明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 37

250.『先生と遺書』1日1回(7)――主人公が決断するとろくなことにならない(つづき)


第11章 最後の決断 (明治33年1月13日土曜~1月27日土曜)(26歳)
     先生の求婚:1月22日月曜

44回 私は「覚悟」という言葉を、Kの御嬢さんに対する恋の覚悟と取った~Kに先んじてKの知らない間に事を運ぶ必要がある~2日も3日もチャンスを伺うが、好い機会がない~1週間後とうとう仮病で講義を休む~奥さんにKが近頃何か言わなかったか尋ねる~「何を?貴方には何か仰しゃったんですか」
45回 私はKは何も言っていないと嘘を吐く~「奥さん、御嬢さんを私に下さい」「下さい、是非下さい」~事はあっさり片付く~私は部屋にいたたまれず外出する~御嬢さんに行き合う~「今御帰り。ええ癒りました、癒りました」
46回 私は街を歩き廻る~帰宅してKを見た瞬間、私はKに手を突いて詫まりたくなった~しかし私はそれが出来なかった~夕食時御嬢さんは食卓に現われなかった~大方極りが悪いのだろう
47回 そのまま2、3日過ごす~どうしてもKに打ち明けられない~奥さん御嬢さんの態度の変化は却って私を苦しませる~奥さんに申し込みをして5、6日経った~「道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。貴方もよくないじゃありませんか、平生あんなに親しくしている間柄だのに」~Kは落付いた驚きをもって奥さんの言葉を聞いたらしい~「御目出とう御座います」「結婚は何時ですか」「何か御祝を上げたいが、私は金がないから上げる事が出来ません」

 私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐ其声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。私は黙って機会を覘っていました。しかし二日経っても三日経っても、私はそれを捕まえる事が出来ません。私はKのいない時、又御嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。然し片方がいなければ、片方が邪魔をするといった風の日ばかり続いて、何うしても「今だ」と思う好都合が出て来て呉れないのです。私はいらいらしました。
 一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって仮病を遣いました。奥さんからも御嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事をしただけで、十時頃まで蒲団を被って寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の内がひっそり静まった頃を見計らって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐ何処が悪いかと尋ねました。・・・(『先生と遺書』44回)

 この章の起点は1月13日土曜ないしは1月14日日曜である。先生はKの「覚悟」を御嬢さんに突き進む覚悟と「誤解」して、奥さんに一刻も早く自分の意志を伝えようとする。
 44回の「2日経っても3日経っても」と「1週間の後」の記述が、カレンダーとして重なるのか重ならないのかは、判定に迷う。2、3日経ってから、さらに1週間後と読めば、先生の求婚の日は1月22日月曜~1月24日水曜あたりとなる。いらいらする2、3日を含めて1週間後と解釈するのであれば、求婚の日は1月20日土曜~1月22日月曜のいずれかであろう。仮病で学校を休んだからには、その日が日曜日でないことだけは慥かであるが。
 ここでは「1週間後」は「2、3日」を含んでいると解釈して、先生の求婚の日を1月22日月曜とする。③の覚悟の日を1月15日月曜以降に設定するのであれば、求婚の日もまた2、3日後ろへずれる。

先生が仮病で休んで奥さんに「御嬢さんを下さい」と申し込んだ日は1月22日月曜である。

 私は其儘二三日過ごしました。其二三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのは云う迄もありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。其上奥さんの調子や、御嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟するのですから、私は猶辛かったのです。何処か男らしい気性を具えた奥さんは、何時私の事を食卓でKに素ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対する御嬢さんの挙止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言出来ません。私は何とかして、私と此家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。然し倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。(『先生と遺書』47回冒頭)

 五六日経った後、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。すると何故話さないのかと、奥さんが私を詰るのです。私は此問の前に固くなりました。其時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
「道理で妾が話したら変な顔をしていましたよ。貴方もよくないじゃありませんか。平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」(同47回)

 47回の「2、3日過ごした」と「5、6日経った後」もまた、カレンダー作成としては難しいところである。44回同様、「2、3日」を「5、6日」に含まれると解釈すると、先生が奥さんから衝撃的な事実を告げられた日は、求婚の日1月22日月曜から5、6日経った、1月27日土曜ということになる。日にちはともかく、この日が土曜であることは、次回(48回)にはっきり書かれている。Kはこの土曜の夜に自殺してしまうのである。

Kが奥さんから先生と御嬢さんの話を聞いたのは1月25日木曜である。
奥さんが先生を咎めるようにKとのことを話したのは1月27日土曜である。
Kの自裁は1月27日土曜である。

 ⑤については、48回冒頭の次の記述で明らかである。先生はのっぴきならぬ状況に追い込まれる。先生は一刻も早くKに釈明をせねばならない。しかし相変わらず愚図愚図の先生は、今回もまた間に合わなかった。

 勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。其間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遥かに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私は其時さぞKが軽蔑している事だろうと思って、一人で顔を赧らめました。然し今更Kの前に出て、恥を掻かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。(『先生と遺書』48回冒頭)

 話を47回に戻して、前著でも取り上げたが、奥さんから意外の事実を聞かされたときのKの、驚きを抑えた後の、「何か御祝を上げたいが、私は金がないから上げる事が出来ません」という言葉ほど切ない言葉を、論者は漱石の中で読んだことがない。先生も義理堅く「胸が塞がるような苦しさを覚えました」とは書いているが・・・。
 Kの死も先生の死も、考えようによっては喜劇と解せなくもない。(先生は後に「頓死」という言葉さえ使っている。)『心』は(『心』に限らないが)ひたすら悲劇に邁進するだけの小説ではない。しかし『先生と遺書』47回末尾のこのくだりだけは、どのように読んでも悲劇以外の何物でもないだろう。この真の悲哀を味わったKに対しては、何人も同情の念を禁じ得ない。