明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 35

248.『先生と遺書』1日1回(5)――主人公が小旅行するとろくなことにならない


第7章 房総旅行 (明治32年夏)(25歳)

28回 こうして海の中へ突き落したらどうする~丁度好い遣ってくれ~Kの安心の元は学問達成であるか、それとも御嬢さんであるか
29回 Kに打明けようと迷う~Kの強くて高い様子に跳ね返される
30回 鯛の浦~誕生寺~日蓮の話~「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
31回 人間らしいという言葉の無意味さ加減~Kの目指す途は自傷行為の苦行僧か~真っ黒になって帰宅~奥さんに褒められる

 『先生と遺書』の緩徐楽章たる房総旅行の章である。『草枕』と『門』でさらりと扱われた思い出の房州旅行は、『心』で完成された。3度書かれたからには、もう書かれることはない。

 ・・・二人は房州の鼻を廻って向こう側へ出ました。我々は暑い日に射られながら、苦しい思いをして、上総の其所一里に騙されながら、うんうん歩きました。・・・(『先生と遺書』29回)

「向こう」と「こっち」のセットは、地の文としても漱石に頻出する言葉であるが、時代のせいもあるのだろうが、今では書き言葉としては、「向こう」も「こっち」もあまり使われない。
 前著(『明暗』に向かって)でも触れたが、漱石が「向こう」と書くのは、自分を中心に据えて叙述する癖がついているからである。ではなぜそんな癖がついたかというと、自己に重きを置くという見方はもちろんあるが、ひとつには徳川の世が長く続いたせいではないか。何でも江戸を中心に物事を見る習慣になっている。房総半島の「こっち」が内房で、「向こう」が外房である。理の当然である。
 しかし書き手(話し手)が同じ徳川でも水戸の殿様であったとして、水戸から見ると房総半島の「向こう側」は(内房でも外房でもなく)東京湾相模灘であろう。これは固有名詞の問題でもないし、内と外、表と裏のような、人間の決め事の問題でもない。漱石に言わせると(漱石はこんなことは言わないだろうが)、江戸を中心に文化が廻っていようがいまいが、人物から見て向こう側だからそう書いたまでだ、外に言いようがあるか、ということであろう。これが本当の自己中心主義か。

 ところで漱石の作品には小旅行(ピクニック)も頻出するが、こちらは「ろくでもないこと」の象徴・予兆として設定されることが多いようである。
 話はいったん初篇の『先生と私』に戻ってしまうが、先に書生の私が卒業論文を書き終えたときに、気持ちが少し高揚したのか先生を郊外の散歩に強引に連れ出したことがある。先生はそこで、「是でも元は資産家なんだがなあ」「君のうちに財産があるなら、・・・君の御父さんが達者なうちに、貰うものはちゃんと貰って置くようにしたら何うですか」「田舎者は都会のものより、却って悪い位なものです」「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」と言いたい放題を言う。
 それはいい。先生のおしゃべりは、(『三四郎』の)広田先生の「哲学の煙」程度には、漱石の主張の枠に収まっている。しかしこのハイキングでは、先生のおしゃべりに続く、実際に起こった付帯事件の方が(漱石にしては)突飛である。

①私が得意の芝笛を鳴らすと先生は知らん顔してそっぽを向く。
②「静かだね。断わらずに這入っても構わないだろうか」「構わないでしょう」先生ともあろうものが、こんな無体な「相談」をするものだろうか。先にも述べたことがあるが、まるで生徒同士で答え合わせをしているようなものである。
③風が吹いて先生の帽子が飛ばされる。
④先生は財産を横領された過去を憶い出してひとりで昂奮する。
⑤先生たちはやはり私有地に無断侵入していた。それをその家の子供に咎められる。
⑥その侵入した農園の縁台に寝転んだときに羽織に汚れが付いた。その羽織は新調したばかりで、むやみに汚すと奥さんに叱られる。
後出しジャンケン事件。「そら見給え。君の気分だって、私の返事一つですぐ変わるじゃないか」私は先生を憎らしいと思う。
⑧先生は畠の近くで立小便をした。――これは正行居士の漱石としてはありえない叙述であろう。『坑夫』に書かれてあるといっても、坑夫は漱石作品では例外の(学士でも学生でもない)主人公である。
⑨小旅行の終わりに、昂奮の覚めない先生は、自分の過去を私に話すと約束する。

