明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 17

391.『道草』先行作品(6)――魔の12月1月


 前項の続き。『満韓ところどころ』はなぜ(漱石作品なのに)面白くないか。
 だいたい漱石は作品上でも実生活でも、年末年始とか厳寒の時期に近づくと碌なことにならないようである。露骨な譬えで申し訳ないが、命日が12月9日であることがその典型であろうか。その他思いつくままに挙げると――、

・『猫』 苦沙弥と寒月の正月の散歩になぜか芸者の話が割り込んで来る。すれ違ったときに声を掛けられたり、羽根突きをするのを覗いたりする。意味不明で不思議な文章である。
 翌る年、珍野家はまた猫のいない正月を迎えることになるだろう。現実に漱石の家で4年間生きた主人公の猫の寿命は、小説では気の毒にも1年間に短縮された。

・『趣味の遺伝』 12月に書かれた小説である。『趣味の遺伝』は結末を失敗した作品でもある。小野田の令嬢が浩さんの墓参りをするのは、俗な言い方だが令嬢もまた浩さんに「一目惚れ」したのであろうが、当然ながら何も知らない浩さんはそのまま戦地へ行ってしまう。残された浩さんの日記を読む限りではそういう話である。幸運にも令嬢の素性を突き止めた語り手は、浩さんの霊魂のためにも令嬢を浩さんの母親に引き合わせる。おっ母さんと令嬢はいよいよ仲良くなる。そこまではいい。ところが浩さんの日記を見せられたときの令嬢の反応が、筆の足りない書かれ方になっている。

 ・・・とうとう御母さんが浩さんの日記を出して見せた。其時に御嬢さんが何と云ったかと思ったらそれだから私は御寺参をして居りましたと答えたそうだ。何故白菊を御墓へ手向けたのかと問い返したら、白菊が一番好きだからと云う挨拶であった。(『趣味の遺伝』末尾近く)

 少なくともここでの令嬢の心情は「ああやはりそうであったか」「自分の勘は当たっていた」というようなものであったはずである。浩さんの気持ちを始めから知っていたのであれば、そもそもの令嬢の行動・振舞いは、誰に対しても残酷と言わねばならないし(これが本当の「無意識の偽善」か)、浩さんの気持ちがこのとき(思いもよらず)始めて分かったというなら、令嬢はショックのあまり気絶するだろう(つまり三文小説になってしまうだろう)。
 漱石の中では、「やはり浩さんも自分のことを想ってくれていた。だから自分の行為も無駄ではなかった」という気持ちで「それだから(墓参りをしていた)」と書いたのであろうが、それだけではおっ母さんも読者も何のことか分からない。
 白菊云々も明らかに書き足りていない。「白菊は私が一番好きな花」あるいは「白菊が墓前に一番好まれる花」という意味で書かれないと、ただのホラーになってしまう。令嬢は生前の浩さんとは「交渉」が無かったのであるから、浩さんの身上や趣味を決めつける立場にないし、スピリチュアリズムを研究しているのは語り手であって令嬢ではない。漱石は時間がなかったと言い訳するが、年末年始を控えているので時間がないと言いたかったのであろうか。
「12月執筆」と目される小説は他に『野分』を数えるのみである。『野分』も結末の書き方は不親切であるが、2作とも作家自身の分類では、(贅沢にも)カタログ外に位置付けられるのだろう。

・『坊っちゃん この名作の中に厳冬の時期があるとすれば、それは大切な清が死を迎える場面であろう。漱石の母千枝も(明治14年)1月に亡くなっている。

・『野分』 『趣味の遺伝』とともに12月に書かれた小説。百円返済事件は12月16日のことである。初期の肺炎で転地療養するはずの高柳周作は、その原資たる百円を白井道也に遣ってしまう。大丈夫だろうか。金は債権者(道也の兄)の手にそのまま渡るので、結局主人公たちの窮状は何も変わらない。『野分』は漱石の文芸的主張が剝き出しになった珍品であるが、前述したように明らかに習作であろう。それでも志賀直哉がことさら賞翫したのは、何か感じるところがあったに違いない。

