぜ多くの人に読み継がれるのかというのは、自分で言うのも何だが、やはり論者にとっては一種の謎である。読者の年代層の問題では勿論ない。(ちなみに「多くの」というのは、ここでは5千人くらいという意味である。)

 ところで本ブログも『道草』の前の変則として『坊っちゃん』を取り上げたが、40回を以ってそれも終了した。

・青春3部作
三四郎』   48回
 その他    15回(前著の抜粋及び山田風太郎
『それから』  23回
『門』     36回
(青春3部作+その他で合計122回)

・中期3部作
彼岸過迄』  45回
『行人』    46回
『心』     43回
(中期3部作で合計134回)

・『坊っちゃん』  40回
(ここまで累計で296回)

 さて『坊っちゃん』といえば『草枕』である。『坊っちゃん』を取り上げたからには、『道草』に戻るのではなく、『草枕』についても少しだけ論じてみたい。そして『坊っちゃん』『草枕』と来れば、続いて書かれた『野分』にも触れざるを得ないような気がするが、果たしてどうなるか。