明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 30

243.『両親と私』1日1回(5)――最後の日々


 ここで改めて明治天皇御病気以降の、私と先生のカレンダーをまとめてみたい。
 前述したように、兄の郷里滞在期間を短縮するため、出来るだけ前倒ししたカレンダーを心掛けた。(『両親と私』の)掲載回も付記するが、『先生と遺書』の場合はそれを特記する。

私と先生のカレンダー

明治45年/大正元年 (先生38歳・奥さん33歳・私27歳)

7月20日(土)陛下御病気。(4回)
7月中旬    先生へ第1の手紙(近況報告)。(4回)
7月30日(火)明治天皇崩御。(5回)
8月中旬    先生へ第2の手紙(就職依頼)。(7回)
9月3日(火) 父風呂場で倒れる。(9回)
9月5日(木) 上京予定日(中止)。(9回)
9月8日(日) 兄と妹へ電報を打つ。(10回)
9月10日(火)兄九州を発つ。(12回)
9月11日(水)兄帰宅。(12回)
9月13日(金)御大葬。(12回)
9月13日(金)夜、乃木将軍殉死。(12回)
9月14日(土)号外。先生「殉死だ殉死だ」(『先生と遺書』56回)
9月14日(土)新聞。父「大変だ大変だ」(12回)
9月15日(日)先生の決心。(『先生と遺書』56回)
9月15日(日)先生第1の電報(ちょっと会いたし)。(12回)
9月15日(日)先生は私に会って先生の過去を話したかった。(『先生と遺書』1回)
9月15日(日)私の返電(今は行かれない)。(12回)
9月15日(日)先生へ第3の手紙投函(父の病状)。(13回)
9月16日(月)先生の悩みと決断。(推定)
9月17日(火)先生へ第3の手紙到着。(『先生と遺書』1回)
9月17日(火)先生は私の手紙に返事を書こうかと思うがやめる。(『先生と遺書』1回)
9月17日(火)先生第2の電報(来ないでもよろしい)。(13回)
9月17日(火)先生は私への手紙(遺書)を書き始める。(『先生と遺書』1回~3回)
9月18日(水)奥さんを市ヶ谷の叔母の長期看護に出す。(『先生と遺書』56回)
9月中旬~下旬 先生は遺書を書き進める。時々奥さんが帰って来るとそれを隠す。『先生と遺書』56回)
9月27日(金)先生は私への手紙(遺書)を書き上げる。(『先生と遺書』56回)
9月28日(土)先生郵便局で投函(書留及び重量料金確認のため)。
9月29日(日)先生決行か(遅くとも翌日までには)。
9月30日(月)父危篤。先生からの書留便到着。(16回)
9月30日(月)手紙は先生の遺書だった。私は東京行の夜行列車に・・。(18回)

 以上で『心』の物語の暦は終わるが、以下は大して想像力を要しない論者の推測である。

10月1日(火)

 午後、新橋の駅に着いた私は、電車でまっすぐ先生の家に駆け付ける。半分予期に反して、半分は思った通り、先生の家の門はいつもと変わらず静まり返っていた。玄関の格子戸は錠はされてなかった。大声で案内を乞うと、1、2度顔を見たことがある留守番のお婆さんが顔を出した。私はその(五十恰好の切下の)お婆さんが何も言わない先から、先生の行き先を尋ねた。お婆さんはびっくりした顔で、知らないと正直に答えた。しばらく玄関で押し問答をしていたが、お婆さんはいったん奥に引っ込んで、裏の勝手口か台所の辺で下女と何か言葉を交わしている。下女も先生の行き先のことは何も知らされていないようだ。
 私は念のためお婆さんに、奥さんから何か先生の話を聞いていないかと、わざと尋ねてみた。いつもの留守番を頼むのであれば、奥さんからそのお婆さんに話が行くはずであり、当然に奥さんは先生の遠出(旅行)について知っているはずである。ところが案の定というべきか、お婆さんは2日前に先生の家に来たのだが、奥さんとはまだ一度も顔を合わせていないと言う。お婆さんの(馬場下にあるという)家には、先生が直接頼みに来たというのである。
 お婆さんは、奥さんが手伝いに行っている市ヶ谷の家は、自身の縁戚関係もあり、よく知っていた。奥さんが手伝いに駆り出された経緯も心得ていた。先生の行き先は奥さんが知っている筈だと主張する。当り前であろう。私は反論するわけにはいかない。しかしそれよりもまず、奥さんに会わなければいけない。私は市ヶ谷にすぐ俥夫を走らせる。

