明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 39

252.『先生と遺書』1日1回(9)――最後の小旅行


 さて以前に述べた、『心』の小旅行のうち、先生とKの房総旅行、先生と私の郊外ハイキングに続く、先生の最後の道行きであるが、先に論者は、本項第30項《『両親と私』1日1回(5)――最後の日々》で、先生の遺書を読んで先生の家に駆け付けた私の手記の続篇と、先生が富士の樹海に入って行ったという後日譚を提起してみた。
漱石「最後の挨拶」心篇 30 - 明石吟平の漱石ブログ

 もとよりそれは漱石とは無関係の戯れ言であるが、先に述べたこれらのろくでもない小旅行の話の前に、そもそも漱石作品には、より大きな旅行(移動)もまた、常に用意されてあると言ってよい。この「大旅行」は悲劇とも喜劇ともつかぬ、無限の広がりをもつ漱石の世界への入口に読者を導く。
 『三四郎』では物語冒頭、九州から山陽線東海道線の旅が描かれる。『それから』では物語の始まる前に、早くも東京と大阪を往復していた平岡夫妻。真ん中にはご苦労にも神戸から見合いに上京する佐川の令嬢も。『門』は一々挙げきれないほど宗助たちが西日本を行き交っている。安井の蒙古と東京往復さえ飛び出す。
 『彼岸過迄』は森本の大連行きに始まり、市蔵の関西卒業旅行で終る。2つの旅行で物語の両端を押えている。『行人』もまた(タイトルからして)旅の小説である。登場人物ほぼ全員の関西旅行。(関西に移住してしまった人たちさえいる。)その最終話『塵労』の沼津・修善寺・小田原・箱根・鎌倉旅行をどう見るか。ろくでもない小旅行の集積のようでもあり、その巨大な悲喜劇から、1つの大旅行のようでもある。そして『心』の大旅行とは、先生とKの大時代的な新潟-東京の移動、および頻繁に往復する私の帰省旅であろう。
 次の『道草』は洋行という極め付きの「大旅行」が登場する。それはここに列挙した大旅行の中で、最もそっけなく扱われている(というよりほとんど扱われていない)。熊本と思しき土地も同様である。大旅行も小旅行も、旅そのものが漱石にとっては「道草」であったのか。『明暗』の大旅行は少し変則で、津田とお延のそれぞれの大阪から東京への移住が、物語の開始前から舞台の真ん中に居座っている。これにご丁寧にも津田の父親の家の全国行脚が添えられているが、もう一方の雄小林の朝鮮行きについては、惜しいことに結果が書かれずに了まった。

 『二百十日』『野分』『虞美人草』『坑夫』についてはもう言うまい。『琴の空音』『趣味の遺伝』も省略する。戦地と日本。おまけに霊魂まで飛び交う「大旅行」ではあるが、もうきりがない。
 『坊っちゃん』の東京-松山往復は、その地に対する坊っちゃんの言い草を見れば、その大旅行がどのような結果をもたらしたか、容易に想像がつく。語り口の軽妙さに気を取られて、坊っちゃんの厳しい評価を見落としてはいけない。
 『草枕』もまた、主人公が東京からはるばる九州を旅しているのであれば、紛れもない大旅行であるが、読んだ感じは小旅行である。このとき漱石が熊本に居住していたから言うわけではない。不思議なことに作品自体がそういう感じを与えるのである。作者は(あるいは話者は)日本の西の果てにいて、深く世の中に絶望しているが、それでも一筋の詩情を見出すべく休暇中に旅を続ける。悲劇にして喜劇。それが旅に packaging されている。まさに漱石がもろに露出した小説であろうか。晩年の漱石が『草枕』を鬱陶しがったのも無理ならぬことである。漱石は「剥き出しのガラガラ」した自分を見たくなかったのである。
 では大トリたる『猫』はどうか。鰹節付きのヴァイオリンケースと共に郷里を往復した水島寒月か。それだけではちと弱い。寒月は主人物ではあるが、小説の主人公ではない。山の芋の土産を唐津から持って来た多々良三平も同じである。この実業家の卵は寒月の代わりに金田富子嬢を娶り(自称)、持参のビールで吾輩の頓死の原因を創った、いわば物語の敵役で、そのため山の芋も泥棒に食われてしまったのだが、所詮脇役である。ここはやはり吾輩の出番であろう。吾輩(斑猫)の「出生」という大旅行がすべての始まりである。親猫に生み捨てられたにせよ、飼主に引き剝がされたにせよ、どこかの物置小屋の片隅でこの世に生を受け、ニャーニャー鳴いていた吾輩が、それ(ノラ猫の出生からどこかの家で飼われるという稀有の大旅行)によって、この神曲の詠い手となったのである。

 そうして先に書かれた(『心』の)先生の最後の小旅行については、読者の数だけのバージョンが想定されよう。ここでは改めて先生の血は直接見せないものの、先生の遺骸だけは奥さんにしっかり見てもらうというやり方を提示したい。そしてこれがポイントだが、先生の自殺したことを奥さんに悟られないようにするということに、最大の眼目が置かれている。

もうひとつの10月1日(火)

 午後、新橋の駅に着いた私は、電車でまっすぐ先生の家に駆け付ける。
 私は汽車の中で考えた。先生の家では奥さんがすでに先生の亡骸を前にして、泣き崩れているのであろうか。葬儀の準備さえ始まっているのだろうか。あるいはまだ、いなくなった先生を求めておろおろしている最中だろうか。それともまだ何も知らずに市ヶ谷の叔母さんの家に行ったままか。そもそも先生はどのように自裁されるのだろうか。遺骸は見つかるのだろうか。奥さんは先生の死を知ることが出来るのだろうか。
 どちらにしてもこの先生の手紙は奥さんに見せられないばかりでなく、分厚い手紙のことを取られてもいけない。先生の書く奥さん宛の遺書はどのようなものだろうか。それは他人の容喙すべきことでない。そこに先生の心情がどのように語られるにせよ語られないにせよ、先生と奥さんの真実である。私はただ奥さんと共に途方に暮れるしかない。そのときは私もまた先生から簡単な手紙を受取ったと、奥さんに告げても差し支えないだろうか。そんなことは奥さんにとっても、もうどうでもいいことであろうが。

