明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 26

400.『道草』番外編(6)――長谷川如是閑『始めて聞いた漱石の講演』


 漱石の事績に関して、如是閑はもう1つ回想文を書いている。
 随分後年になるが昭和12年、決定版と称する4次漱石全集の月報に、『始めて聞いた漱石の講演』というのが出た。頁をざっと見渡すと、『創作家の態度』という漱石のごく最初期の演題が目に入る。スワこれがやはり如是閑が漱石を見た始めではないかと意気込むが、そうとも限らないようだ。
 これまでの行きがかり上、こちらも(新仮名遣いに直して)全文引用したい。

長谷川如是閑『始めて聞いた漱石の講演』(初出昭和12年10月漱石全集第19巻月報)

 私が大阪朝日にいた頃のことである。社で催す講演会に漱石にも出て貰うことになった。①たしか明治四十一年か二年だった。当時の大阪朝日にはまだ漱石の講演振りを知ったものはなかった。ただ一人今は名誉主筆の高原蟹堂が、高等学校時代に漱石のお弟子だったので、講義のうまいことは云ってたが、大衆向きの講演は知らなかった。私も個人的には余りよく漱石を知っていなかったし、小説も朝日に出た②虞美人草』と『坑夫』、その以外に『琴のそら音』『草枕』それ位しか読んでいなかった。有名な『猫』もまだ読んでいなかった。『坑夫』などを読んだ感じでは、話はうま相だが、座談では寧ろむッつりやらしく、いわゆる座談家ではないようだった。むろん大衆向きの講演などが得意の人のようではなかった。で講演を頼む時にも、私は、要するに此方の方面では、ただ漱石の名前で人を寄せて、③あの『文学論』のような講壇風の話で、上方の聴衆に欠伸をさせることになるだろうと思っていた。
 ④その時大阪駅漱石を迎えたのは、私と、当時の営業部長今は同社の大元老の小西勝一君との二人であった。旅宿の多景気楼へ同君を送り込んで暫時話して帰りがけに、小西翁は私に、漱石という人はもっと先生風の高慢らしい人かと思ったら、寧ろ東京の町家の旦那といったような風采なので驚いたといっていた。洋服もプロフェッサーの着るような黒ッぽいのではなく、派手でもないがじみでもない色合の霜降りのような背広で、変りチョッキを着ていたが、話し振りも、いかにも⑤江戸の下町の少しむづかしい主人公といった処もないでもなかった。⑥落ちついた話っ振りで話しながら、そのヂェスチュアーに江戸ッ子特有のこなしがあって、私にはいつもそれが、高座の落語家の極上品なのの態度を想い出させたのであった。小西君をして「東京の町家の旦那」と云わしめたのは、そうしたヂェスチュアーだったろう。
 ⑦小西君はまた、漱石という人は、学者や文士らしく投げやりやずぼらを自慢するような人だろうと思っていたら、恐ろしく几帳面な人だったと云った。その時に、漱石が前に執筆の都合で講演の依頼を拒絶したことがあったのについて、極めて丁寧に申訳をしたので、そんなに感じたのだったろうが、小西翁はその後も屡々漱石が事務的に忠実な人だということを繰り返して感謝していた。漱石も小西翁には好感がもてたと見えて、私への手紙にはいつも「小西摂津守殿へよろしく」と書いていた。⑧此小西翁は朝日創業以来の村山龍平翁の股肱で、純大阪人に似合わず、云うことも為る事もテキパキしていて、言葉のアクセントさえ少し何うかすれば江戸ッ子としても充分通るような人物だったので、漱石には多少は案外で、好感がもてたのかも知れない。
 ⑨愈々講演の夜である。その時分はまだ今の大阪公会堂が出来ない前で、木造の相当大きい建物だったが、超満員で演壇にまで聴衆を坐らせる騒ぎで、講演者はテーブルの傍で講演が出来ないで演壇の前の方に立ってやった。
 当夜は漱石の前にはやはり社員の故本多精一氏が得意の財政演説をやったが、すばらしい雄弁で踊るようなヂェスチュアー入りで、盛んに政府の財政を攻撃して聴衆を湧したので、その後でじみな文学論をやる――⑩たしかあの『創作家の態度』というのがその時の講演の筆記だった――漱石の迷惑想うべしと、私は聞くのもつらいようだったが、愈々漱石が演壇に立って一言二言話し出すのを聞いて私は全く驚いた。政談演説の会場のようにざわついている真中で文学論などを落ちついてやる気分も出なかろうし、第一演説使いのような声でなければ通らない会場なので、大声で講義じみた講演を何うしてやるかと心配してたのだが、少し聞いているうちにそんな心配がとんだ見当違いであったことを知らされて私はほんとうにホッとした。
 漱石は、ざわついた会場の空気に応じた、言葉とヂェスチュアーとで先ず聴衆の心理を捉えて置いて、徐ろに話をすすめて行ったが、私の最も驚いたのは、大劇場で世話物を演ずる俳優のように、通常の会話風の言葉を大声で語り得る技術だった。これは今日でもまだ新劇の連中などには充分出来ているとはいわれないほど修練を要するものだが、⑪漱石はあの座談風の言葉を二千人もの聴衆で埋めている会場に行き亙るように発声することが出来るのである。これには全く驚ろかされた。
 相当むずかしい問題を通俗に崩して話す手際に至っては、これは⑫その時分慌てて私のよんで見た『猫』によっても多少は察しられたが、羨ましいと思って見た処で始まらないが、全く羨ましいと思った。その時分の大阪の聴衆には馴染のない内容だったろうが、彼等は多分始めて文学及び文学者というものについて、珍しい、面白ろい、彼等にも充分呑み込まれる、そうして親しまれる話を聞いたと感じたであろうと私は思った。それほど聴衆の嬉しがったことが私共にも解ったのである。(長谷川如是閑『始めて聞いた漱石の講演』全文引用畢)