 訝しそうな顔をして帰って来た奥さんを3ヶ月ぶりに見たとたん、私は頭の中が混乱して何をどうしゃべったらいいのか分からなくなってしまった。私は座敷で奥さんと差向いになる。一応順を追って報告しようとするが、残念ながらちっとも要領を得ない。奥さんは私の言うことを信じない。
 奥さんは先生が家を空けたことも、いつものお婆さんが留守を頼まれたことも、当然ながら知らなかった。この前家に帰ったときにも、先生が旅行に行くような様子は見られなかった。お婆さんは奥さんにも私に言ったことを繰返した。先生から、ただ4、5日出掛けて来るとしか言われていないと。下女も同じことを繰返すばかりだった。
 私は先生の手紙を見せるわけにはいかないので、それ以上何も言うことが出来なくなってしまった。却って私の父親のその後の具合を聞かれなどして、私の方がへどもどしたくらいである。
 奥さんは(尤もながら)私になぜ先生が死んだと主張するのか問い糺す。私はただ、これから自殺するという短い手紙を貰ったから、驚いて駆け付けたと、辺りを憚りながら半分嘘を言う。奥さんはその手紙を見せてくれと言う。私は袂の中に納まっている先生の遺書を気にしながら、苦しい言い訳をせざるを得ない。それは置いて来てしまったので、見せたくても見せられない、と。
 奥さんは私の真面目なことをよく識っている。私がまんざら出鱈目を言っているとも思えない。先生は本当に死んでしまったのか。

 奥さんに思い当たる節は無いと言う。最近変わったことは何もない。殉死のことも、奥さんはまったく気に掛けていなかった。慥かに先々週から叔母の看病に行ってはいるのだが、それは叔母が急に具合が悪くなったものだから仕方がない。加えて叔母の家には世話も必要な年寄りがいる。先生の特にたくらんだことなんかではない。ちょいちょい荷物を取りに戻ったときなんかも、先生に変わった様子はなかった。
 ただ奥さんは自分の知らないうちに、先生が泊りがけの旅行に行ってしまったことなどは、これまでになかったことであり、不思議な気がする。でも場合が場合だから、一人で退屈になって、急にどこかへ行ってみたくなったのではないか。ああ見えて先生は案外お尻は軽いのである。先生はついと思い立って出掛けたのだろう。心配いらない、じきに帰って来る。
 そんなんじゃない。私はいらいらする。まったく先生はどこに消えてしまったのか。先生の行き先は華厳の滝か、房総か伊豆あたりの断崖か、それともどこかの山の奥深くか・・。私はそれとなく押入や納戸を下女に開けさせることさえ試みたくらいである。
 まさか狂言とも思えないが、先生の失踪したらしい痕跡がどこにも見られないので、駐在に届けるわけにもいかない。奥さんはただ困惑するばかりである。私は却って迷惑をかけたことを詫びつつ先生の宅を出る。

 先生の手紙(遺書)の内容はまだ脳裏にはっきりと焼き付いている。
 先生はどのような手段で自殺したのだろうか。
 先生は奥さんに血を見せないと言っていた。どこかで頓死したと思わせたいとも書かれてあった。であれば探して見つかるものでもないのかも知れない。どこか絶対に死体の上がらない所を選んだのか。
 昨夜から何も食していない。ほとんど寝てもいない。このまま下宿へ戻ろうかとも思うが、兄の私を呼ぶ大きな声が耳に蘇った。父はどうなったのだろうか。まだ生きているのだろうか。先生もまた、まだどこかで生きているのだろうか。私は停留所の近くの飯を食わせる店で味のしない食事をして、先生の手紙を袂に入れたまま、その夜の汽車でまた郷里に引き返す。私は車中で眠い眼をこすりながら、ともかくも先生の遺書をもう一遍読み通した。先生はもう、この世にはいない――。

10月2日(水)

 日が一番高くなった頃、家に向かう俥の中からもう、実家の葬儀の幟は見えていた。
 家の中はざわざわ人が行き交っていたが、思いのほか人の数は少なかった。葬儀はこれから始まるのだろうか。それとももう済んだのだろうか。
 座敷に入ったとたん、私は兄に横面を殴られた。関さんが慌てて止めに入った。母も一瞬わっと泣き出しながら、兄を制するような仕草をした。腹を大きくした妹も、喪服を着ていないのですぐ私の目に付いた。
 いつも見慣れていた、寝ている父の姿はどこにもなかった。床の間を覆い隠すように設えられた大きな祭壇の、奥の方に飾られた写真立ての中に、神妙な顔をして父はいた。父は私が東京へ向かった9月30日の夜遅く亡くなっていたのである。10月1日通夜。翌10月2日午前中に葬儀は行なわれた。
 私が家に着いたときは、棺を埋めて皆が墓から帰って来たところであった。すぐに読経が始まった。私は親不孝にも父の死に目に会えないどころか、父の死顔さえ拝むことが出来なかった。私は口の中で経を唱えながら、ただ父の写真の前に首を垂れた。

