明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 33

246.『先生と遺書』1日1回(3)――小石川の素人下宿


第3章 過去との訣別と新しい下宿生活の始まり (明治30年秋~冬)(23歳)

10回 小石川の台地に下宿を探す~ある軍人未亡人・1人娘・下女の素人下宿に入る~なぜこの家は下宿人を入れようとするのか
11回 下宿の間取り~床の間の琴と活け花
12回 厭世感と人間嫌い~きょときょと周囲を見廻す生活~物を偸まない巾着切り~鷹揚な人
13回 奥さんの見立てに自分が染まって行く~段々落ち着いてくる~奥さん御嬢さんと打ち解ける

 先生が奥さんの家に下宿することになった時期は、大学1年次ではあろうが、そのいつごろかについては、はっきりとは書かれていない。高等学校を終えた夏季休暇中に叔父一家との事件は起きた。先生は公債を懐に最後の上京を果たし、残りの金は土地が売れた後で(おそらく年を越した頃であろう)友人に送ってもらった。漱石は家や土地を売買したこともなければそのやり方も知らないと述べるが、自分が一切立ち会わずに自分の土地を(生れて始めて)売って、その代金を受け取るというのは、地元の一般人(素人)としてありえない話であろう。なおかつ叔父に財産を横領されたと主張するのであるから、登記などはどうなっているのか知りたいところではある。

 ・・・実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。此余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に陥し入れたのです。(『先生と遺書』9回末尾)

 金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新しく一戸を構えて見ようかという気になったのです。(『先生と遺書』10回冒頭)

 ・・・然し私は書生としてそんなに見苦しい服装はしていませんでした。それから大学の制帽を被っていました。・・・
 私は未亡人に会って来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらに就いて色々質問しました。そうして是なら大丈夫だという所を何所かに握ったのでしょう、何時でも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えて呉れました。未亡人は正しい人でした、又判然した人でした。(同10回)

 叔父一家と決別した後ある程度の期間、(仕送りを受けない)下宿生活を経て、半年くらい経ってから新しい下宿探しを始めたようにも取れるし、大学入学後すぐに新生活に入ったとも取れる。金に不自由しないのは高等学校時代から変わらないのであるから、この書き方では何とも言えない。
 むしろ引用最後の「未亡人は正しい人でした」という記述の方が漱石らしい。もちろん奥さんの(女にしては)何事にも臆さない、きっぱりとした性格を指して漱石は、「正しい人」と書いたのであろうが、先生を下宿させた決断について、「正しい」と評価したとも受け取れる。奥さんは正しかったが、先生(自分)は間違っていた。どんなところにも正邪の判定をせざるを得ないのが漱石の倫理観である。

第4章 愛の日々 (明治31年春~夏~秋~冬)(24歳)

14回 突然御嬢さんに対する愛情に気付く~信仰に近い愛である~奥さんは私を歓迎しているようでもあり警戒しているようでもある
15回 私は人を疑っている~奥さんは私を信用している~郷里を捨てた事件を打ち明けて感動される~話して好い事をしたと思う~しかし奥さんにも策略があるのか~御嬢さんもグルなのか
16回 授業に身が入らないのは御嬢さんのせいか~奥さんの家に男の客が来ることがある~私は気になって仕方がない~求婚も考えるが人の思う壺に嵌りたくない
17回 書物は要るが着物は要らない~羽二重胴着根津の泥溝投げ棄て事件~三越着飾り買物事件
18回 級友に目撃されていた三越への外出~定めて迷惑だろう~男はこんなふうに女から気を引いて見られるのか~御嬢さんにはちらほら縁談もなくはない様子~私はこのとき打ち明けるべきであった~なるべくゆっくらな方がいいだろう

 さっき迄傍にいて、あんまりだわとか何とか云って笑った御嬢さんは、何時の間にか向こうの隅に行って、背中を此方へ向けていました。私は立とうとして振り返った時、其後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が読める筈はありません。御嬢さんが此問題について何う考えているか、私には見当が付きませんでした。御嬢さんは戸棚を前にして坐っていました。其戸棚の一尺ばかり開いている隙間から、御嬢さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺めているらしかったのです。私の眼はその隙間の端に、一昨日買った反物の端を見付け出しました。私の着物も御嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
 私が何とも云わずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改たまった調子になって、私に何う思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解らない程不意でした。それが御嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと判然した時、私は成るべく緩くらな方が可いだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うと云いました。
 奥さんと御嬢さんと私の関係が斯うなっている所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。・・・(『先生と遺書』18回)