 いかにもふだんの先生らしくないことばかりである。先生は急に人格を変えたようにさえ見える。いったい先生に何が起きたのかと読者は訝しく思うが、思い起こしても特段変わったことは起きていないようである。最後の⑨の約束が、将来の『先生の遺書』につながるが、これらの非平和的なエピソードのために、この小旅行が無理矢理催行されたことは間違いない。(以上『先生と私』26回~31回)

 ひとつだけ言えるとすれば、この年(先生最後の年、明治45年・大正元年)2月から4月までの3ヶ月間、卒論のために私は先生の家の敷居を跨がなかった。それまでずっと月に2度か3度は訪れていたのだから、例外的なご無沙汰ではある。それから7月~9月の3ヶ月間、父親の病状もあって、これまたいつもの夏休みを超える長い期間、先生とは離れた生活を送っていた。
 それらの間に先生は少しずつおかしくなって行ったのではないか。といって先生は気が狂ったわけではない。先生が正気を保ったまま遺書を書く決断に至ったとすれば、やはり何らかのきっかけが必要になる。(そのきっかけが御大葬と殉死らしいというのは、単なるカモフラージュであろう。)
 春先から徐々に、(目立たないように)正常な途を踏み外して行くというのなら、先生の決断の理屈は通る。

 話を小旅行に戻すと、この追憶の学生時代の房州旅行でも、『心』に書かれた限りでは、愉しいことはひとつもなく、先生とKの友情も深まるどころか、むしろこれを境に破局へ突き進むことになるのである。

 前作『行人』の小旅行は、言うまでもなくベースとなった(大旅行の)和歌の浦から、二郎とお直が1泊で出掛けた和歌山行きである。漱石作品で1、2を争うとんでもない小旅行であるが、漱石でなくとも子供には読ませられないくだりであろう。後から追加された『塵労』は全篇小旅行の塊りのようであるが、これは大旅行の範疇に加えるべきか。
 その前の『彼岸過迄』では、市蔵が千代子との軋轢(あるいは慕情)を語る舞台として、国府台から柴又にかけての小旅行が設定された。柴又だけでは小旅行と言えない(と漱石は思った)。一瞬でも千葉県へ出る(江戸川を越える)ことに意義があるような書き方がなされている。前半の千代子との淡いロマンスは、その江戸川本流の川辺で語られ、柴又の茶店という限定された場では、もうピクニックは関係ないという感じで、後半の、(入れ子状態になっている)鎌倉避暑地とその帰宅後の、有名な大喧嘩が描かれる。
 『門』では鎌倉参禅は別物として(あるいは正統的なろくでもない小旅行として)置いておくにしても、小六の房総旅行は、帰宅後の学資打切り話とセットになっていて、わざわざそのために設定されたとしか思えない。回想シーンにおける安井と御米の須磨明石保養の小旅行も、宗助が後から加わって嵐の前の充分な伏線になっている。安井がインフルエンザに罹らなければ、須磨明石に行かなければ、おそらく宗助と御米はその後も結び付くことはなかったと思われる。(勿論これは漱石の設定の巧みさを称賛しているのであるが。)