後日譚

 初七日が済むとその日のうちに兄は独り九州へ旅立った。妹は出産まで郷里に留まることになった。それはむしろ妹の夫の唱えたことであった。母は関さんの顔色を伺いながらも、それを有難く受け入れた。関さんはそれでもしばらく妹と一緒に残っていたが、その後妹を残して引き揚げたようである。というのは兄が発つのを待ちかねるように、私もまた急ぎ東京へ向かったから。
 私が東京で奥さんに不本意な別れを告げた10月1日から数日経ったとき、私は郷里で奥さんから手紙を受取っていた。そこには悲しい事実が記されてあった。

 私が先生の家を訪ねた翌る日に、奥さんが手伝いに行っている市ヶ谷の叔母という人の家へ、奥さん宛てに親展とした、先生からの手紙が届いた。
 差出人の住所は小日向台町の先生の家の所番地が書かれていた。消印は河口湖で、消印の日付は9月30日と読めた。
 これから樹海へ這入るから、もうどのような形でも、二度と会うことはないだろうという簡単な手紙であった。書斎の手文庫の中に公債の預け先と貯金の種類を書いた書付が入っている。最後に奥さんに対する謝罪と別れの言葉が一言ずつ書き添えてあったという。
 先生の書く字には少しの乱れもなく、常軌を見失ったようなところは探しようにもなかった。
 私は私の貰った先生の手紙の最後の、(奥さんに)気が狂ったと思われても満足であるというくだりを思い起こして、改めて哀しいまでの先生の覚悟に思いを致すと同時に、奥さんの冷静な観察に感じ入った。そうして先生が(奥さんにとって)最後まで平生の先生であったことに、半分は胸を撫で下ろした。(実は私はこの前、先生の書いた遺書を手に持ったまま東京に駆け付けたときに、奥さんからなされるかも知れない、先生の正気でなくなったと言う申告を、半ば覚悟していたことを、ここで正直に打ち明けざるを得ない。)

 私は再度上京して奥さんを訪ねた。奥さんは思いのほか落ち着いていた。戦争未亡人であった母親の気丈ぶりを見倣ったのだろうか。それとも女というものは、案外芯に図太いものがあるのだろうか。父が逝った後の母の姿からも、私はそんな感じを受けた。
 奥さんは少しも取り乱した様子を見せないで、富士吉田へわざわざ行ったときのことを私に話した。遺体になっているにせよ、そうでないにせよ、見付け出してお目にかけるのは難しいと、地元の警察署の人に言われたそうである。
 私は奥さんから先生の自殺の心当りを何度も聞かれた。私はその度に分からないと言うほかなかった。亡くなる前のほぼ3ヶ月間、私は先生と(奥さんとも)会っていないのだから、奥さんも私にそれ以上の追求はしなかった。夏に私が手紙で先生に、口の心当りを頼んでいたことも、奥さんは知らなかった。私は奥さんの前でその話をしたとき、それが母に言われるがままの、形式だけのものだと断った。奥さんはそれについては何も言わなかった。
 私が郷里で受け取ったとされる先生からの最後の「短い」手紙のことも、奥さんが実際に先生からの似たような(と奥さんが思った)手紙を手にした以上、幸いにももう奥さんの口から蒸し返されることはなかった。

 その後しばらく経って形だけの法要を済ませた。命日は奥さん宛に届いた先生の最後の手紙の消印にあった9月30日とされた。それは奇しくも私の父の命日と同じであった。自分の人生にある程度満足していたらしい、自分の人生から大した挑戦状を突き付けられなかったらしい私の父と、決してそうではなかった先生とは、同じ日に亡くなった。

 年が明けてよく晴れたある日、主のない先生のお墓が、生前先生がよく散歩に訪れた雑司ヶ谷の墓地に立てられた。私はそのとき花と水桶を持って、坊主や奥さんや奥さんの親戚の人と一緒に、お祀りに加わった。
 その場所は、先生が墓参りを欠かさなかったという友人の墓の、狭い通路を隔てたすぐ隣の区画であった。1本の巨大な銀杏の樹が、2つの墓を高い日差しから遮るように聳えていた。
 奥さんは私にその友人の墓の方を細い指で示しながら、これからはそこにも一緒に花を供えることになるでしょうと、寂しく微笑んだ。私はその墓標を見ようとしたが、懼しさに背中が震えて、その碑に刻まれた文字を読むことが出来なかった。