明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」草枕篇 6

302.『草枕』降臨する神々(6)――消えろ消えろ束の間のともしび


 そして調子に乗ってもう1つ、『趣味の遺伝』の中にある漱石マクベス論について言及した記念として、論者の生涯で最も記憶に残るマクベスの名が語られた場面を紹介したい。それは堤重久の『太宰治との七年間』という本に書かれたものである。
 堤重久は太宰治の年少の友人(8歳下)として、ファンの間では有名な人物であるが、彼にとって理想の上司たる太宰治は、この(造本ともども)ケレン味のない筑摩書房の『太宰治との七年間』1冊に、ダイヤモンド鉱石のように凝縮されていると言ってよい。今から50年以上前の本であるが、小説家として自立した後の太宰治を描いたものとしては、最も価値あるものの1つであることは異論のないところであろう。

 全文引用したいのはやまやまだが、そうもいかないので本の冒頭からシェイクスピアの語られた部分までを紹介する。

 昭和十五年初冬、午後三時の陽光が飴色に溜った小庭を背景に、太宰さんは真横の黒い影だけになって、部屋の中央に据えた低い机に向って正坐していた。
 私は玄関の、上り框脇の畳に両手をついて、初訪問の挨拶を述べ終ったところであった。後日、太宰さんは、あのときのお前ほどキザなものはなかったぞ、歌舞伎役者の御披露目みたいだったぞ、といったが、私にいわせて貰うと、そのときの私は、緊張と恐懼のあまり裃つけたみたいにしゃちほこ張り、ついキザな言葉も飛びだす仕儀となったのである。
 だが、太宰さんの方は意地が悪かった。私の口上が終っても、黙っている。なにか苦しげにうつむいて、膝などさすっている。沈黙のその人影、私にはひどく恐いものに感じられた。
 心細くなって、どうしたものかと悩みかけたとき、太宰さんが訛りの強い声で、不意に言った。
「君はシェイクスピヤをよんだかね」
 ほっとすると同時に、シェイクスピヤと聞いて、私は興奮した。私は大学文科の学生だった。文豪の名前を聞いただけで、頭に血が昇る年頃だった。
「ハイ、よみました」
「どんなものを?」
「逍遥訳で、全部」
「全部?」
「去年の夏休みに、寝がけに蚊帳の中で、毎晩一冊ずつ、全巻よみ終えました」
 少し落ついてきたためか、私は調子に乗って、
消えろ、消えろ、束の間のともしび。人生は歩いている影に過ぎぬマクベスのセリフですが、御存知ですか?」
知ってる、知ってる!
 太宰さんは、怒ったように叫んだかと思うと、ふわりと腰を浮かせて、外国のピアニストを思わせる長い指で、机の隅に置いてあった、語学の参考書みたいな本を取りあげて、
「『新ハムレット』というものを書こうと思ってね、目下いろいろと御勉強中なんだがね、この、浦口文治というひとの訳注本だが、よく出来た本だと思うんだが、ほら、ここを見たまえ」と、その個所を指差して、
「 fat とかいてある。ハムレットは太っていたとかいてあるんだ。君、知っていたかね?」
「知りませんでした」
「そうだろう」
 太宰さんは、うれしそうに顔を崩しざま、胡坐をかき、火鉢を押して私と向い合った。歯が二、三本欠けていて、そういってはなんだけど、卑しく思われるほどの崩れ方だった。
「僕の一大発見なんだ。ハムレットは、太っていたんだ。君、白くぶよぶよ太ったハムレットなんて、想像出来るかね、アッ、ハ、ハ、ハ――」
 背中を海老のようにまるめ、膝をゆすって笑いだし、私もおかしくてたまらなかったが、なにせ初対面なので、下を向いて控え目にわらった。
「太ったそのハムレットが」と太宰さんは、真顔に戻った。
「汗をかいているのを見て、母親の王妃がハンケチで拭いてやるのさ。くるしいところだねえ。つらいところだよ」
 ほんとうにつらそうに、面長で大振りの顔の眉根を八の字にして、泣きべそのような顔つきになったが、すぐとそれを払いのけるように、上半身をシャンと延ばして、
「シェイクスピヤは、足音が高いのですよ。大股で、ドン、ドン、歩くんだな。ほんとに、ドン、ドン、ドン、ていった感じなんだ」
 太宰さんが便所に立ったので、私は遠慮がちに部屋のなかを眺めまわした。
 郊外の小住宅の、ありふれた六畳間である。隣室との境の鴨居の上に、茶っぽい筆色の、ロダンの裸婦のデッサンが入っている小さな額がある。原稿用紙と万年筆と数冊の本の載った、紫檀まがいの客机がある。床柱の脇に、手製の白いカーテンの下った、みかん箱を改装したみたいな、本箱らしきものが置いてある。それだけである。あとはなんにもない。どう見ても、いわゆる芸術家の部屋ではなかったが、唯ひとつ、浅い半間幅の床の間の壁に、井伏鱒二さんの色紙の詩が表装されてかかっていた。見つめていると、その一字一字が、青空に群れて動くちぎれ雲のように感じられた。
「お前は、自分を美男子だと思っているらしいが、とんでもない見込みちがいだぞ」
 おとなしく控えているものを、太宰さんは部屋に戻ってくるや否や、私に切込んできた。しかも、君が、お前に変っている。御存じですか、が祟ったのかも知れなかった。・・・(堤重久『太宰治との七年間』1969年3月筑摩書房版)


