明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 15

389.『道草』先行作品(4)――『永日小品』(つづき)


・第1集『永日小品』 明治42年1月~3月(つづき)

15回『モナリサ』 井深がモナリサの額画を買って欄間に掛けた~落下してガラスが砕けた~すぐ屑屋に売った~井深はモナリサもダヴィンチも知らない
 井深は日曜ごとに古道具屋を覘く。読者は漱石と思う。学校でなく役所へ通っているが、それはかまわない。最後にダヴィンチを知らないというくだりで、読者はやっと井深が漱石でないことを知らされる。友人のことを書いたのでもないようだ。essay でないとすれば、とりあえず創作物と言うしかない。

16回『火事』 近所の火事~ホースとポンプが来る~大勢人が集まっている~しかし誰もどうすることも出来ない~翌日行って見たが何も痕跡がない~夢の中で起きた火事かも知れない
 火事が夢の中の話とすれば、これまた不気味な、『夢十夜』そのものみたいな話であろう。

17回『霧』 霧の倫敦~汽車は(安全のため)大きな音を鳴らしながら停車場へ入って来る~自分は道に迷ったのだろうか
 倫敦の追憶。しかしそうでない読み方もできる。倫敦の地名を藉りて後段の(第25話の)「心」みたいに何かを訴えているようにも見える。漱石は思わせぶりを書く人ではないが、たまに真意不明の文章にぶち当たることがある。

18回『懸物』 掛軸を売って亡妻の墓石を買う~孫に鉄砲玉(飴玉)を買う
 エセイではないが小説とは言い難い。コント寓話でもない。まさに創作としか言いようがない。これが小品の定義であろうか。

19回『紀元節』 「誰か記を紀と直したようだが、記と書いても好いんですよ」
 漢字の深さでもあり親しみやすさ(いい加減さ)でもある。象形文字もそうだが、漢字の成り立ちがそもそもアートである。漢字を創った民族は宗教の民であるとともに芸術家である。これが漱石をして漢学へ向かわせなかった最大の理由であろう(※)。どちらでもいいんですよ。どちらも正しい。それは漱石の腑に落ちるものではなかった。漱石がいくら芸術家であっても。
 漢字の誤字というのは、もちろん錯誤・無知を示す場合もあるが、試験(筆記試験)のために無理に作られた概念でもあろう。便宜のために人が作ったものである以上、それが正しいとか間違っているとかは、人類の幕を閉じない限り確定しない。数学の公理とは違うのである。人類が滅んでも物理の法則は生き続ける(はずである)。
 その時「正しい漢字」などというものは瞬時に消滅する。ただ同じ意味で、「正しい言葉遣い(当然にも正しい漢字を含む)」を会得することが、「物理の法則」を理解することより肝要でかつ困難であることもまた真実であろう。

※注)漱石漢文学だけでなく宗教と芸術へ向かわなかった理由
 深遠だが親しみやすい、分かりやすいがいい加減なところもあるというのは、宗教と芸術に共通する特質であろう。何々をすれば幸福になれると、大勢の人が納得するものなら、どうのような教義であれ、シンプルにして大雑把に違いない。人に芸術的な感興を起こさせるためには、ゆるぎというか、何かしら撓(たわ)んでいるところ、ある種ルーズなところが必要であるのと同断である。これは漱石のような人とは相容れない性質である。曖昧さを嫌う漱石は、正しいか間違っているか、答えがはっきりしないと気が済まない。漱石もまた英文学において「プリンキピア」(ニュートンの)のようなものが書けると信じていた1人であった。

20回『儲口』 支那人相手に大損した話~栗1800俵・薩摩芋2000俵
 金が儲かる話は漱石は嫌いでない。金があれば金の為に働かなくてすむからである。漱石にとって金は労働の対価でしかない。しかるに漱石は労働を神聖なもの・機械や他の動物に置き換えることの出来ないものと見做していた。労働と金銭を等価とする実業界に興味がなかったのも頷ける。漱石のような(心のきれいな)人は、金に対する認識が一般の人と少し違う。だから自分の小説に金のことばかり書いても(『坊っちゃん』には金の話が100ヶ所出て来る)、漱石自身は何も違和感を感じないのである。

21回『行列』 宅の子供は毎日母の羽織や風呂敷を出して、こんな遊戯をしている
 子供5人の仮装行列。生まれたばかりの(6人目の)伸六は当然仲間に入っていない。それはいいが漱石は後年子供の数を間違えたことがある。(大正元年の日記。避暑に訪れた鎌倉で蚊帳の中に一緒くたになって寝た子供の数――本ブログ行人篇38に既述。)

22回『昔』 ピトロクリの谷~キリクランキーの古戦場
 英国の追憶4回目。漱石は帰国の船便を遅らせてスコットランドに宿を取った。(イングランドではない)スコットランド漱石にとって英国(イギリス)留学唯一の救いとなったようである。古戦場の景色は(そこが墓地になった例外を除いて)なぜかどこも平穏で懐かしい。合戦に適した場所というのがあるのだろうか。昔血に染まったという記憶のせいだろうか。これは洋の東西を問わない。

23回『声』 国から出て来た豊三郎~豊、豊という母の声~母は5年前に死んでしまった~路地の婆さんと目が合う
 まさに『三四郎』の外伝である。三四郎の場合は母は生きているが、こういう場面や『夢十夜』に出て来るようなシーンは、同じ頃書かれた『三四郎』では使われなかった。ただし外形的に現れなかっただけで、その不安・惧れといった内向きの精神状態は、『三四郎』という作品にある風合いを与えている。

24回『金』 空谷子(くうこくし)との会話~金は魔物~金の力はそれを得た原因に関係しない~金を五色に分ける効用
 金はまた不思議な力を持っている。漱石の理想は世襲財産であろう。そこには勤労・労働という要素がまったくない。職業は晴れて道楽になり、労働は始めて神聖になる。

