明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 38

251.『先生と遺書』1日1回(8)――処刑台の日々


第12章 悲劇の朝 (明治33年1月27日土曜~1月28日日曜)(26歳)
     Kの自裁:1月27日土曜

48回 奥さんは2日前に既にKに話をしていた~Kは態度を変えなかったので私は気付かなかった~策略で勝っても人間として負けた~明日にはKに釈明しようか~その晩(土曜の晩)Kは自殺してしまった~「もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました」~私宛の遺書~もっと早く死ぬべきだのに何故今迄生きていたのだろう
49回 私は忽然と冷たくなったKによって暗示された運命の恐ろしさに愕然とした~夜が明け切るのを待つ~下女を起こそうとしたら奥さんが眼を覚まして出てきた~今日は日曜日だ~私は奥さんを部屋へ呼ぶ~Kの自死を告げると私は思わず奥さんに詫まる~Kに対する懺悔の気持ちが、奥さんと御嬢さんに対する謝罪の言葉になった
50回 Kの亡骸を見た奥さんの命じたこと~雨戸を開ける・医者と警察を呼ぶ・誰もKの部屋に入れない~奥さんと私のやったこと~Kの実家へ電報を打つ・Kの部屋の掃除と汚れた蒲団の片付け・Kの死骸を私の部屋へ寝かせる・簡単な祭壇の用意

 Kの自裁が土曜日であると書かれたことにより、悲劇のカレンダーはひとまず確定を見たようである。漱石が日にちの経過を文の前後に並べて書く場合のルールも、前者はあくまで途中経過であり、後者は前者を飲み込んでいると解しうる。
 ここでもう一度前項・前々項の①~⑦を再録する。

Kの告白はまず1月5日金曜あたりであろう。歌留多会のあと2、3日して奥さんたちは出掛けた。その留守にKは私に告白したのである。
Kの告白から2日は経過した。そのうちに3学期が始まった。講義開始は1月10日水曜あたりである。
告白以来沈黙を守るKを上野公園で責めて、「覚悟」という言葉を引き出した日を、仮に最速1月12日金曜とする。
先生が仮病で休んで奥さんに「御嬢さんを下さい」と申し込んだ日は1月22日月曜である。
Kが奥さんから先生と御嬢さんの話を聞いたのは1月25日木曜である。
奥さんが先生を咎めるようにKとのことを話したのは1月27日土曜である。
Kの自裁は1月27日土曜である。

 何度も書くが、これらの曜日や日にちを指定するのは、他ならぬ漱石自身である。ふつうの作家なら、直接小説の筋に影響する場合はともかくとして、曜日のことなんかまず書かないだろう。それが何曜日の出来事であるか、文芸上の主張に何の影響もないと思われるからである。
 しかし漱石は書いた。長年の学生生活・教師生活で、月曜~土曜の時間割表とともに生きて来た漱石は、また日曜日の特別なことも身に沁みて知っていた。漱石の学生教師生活を30年とみれば、作家生活は10年である。正直な漱石は自身の一部となった曜日カレンダーを、あっさり放擲することが出来なかった。
 それでも『三四郎』『それから』『門』と、漱石の書くカレンダーに問題点の多々あることを、論者は本ブログで(頼まれもせぬのに)指摘して来た。明確な書き誤りもいくつか存在するらしい。『彼岸過迄』も、あやふやな箇所は見受けられるようであるが、『行人』では何とか持ち堪えて、『心』は一応破綻は見せない。『心』の均衡は『道草』を経て『明暗』まで、かろうじて堅持されたと見てよく、しかしこれが漱石にとって良かったのかどうかは、何とも言えない。曜日カレンダーの風穴の開いている『三四郎』『それから』『門』の方が面白いと感ずる読者もまた、多いのである。

第13章 それから (明治33年1月30日火曜~大正元年9月27日金曜)(26歳~38歳)

51回 Kの埋葬地に雑司ヶ谷を択んだ訳(50回末尾)~後日譚~Kの自死の理由について~新聞記事は見当外れで却って安心~4月今の家に引越~6月卒業~12月中に結婚~Kの墓碑を建てる~私はKの墓の前に立つ妻を見た~2度と妻と一緒に雑司ヶ谷には行くまい
52回 妻にKの影を見て以来、私は妻に打ち解けない~私は自分の卑怯からKとの経緯を打ち明けない~それは妻の純白の記憶に汚い滲みを残さないためでもある~1年経ってもKの亡霊は消えない~書物を読んで猛烈に勉強したが、目的が嘘である以上うまく行くはずがない
53回 酒に救いを求めたこともあった~初期の目的に戻って書物に打込んでも、成果物を作るわけでもない~妻は何のために本を読むのかと言う~たった一人の妻にさえ理解されない~Kは失恋のために死んだと思っていたが、たった一人で淋しくて仕方がなくなった結果、所決したのではないかと思うようになった~私もKと同じ路をたどっているのか
54回 母(奥さん)の病死~妻は是から世の中で頼りにするものは一人しかなくなったと言う~私は妻を不幸な女だと思う~看護も妻への親切も、私の(人道という)大義から出ている~妻にはそれも不満の種らしい~このころから私の心が、外から襲って来る恐ろしい閃きに応ずるようになった~その恐ろしい影からは逃れようとしても逃れられない
55回 何か事を成し遂げようとしても、恐ろしい力がどこからかやって来てそれを妨害する~自殺が一番自然で楽な道~妻が不憫でとても実行に遷せない~私は妻のために命を引きずって世の中を歩いていた~貴方の卒業のときも私の気分は変わりはなかった~その夏の明治大帝の崩御~明治の精神に生きる者は時代遅れの存在か~では殉死でもしたらよかろう
56回 乃木将軍の殉死~ついに自殺する決心をする~私は妻に血の色を見せないで死ぬ積~その前にこの長い自叙伝の一節を書く~書いて見ると、却って其方が自分を判然描き出す事が出来たような心持がして嬉しい~この手紙は貴方への約束ばかりでなく、半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果の記しである

