明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 7

303.『草枕』幻の最終作品(1)――3部作の秘密


 さて本ブログは、

 青春3部作(『三四郎M41』『それからM42』『門M43』)
 中期3部作(『彼岸過迄M45』『行人T2』『心T3』)

 を順に取扱ったあと、最後の作品群に移る前に、『坊っちゃん』『草枕』(おそらく『野分』も)という初期作品に寄り道したくなったのであるが、これらはすべて、『明暗』の未完成部分の追求のためのものである。
 それ以外に漱石作品を論ずる意味合いはない(論者にとっては)。そしてそれは、より大きな枠組みとして、

 晩期3部作(『道草T4』『明暗T5』『〇〇――T6またはT7』)

 の存在を前提とすることによって、より目標に近づく(かも知れない)というのが論者の基本的な考え方である。

 建築家を志望した時期もあったという漱石は、自分の書いた小説を、(自分の子供にも見立てていたが、)建築物のように考えていたフシがある。つまりの青春3部作が1階~3階部分にあたるとすれば、次のが4階~6階、そして最後の3部作が7階~9階というわけである。漱石は晩く小説家になった代りに、自分の到達点もまた早くから見据えていたのではないか。
 そして漱石の3部作は、この3フロアずつに区切られた建物のように、3部作ごとの使用目的(建築目的)のようなものが想定されていたように思われる。例えば1階~3階が店舗、4階~6階が事務所、7階~9階が住宅というように。
 漱石は3部作ごとに一定の創作方針を設けていたのではないか。

 は言うまでもなくプロポーズし損ねて一旦は逃げられた女を後日強引に奪ったとして、その後の運命や如何にという3題噺のような連作である。
 は複雑だが先の項でこの3部作の諱をいくつか挙げている。曰く「短編形式3部作」「善行3部作」「不思議3部作」「括弧書3部作」「自画自讃3部作」「謀略3部作」「一人称3部作」「鎌倉3部作」「ヒロイン途中退場3部作」
 この諱の多い3部作のハイライトは、(『心』における)先生とKの死であろう。漱石の9階建の建物に男の死がここだけ(6階部分)であることは請け合ってよい。
 そしてはとりあえず「則天去私3部作」という呼び名が参考になるだろう。

 頂上は9階部分である。漱石の究極の目的は9階フロア(論者の謂う幻の最終作品『〇〇』)の完成であったと言える。この9階建てのビルから、ベートーヴェンシューベルトドヴォルザーク、あるいはブルックナーマーラー交響曲に想いをはせることは許されるだろう。ちなみにグスタフマーラーは自身の9番目の交響曲に「Symphonie」という名をよう付けなかった。( Erde のこと)。

 もちろん建物は9階建てに限らない。

①処女3部作(『猫M37』『坊っちゃんM39』『草枕M39』)
②初期短篇3部作(『琴のそら音M38』『趣味の遺伝M38』『二百十日M39』)
③試作3部作あるいは失敗3部作(『野分M39』『虞美人草M40』『坑夫M41』)
④随筆3部作(『永日小品M42』『思い出す事などM43』『硝子戸の中T4』)
⑤紀行3部作(『満韓ところどころM42』『点頭録(未完)T5』『幻の最終エッセイ(おそらくT8もしくはT9)』

 ⑤は少し変則であるが、中絶した『点頭録』は、社会に対する自分の物の見方を、ヴィトゲンシュタインを彷彿させる宇宙観に基づいて披露したもので、完成すれば自己の思想紀行のようなものになった筈である。『明暗』完結後には続篇が書かれたのではないか。『点頭録』は漱石には珍しく時事問題も扱っているが、1年経過しても(否100年経っても)その哲学的批評遍歴は少しも陳腐化することがない。漱石は自信たっぷりに続きを書いたと推測される。
 そして幻の最終作品発表後、新聞小説の世界から足を洗おうとした漱石に対し、朝日が漱石(夫妻)に最後の国内旅行を押し付けて、その紀行的エッセイを求めることは大いにありうることである。誠実な漱石はそこに『明暗』から最終作品に至るまでの思考的道筋を、読者に分りやすく開示するのではないか。

 さらにこんなものまで、探せばある。

⑥講演3部作(『創作家の態度M41』『道楽と職業M44』『私の個人主義T3』)

 ここに作品名の挙がらなかったもののうち、『一夜』は前述のように『草枕』に、『文鳥』は『永日小品』に組み込んで可であろうが、『夢十夜』の始末に困る。先に『夢十夜』を『三四郎』との兼ね合いで考えるべきと述べたが、『夢十夜』は困ったシロモノである。(漱石も同意見であろう。)しかしここは、

⑦ファンタジィ3部作(『一夜M38』『文鳥M41』『夢十夜M41』)

 として3部作の組み換えを行なう考え方もある。

 『猫』は別格ではないかという意見もあろう。自分で言うのも何だが、我ながらそんな気もする。トスカニーニが(モーツァルトについて)、「ト短調交響曲)だけは別だよ。あれは単に器楽の合奏を超えた、1つの偉大な悲劇だ」( Mortimer.H.Franck による)と言ったように、『猫』だけは別物とする解釈には抗しがたい。『猫』は漱石の3部作の範疇を超えた作品である。否あらゆる国文学の伝統から逸脱した芸術品である。あえて『猫』をこの列に加えるなら、『猫』だけ独立させて、

◎『吾輩は猫である』3部作(『猫』上篇M37・『猫』中篇M38・『猫』下篇M39)

 とすべきであろうか。
 その場合は「処女3部作」は「明治39年3部作」とでも名前を変えて、『坊っちゃん』『草枕』『野分』とし、「試作3部作」は『二百十日』『虞美人草』『坑夫』、「初期短篇3部作」は「心霊現象3部作」という名前にして『琴のそら音』『趣味の遺伝』『夢十夜』とする。(そして繰り返すが『一夜』は『草枕』に、『文鳥』は『永日小品』の一部と見做して構わないのである。)

 いずれにせよ「9階建」が集合施設であることは間違いないのであるから、『猫』(あるいは『坊っちゃん』『草枕』)がそれらと独立した「戸建のマイホーム」なり「別荘」であるとする見方は不自然ではないだろう。(どちらが好きかは別にして)用途が違うというわけである。