 Kの同居する前の三越事件が、ことによると先生の(人生の)絶頂期だったかも知れない。背中を向けるお嬢さんの姿は、『彼岸過迄』の千代子を彷彿させる。

「看護婦見た様な嫁はないかって探しても、誰も来手はあるまいな」
 僕が苦笑しながら、自ら嘲ける如く斯う云った時、今迄向こうの隅で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
「妾行って上げましょうか」(『彼岸過迄/須永の話』7回)

 お嬢さんは三越で先生の賛意を得て買った着物地を見ていた。読者はこのときお嬢さんが急に振り向いて、
「あたし行って上げましょうか」
 と言わないかヒヤヒヤする。(もちろん言わないと分かっていてヒヤヒヤするのであるが。)このとき先生がプロポーズに近い言葉を述べれば、(千代子同様)それで事態は決着したのである。ただし正式には卒業するまで待つ。その前提でKを迎えるとすれば、邪心のないKなら黙って同居に応じて、事は何も起こらなかった。
 しかし先生は干からびた喉からかろうじて、「なるべくゆっくらな方がいいだろう」と絞り出すに留まった。それでもそれがそのときの先生にとっては、精一杯の愛情の表現だった。急いで他の適格者を探すのでなければ、いつまでもそのままでいた方がよい。そうすればいずれ(家の外に)ライヴァルはいなくなって、自然に先生と結婚するしか選択肢はなくなる。それが先生にとって理想的な展開だったろう。
 先生はそれすら拒否してKを迎え入れる。自分がお嬢さんに求婚する起爆剤として第三者の存在が必要だったのか。それとも比較対象物を無理にでも拵えないと、お嬢さん自身の行なう判定に合理的な理由がなくなると思ったのか。あるいは(漱石が何度も書くように)母娘の仕掛けた罠に、相手の注文通り嵌らないための、先生なりの防衛策のひとつとしてKを利用しようとしたのか。先生は母娘の思惑とは異なる環境のもと、御嬢さんとの結婚を考えようとしたのだろうか。

 ライヴァルの出現で、当該女性に対する愛情に気付かされることは、大いにありうる。ライヴァルが彼女を好きになったと知って、始めてその女性に対する愛情が勃興するということも、天邪鬼の男ならあるかも知れない。しかし先生はKを誘うずっと以前に、すでに御嬢さんに対する愛情を自覚しているのである。
 奥さんはそれを見抜いていたとは書かれないが、予感はあったはずである。あるいは一般論としても先生と御嬢さんのカップルは想定出来たはずである。だからこそ先生がKを同宿させようと提案したときに、先生のためによくないからと言って反対したのである(23回)。
 先生は御嬢さんを好きになっていたにもかかわらずKを呼んだ。御嬢さんに撰ばせるためか。Kはすべてにおいて先生より秀でていると書かれる。負けたらどうするのか。勝つと判っていたのだろうか。
 Kの同意が欲しかったのだろうか。親のいない先生にとって、生涯の伴侶を決めるのに相談できる人はいない。その役をKに求めたのだろうか。それならばKが御嬢さんと親しくなる前に、Kに先んじて打ち明けなければいけない。Kは御嬢さんに一目惚れしたわけではあるまい。Kをけしかけて、じらして、Kが御嬢さんに心を奪われるようになるまで待っていたのは先生の方である。先生がいくら愚図だといっても、Kの行動が迅速であったとは誰も思わないだろう。

 少し先走りし過ぎたようである。まだKは小説の中で始めてその存在が紹介されたところである。しかしKが登場してからではもう、こんなことを論じているわけにはいかなくなる。Kの造形は、そして先生の造形は、それほどに大きい。一介の読者がかれこれ言うには、Kの存在(先生の存在)はあまりに巨大である。