25回『心』 二階の手摺にいると鶯に似た鳥が来て手に止まった~散歩に出ると知らない人が沢山いた~1人の女が立っている~百年前から自分を待っていた顔である~自分はその女のあとを小鳥のようにどこまでも跟いて行った
 結婚後の漱石は(倫敦は別として)2階に住まわったことはない。前年の『文鳥』と併せ読まれて、漱石の女性体験と結び付けらることが多いが、本当だろうか。自分が2階で女が下。これはそのまま『虞美人草』にも使われた(甲野宗近の関西旅行で、宗近が旅館の2階から琴を弾く小夜子を目撃するシーン)。女が自分を認めるには見上げる必要がある。続く『三四郎』では三四郎が下で池の女は丘の上、男と女が逆であるが、それでも女はやはり何かを見上げている。運動会で三四郎が丘の上にいるときには美禰子とよし子はめでたく三四郎を見上げていた。小説の冒頭で三四郎が始めて汽車の女に話かけられたときは、斜め前に腰掛けていた女が及び腰になって、三四郎を下から窺う感じで喋っているように読める。男女の立場(文字通りの立っている場所)に高低差のあるうちは安全である。同じ平面に立つと波風が立つ。
 ここで女に蹤いて入って行った家は、どう見ても待合としか思えないが、待合に百年の恋の相手がいるとも思われない。癇性で神経質、内気で我儘な漱石が、女の前でくつろぐためには、その女が(漱石のすべてをゆるしてくれる)百年の恋人(聖母のような女)である必要がある。そうでない場合は、「反っ繰り返ってるじゃありませんか」とお直(『行人』の)に笑われるのである。
 漱石と女については、本ブログ第11項(『文鳥』と『永日小品』をつなぐもの)で、この回(25回『心』)全文を引用して論じているので、そちらもご参照いただけると幸いである。

26回『変化』 中村と自分の今昔~江東義塾時代の話~倫敦の街角でばったり出合った~先月会いそこねた話~中村は満鉄総裁になり自分は小説家になった~2人は変化したのだろうか
 この回の人物は「中村」と書かれる。誰もが中村是公と知るが、漱石はなぜか是公とは書かない。「元日」では虚子を括弧書きで高浜と書いた箇所があった。読者に特定されるような登場人物の名をそのまま書いているのは、第1話「元日」の「虚子(高浜)」と、この第26話「変化」の「中村」だけであろう。その使い分けは何に拠るか。それは漱石に聞くしかないが、虚子と是公は名前を隠すと却って不自然になると思ったのであろう。「泥棒」の御房さん(親戚の山田房子)は新聞読者の知らない人物であるし、「猫の墓」で供えた水に口をつけてしまう四女の「愛子」は、また違う理由で名を晒されたようである。
 漱石は家族をほぼ平等に描いているが、自分のことは「自分」、鏡子は「妻(さい)」であるし、子供たちも名前を出すことはない。なぜ「愛子」だけが露出したのかというと、それは漱石が作品に家族親類を書くことに対し、愛子が子供ながらクレームを付けたからであるという。漱石はそのお返しに『永日小品』に愛子の名のみ刻んだ。どちらが子供らしいかは微妙なところである。
 いずれにせよ虚子と是公だけが『永日小品』で別扱いの日本人である。(「山鳥」の長塚は前述したように仮名の別人であろう。)

27回『クレイグ先生上』 クレイグ先生はアイヤランド人のシェイクスピヤ学者~いつかベーカーストリートで出合った時には、鞭を忘れた御者かと思った
28回『クレイグ先生中』 英吉利人は詩を解さない~愛蘭土人は偉い、日本人も~「お、おれのウォーズウォースは何処へ遣った」
29回『クレイグ先生下』 「シュミッド」と同程度のものを拵える位ならこんな骨を折りはしない~僕も若ければ日本に行くがな

 最終話「クレイグ先生」はエセイでありロマンであり英国の追憶でもある。卓越したユーモア、写実、抒情、あらゆる要素を含み、登場人物はユニークで夢幻的な感じさえ抱かせる。まさに『永日小品』の大いなる統合といえよう。
 ところでウィリアム・クレイグは1843年11月生れで、漱石が個人教授を受けたのは1900年11月~1901年10月の1年間だから、クレイグは満57から満58になろうとする年である。漱石はレッスン晩期の頃の話として56と書くが、正しくは58であろう。それはクレイグがサバを読んだだけかも知れないが、クレイグが亡くなったのは1906年12月、漱石が帰国して丸4年が経つ頃である。それを漱石は「日本へ帰って2年程したら」と書いている。漱石は何か勘違いをしたのだろうか。クレイグの年齢だけでなく没年も2年ずれている。漱石が倫敦留学の丸2年間をなかったことにしたかったのは慥かであろうが、それがこんな「書き間違い」を生んだのだろうか。
 『永日小品』の英国譚は、アグニスの「7下宿」「8過去の臭い」、非現実感の漂う「10暖かい夢」「11印象」「17霧」、スコットランドの「22昔」、そして「27~29クレイグ先生」の全9回。まとめて読むとまさに(『夢十夜』ならぬ)『夢九夜』のような奇怪な物語ではないか。

 これらを鬱陶しく感じる読者は、つい空想の世界に遊びたくなる(山田風太郎のように)。ベイカー街から高速馬車で事件現場へ向かうシャーロックホームズと馭者のクレイグ先生。疾駆しながら平生の自分の哲学的主張を大声で怒鳴り合う2人。――これは論者1人がふざけているわけではない。冗談を先に発したのは漱石先生である。論者はその尻馬に乗ったに過ぎない。