・『坑夫』 漱石の小説で年末年始を跨いで書かれたものは、『坑夫』と『行人』の2作だけである。『坑夫』は漱石らしくない凡作、おまけに(漱石にとっては稀有の事象であるが、)著作権が疑われる部分さえ存在する。
『行人』は(長谷川町子みたいに)作者胃潰瘍で半年間中断した縁起の悪い作品。人気も第10位に入るかどうかを、たぶん『彼岸過迄』『虞美人草』と共に争うはずである。
(ちなみに論者のベストテンは、『猫』『坊っちゃん』『明暗』が不動の3傑。9位までの6作品が『草枕』『三四郎』『それから』『門』『心』『道草』という一般的なもの。あと1つは何か。否そんなまとめ方をせずとも、大方の漱石ファンはこれに『虞美人草』『彼岸過迄』『行人』を加えた1ダースの作品を均等に愛しているのだろう。これはビートルズの残した不朽のアルバム12点を思わせる。―― "please please me" "with the beatles" "hard day’s night" "for sale" "help" "rubber soul" "revolver" "sgt. pepper’s" "magical mystery tour" "white album" "let it be" "abbey road" ―― LPレコードとしてはオフィシャルには "magical mystery tour" でなく "yellow submarine" であろうが、"yellow submarine" は半分ビートルズ(の演奏)でない。つまりこれは『坑夫』の位置付けであろうか。)

・『文鳥 漱石文鳥は12月にやってきてすぐ死んだ。いっぽう本ブログの先の項で一緒に論じた『夢十夜』は10話すべてが季節と無縁のコントであるが、これは漱石の中では例外に属する。『琴の空音』は春まだきの冬(インフルエンザ)、『二百十日』『一夜』は夏の話である。漱石の中で『夢十夜』だけが季節の書かれない(季節が不詳の)小説となった。夢は時間を超えていると漱石は言いたかったのか。

・『三四郎 大学最初の冬休み。帰省中に美禰子の挙式と披露宴が済んでいる。漱石作品の中で最悪の越年をした主人公が小川三四郎であろう。
 ところで三四郎の九州帰省は2泊3日を要しているはずである。往復で6日かかる。いくら金に困っていないとはいえ、母1人子1人だとはいえ、1週間かせいぜい2週間の冬季休暇に、6日潰して帰省するものだろうか。坊っちゃんでさえ「来年の夏休みにはきっと帰る」と言っている。正月休みに帰省したのは(漱石本人も含め)、三四郎以外にいないのではないか。――漱石が(松山時代に)一度だけ正月を東京で過ごしたのは、帰省でなく婚約のためであった。

・『それから』 去る者は日々に疎し。代助は引っ越したことを平岡への年始状でついでに知らせる。春が過ぎてその平岡が代助の新しい居宅を急襲する。「此所(ここ)だ此所だ」――代助の家を知らないはずの平岡だが、そういう気配は微塵も感じられない。ここから悲喜劇が始まった。

・『門』 インフルエンザに罹った安井は冬季休暇を転地療養に充てる。転地先で年を越した安井と御米の許へ宗助が遊びに行く。やがて大風が宗助と御米を吹き倒す。悲劇の起源はやはり冬休みにあったのである。

・『彼岸過迄 前年12月の雛子の埋葬のあと、気を取り直して年明けの1月から、『彼岸過迄』の執筆・連載が始まった。3月中には終わるだろうという意味でこの題名が付けられた。それはいいが「風呂の後」「停留所」「報告」に続く4篇目として唐突に「雨の降る日」が挿入された。小説として成功しているだろうか。マーラーの第2交響曲は第4楽章になって、いきなりコントラルトだかメゾソプラノが天国のような「Urlicht」の旋律を歌い出す。しかし文学は音楽とは違うのである。

・『行人』 前述した通り。執筆の越年が漱石にとっていかに鬼門だったか、他の作家や編集者は思いもよるまい。ちなみに『行人』のオリジナルの物語は、お彼岸に二郎の高等下宿を訪れたお直の逸話で終わっており、前作で小説の内容に直接関係のない『彼岸過迄』というタイトルを付けてしまった漱石が、律儀にも実際にそういう暦を有する小説を書いて、辻褄を合わせようとしたのが『行人』であったと言えなくもない。その意味でも「塵労」という付け足しは、余計であるとは言わないまでも、まったく別物と考えて鑑賞した方が、『行人』にとってフェアであろう。「塵労」は「塵労」で、独自の(志賀直哉がリッチな筆つきと評した)堅牢な美を放ってはいる。

・『心』 先生とK、ともに煩悶を抱えたまま越年し、Kが突然告白したのは正月休み、2学期の始まる直前である。成り行きだったにせよ先生の策謀が実を結び御嬢さんと婚約、そしてKの自裁漱石文学最大の悲劇は続く2月に発生した。(本ブログ心篇参照)

