明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」心篇 32

245.『先生と遺書』1日1回(2)――白山島とは何ぞや


第2章 高等学校時代 (明治27年~明治30年)(20歳~23歳)

4回 東京の高等学校へ~田舎で家を監理してくれる叔父のこと~叔父は私の存在に必要
5回 2年生になる前の夏休み~始めての帰省~叔父は結婚を勧める~早く嫁を貰ってこの家へ帰って来て亡くなった父の後を相続せよと言う
6回 3年生になる前の夏休み~叔父はまた結婚を勧める~従妹と結婚せよという~断る
7回 卒業して大学に入学する前の夏休み~叔父一家の様子がおかしい~16、7歳の頃第1の驚きを経験した~叔父一家の変身で第2の驚きを驚く
8回 家の財産について叔父と談判~世の中に造り付けの悪人というものはいない~普通の人間が金を見て急に悪人に変化する
9回 叔父は家の財産を誤魔化していた~親戚の者が仲介に入る~残った公債を懐に故郷を捨てる覚悟を固める

 叔父に騙された先生は、それでも一生生活に困ることはなかった。地方の名家における跡取りとあらば、自家の土地財産の管理、祖先の祭祀や墓地の保守だけでなく、町村地域への奉仕・協力・指導が恒常的に不可欠である。神社・お寺・学校・警察・消防。それらの1つ1つに金と労力が付いて回る。寄付や税金だけで済む話ではない。(檀家総代とか氏子総代をやっている先生というのを想像できるだろうか。)人の世話やら冠婚葬祭、親戚との交際やら、田舎に付き物の鬱陶しいあるいは愉しい議会選挙やら部落の役員決めやら。やらねばならぬことは山ほどある。住んでいる地区が農業主体であれば、それにまつわる雑事というのも、それこそ気の遠くなるほど多岐に亘る。それで叔父の娘と結婚するのであれば、ケチなことを言うようであるが、土地も財産も1銭たりとも殖えない。
 先生はそれらからすべて解放されて、東京で高等遊民の正統派として暮らした。小さいとはいえ、小石川の家付き娘(実質的な)と結婚したのであるから、住む処にも困らなかったはずである。宮仕えもしなくてよい、厭な教師生活とも縁がない。本を読んで研究して一生を送る。(先生にとって)これほど幸せな人生があるだろうか。
 多くの人は田舎で農業社会に組み込まれるより、都会へ出てサラリーマンになる方を択ぶ。その方が楽だからである。徳川期までは国がそれを許さなかったが、明治になってそのタガが外れた。それでも長男は土地に縛られることが多かったのは、社会的な制約(慣習)もあったからであろう。戦後にはそれも消滅した。ハイカラな先生は明治の代にそれを先取りしていたと言える。
 一方叔父にしてみれば、親の財産を兄(先生の父親)に独り占めにされたのであるから、半分貰う権利があると主張してもおかしくない。これは明治でも現代でも鎌倉時代でも同じことである。今から思えば叔父の一家の方こそ、古い社会に縛られた気の毒な犠牲者であると、言えなくもない。

 漱石の書く叔父による世襲財産の横領という問題は、結局兄弟の問題であろう。それは夏目家の末男にして塩原家の長男であったという、漱石のイヤな生い立ちにその原因がある。漱石はそのどちらからも、1銭も受け取ることはなかった。漱石は相続財産を騙し取られたと書くことによって、その不快感の埋め合せをしたのだろう。漱石は(瑣事は忘れても)、自分に直接付随する事柄については、金銭であれ持ち物(金時計・コンパス)であれ学問知識であれ、どんなことでも決して忘れることはなかった。