 浦口文治という人は(太宰治の長兄と同じ名前の人だが)、漱石と同時代の英文学者らしい。漱石との接点はとくにないようだ。(漱石英語圏の文学は原書でしか読まないだろうから、当り前と言えば当り前であるが。)
 論者は漱石全集を読んで、漱石の口癖「知ってるか?」に出合うたびに、この太宰治の「知ってる、知ってる」を思い起こす。漱石もまた永く人に向かって、「知らない」というセリフを吐くことの出来ない人だった。
 それはともかく、論者もいつか堤重久みたいに、マクベスのこのあまりにも有名なセリフを、どこかで使ってみたいと思い続けて、いつの間にか半世紀以上経過してしまった。しかしここに挙げた堤重久の本に書かれてあることの一つひとつが、半世紀経った今でも、少しも輝きを失っていないことこそ、驚嘆すべきであろう。

 では最後に(半世紀来の冀望たる)その個所の論者訳を書いてみる。

消えろ消えろ、束の間の燈火。人生はうつろいゆく影に過ぎない。
舞台の上で出番のときだけ、ふんぞり返ったり、しょんぼり肩を落としたり、
やがて誰の口の端にも上らなくなる、惨めな役者。その役者の物語だ。
まるで白痴のおしゃべり。うるさいだけの狂乱物語。
中味は何もないのを御存じか。(『マクベス』第5幕5場)

Out, out, brief candle! Life's but a walking shadow, a poor player
That struts and frets his hour upon the stage
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing. ( MACBETH  Act 5, Scene 5 )

 参考までに逍遥訳も掲げておく(夫人の死を知らされた所から)。

 やがては死なねばならなかったのだ。いつかは一度そういう知らせを聞くべきであった。……明日が来り、明日が去り、又来り又去って、時は小刻みに、忍び足に、記録に残る最後の一分まで経ってしまう。凡て昨日という日は、阿呆共が死んで、土になりに行く道を照らしたのだ。……消えろ消えろ、束の間の燭火! 人生は歩いている影たるに過ぎん。只一時舞台の上で、ぎっくりばったりをやって、やがて最早噂もされなくなる惨めな俳優だ、白痴が話す話だ、騒ぎも意気込みも甚(えら)いが、たわいもないものだ。……(大正5年3月早稲田大学出版部版『マクベス』坪内雄蔵訳)