明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 34

247.『先生と遺書』1日1回(4)――日本で最も有名な頭文字の人物「K」


第5章 Kの生い立ち (明治27年~明治31年)(20歳~24歳)

19回 幼友達K登場~真宗寺から医者の養家へ~先生とKは東京へ出て高等学校へ~同じ室で寝起きして将来を語り合う~Kの生きる目当ては「精進」
20回 Kは最初から養家の方針たる医科を目指さない~3度の夏休みとは~3度目の夏休みの後大学入学へ
21回 養父と実家の激怒~援助打切りと夜学校の教師アルバイト~復籍と学費の弁償~勘当
22回 Kの継母と姉とその夫~私はKの面倒を見るつもり~大学入学から1年半にわたる独力生活でKの健康は害されていた~Kの生きる目当ては「意志の力を養って強い人間になること」

 私は其友達の名を此所にKと呼んで置きます。私はこのKと小供の時からの仲好でした。・・・
 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。然し次男を東京へ修業に出す程の余力があったか何うか知りません。又修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏まったものか何うか、其所も私には分りません。兎に角Kは医者の家へ養子に行ったのです。それは私達がまだ中学にいる時の事でした。私は教場で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
 Kの養子先も可なりな財産家でした。Kは其所から学資を貰って東京へ出て来たのです。・・・(『先生と遺書』19回)

 Kは姓でなく名前である。まず金之助のことであろうと読者は思う。あるいは小六(『門』の)と思うかも知れない。彼らの共通点は学資に苦労することである。『彼岸過迄』の田川敬太郎もまたKであるが、彼は仕送りを受けて学資には困っていないように見えるものの、就職に焦っているようにも書かれ、それらも含めて彼の属性・環境は具体的には一切書かれない。こんなことは漱石の小説としては空前絶後のことであるが、もしかすると『彼岸過迄』の人気が今一つ上がらないのは、ここに原因があるのかも知れない。漱石は知ってか知らでか次作『道草』の自伝的主人公の名を健三とした。健三もまた金銭問題に苛まれるイニシャルKである。
 Kの苦しい学生時代は一部漱石そのままであり、養家との絶縁、実家への復籍・弁償、「その代わり後は構わない」という、漱石の人生最大の屈辱を、さらりとなぞっている。(漱石としてはこれでは書き足りなかったのだろう、この問題は『道草』で改めて掘り下げられた。)

 ・・・私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果もありませんでした。私の手紙は一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。私も腹が立ちました。今迄も行掛り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。(同21回)

 私はKと同じような返事を彼の義兄宛で出しました。其中に、万一の場合には私が何うでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。是は固より私の一存でした。Kの行先を心配する此姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を軽蔑したとより外に取りようのない彼の実家や養家に対する意地もあったのです。(同22回)

 一族のトラブルに他人が口を挟もうとしても何の役にも立たない。それでも先生は自分の書いた手紙に返事がなかったと言って腹を立てている。軽蔑されたから許さないとまで言っているのである。漱石が律儀に手紙の返事を書いていたわけである。
 真面目に書いた手紙には必ず返信するものである。これは漱石の(正しい)生き方である。ところがその先生は、私の手紙になかなか返事をくれなかった。漱石の小説として、ふつうではありえない設定である。漱石は先生の近未来(悲劇)を決めていたがゆえに、先生にこんな態度を取らせたとも言えよう。あるいは小なる不義理を統合して、いきなり巨大な「返信」として、先生の遺書を出現させる、その劇場的な効果を狙ったとも言える。

 Kはまた母のない男であった(21回)。継母はいるものの、姉の方に母の面影を見て慕っていた。先生も本来漱石度合いは高い人物であるが、『先生と遺書』ではKの方が漱石に近く、先生は一部狂言回しのような役割さえ担うようである。
 その先生がKに同情する。
 三四郎が野々宮に同情する。敬太郎が市蔵に同情する。二郎が三沢に同情する。いずれも考えられないシチュエーションであろう。先生だけがKに同情したのである。自分で自分に同情する。これ以上の悲劇があるだろうか。
 悲劇と喜劇の混在しているのが漱石の作品世界であるが、そのいずれも漱石の(オリジナルな)頭の中から捻り出されたものと言えよう。しかし喜劇についてはともかく、悲劇についてはその根源は漱石自身の幼い頃・若い頃の実体験にある。その意味で『心』の真の悲劇は、主人公たちの自死ではなく、置かれた境遇の方であろう。その気の毒な境遇の仕上げとなったのが、一人の若い女性の存在であった。物語は否応なしに中盤に突き進む。

第6章 Kとの同居の日々 (明治32年2月頃~春~夏)(25歳)

23回 Kの引越~私はKを1年半に及ぶ苦しい生活から救い上げる気持~Kは神経衰弱気味でさほど感興を表さない~Kは窮屈な4畳に1人で寝起きする方を選ぶ
24回 Kは我慢と忍耐の区別を了解していない~先生は猜疑心の塊りだったのが奥さんたちとの生活で改善された~同じようにKにも雪溶けを期待した
25回 火鉢事件~取り付き把のない人~私は奥さん御嬢さんにKと話をするよう依頼する~それは少しずつ成功しているようである~私は御嬢さんに夢中になっている頃だったので世の中には男と女がいることをKに説く~Kも納得する~しかし私はKには打ち明けなかった
26回 Kの部屋でのKと御嬢さん同席事件
27回 2度目のKと御嬢さん同席事件~御嬢さんは先生を変な人と言って奥さんに窘められる~2年次の年度末試験~もうあと1年だ~御嬢さんの卒業も間近

 Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃になる迄、約一年半の間、彼は独力で己れを支えて行ったのです。所が此過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。・・・(『先生と遺書』22回)

 Kの同居は2年生の半分が過ぎたころ、明治32年の1月か2月頃のことであったと推測される。
 Kが経済的に先生の世話になっているにもかかわらず、ぼんやりしているというのは、神経衰弱であったとはいえ、漱石丸出しの不可解さである。もしかすると漱石にもこんな(誰かに学資の負担をさせておいて、その自覚がまったくないという)一時期があったのであろうか。

 24回で「我慢と忍耐の区別を了解していない」と書かれるが、一般的には我慢は何物も生まず、忍耐は何か目的なり成果物を前提とした、有意なものとして捉えられよう。Kにはその区別がつかないという。何もせずじっと我慢していれば、そのうち慣れて問題自体が消滅する。先生は(世間と同じく)これを否定的に捉えるが、本当にそうか。漱石は(Kと同様)我慢と忍耐の差異に、それほど効用の違いを認めていなかったのではないか。

 25回の火鉢事件では、「春の事」と書かれるから、暦は3月に進んでいよう。

 ある日私は神田に用があって、帰りが何時もよりずっと後れました。私は急ぎ足に門前迄来て、格子をがらりと開けました。それと同時に、私は御嬢さんの声を聞いたのです。声は慥かにKの室から出たと思いました。玄関から真直に行けば、茶の間、御嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という間取なのですから、何処で誰の声がした位は、久しく厄介になっている私には能く分るのです。・・・(『先生と遺書』26回)

「それを左へ折れると」の「それを」が、格子をがらりと開けた先生が今立っている玄関を指すことは、本ブログ第6項『心』最大の謎――禁断の茶の間
漱石「最後の挨拶」心篇 6 - 明石吟平の漱石ブログ

で述べているので、そちらを参照いただくとして、上記引用部分の記述から、先生の下宿は、

・玄関の間(2畳~4畳か――Kの事件で記述あり)
・茶の間(奥さんの部屋)(6畳)
・御嬢さんの部屋(6畳)
・Kの室(4畳)
・先生の室(8畳)
 あとは(小説には書かれないが)台所、下女部屋、便所。

 これだけである。御嬢さんの声がどこから聞えたか、先生にはよく分かったのであるから、それが台所・下女部屋・便所でない以上、この家に他の部屋はない。ついでにいえば風呂の設置もありえない。明治32年頃、日清と日露の中間、まず暮しには困らなくても、下女が1人だけ、富豪ではない奥さん御嬢さんの家に、まだ電灯も通っていないのに風呂場があるはずがない。(御嬢さんと結婚して移り住んだ、先生の新しい家には後から取り付けられたかも知れないが。)
 漱石の小説に内風呂が書かれるのは大正になってから、『行人』のわりと裕福な長野家だけである。

 そしてKが(先生の目論見通り)御嬢さんと気安くなるにつれて、先生の不安はいや増し、学年末試験も済んでいよいよ卒業まであと1年である。1年前の夏休み、Kは明らかに(漱石のある年のように金がないので)ひと夏蟄居していた。先生は金はあるものの、おそらくどこへも出掛けなかったのであろう。2年前の夏休みは先生にとって故郷を捨てた大変な夏であった。Kもまた先生にバツを合わせるように、高等学校卒業と同時に養家へ対して(しなくてもいいい)告白をして、無一文になってしまった。
 似た者同士のような先生とKであるが、金銭面からは天と地の差がある。これはちょうど『それから』の代助と三千代を思わせる。代助と三千代は金を失っても互いの愛を選んだ。その経緯は『門』に描かれる。『門』でこの2人がハッピーエンドに終わることが分かる。先生はKとの友情(愛)を繋げなかった。金は残ったが、まずKが逝き、そして先生も遺書を書いた。代助が三千代を救おうとしてそれに失敗したらどうなったか。『心』によると、まず三千代が亡くなり、代助は何不自由なく高等遊民の生活を送るが、ある日突然その権利を自ら放棄するのであろう。
 余計なことだが、代助がそれを決心するのはいつの時であろうか。父はとくに死に、兄も若死にするのではないか。嫂も呆けてしまった。甥の誠太郎が成人して嫁を迎え、家督相続する。代助は邪魔者以外の何者でもない。代助はそれを見越して早くからこんな述懐をしている。

 誠太郎は此春から中学校へ行き出した。すると急に脊丈が延びて来る様に思われた。もう一二年すると声が変る。それから先何んな径路を取って、生長するか分らないが、到底人間として、生存する為には、人間から嫌われると云う運命に到着するに違ない。其時、彼は穏やかに人の目に着かない服装(なり)をして、乞食の如く、何物をか求めつつ、人の市をうろついて歩くだろう。(『それから』11ノ1回)

 代助は誠太郎の未来にかこつけて、自分の行く末を占なっている。その答えは早くも次の作品『門』で明らかになったようにも見えたが、5年後『心』でもう一つの解が示されたのである。漱石のようなエリートにとって、「乞食のように人の市をうろつく」というのは、生きているうちに入らないからである。