明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 16

390.『道草』先行作品(5)――『満韓ところどころ』


・第2集『満韓ところどころ』 明治42年10月~12月

『永日小品』以外に明治42年にはもう1つ、『満韓ところどころ』(全51回)という未完の紀行文集がある。『永日小品』は新春に書かれたが、『満韓ところどころ』は漱石の好きな秋の話である。
 漱石は明治42年9月~10月の1ヶ月半、(英国留学を除けば)最も長くて遠い満洲朝鮮の旅に出かけた。帰国早々同じハルピン停車場で伊藤博文が撃たれたが、二つながらに中村是公が立ち会っていた偶然にもめげず、(疑り深い漱石であれば、背恰好の似た自分が何かの練習台に使われたのではないかと不安に感じてしかるべきところ、伊藤公の話題は『門』の冒頭でさらりと触れるにとどまった、)早稲田の自宅に帰り着くや否やすぐ旅行記の筆を執り始めた。(元総理大臣にして前韓国統監の暗殺事件は、結局現行の『満韓ところどころ』に1字も書かれなかった。)

『永日小品』は創作と称して何の違和感もないとは前述した。『思い出す事など』『硝子戸の中』も、私小説作家が書いたものなら掌篇集と見ることも可能だろう。しかし『満韓ところどころ』は創作でないのはいいとしても、紀行文というには少々雑駁に過ぎるようである。やはり必要最小限の手控えなり資料を準備した方が良かったのではないかと、つい余計なことを考えてしまう。

 南満鉄道会社って一体何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前も余っ程馬鹿だなあと云った。(『満韓ところどころ』冒頭)

 書出しは太宰治津軽』、夫人との会話を思わせ、(現代の)読者の期待は昂まるが、それは当然すぐに裏切られることになる。最後まで読んでも、書出しの1行を超えるものは、(是公や橋本左五郎等書生時代の仲間たちの逸話を除いては)現れない。
『満韓ところどころ』失敗の原因については、一般に次のような議論があると思われる。

①記憶がフレッシュなうちに書かれたにもかかわらず、人や場景の印象が薄い。やはり体調不良が影響したのではないか。
②反対にもっと記憶が薄れてから、そのときなお漱石の心象に残っているもののみ書いた方が、essay として味が出るのではないか。
③そもそも漱石は資料を参考にして書くタイプの作家ではない。小説でない満洲紀行を書くなら、『永日小品』ふうにアレンジするしかないのでは。

 畢竟漱石旅行記には向かない作家である。いっぽうで漱石の小説は、基本的にすべて旅行記のように書かれている(『明暗』のあの長い会話シーンを除いて)、と言って言えなくもない。
 まあ傍(はた)からとやかく言っても始まらないので、とりあえずは他の3集と少し毛色が異なる『満韓ところどころ』を順に読んでみるしかないだろう。当時から半島や満洲に、いかに大勢の日本人が進出していたことか。明治の人にとっては元々北海道や琉球などより、はるかに身近な土地であった。漱石の文章を読んでも、そのことだけは伝わってくると思うが。