 漱石が関西の4都市で講演を行なったのは明治44年8月である。前述のように、明石・和歌山・堺・大阪で務めを果たし、帰京の直前倒れて湯川病院に鏡子夫人も駆け付けるという大変な旅行となった。①の明治41、2年というのは単に思い違いをしているのか、26年前のことで記憶が曖昧になっているのか、あるいは企画段階の話で、如是閑が大阪朝日に入った頃からそういう構想があったと言いたいのかも知れない。時期をピンポイントで指さない、如是閑の書き癖のような感じもする。
 ②もまた如是閑は入社当時には漱石作品にそれほど興味はなかったようで、明治41、2年の頃にはそうだったのであろう。しかし『額の男』の書評を書いてもらったり、朝日の先輩作家にして文豪の道を歩み始めた漱石を読まないでは済まされない。『猫』をあわてて読んだ(⑫)というのはご愛嬌だが、(そこいらの小説好きとは違うという)如是閑の矜持の表出とも取れる。『文学論』にまで目を通しているからには(③)、結局如是閑は漱石を全部読んでいたのだろう。
 ④の「その時」というのは、これは間違いなく明治44年8月11日金曜日のことである。梅田駅に漱石を出迎えたのは、漱石の日記によると如是閑と高原操である。如是閑が小西勝一と2人で迎えたと書いた理由は不明だが、⑦~⑧に如是閑自身も書いているように、漱石と通じ合うものがあった「小西摂津守」を登場させることにより、漱石へのオマージュとしたのだろうか。もっとも五高で教え子だった高原の名を冒頭ですでに出しているので、重ねて使いたくもないという意識が働いたのだとすれば、とんだ作家魂というべきであろう。
 また⑤⑥は、前項までの『初めて逢った漱石君』の眼目たる「江戸の下町っ子ぶり」が繰り返し強調されている。⑪もその延長線上に現われた漱石の特技であろうと、論者も前項で述べた。

 それでこの時の講演⑨は、明治44年8月18日大阪中之島で行なわれた『文芸と道徳』に違いないのだが、如是閑は演題をなぜか『創作家の態度』と書いてしまっている(⑩)。『創作家の態度』は明治41年2月、前にも述べた通り如是閑が大阪朝日に入社する頃神田の青年会館で行なわれた漱石最初期の講演で、その内容はほどなく「ホトトギス」に全文掲載された。
『創作家の態度』は文芸における物の見方・叙述の仕方を、自然派とか浪漫派の譬えを用いて解説したもの。『文芸と道徳』は大阪公会堂での真打として、おそらく漱石にとっては過去最大の聴衆を前にして、それでも臆することなく、道徳と文芸は、浪漫主義と自然主義・理想と現実・建前と本音のように相容れないものの代表のように取られるかも知れないが、その実両者は不可分で、浪漫主義も自然主義も文芸の目指すところは共通している如く、倫理を離れた文芸は存在し得ない、つまり道徳と文芸は一体として明治以来発展してきたというような内容である。
 演題名は単なる如是閑の勘違いとも考えられるが、如是閑が以前に神田で漱石の『創作家の態度』を聴いていた(あるいはホトトギスで読んでいた)可能性もなしとしない。明治41年に聴いた講演と明治44年に聴いた講演が、30年近く経ってごっちゃになっているのであろうか。慥かにジャーナリスト如是閑にとっては、漱石の文芸的倫理的な講演内容は、直接興味を惹くものではなかったに違いない。

