明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 12

225.『心』先生さよなら(承前)――驚愕の判決理由


(前項よりつづく)

 『心』に書か れている中で、Kが自分の意志で行なったことが二つある。学資を出した医者の養家を偽って文科に進んだことと、自分の恋心を先生に打明けたことの二つである。
 前にも述べたように、漱石は重要なことを自分の意志(のみ)で決めることの決してなかった人である。理由は自分の責任になってしまうからであるが、言い方を変えると、そのときの自分の意思決定が正しいということが担保されないからである。自分が間違っているということを火のように恐れた漱石は、つまらない理由でも何でも、何か理由がない限り決して足を踏み出そうとしなかった。坊っちゃんが松山へ行ったのは、あれは(物理学校の)校長が勧めたからである。断る理由があれば断ったであろう。坊っちゃんに面倒を見なければいけない親がいたら、即座に断ったはずである。反対に断る理由がなければ、台湾でもニューギニアでも、坊っちゃんは行ったであろう。
 Kは(漱石と違って)誰の教唆も受けずに、医科でなく文科を選択した。(と思われる。無二の親友の先生が、あとから賛同したというのだから。)その結果養家と実家から義絶された。先生への告白にも、理由になるようなものは何もなかった。奥さんお嬢さん先生に、それを促すような行動は皆無であった。Kの側にも、(孫の顔が早く見たいとか)些細なことすら何もなかった。Kは純粋に自分の自由意志「だけ」で、先生に大切なことを打明けるという行為を実行した。その結果Kは最も重い罰を受けることになった。罰した者はむろん漱石である。

 自分で決めると間違っていないことを証明する者がいない。そこに公理定理がない以上、いっそ占いで決めた方がまだ根拠があるといえる。だから漱石の小説にはよく占い(師)が、何の関連もなく登場する。(探偵のように。)
 それでいて鏡子夫人が頼みにする御札を、怒って塵箱に叩き込んだりする。漱石もうすうすは気が付いているのである。しかしおかしいと思っても、身体に染み付いているのでどうにもならない。
 則天去私という言葉に飛びつくはずである。天(神・自然)に従っておれば、正邪に悩む必要が無いというのであるから、漱石にとってはまさに地獄に仏であったろう。

 では先生はどうか。先生は半分以上漱石であるが、Kの前ではその割合は大きく減殺される。Kを長野一郎とすれば先生は二郎である。三四郎である。先生に自由意志はない。常にKに先を行かれている。奥さんへの申し入れも、半ばKの亡霊に導かれてのものである。(このときまだKは生きているが。)
 先生が一見卑怯なやり方でKに攻撃を仕掛けたのも、弱者ならではのことである。三四郎がまともに行ったのでは、野々宮宗八に勝てない。弱者が強者に勝つためには策略が要る。
 しかし先生は、漱石が言うような敗者ではないが、勝者でもない。先生は奥さんから、「よござんす、差上げましょう」という返事を受けたが、仮にKが先に奥さんに告白したとしたら、「よござんす、差上げましょう」とは言わないだろう。前述のように奥さんは、先生の立場をひとまず確認したがるはずである。しかしこれは奥さんが先生の方を気に入っていたというよりは、(先生が勝っていたというよりは、)世間人たる奥さんが、先生の先住権を尊重したということに過ぎまい。先生にその気がなければ、この母娘にとってはとりあえずKが暫定一位になるのであるから。

 先生は漱石の禁忌には触れなかったのだから、とりあえずは死ななくてよい。Kは死んでいくときに、お嬢さんの顔は少し思い浮かんだかも知れないが、先生のことは胸中になかったであろう。(Kは先生に対しては恩義を感じこそすれ、自分の死にゆく理由について、お嬢さん以上に先生が自分に係わりがあるとは思っていなかった。)
 しかしKの死に責任があると考えた漱石は、先生に死刑の判決は下した。
 先生の罪状は何であろうか。
 嫉妬心か。確かに先生を衝き動かしたものは強い嫉妬心かも知れない。しかし死に値する嫉妬心などというものがあるだろうか。
 Kに黙ってお嬢さんに求婚したことか。確かに小説ではそれが最大の罪であるかのように書かれている。
 しかし誰にも言わず(相談せず)、直接本人に告白することは恋愛の王道であろう。友の許可を得なければ求婚できないなら、先生は(漱石は)永久に結婚できまい。

 そんなことより、その前に先生は、お嬢さんの人生を台無しにしていることに気付くべきであった。代助が三千代の回答に無関心なように、先生もお嬢さんの気持ちに関心がない。それはいいとして、せっかく結婚したにもかかわらず、いきなりこのていたらくではお嬢さんの立場などどこにもないではないか。
 先生が(Kの死を乗り越えて)お嬢さんと平凡な家庭を築いたなら、『心』という小説はなく、先生の罪もまたない。つまり先生は(『心』という小説のストーリーに関係なく)、始めから何の罪もなかったといえる。しかし先生は主観的には、いつ死んでも(執行されても)おかしくない状態で十余年暮らした。先生は20歳で東京に出て高校大学3年ずつ、卒業して半年、26歳で結婚したのが、前後の記述によると明治33年頃と推定されるから、御大葬の明治45年まで12年くらいか。ちなみに先生と学生たる私の年齢差もそれくらいになる。先生は「私」にKの面影を見ていたのか。
 その12年間の年月こそが、妻に対する背信(今風にいえば虐待)という罪状である。漱石は自分で死刑判決をしておきながら、実際の判決理由は、先生のその後の生き方に押しつけてしまったかのようである。責任はすべて先生にある、とでもいうように。

「生き方そのものが死に値する」

 これではまるで『人間失格』であろう。先生は遺書まで書いた。しかし『人間失格』が太宰治の遺書でないように、先生の遺書を真正の「遺書」として受け止める読者はそうはいまい。だからこそ『心』は多くの読者に読まれたのであろう。(それでも先生が死ぬ理由に納得する人は多くないように思える。)

 ではKの自殺に戻って、Kの自殺の原因については、漱石が小説の中で説明しているではないかという人がいるかも知れない。しかし騙されてはいけない。「たった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった」からといって人は死なない。そのときのKがたった一人で淋しかったのは事実であろう。しかしそれは原因ではなく、結果である。それならばいっそ先生もKも漱石一人二役であるとする考え方から、

「Kは実在しない。先生の心の中だけで育まれてきた架空の人物である。『心』というタイトルは本来そういう意味であった。」

 という前提で、『心/先生と遺書』をリライトしてみた方が、自殺の原因究明には役立つかも知れない。二人とも死んでいるのにと言う勿れ。人は二度死ねないが、象徴的な意味においても複数回自殺する人はある。
 前記の推定によると先生の自裁は(太宰治と同じ)38歳。『猫』を書き始めた頃ということは、漱石は作家になるにあたってそれまでの自分に一度訣別したということか。
 そしてKの死は大学卒業の年であるから、漱石が周囲の制止を振り切って松山に行ったときと、類推適用可能である。漱石はこの時にも一度死んでいたのである。修善寺のとき落ち着いていたわけである。

《 『明暗』に向かって 58.先生さよなら 引用畢 》