・『道草』 年の瀬せまる頃島田に百円遣って書付を取り戻す。明治42年11月の出来事が元になっているが、漱石は小説では時期を1ヶ月後ろにずらしている。この碌でもない手切れ金事件は、明らかに正月を意識してリライトされているのである。

・『明暗』 物語は秋に始まり冬に入ったところで無事(津田の肛門の再破裂程度で)決着を見るはずであった。それはいいとしても、思いのほか小説が長くなって、漱石自身も連載は年を越すだろうと(米国留学の成瀬正一に葉書で)表明している。ところが作者が倒れて執筆は中絶、前述のように12月には当の漱石の命の方が断たれてしまった。越年するはずの『明暗』は、作者の意に反して越年しなかった。運命に敵(かたき)を取られたと、『それから』の代助なら言うであろうか。それとも『坑夫』『行人』と同じ轍を踏まなくてよかったと、『明暗』の熱烈なファンは胸をなでおろすであろうか。

 結局漱石の小説で(『二百十日』等の短編を除いて)12月~1月と無縁なのは、『草枕』と『虞美人草』だけということになりそうであるが、見方によってはこの2作といえども例外ではない。強引に結び付けるのをご容赦いただければ、

・『草枕 漱石が始めて小天温泉を(山川信次郎と)訪れたのは、五高赴任の翌年の年末年始休暇(明治30年~31年)においてであった。蜜柑畑には一面に蜜柑が生っていたと思われる。画工は(蜜柑の影も形もない春なのに)那美さんの兄の家の辺りをミカン山と紹介しているが、那古井を訪れたのは2度目と言っているので、やはり以前冬に来たことがあったのである。漱石は5月にも小天温泉を再訪しており、いつも置いておかれた鏡子夫人はその年入水事件を起こす。

・『虞美人草 漱石の西片時代に唯一書かれた小説が失敗作『虞美人草』である。家主(斎藤阿具)の事情で、福猫とともに『猫』『坊っちゃん』『草枕』の名作を書いた千駄木を立ち退いたのが明治39年12月の月末である。方角が悪かったと同時に時期も良くなかった。漱石は西へ西へと移動しなければならないところ、西片だけは千駄木の西方になかった。したがって程なく(正しく西の方角にあたる)早稲田に移って、『三四郎』から『明暗』に至るさらなる名作群が誕生したのは、人類にとってこの上ない幸運であった。ちなみに漱石早稲田南町への引っ越しは、時候のよい9月(明治40年)である。

 エセイ集も負けていない。

・『永日小品』 明治42年1月~3月
・『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月
・『思い出す事など』 明治43年10月~明治44年2月
・『硝子戸の中』 大正4年1月~2月

 4作ともほとんど冬場に書かれている偶然はともかく、

・『永日小品』 第1話は「元日」というのである。ちょうど1年前の元旦の逸話を持って来ているが、第2話以降は季節感とは無関係に、「普通の随筆(最近の出来事)」「『夢十夜』ふうのコント」「倫敦時代の追憶」が交互に出現する。全体として不気味なエセイであるが、最後まで読んでも、冒頭に「元日」を配置した意味がまったく分からない。第1話だけ掲載日が離れているので、「元日」を別物として鑑賞すべしということか。

・『満韓ところどころ』 12月に書かれたいわくつきのものの1つ。そのせいかどうか、不自然な中断のままになっていることは前項で述べてきた通り。しかし中断ということで言えば、同じ頃書かれた青春3部作はいずれも突然幕が閉じられたような小説ばかりである。『三四郎』『それから』『門』をまとまった1塊りのものと見ても、3作を読み了えて作者が何事かを書き切ったという感じはしない。野中宗助が三四郎や野々宮宗八・長井代助の末裔であるのはいいとしても、宗助という人物像が彼らの到達点(帰結・結論)と思う読者はいないだろう。物語や登場人物にはっきりした決着がつかない。ぐずぐずのままである。それがゆえにいつまでも読み継がれるというのは流石に暴論であろうが、それにもかかわらずいつまでも読まれるのが漱石作品であるとは言えるだろう。

・『思い出す事など』 これも禁忌たる12月執筆に属する。修善寺の大患を思い出しているので、漱石にとっては碌でもない回想記であるには違いない。もう1つ、このエセイ集のみ(『坑夫』『行人』と同じく)不吉にも年末年始を跨いで執筆されている。そのツケは如実に廻ってきており、次項以降で述べることではあるが、『思い出す事など』はまた、人間の死について多く語られる、人生の書であるとともに絶望と希望の入り混ざった、不思議なエセイ集になっている。