 それはともかく、ことのついでにここで漱石の全講演なるものを掲げてみたい。
 下に列挙した全14講演は岩波の漱石全集の示すところに拠るが、太字で二重鍵括弧のタイトルは全集の「評論」の巻に収められているもので、文責が漱石にあるためと思われる。太字でないものは「別冊」の巻に収録されているので、こちらは「談話」のような位置付けなのであろう。演題に続く括弧書きは活字で発表された紙誌名(底本)、その次の頁数は岩波の定本漱石全集における頁数を参考までに附す。ただし組版は「評論」が 44字✕16行、「別冊」は 45字✕17行である。
 ちなみに「小説・小品」の巻は概ね 43字✕15行であるから単純に比較できないものの、『坊っちゃん』152頁、主人公たちが自分の意見をしゃべりまくる『二百十日』は83頁、『文鳥』20頁、『夢十夜』32頁、『永日小品』87頁、『硝子戸の中』100頁等々である。

1. 明治38年3月 明治大学「倫敦のアミューズメント」(25頁)
2. 明治40年4月 東京美術学校『文芸の哲学的基礎』(朝日新聞)(74頁)
3. 明治41年2月 東京朝日『創作家の態度』(ホトトギス)(90頁)
4. 明治42年9月 営口日本人倶楽部「趣味に就て」(満洲新報)(4頁)
5. 明治44年6月 信濃教育会(長野)「教育と文芸」(信濃教育)(20頁)
6. 明治44年6月 信濃教育会(高田)「高田気質を脱する」(高田日報)(4頁)
7. 明治44年6月 信濃教育会(諏訪)「我輩の観た職業」(南信日日新聞)(12頁)
8. 明治44年8月 大阪朝日(明石)『道楽と職業』(朝日講演集)(25頁)
9. 明治44年8月 大阪朝日(和歌山)『現代日本の開化』(朝日講演集)(26頁)
10. 明治44年8月 大阪朝日(堺)『中味と形式』(朝日講演集)(22頁)
11. 明治44年8月 大阪朝日(大阪)『文芸と道徳』(朝日講演集)(24頁)
12. 大正2年12月 第一高等学校「模倣と独立」(一高校友会雑誌)(13頁)
13. 大正3年1月 東京高等工業学校「おはなし」(浅草文庫)(8頁)
14. 大正3年11月 学習院輔仁会『私の個人主義』(「金剛草」)(35頁)

 4.「趣味に就て」は前半部分が欠落しているので(これが本当の「断片」か)、本来ならこのリストに入れるべきではないかも知れない。1.「倫敦のアミューズメント」も、漱石ホトトギスに『吾輩は猫である』を発表した頃とはいえ、明らかに大学の英文学講師としてしゃべっており(「私が夏目先生です」という語り出しで笑いを取っている――おそらく主催の学生側から、それでは夏目先生お願いします、とでも紹介されたのであろう)、内容もロンドンのガイドブックの受け売りのような、『猫』の続篇に使えそうなネタを並べたもので、小説家としてのその後の講演群とは一線を劃す性質のものである。この2つを除外すると漱石の全講演は14でなく1ダースということになる。
 もっとも2.『文芸の哲学的基礎』も、項立てした速記録に漱石の加筆が入って分量もかなり増えたということだから、講演というよりは講義録に近いのかも知れないが、それを言い出すときりがない。ともかく初期の講演が『文芸の哲学的基礎』『創作家の態度』の2箇、明治44年「講演 year 」が7箇、大正時代3講演で、合わせて12講演である。とくに明治44年は小説の書かれなかった「空白の1年」で、その代償として生涯の講演の半数をこなしたとすれば、漱石の(朝日や読者に対する)律儀さに頭が下がる。