 それからもう1点、先生が始めて上京した時代といえば、ちょうど日清戦争の頃と思われるが、そのころ新潟から学生が上京・帰省するというのは、ちょっと大変だったのではないか。鉄道が通ってしまえばもう鉄道のない昔には戻れないが、なまじ中途半端に鉄道線路が敷かれてあると、余計に道中の大変さが思いやられる。(つまり幕末のお伊勢参りは、それなりに楽しかろうと想像もできるが、そして現代に東京から三重県まで歩いて旅するとしても、それもまた一興であろうが、明治の前半に何らかの私的要請から、ぶつ切れに開通した鉄道を使って、伊勢-東京間を移動しなければならないというのは、悲惨以外の何物でもないであろう。)
 その少しだけ前のことになるが、明治25年に徳田秋声桐生悠々と一緒に、金沢から始めて上京したときは、金沢から直江津まで歩いて、直江津から長野までは鉄道が開通しているのでそれを利用し、それから再度徒歩で碓氷峠を越して、高崎からまた汽車に乗って上野に着いたという。(秋声『光を追うて』による。)
 秋声には悪いが思わず笑ってしまうような難儀旅(片道6日間か)である。芭蕉伊能忠敬が日本中を歩き廻ったからといって、(徒歩旅行自体は)面白くも何ともないが、結句(鏡花によって紅葉に)居留守を使われたのでは、たまったものではあるまい。その秋声にしても、じきに米原経由で東京金沢を1本の線路で往復することになるのだから、桐生悠々との旅は単に昔話で済むことであろうが、そんなことはともかく、当時の人々は新潟から上京するときには、長らく直江津-長野-高崎ルートを使用していた。(漱石が長野に行ったときも高崎から行っている。)
 先生はおそらく、さすがに(信越線は全通していたので)徒歩の区間はないものの、ほとんど2日近くかけて新潟東京を往復していたと思われる。冬休みや春休みには帰省の話が出なかったのも頷ける。1週間か10日の休みに、移動に往復3日も4日もかかっていたのではお話にならないからである。

 ちなみに新潟から高崎まで最短距離で繋がったのは、清水トンネルが出来たときであり、それは何と(先生自裁の20年後の)昭和6年のことである。新潟と首都圏を直接結ぶ鉄路は、日清日露でも第1次世界大戦でもなく、日中戦争の手前でやっと貫通したのである。新潟の古名「白山島」は、公式には信濃川の中州の名に由来するらしいが、もしかすると(太宰治佐渡ヶ島を一瞬満洲と思ったように)、江戸の人間にとって新潟は、(北海道や琉球のような)化外の地だったのかも知れない。だからといって先生を化け物扱いする気はさらにないが。

 余談ついでに言うと、本ブログ「彼岸過迄篇」の始めに取り上げた『雪国』は昭和9年に書かれたもので、冒頭の誰もが知る有名な国境の長いトンネルというのは、大変な苦労の末に、3年前にやっと出来た清水トンネルのことである。
漱石「最後の挨拶」彼岸過迄篇 2 - 明石吟平の漱石ブログ

国家としては(その昭和9年に完成した丹那トンネルとともに)半世紀をかけた宿縁のトンネルとも言うべきシロモノである。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」

 という書き出しは、通俗小説というのはこういうものであるかという感を、改めて抱かせるものである。(別に通俗小説だからどうだと言っているのではない。ドストエフスキーシェイクスピアも通俗小説である。時代を超えて読んで面白い。)
 完成したばかりの国家プロジェクトであるトンネルを、ただの国境の長いトンネルと書くのは、芸術家の良心とも言えるし、単に世事に無関心とも取れる。そして雪国に住む者にとって、部屋の中からであれ汽車の中からであれ、夜に窓から外を見た場合、(雪が止んでさえおれば)常に下3分の1が白く、残りの3分の2は真っ黒けである。川端康成は正しく書いてはいる。しかしそれを「夜の底が白くなった」と書くのを、旨く書けていると言ってもいいにせよ、そんなに奉り上げるものでもなかろう。作者はこの部分の記述をことさら褒められることを、喜ばないのではないか。
「夜の底とは何ぞや」
 純朴な読者にこう訊かれた作者は、顔を赫らめるのではないか。