・『硝子戸の中 漱石の中では一番評判の好い随想集であろう。しかし『道草』の露払いとして書かれているからには、『道草』と同じ気分が漂っており、これも次項以降で考察されるべきことではあるが、ある種の鬱陶しさからは逃れようもない。なぜもう少し気候のよいときに書かなかったのだろうか。
 思うに漱石新聞小説を最優先させるので、随筆小品の類いはつい「オフシーズン」の谿間に追いやられるのであろう。漱石ふうの誠実というべきか。徹底した自己管理と言わざるを得ない。

 * * *

 漱石にとって「12月~1月問題」は作品だけにとどまらない。母千枝の死(1月)と自身の死(12月)は前述したが、漱石の誕生日が慶応3年1月(5日)、2度目の誕生日たる夏目家復籍が明治21年1月(28日)であることは奇妙な因縁であると言えよう。
 ところで漱石の7人の子の誕生日は以下の通りである。

・筆子 明治32年5月31日
恒子 明治34年1月26日
・栄子 明治36年11月3日
愛子 明治38年12月14日
・純一 明治40年6月5日
伸六 明治41年12月17日
・雛子 明治43年3月2日

 彼らの人生は(当然ながら)漱石の人生ではないからここでは取り上げないが、唯一1月生れの恒子は(生れたとき漱石は倫敦にいた)、気の毒にも30代半ばで病没した。12月生れの四女愛子は、『道草』の中で「3人目の」赤ん坊として、千切った脱脂綿とともに出産シーンが描かれるという、ユニークな扱いを受けた。また『永日小品』で例外的に「愛子」という名前が晒されてしまったのは前述したところ。公平を旨とする漱石は、『思い出す事など』で(愛子以外の)上の3人の女の子の名前も、病床の父に宛てた見舞状の筆者という形で露出させた。本文では筆子・恒子・えい子と書かれたが、三女だけが仮名表記されている。漱石のつもりでは三女と四女は始めから、エイ、アイと付けたのだろう、戸籍簿ではそうなっているらしい。2人の男の子と夭折した五女の実の名は、ついに漱石作品に載ることはなかった。もちろんこれらのことは、漱石が子供たちのことを小説にしばしば書き込んだこととはまた別の話である。

 もう1人の12月生れである夏目伸六については、本人が数多くの著作を残しているので、(鏡子の回想録同様)考察の対象として差し支えないと思うが、1つだけあの有名なステッキ殴打事件について触れてみたい。
 明治40年6月待望の男子(純一)が誕生した。翌明治41年12月17日、始めて年子として2人目の男の子(伸六)が生まれた。「スペア」という気持ちはなかったであろうが、漱石にとってはめでたくもあり、心強い2人目の男子だったろう。
 しかしそれは半年前に日根野れんを脊髄病で亡くした塩原昌之助にとっても良い話であったらしい。年が明けて早速、この元養父は漱石に伸六の養子縁組を申入れに来たのではないか。塩原家と夏目家の関係からは大いに考えられることである。絶縁したといっても一方の当事者父直克はすでに亡く、漱石自身、日根野れんを蝶番として塩原家と交際してきた過去を有つ以上、元養父の申し出は当時の世情からも、それほど突飛なものとは言えない。
 もちろん漱石は断った。これが『道草』に書かれた、その年(明治42年)の百円強請事件につながるのだろう。家を継がない男の子が出来たせいで却って金を取られる。自身の場合と同じである。しかも相手は同じ塩原昌之助。
 明治43年3月2日に7人目の子供雛子が生まれるが、翌44年11月29日に突然亡くなった(埋葬は12月2日)。このときすでに鏡子夫人は明けて36歳。伸六の「末っ子の男の子」はほぼ確定したと思われる。漱石が屋台の店先で激怒したのは、直接には兄の真似ばかりする伸六の性格の弱さ・俗っぽさに我慢ならなかったからであろうが、漱石はこの末子の運命に自分自身を見たのではないか。塩原から養子にくれとせがまれ、なおかつあっさり養子に出されてしまった漱石自身を重ねたのである。気の毒なことにその背後には忌々しい養父の幻影までちらついていた。常軌を逸したステッキでの殴打(下駄履きの足で踏みつけ蹴られさえした)の理由は、これ以外に考えにくい。