明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 40

253.『先生と遺書』1日1回(10)――もうひとつの後日譚


10月2日(水)――変更箇所なし

 日が一番高くなった頃、家に向かう俥の中からもう、実家の葬儀の幟は見えていた。
 家の中はざわざわ人が行き交っていたが、思いのほか人の数は少なかった。葬儀はこれから始まるのだろうか。それとももう済んだのだろうか。
 座敷に入ったとたん、私は兄に横面を殴られた。関さんが慌てて止めに入った。母も一瞬わっと泣き出しながら、兄を制するような仕草をした。腹を大きくした妹も、喪服を着ていないのですぐ私の目に付いた。
 いつも見慣れていた、寝ている父の姿はどこにもなかった。床の間を覆い隠すように設えられた大きな祭壇の、奥の方に飾られた写真立ての中に、神妙な顔をして父はいた。父は私が東京へ向かった9月30日の夜遅く亡くなっていたのである。10月1日通夜。翌10月2日午前中に葬儀は行なわれた。
 私が家に着いたときは、棺を埋めて皆が墓から帰って来たところであった。すぐに読経が始まった。私は親不孝にも父の死に目に会えないどころか、父の死顔さえ拝むことが出来なかった。私は口の中で経を唱えながら、ただ父の写真の前に首を垂れた。

もうひとつの後日譚

 初七日が済むとその日のうちに兄は独り九州へ旅立った。妹は出産まで郷里に留まることになった。それはむしろ妹の夫の唱えたことであった。母は関さんの顔色を伺いながらも、それを有難く受け入れた。関さんはそれでもしばらく妹と一緒に残っていたが、その後妹を残して引き揚げたようである。というのは兄が発つのを待ちかねるように、私もまた急ぎ東京へ向かったから。
 私が東京で奥さんに不本意な別れを告げた10月1日から数日経ったとき、私は郷里で奥さんから手紙を受取っていた。そこには(私にとって)驚くべき事実が記されてあった。

 私が先生の家を訪ねた翌る日に、先生の留守宅に奥さんへ宛てた先生の絵葉書が着いた。絵葉書はすぐに市ヶ谷へ届けられた。絵葉書は次の日にも配達された。絵葉書は修善寺と伊東から出されたもので、黙って出掛けてしまったことへのお詫び、急に思い立ったのと叔母の迷惑になりたくなかったこと、これから箱根を廻って帰るということが簡潔に、しっかりとしたいつもの先生の字で記されてあった。奥さんを連れて行かなかったことを申し訳なく思う、この次にはぜひ一緒に行こう、2度目の絵葉書にはそうあった。奥さんはひとまず安心して、また市ヶ谷へ戻った。
 ところが間を置かず市ヶ谷の奥さんの許を訪ねたのは、留守番のお婆さんではなくて、小石川警察署の中年の刑事であった。刑事の知らせは、城ケ崎海岸で先生の水死体が発見されたというもの。身元確認と引取りに現地へ行けと言う。奥さんは念のため本郷の私の下宿を尋ねて、私のいないのを確認したあと、別の親戚の人と一緒に伊東の警察署へ向かったそうである。
 先生は1人で泊まっていたが、とくに変わった様子もなく、旅館や現場に書置きらしきものもなかった。奥さんの方にも疑義を申し立てる理由が何もない。先生の死は事故(転落)ということで片付けられた。
 私は奥さんの手紙を読みながら震えが襲って来るのを止められなかった。先生は事故で死んだのではない。この世で先生の死の真相を知っているものは自分だけなのか。

 私は再度上京して奥さんを訪ねた。奥さんは時折憔悴したような表情は見せたものの、思ったよりしっかりしていた。とくに理性という側面では一片の曇りもなかった。先生の死を甘んじて受け容れようとする気概で地に立っているという感じがした。戦争未亡人であった母親の気丈ぶりを受け継いでいるのだろうか。それとも女というものは、その根っ子に案外図太いものがあるのだろうか。父が逝った後の母の姿からも、私はそんな感じを受けた。
 奥さんは取り乱した様子も見せないで、伊東へ(泊りがけで)身元確認に行ったときのことを私に話してくれた。遺体は綺麗でどうして死んだのか分からないほどだった。不審な点がないというので現地でそのまま荼毘に付してお祀りし、遺骨だけになった先生と、親戚の人と「3人」一緒に小石川へ帰って来た。源覚寺に頼んで形だけの葬儀を行なった。私が駆け付けたときは、その葬儀も済んでしまった後だった。私は先生の葬儀にも間に合わなかったが、こちらの方は少しも後悔していない。先生は私に手紙を書き終えたときには既に、この世に生きる人ではなくなっていたのだから。だいいち自分だけ大きな秘密を抱えたまま、どのような顔をして先生の葬儀に列席出来ようか。

 私は奥さんから先生の自殺の可能性について何度か訊かれた。どこかに女の勘というものが働いたのだろうか。私は怯えながらもそのたびに否定した。亡くなる前のほぼ3ヶ月間、私は先生と(奥さんとも)会っていないのだから、奥さんも私にそれ以上の追求はしなかった。夏に私が手紙で先生に、口の心当りを頼んでいたことさえ、奥さんは事件のあと先生に来た手紙に眼を通してみるまで知らなかった。私は奥さんの前でその話が出たとき、それが母に言われるがままの、形式だけのものだと断った。奥さんはそれについては何も言わなかった。
 奥さんは本気で疑っていたのではないと思う。ただ奥さんらしい理知的な探求心から、先生の死について、奥さんなりにあらゆる可能性を考えたのだと思う。私は奥さんの冷静な判断力に感心した。
 本当に先生の死の真相を知る者は私だけなのか。先生の手紙がなければ、先生は事故で死んだことになってしまう。それもいい。いやそれ以外に途があるだろうか。とりわけ奥さんにとっては。それが先生の最も望んだことであるからには、それ以外に考える余地はない。でもそうなったら先生の真実はどうなるのか。先生が己の命と引き換えにこの世に残そうとした、先生のあの真実は。
 それは思っても詮のないことである。自分のたくらんだ通りに(人生の最期だけ)事を運んだ先生は、もうこちら側には戻って来ない。実際に先生は断崖の道で足を踏み外してしまっただけかも知れない。しかしそうだとすると――。

 翌る年の3月、暖かく晴れた日曜日に、先生のお墓が生前よく散歩に訪れた雑司ヶ谷の墓地に立てられた。私はそのとき花と水桶を持って、奥さんや奥さんの親戚の人と一緒に、法要の末席に加わった。
 その場所は、先生が生前墓参りを欠かさなかったという友人の墓の、狭い通路を隔てたすぐ隣の区画であった。1本の巨大な銀杏の樹が、2つの墓を高い日差しから守るように覆い被さっていた。
 奥さんは私にその友人の墓の方を細い指で示しながら、これからはそこにも一緒に花を供えることになるでしょうと、寂しく微笑んだ。私は懼しさに身体がふるえて、その墓標を見ることが出来なかった。

漱石「最後の挨拶」心篇 畢》