 では『それから』は小旅行はどこに行ってしまったのか。代助はグラドストーンまで用意して、結局旅行には出なかった。それどころでない大事件が生起しつつあったからであるが、問題はなぜ漱石がこんな(煮詰まってきたような)小説の展開で、わざわざ代助を旅行に行かせようと思い付いたのかということである。行かなかったからいいというものでもあるまい。漱石の頭の中では、小旅行=破綻という図式がこびりついていたに違いないが、いったいなぜそんなことになるのであろうか。
 『三四郎』は流石に大旅行はあっても小旅行はないと思われがちである。しかし田端の小川沿いの、三四郎と美禰子のランデヴゥと、広田先生の下宿探しが、若干でもそれに近い。三四郎と美禰子の道行きは前半のハイライトであるが、漱石はめでたくそれで済ますことが出来ない。なぜかデヴィル大人が地中から湧き出して三四郎たちを睨みつける。三四郎・与次郎・広田先生の散歩兼下宿探しには、佐竹の屋敷の門番が何の関連もなく登場して彼らを叱り飛ばす。読者はこれらの挿話の意味が判らないが、小旅行に鉄槌を下すという漱石の方針を理解すれば、少しは納得するのではないか。もちろんストンと腑に落ちる人はいなかろうが。

 どうでもいいような話ではあるが、『坊っちゃん』のターナー島の舟釣り、赤シャツの温泉へ行くと見せかけてのマドンナとの散歩デート。それから書生時代友人と鎌倉の大仏を見物したとき俥屋から「親方」と間違われたことがことさらに書かれるが、べらんめえの坊っちゃんが親方に間違われる筈がない。漱石はただの与太話・実体験としてこれを書いたと誰しも思うが、江の島小旅行が漱石に命じて書かせたとも言える。
 『猫』の迷亭の伯父の上京と赤十字大会出席(この伯父の滑稽すぎる容姿は何のためのものか)。立町老梅が静岡の宿屋の女中に求婚して相手にされなかった事件(老梅は後日瘋癲院に入れられる)。「怖い水道橋」を渡って招魂社へお嫁に行くのも、とん子すん子(坊ばまで)にとっては立派な小旅行であろう。
 『虞美人草』の大森ピクニックも同じであろう。どうでも好くなければ、大森からひとり帰った藤尾のように、突然死んでしまうだけである。
 『草枕』もまた、『塵労』のように小旅行の集合か、大旅行と見るべきか。

 もうひとつだけ、『明暗』の小旅行は、誰もが知る津田の湯河原行きであるが、漱石のルールに従えばこの関東近郊の旅もまた、津田にとってろくでもない結果をもたらすだけに終わるであろう。津田が温泉地で清子に再会して、何らかの高みにステップアップするという期待は、期待するのは自由だが、残念ながら裏切られるのが眼に見えている。

 さて『心』では、先生と奥さんも毎年のように温泉や避暑に出掛けているようであるが、実際小説に書かれるのは、

Ⅰ 先生とKの学生時代の房総旅行。
Ⅱ 先生が独りであるいは外国人の友人と海水浴に行った鎌倉。
Ⅲ 私はひと夏を過ごすべく友人の別荘に遊びに行ったが、友人は嘘の電報で故郷に呼び戻され、結果として先生と私の出会いの場となった鎌倉の海。
Ⅳ 先生と私の卒論終了記念ピクニック。

 ⅠとⅣがろくでもない結果に終わったことは前述したが、セットになったⅡとⅢは何が不都合か。
 Ⅱは奥さんが1人で留守番する根拠が皆無であること。『心』をどのように読んでも、先生がある夏のひとときを、奥さんを置き去りにして鎌倉の海で過ごすことは考えられない。このくだりは「独立した短篇」として、漱石としてはなかったことにしたかったのではないか。
 Ⅲはその背景に、母の病気という嘘の電報で、結婚を押し付けられそうになる友人の存在がある。これは先生の従妹との結婚話の伏線になるものであろうが、どちらにしても漱石にとって容認しかねる設定であろう。
 そして5番目(Ⅴ)として、先生の失踪という最後にして最悪の小旅行が控えているわけである。