明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 31

244.『先生と遺書』1日1回(1)――手紙と電報の謎再び


 さて気を取り直して、いよいよ先生の手紙(遺書)である。手紙の冒頭は『両親と私』の17回ですでに披露されているので、それを「0回」として頭に付け足しておく。前述したように、『心』第3篇『先生と遺書』は、先生の遺書の2頁目から始まっている。
 そしてこれまで物語を語っていた「私」は、これ以降はもう先生のことを指す。「私」から「私」へバトンタッチされる。その意味で『両親と私』までの「私(わたくし)」は、『先生と遺書』では「私(わたし)」になるべきというのが論者の主張であるが、とりあえず(定本)漱石全集の本文の(先生の)「私」はルビなしで記述されるから、この問題はペンディングである。なお、『先生と遺書』全56回の各回は、すべて引用符たる鍵括弧で始まっているが、本項ではこれを採らない。また遺書という性格上登場人物は省き、その代わり先生(とK)の年齢を附す。

『先生と遺書』 (全56回)

第1章 はじめに(大正元年9月)/両親の死(明治26年)(38歳/19歳)

0回 貴方にやっと私の過去を話す時が来た~口で話す代りに手紙で話すことにした
1回 貴方からの手紙への返事はもう書かない~その代りこの手紙を書く~以前貴方に約束した私の過去を書く
2回 私の過去は私だけの経験だから私の所有ともいえる~私は日本人の内で貴方にだけ私の過去を語りたい
3回 高等学校入学前の両親の死亡~私は死に行く者としては落ち着いてこの手紙を書いている~何も知らない妻は次の室で無邪気にすやすや寝入っている

 遺書を書くのに理由はいらないが(自分の意志で死を選ぶのは理由あってのことだろうが、その理由を表明するかしないかは全き自由であり、理由はいらない)、先生の手紙を遺書であると言い張っているのは私だけである。理屈を言うようだが、これは先生の手紙である。手紙を書く理由ならあっておかしくない。先生は手紙を書く理由を3つ挙げている。

①私の過去を話してあげると約束したから、その約束を果たさねばならない。
②私は私の過去を書きたい。
③私は貴方になら私の過去を語ってもよい。日本人の内でただ貴方にだけ私の過去を物語りたいと思う。

 先生は自分の過去の経験は自分の所有であると言う。それを人に与えないで死ぬのは惜しいとも言う。
 本ブログ第3項で引用した志賀直哉の『革文函』を、昭和49年岩波書店版『志賀直哉全集』第7巻「随筆」より再度引用する。

 雑談で済む話は雑談で済ませるがよい。雑談では現せないものがあって初めてそれは創作になるのだ。雑談で尽せる話をそのまま書いて創作顔をしているのはよくない。
 頭ですっかり出来上った話は書いて面白くない。流れるのではなく、強引でものにするからだ。
 創作家の経験は普通、経験が多いと云って、ほこっている人間のような経験の仕方では仕方がない。経験そのものが稀有な事だったと云う事もそれだけでは価値がない。経験しかたの深さが問題だ。
「経験それ自身が既に芸術品である」というような文句があるが、そんな事を自分で思っているから、尚芸術品にならないのだ。
 材料を征服する気でかからねば駄目だ。材料をかついで、よろけて居ては仕方がない。よろけながら悲鳴をあげても、その悲鳴が芸術にはならない。(志賀直哉『革文函』再掲)

 これは漱石について言っているのではないが、先生の「自分の経験は自分の所有であり、それを人に与えないで死ぬのは惜しい」という言い種は、志賀直哉の誤解を生む要素がある。志賀直哉が、『心』のあたりから漱石を離れて行く理由が、何となく分かる気がする。
 志賀直哉のこの主張は、太宰治をこそ射貫いているとも言えよう。もちろん『心』と『人間失格』という2つの頂きは、志賀直哉の文学的良心を超越して聳え立っているが、同時に志賀直哉の主張もまた、この両高峰と対峙するものである。
 つまり志賀直哉の『革文函』における主張は、漱石太宰治の美点を強調しているようにも見え、同時に彼らの弱点を指摘しているようにも見える。

 私はそれから此手紙を書き出しました平生筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に対する私の此義務を放擲する所でした。然しいくら止そうと思って筆を擱いても、何にもなりませんでした。私は一時間経たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、是が義務の遂行を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは否みません。・・・(『先生と遺書』2回冒頭)

 ・・・何も知らない妻は次の室で無邪気にすやすや寝入っています。私が筆を執ると、一字一劃が出来上りつつペンの先で鳴っています。私は寧ろ落付いた気分で紙に向っているのです。不馴のためにペンが横へ外れるかも知れませんが、頭が悩乱して筆がしどろに走るのではないように思います。(同3回末尾一部再掲)

 前述したが先生は『坊っちゃん』と同じ長さの遺書を、10日ほどで書き上げている。『坊っちゃん』や『猫』を上回るスピードで書いて、不慣れで思うように運ばないとは、思わず笑ってしまうような慎ましさであるが、しかし漱石はまんざら創作話をしているわけでもない。漱石が『坊っちゃん』と『猫』を書いたとき、漱石は慥かに「平生筆を持ちつけない」といっても嘘ではない教師生活を送っていた。慣れていなくても、「書きたい」という欲求があれば、10日間で大部の遺書でも小説でも書くことが出来る。漱石は真実を述べている。しかしこのとき(大正3年)の漱石はそうではなかった。全56回の遺書であるから、50と6日はかかった。先生の執筆スピードを漱石の5倍とみるべきか、あるいは38歳の先生は38歳の漱石と同じパフォーマンスを発揮したというべきか。

