明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 8

304.『草枕』幻の最終作品(2)――主人公は芸術家


 『三四郎』以降の新聞小説を3部作のセットとして捉え、そのため『道草』『明暗』に続く「幻の最終作品」が構想されていた筈である、というのが前著(『明暗』に向かって)の主張の1つである。さてその幻の最終作品であるが、漱石の最晩年に使っていた手帳にこんな記述がある。

〇二人して一人の女を思う。一人は消極、sad, noble, shy, religious, 一人は active, social. 後者遂に女を得。前者女を得られて急に淋しさを強く感ずる。居たたまれなくなる。① life の meaning を疑う。②遂に女を口説く。女(実は其人をひそかに愛している事を発見して戦慄しながら)時期後れたるを諭す。男聴かず。生活の真の意義を論ず。女は姦通か。自殺か。男を排斥するかの三方法を有つ。③女自殺すると仮定す。男惘然として自殺せんとして能わず。④僧になる。又還俗す。⑤或所で彼女の夫と会す。(岩波書店漱石全集第20巻『日記・断片下』大正5年断片71B末尾)

 これが自作(次作)の構想であるという保証はないが、則天去私3部作の最終作に関するメモであると仮想しておかしくはない。その根拠は3つ。

 作品のテーマとして臆面もなく未練を追求していること。(①に代表されるメモ全文)

 未練の追求は晩期3部作(『道草』『明暗』『(本作)』)の共通テーマでもある。これまで社会的体面を気にして露骨には示さなかった漱石であるが、もう自分の人生が晩年に差し掛かっている自覚はある。自分の寿命は自分では決められない。これが則天去私の悟りである。漱石の主人公は(作者の手綱を離れて)自分の信ずるままに行動する。
 この場合の未練の対象は、『道草』では養子に出された自身の幼少期における存在意義、と漱石ファンなら考えるであろうが、作品が(明にせよ暗にせよに)直接語っているのは「金」である。『明暗』では「結婚」という社会儀式になる。いずれも対象物自体はある種興醒めなアイテムでもあろう。最終作品における未練の相手も、「女」と言ってしまえばそれまでであるが、「愛」と言っても「初恋」と言っても要は同じことであろう。もちろん漱石の主目的は対象そのものにあるわけではない。

 漱石作品最初で最後のプロポーズが企図されていること。(②)

 シチュエーションは『それから』に似ていないこともない。先に代助は三千代にプロポーズしているではないかと言われそうである。しかし『それから』と決定的に異なるのは、女が自分の意志で(ライヴァルの)男を撰んでいることと、主人公が最初から女を愛していたことである。
「僕の存在には貴女が必要だ」というのは、厳密に言うとプロポーズの言葉ではない。( I love you. ではない。)
「仕方がない、覚悟を決めましょう」というのも許諾の言葉ではない(三千代は love you, too と言っているのではない、と思う)。
 代助も三千代も自分の意思というよりは、漱石の拵えた運命に従っただけという気がする。ひろく言えば始めから則天去私であるが、「私」を(登場人物でなく)作者漱石と解すれば、『それから』は則天去「私」ではない。
 結論だけ言えば、この最終作はいわば『三四郎』『それから』『門』の3部作を「綜合」して「進化」させたような作品になるのではないか。

 『心』に次いで当事者の死が描かれること。(③)

 そもそも漱石作品に人の死はつきものである。死神が登場しない作は皆無である。それが『明暗』の主人公の根強い死亡説に繋がっているが、もしかすると『明暗』が最初で最後の、人の死なない作品になるのかも知れない。現行の小説では、清子の流産と、もう1つ(看護婦が薬を間違えたために患者が死んだとかで)、その看護婦を殴らせろと迫った男の一口話が紹介されているのみである。
 『明暗』の話は置くとしても、中期3部作の最終作『心』で、始めての犠牲者が出た。Kと先生である。晩期3部作の最終作では、漱石作品で始めてヒロインの犠牲者が出ることになる。「始めて」という言葉は『虞美人草』藤尾の手前ふさわしくないかも知れないが、少なくともこの「9階建」においては始めてのことになる。藤尾は邪心の女神である。藤尾は最初から作者が鉄槌を下すべく登場させている。最終作品の女の自死(退場)は、懊悩の果ての自然の選択である。もしかするとそのシーンは、『心』の先生のように、直接には描かれないかも知れない。

 そしてもう1つ探求すべきは主人公の「職業」であろうか。

三四郎』小川三四郎(文科大学生)・野々宮宗八(理学者)
『それから』長井代助(高等遊民
『門』野中宗助(小官吏)

彼岸過迄』田川敬太郎(就職口を探す学士)・須永市蔵(同左もしくは高等遊民予備軍)
『行人』長野二郎(なりたての設計技師)・長野一郎(大学教師)
『心』先生(高等遊民)・私(大学生もしくは学士)

『道草』健三(大学教師/文学者)
『明暗』津田由雄(会社員)

 この流れからいくと、幻の最終作品の主人公は、大学生、高等遊民の可能性は残しながらも、勤め人ではない・・と推測される。なぜならそれは、『門』・『行人』・『明暗』でそれぞれ「使用済」であるから――。
 他の3部作も見てみると、

『猫』苦沙弥(中学英語教師/元高等学校教師か)・寒月(理学者)・迷亭(美学者)
坊っちゃん坊っちゃん(中学数学教師/鉄道技手)
草枕』余(画工)

『琴のそら音』津田真方(心理学者)・余(出仕したての法学士)
『趣味の遺伝』河上浩一(戦死した歩兵中尉)・余(文学者)
二百十日』圭さん・碌さん(不明だが五高教師か)。

『野分』白井道也(中学教師/文学者)・高柳周作(貧しい文学士)
虞美人草』小野清三(文学者)・甲野欽吾(高等遊民
『坑夫』自分(坑夫見習)

 特筆すべきは『草枕』であろうか。主人公に芸術家(職業作家・画家・音楽家)を配した小説は『草枕』を措いて他にない。職業で食えるか食えないかは別として、主人公の(無名の)画工は実質高等遊民文人であり、半分漱石である。つまり他の主人公と変わるところはないと言えなくもないが、それでも文学者(多くは大学に奉職)を標榜する他の多くの主人公と一線を劃すものではある。
 そして当然ながら漱石の主人公の職業といっても、医者や株式仲買人であるべくもないのだから、結局は上に挙げた範疇に収まると見ていい。それで幻の最終作品の主人公の職業については、『草枕』(あるいは『一夜』)のような若い芸術家を、つい考えてしまうが、漱石は最後の最後にずばり小説家(創作家)を持って来るのではないか。④のいったん僧籍に入るということからしても、やはり思想・文章の道を志す者という気がする。少なくとも(教師等の)定職に就く者ではなかろうという気がする。

 それで最後の⑤(或所で彼女の夫と会す)であるが、この運命論的な収束方法については、次回改めて述べてみよう。