 Kが亡くなってから、先生の遺書(の書きぶり)はもう目標物を失ったかのようである。おそらく漱石自身が死ぬために生きたことがないからであろう。唯一書いている内容が意味を持つとすれば、結婚後の御嬢さん(妻)の事情である。御嬢さんはもちろん先生に対して、控え目ながら不満が絶えない。こんなはずではなかった。先生夫婦の問題は論評の限りでないが、この問題は次作『道草』から1ヶ所引用すれば事足りよう。まだ書かれていない作品の引用は、本ブログの方針に背くのであるが、論理を構成するための引用ではなく、単なる喩えとしての引用である。

「妾、どんな夫でも構いませんわ、ただ自分に好くして呉れさえすれば」
「泥棒でも構わないのかい」
「ええええ、泥棒だろうが、詐欺師だろうが何でも好いわ。ただ女房を大事にして呉れれば、それで沢山なのよ。いくら偉い男だって、立派な人間だって、宅で不親切じゃ妾にゃ何にもならないんですもの」

 これは戦後の太宰治の引用ではない。その30年前の漱石『道草』(77回)の文章である。これは『心/先生と遺書』54回の、「女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分丈に集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われます」を細君の側から主張し直したものであるが、明治大正昭和を問わず、男女間交際の要諦はこれに尽きよう。(ついでに平成令和でも。)

 妻のことを想って実行に踏み切れなかった先生であるが、結局仕切り板を蹴った直接の理由は、暴論のようであるが、その妻の軽口「では殉死でもしたらよかろう」(55回)ではなかったか。どんなことでも自分で決めることのなかった漱石は、言い方を変えると、どんなつまらない理由でも、理由らしきものがありさえすれば、後先考えずに実行に移す。坊っちゃんはこれを「親譲りの無鉄砲」と(作文に馴れないので)表現した。論者は先に「校長に薦められれば、坊っちゃんは台湾でもニューギニアでも行くだろう」と書いたが、自分に正邪の尻(責任追及)が持ち込まれないことがはっきりした場合、漱石の主人公は安心してどんなことでもするのである。

 Kは自分だけの自由意思で医科でなく文科を選択した。同じく御嬢さんへの恋心を先生に打ち明けた。その罰はご覧の通りである。先生は自分だけの自由意思で、(漱石作品最初で最後の)プロポーズをした。先生の死刑判決はそのとき確定したといっていい。先生はその後12年間生きた。死刑判決が懲役12年に減刑されたのか。いやいや何事にも一理屈も二理屈もある先生は、愚図愚図して実行の決断をただ下しかねていたのである。
 御大葬と乃木将軍が先生の耳に何事かを囁いたわけではない。奥さんの存在故に実行できなかったこと。その奥さんの冗談めかした一言。先生は渡りに舟とばかりに飛びついた。

 義母の死は明治39年、50歳の頃のことであろう。日露戦争の後である。到底癒らないという病気が強く正しい奥さんを襲った。癌であろうか。日清戦争のころ夫を亡くした奥さんは、次の戦争で自分も夫のあとを追った。このとき先生32歳、御嬢さん(先生の妻)27歳。奥さんは夫婦に子供が出来ないことについて、御嬢さんに色々言ったであろうことは想像に難くない。読者もまた、先生夫妻に子供でもあれば、と思わざるを得ない。
 ちなみに書生の私はこのとき高等学校の2年生である。高等学校生徒のうちに私が先生と近づきになったとする意見の人は、先生の家で私が奥さんの母親と出会ったか、あるいはその遺影や位牌を見たかについて、何か感じることがあるのではないか。
 とまれこの頃から先生に死の影が忍び寄ったとすれば、先生は6年かけてその階段を登って行ったことになる。その前の6年期に子供が生まれておれば、と返す返すも思われてならないが、先生たちが仮面夫婦であったとすれば、そんな慨嘆も虚しく響く。

 徳川の遺児たる漱石は、長州人の(伊藤博文だけでなく)乃木将軍の死についても、ある種の感慨を覚えたようであるが、新潟県人たる先生もまたその顰に倣ったのはどういう訳か。しかしそんなことより、それに続く叙述で幸運にも先生は、漱石が創作をする種明かしまでしてくれているように見える。
 先生の遺書が漱石の創作の秘密を語る。それは漱石個人の事情を超えて、普遍的な詩人のつぶやきを思わせるものである。これほど価値のある「遺書」が外にあるだろうか。

 それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないように、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有って生れた性格の相違と云った方が確かも知れません。私は私の出来る限り此不可思議な私というものを、貴方に解らせるように、今迄の叙述で己れを尽した積です。(『先生と遺書』56回)

 私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めは貴方に会って話をする気でいたのですが、書いて見ると、却って其方が自分を判然描き出す事が出来たような心持がして嬉しいのです。私は酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、貴方にとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。・・・私の努力も単に貴方に対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。(『先生と遺書』56回)