 同じく前にも少し触れた、奥さんが隣の部屋で寝ていることについて、そうであれば先生はわざわざ奥さんを遠ざけなくてもよかったのではないかという意見が出てこよう。しかし先生は終日執筆に集中したいのと、万一奥さんに書いているものを(1枚でも)見られてしまったら、やっかいなことになると心配したのだろう。それに奥さんの顔を毎日見ていると、決心がぐらつくこともあるかも知れない。
 別な疑問として湧き上がるのは、先生は最後に奥さんに暇乞いをしなくて平気だったのかということである。もちろん直接永別の言葉を掛けるわけにはいかない。しかし結果として奥さんを見捨てることになるのである。最良の伴侶に最後の挨拶をしないで、(永遠に)別れられるものであろうか。
 先生は本当に奥さんを愛していたのだろうか。奥さんを愛しているのであれば、いくら生きていて苦しいといっても、黙って冥界へ旅立てるものだろうか。奥さんはまだ33歳(推定)である。不憫に思わないのだろうか。先生は太宰治のような人だったのか。読者は先生の自殺の理由が分からないのと同様、先生の奥さんに対する気持ちも分からない。

 これはもしかすると、漱石の血縁家族に対するそっけなさに繋がる話かも知れない。漱石は冷血人間なんかでは決してない。むしろ周囲の人間には、温かく接するという評判の方が勝っていたように思われる。しかし一緒にいる家族や近親者は、そう思っていなかったフシがある。内弁慶という言葉があるが、身内につらく当たり外面はいい。漱石もそういう人の1人であろうか。
 思うに漱石が家族に冷たいのは、外面がいいとかそういう話ではなく、家族だけを特別に愛することの、合理的な理由を見つけることが出来なかったせいではないか。世の中にそのことの正当性を謳った絶対的な公理は存在しない。汝の隣人を愛せよという言葉はあっても、隣人を差し置いても汝の家族を慈しめという訓えはない。ならば漱石独特の奇妙な正義感・公正感が、かえって身内につらく当たらせてしまうのである。漱石としては自分が間違ったことをしていないかだけが気になる。家族を他人より大事にすることが正しいということが保証されているなら、漱石も安心してその風習にしたがったであろう。しかし漱石の信じる倫理観に、夫が妻子を大切に慈しむという徳目はなかった。正しいことが担保されない以上、漱石はそれを実行することはない。これが人によっては誠実で正直な人柄と映り、あるいは身勝手な横暴とも映る。

 では三女と四女だけには例外的に優しかったことについて、なぜという疑問が残るが、これは三女以下は自分の子供というよりは、「(2人の姉とは異なる)幼き者、保護されるべき者」という位置付けだったろうか。続いて生れた男の子2人はまた自分の子という認識に戻る。あるいは男の子は別物である。その意味で漱石から怒られたことが無いという三女と四女は、いわば「お客さん」だったのか。
 あるいは3番目と4番目の子は当然男の子が期待されていたのであろうから、漱石としてはその存在をリセットしたく思った(ことがあるだろう)。その罪悪感が漱石をして三女と四女をお客さん扱いさせたのかも知れない。五女の雛子は無慈悲にも、かつて漱石が無意識の裡に思っていたことを体現してしまった。漱石が雛子の愛しさを最上位に感じたのも故無しとしない。

 もう1つだけ、何度も引用して恐縮だが、先生の電報のくだりで強調しておきたい箇所がある。

 其後私はあなたに電報を打ちました。有体に云えば、あの時私は一寸貴方に会いたかったのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかったのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めていました。あなたも電報丈では気が済まなかったと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出来ない事情が能く解りました。・・・(『先生と遺書』1回再々掲)

「あの電報」という書き方はいかにも漱石ならではの表現である。ふつうは「その電報」もしくは「あなたの電報」であろう。「あの」でも「その」でも大した違いはないとも言えるが、このとき先生は2本の電報を打ち、私は1本の返電を打っている。先生が「あの電報」と書いたのは私(学生)の1本である。先生はどのような意図で「あの電報」と書いたのか。前項のカレンダーによると、電報の日は9月15日、そして先生が手紙を書き始めたのが9月17日である。わざわざ過去を振り返って「あの」と書くほどには日は経っていない。

①大した意味はない。ただの指示語の代りに使っただけ。英訳本を見ても単に「 it 」と書かれてある。でもそうであればせいぜい「その電報」と書けばいいところではないか。
②あなたから来た電報であることを強調するため、「あの」という言葉を使った。しかし先生はそもそも(学生の)私にそれほど気を遣う人か。
③自分(先生)が受取った電報であることを強調するため、「あの」という言葉を使った。滅多に来ない電報を、この自分(先生)が(わざわざ)受取ったのである。この解釈は少し尊大に過ぎるか。
④先生にとって何か印象に残る、記念すべきものが「あの」電報にはあった。しかし「行かれない。今は父が重態で目が離せない。委細フミ」という電文が、がっかり感以外の何を先生に与えたというのか。

 ということで論者の推測は次のようなもの。
 電報は3本とも所詮漱石が書いたものであり、先生の打った2本は(自分で打ったのだから)いいとして、私の打った1本を、漱石は気になってしようがなかった。そのこだわりが先生に伝染して、つい「あの電報」という言い方になった。極論すれば、「あなたの打った電報」というよりは、「オレの電報」という意識がつい出てしまったのではないか。そしてその思いを読者と共有したかったのではないか。というのは特別に用事があって電報を打つというようなシチュエーションは、漱石作品には滅多にないことだったからである。手紙は慣れているから気にならないが、電報は(電話と同じく)漱石は嫌いだった。おそらく多分に暴力的なところがあるからであろう。