1回「是公との約束」 満洲旅行の用意をする~直前に胃病で延期になった
2回「出航」 穏やかな鉄嶺丸の旅~英国大使館の青年と犬が同船~後に大和ホテルでこの犬に再会した
3回「営口丸と接触 事務長の佐治さん~営口丸を追い抜くとき船体がぶつかる~かわすという漢字が分からない~替わすではいけませんか
4回「大連到着」 秘書の沼田さん~クーリーの蠢く中綺麗な馬車で総裁の家へ向かう
5回「総裁の家」 舞踏会場を改装した総裁公邸~本尊のいない阿弥陀堂のよう~溥儀の額~総裁は帰って来ない
6回「大和ホテル」 風呂に入っていると総裁が来たがすぐ引き返したもよう~食堂で相席になった英国の老人
7回「俱楽部にて」 舞踏会を断る~倶楽部のバーで総裁副総裁と過ごす~西洋人は少ない
8回「市内巡行」 空気が透き通って日が鮮やかに市街を照らす~日本橋から満鉄本社を臨む~電気公園のオベリスク
9回「中央試験場」 大豆油・石鹸・柞蚕(山繭)の糸・高粱酒(これは是公も試飲しない)
10回「満鉄本社」 立花政樹は大連の税関長~満鉄本社で理事たちと挨拶~ランチは大和ホテルの仕出し~胃が痛む
11回「営業報告」 河村調査課長の説明~股野義郎現わる~多々三平の産地が筑後久留米から肥前唐津に変わった理由
12回「ゼントルメン」 総裁夫妻連名の舞踏会招待を断わる~「 gentlemen! ··· 大いに飲みましょう!」
13回「胃痛でダウン」 胃痛で会食を断わる~蒙古を調査した東北大教授橋本左五郎来る~明治17年極楽水の旧事
14回「橋本左五郎」 猿楽町末富屋の10人~予備門席次下算の便
15回「大連見物」 股野の案内で北公園・社員倶楽部・川崎造船所~東洋一の煙突大連火力発電所
16回「化物屋敷」 満鉄社員アパートは日露戦争当時の病院だった~開拓と国土建設は日露の「戦後の戦争」
17回「大豆油」 3階建の工場で大豆を蒸し油を搾る~黙々と働く裸のクーリー
18回「股野の社宅」 総裁公邸に行く~是公も胃病持ち~股野の社宅は見晴らしのよい高台
19回「麻雀牌」 満洲商人は仕入先を自宅に泊める習慣~荷主たちは商売が片付くまで商人の家で寝たり遊んだりしている
20回「相生さん」 大連港の沖仲仕をまとめたものは相生さんである~港湾労働者のコミュニティ~図書館に漱石の本もあった
21回「佐藤友熊」 友熊は旅順の警視総長~成立学舎で共に学ぶ~白虎隊の1人が腹を切り損なって入学試験を受けに東京へ出たとしか思われない
22回「旅順は普請中」 橋本左五郎と旅順へ向かう~新市街には人がいない~やはり大和ホテルに入る
23回「女の靴の片方」 白玉山の戦勝記念碑~佐藤友熊の案内で橋本と旅順戦利品陳列所に行く
24回「山と砲台」 A中尉の案内で日露戦跡をたどる~すべての山に悉く砲台が~旅順を見下ろす高台に出る
25回「砲台巡り」 両軍とも砲台を取るため坑道を掘り合う~たまには土嚢越しに両軍で会話することもある~酒があるならくれ
26回「講演」 断りきれず大連で2回営口で1回講演するはめに~演説を勧める橋本左五郎~演説を褒める是公
27回「二百三高地 敵と味方両方の砲弾をかいくぐって始めて陣地を取る~戦争のときは身体の組織が暫時犬猫と同じになる
28回「旅順港 静かで美しい旅順港~始めて兵隊に敬礼をされる~無数に沈んだ艦船の引き揚げ方
29回「膝枕」 胃が痛むが田中君の招待で橋本と料理屋へ~すき焼きを食う~女の膝枕で寝る
30回「鶉」 旅順を発つので全員で鶉を食す朝食会~鶉は旅順の名物
31回「胃痛」 橋本と北へ向かうことにするが旅程は何も決まっていない~哈爾浜行急行は週2回
32回「トロ」 橋本と熊岳城へ~胃痛に耐えながら支那人の押すトロに乗る
33回「砂湯」 熊岳城Ⅱ~一面の砂浜がすべて温泉~高麗城子という険しい連山が見える
34回「支那の女」 熊岳城Ⅲ~胃が痛むが梨畑へ行くことにする~宿の客と一緒に馬車に乗る~昨日橋で行き合った女と尻合わせになる~女は宿の人らしい
35回「梨畑」 橋本たちに再会~梨は赤く大きさは日本の梨の半分~胃の中に何か入れると痛みが一瞬治まる
36回「満洲の馬」 梨畑の土の壁~壁に開けられた馬賊避けの四角い穴と赤い旗~三国志に出てくるような騾馬と隠されている女
37回「短冊」 熊岳城を発つ~頼まれた短冊に字を書く~旅をして悪筆を懇望されるほどつらいことはない
38回「満洲の豚」 満洲の草原を跋扈する怪物~豚と海藻~雲と電信柱
39回「怪しい部屋」 営口の恐ろしく穢い売春窟~胡弓と歌声
40回「遼河」 胃に加えて胸も痛い~粉薬を呑みたいが水がない
41回「農学博士」 橋本左五郎は博士号を取っていない~漱石の革鞄に橋本博士の札が
42回「ダウン」 営口から湯崗子へ~体調悪くて飯も食えず
43回「千山」 橋本等3人は馬で千山へ行く~漱石はそれを見送る~鉢巻する馬
44回「風呂に行く」 風呂場の裏は魚の泳ぐ湯の池~宿の紫の袴を穿いた若い女がいる
45回「奉天 馬車で奉天の街を行く~馬車に轢かれた老人の下肢
46回「人力車」 人力車の引き方が余りにも乱暴で驚く~奉天では4泊した
47回「満洲公所」 奉天には下水というものがない~湯も水も濁っている
48回「満洲公所Ⅱ」 満洲公所には俳人の肋骨君がいる~支那人の辮髪
49回「曠野」 宿の番頭の馬車で道なき凹凸の平原を疾る~泥濘に轍を取られて立往生
50回「北陵」 平原が急に叢に変化する~大きな亀の上に建つ頌徳碑
51回「撫順」 汽車に乗り合わせた西洋人は英国領事~英国人のプラウド気質~坑道見学

『満韓ところどころ』はここで中断している。石炭を焚いて走る汽船と汽車を乗り継ぎ、全山石炭の塊りたる(露天掘りの)撫順に到達した。オチは付いているのかも知れないが、漱石が産業資源に関心があったとも思えない。
 加えてこの紀行文では、漱石韓半島に1歩たりとも足を踏み入れていない。読者は続篇があるのだろうと思う。なければタイトルはいつか『満洲ところどころ』あるいは『南満洲ところどころ』に改められるべきであった。
 それをしなかったのはいかにも漱石らしいが、読者側・朝日側の要請もとくになかったようである。回を追うにつれて(おもに漱石の体調のせいで)話が面白くなくなっているからである。漱石旅行記は面白くないのか。『門』の参禅シーンを記憶する読者はさもありなんと思う。しかし『行人/塵労』の一郎とHさんの旅日記はそれなりに興趣が沸き、『明暗』津田の湯河原道行きも、俗物津田にしては(漱石の地が出ているせいで)味わい深いものがある。『坊っちゃん』『草枕』は(旅日記として読んでも)勝れて面白い。『満韓ところどころ』の不作は紀行文のせいだけではないはずである。冒頭にも少し触れたが、何か他に理由があるのだろうか。