 しかし先生が奥さんに遺書を書かなかったとしたら、奥さんが何も知らなかったとしたら、あるいは事情の分からない奥さんが、先生の遺体を前にただ泣いていたとしたら――そのとき私は奥さんに何と言えばいいのだろう。私はなぜのこのこ上京して顔を出したのか。先生が私を呼んだのか。先生は何と言って私を呼び寄せたのか。
 いずれにせよ私は、慌てて先生の家に駆け付けるところを、人に見せてはいけないのである。私はいつものように、(私の都合で)上京したことにしなければいけない。口を求めてまた東京に舞い戻った。口のためにどうしても訪問しなければならない先がある。父の危篤はいったん黙っておればよい。先生がこの世にいない以上、誰も私の下宿を尋ねる者はないだろう。私はとにかく現状と先生の安否を確認して、それからすぐ郷里へ戻ろう。先生の葬儀が行なわれるときは――それでも私は郷里へ帰らねばならない。

 半分予期に反して、半分は思った通り、先生の家の門はいつもと変わらず静まり返っていた。玄関の格子戸は錠はされてなかった。案内を乞うと、1、2度顔を見たことがある留守番のお婆さんが顔を出した。その(五十恰好の切下の)お婆さんは私が何も言わない先から、先生は旅行に出ている旨を告げた。私は先生の行き先を尋ねてみた。お婆さんは知らないと正直に答えた。奥さんは知っているのだろうか。しばらく玄関で押し問答をしていたが、お婆さんはいったん奥に引っ込んで、裏の勝手口か台所の辺で下女と何か言葉を交わしている。下女も先生の行き先のことは何も知らされていないようだ。
 いつもの留守番を頼むのであれば、奥さんからそのお婆さんに話が行くはずであり、当然に奥さんは先生の遠出(旅行)について知っているはずである。ところが案の定というべきか、お婆さんは2日前に先生の家に来たのだが、奥さんとはまだ一度も顔を合わせていないと言う。お婆さんの(馬場下にある)家には、先生が直接頼みに来たというのである。
 お婆さんは、奥さんが手伝いに行っている市ヶ谷の家は、自身の縁戚関係もあり、よく知っていた。奥さんが手伝いに駆り出された経緯も心得ていた。先生の行き先は奥さんが知っている筈だと主張する。当然であろう。奥さんは先生の旅に出たことだけは知っているかも知れない。何よりもまず、私は奥さんに会わなければならない。しかし奥さんを呼びにやることは出来ない。そんなことをすれば先生のこと、先生の手紙のことが露見してしまうやも知れぬ。私は意を決して(お婆さんに市ヶ谷の親戚の場所を聞いて)、俥でこちらから奥さんのいる家へ行くことにした。

 いつもと変わらない奥さんの顔を3ヶ月ぶりに見たとたん、私は用意していた口上をすべて忘れてしまい、へどもどしながら要領を得ないことばかりしゃべった。でも何とか立て直して、いつものように上京して家を訪ねたら、先生が旅行に出ていると聞いたので、奥さんにも久しぶりの挨拶がてら、先生の行き先を聞いてみようかと思い、迷惑を顧みずお邪魔したと、半分嘘を混えて奥さんに伝えた。
 奥さんは私の真面目なことをよく識っている。私がまんざら出鱈目を言っているとも思えない。奥さんは先生が家を空けたことも、いつものお婆さんが留守を頼まれたことも、知らなかった。この前荷物を取りに家に帰ったときにも、先生が旅行に行くような素振りは見られなかった。却って私の父親のその後の具合を尋ねるなどして、私をまごつかせた。
 奥さんは不思議そうな顔をしていたが、でもとにかく場合が場合だから、一人で退屈になって、急にどこかへ行ってみたくなったのだろう。ああ見えて先生は案外お尻は軽い。先生はついと思い立って出掛けたのではないか。じきに帰って来るから心配いらない。

 私は黙って引き下がるしかなかった。今回の上京はある就職口のためで、父親の容態も容態だからすぐ田舎へ引き返さなければならない。またこの次に上京したらお邪魔する。先生にはそのときにまたお目にかかる、と再び半分嘘をついて奥さんと別れた。
 手紙(遺書)の内容はまだ脳裏にはっきりと焼き付いている。
 まったく先生はどこへ行ってしまったのか。先生はどのような手段で自殺したのだろうか。
 先生は奥さんに血を見せないと言っていた。どこかで頓死したと思わせたいとも書かれてあった。であれば探して見つかるものでもないのかも知れない。どこか絶対に死体の上がらない所を選んだのか。
 昨夜から何も食していない。ほとんど寝てもいない。このまま下宿へ戻ろうかとも思うが、兄の私を呼ぶ大きな声が耳に蘇った。父はどうなったのだろうか。まだ生きているのだろうか。先生もまた、まだどこかで生きているのだろうか。私は停留所の近くの飯を食わせる店で味のしない食事をして、先生の手紙を袂に入れたまま、その夜の汽車でまた郷里に引き返す。私は車中で眠い眼をこすりながら、ともかくも先生の遺書をもう一遍読み通した。先生はもう、この世にはいない――。