 さらについでに、漱石の小説( novel )をその頁数と共に列挙してみよう。年次はおおむね発表ベースで、頁数は題簽にあたる頁や白紙の頁を含めない。

1. 明治38年『猫』(566頁)
2. 明治39年『坊っちゃん』(152頁)
3. 明治39年『草枕』(169頁)
4. 明治40年『野分』(197頁)
5. 明治40年『虞美人草』(454頁)
6. 明治41年『坑夫』(267頁)
7. 明治41年『三四郎』(336頁)
8. 明治42年『それから』(341頁)
9. 明治43年『門』(264頁)
10. 明治45年『彼岸過迄』(345頁)
11. 大正2年『行人』(446頁)
12. 大正3年『心』(298頁)
13. 大正4年『道草』(316頁)
14. 大正5年『明暗』(686頁)

 明治44年が前述の「空白の年度=講演 year 」であることがよく分かる。その原因は明治43年夏の修善寺の大患にあったわけだから、本当に漱石は几帳面で規則正しい作家であったと、重ねて述べたい。(この几帳面さは後に太平洋戦争時にもほとんど運筆速度を変えなかった太宰治を思わせるものである。)
 漱石の残したこの14作品から、真に偉大な作品ということで、『野分』と『坑夫』を除いた1ダースを、漱石ファンは均等に愛しているはず、とは先に(第17項)述べたところ。
 それでは短篇小説や随筆集等の「その他作品」はどうなっているか。

1. 明治38年『倫敦塔』(27頁)
2. 明治38年『カーライル博物館』(22頁)
3. 明治38年『幻影の盾』(37頁)
4. 明治38年『琴の空音』(41頁)
5. 明治38年『一夜』(22頁)
6. 明治38年『薤路行』(37頁)
7. 明治39年『趣味の遺伝』(61頁)
8. 明治39年『二百十日』(83頁)
9. 明治41年『文鳥』(20頁)
10. 明治41年『夢十夜』(32頁)
11. 明治42年『永日小品』(87頁)
12. 明治42年『満韓ところどころ』(125頁)
13. 明治41年『思い出す事など』(95頁)
14. 大正4年『硝子戸の中』(100頁)

 1. ~8. は漱石全集に短篇として収められているものの残りすべて。9. と10. は「小品」から論者が勝手に「抜擢」したものであるが、『文鳥』と『夢十夜』が短篇小説であることに異論はないだろう。
 なぜぴったり14作品なのか。『一夜』(22頁)や『文鳥』(20頁)がコントなら、明治44年の『手紙』(21頁)もその列に加えるべきではないかという意見に対しては、ごもっともと言うしかない。(『倫敦消息』や『自転車日記』は、昭和の漱石全集では「小品」でなく「初期の文章」扱いされていた。)
 岩波漱石全集の謂う「小品」の中から、随筆集とともに『道草』の先行作品として、『文鳥』と『夢十夜』をピックアップしたいきさつについては、本ブログで書いて来た通りであるから、詳しくはそちら(第12項・第13項)をご覧いただくとして、1ダースにこだわるなら、やはり『文鳥』と『夢十夜』は最初から除外するということになる。(※1)

 さて漱石作品メインの14大小説を頁数の多い順に並べ替えると、

1. 大正5年『明暗』(686頁)
2. 明治38年『猫』(566頁)
3. 明治40年『虞美人草』(454頁)
4. 大正2年『行人』(446頁)
5. 明治45年『彼岸過迄』(345頁)
6. 明治42年『それから』(341頁)
7. 明治41年『三四郎』(336頁)
8. 大正4年『道草』(316頁)
9. 大正3年『心』(298頁)
10. 明治41年『坑夫』(267頁)
11. 明治43年『門』(264頁)
12. 明治40年『野分』(197頁)
13. 明治39年『草枕』(169頁)
14. 明治39年『坊っちゃん』(152頁)

 以前にも述べた論者のベスト3は、『明暗』『猫』『坊っちゃん』という一般的なものであるが、最も長いものと最も短いものがそれに該当している。
『明暗』と『猫』のどちらが字数が多いかという問題については、頁数でいえば結論は出ているのであるが、『明暗』はセリフや改行も多く、連載回の表示もあって全体に白っぽい感じであるのに対し、『猫』の方はとくに前半は頁に活字がぎっしり詰まっているようにも見え、本当は字数を数えたいくらいである。
 もちろん頁数の多寡は作品の価値に直接関係しないが、上表の『行人』と『彼岸過迄』から、「塵労」と「雨の降る日」を除外してみると、『行人』はお直の下宿訪問で終わるから 330頁くらい、『彼岸過迄』も 320頁になり、漱石本来の作品のボリュウムというものが分かるのではないか。つまり漱石のどんな作品も、分量的には『三四郎』と『それから』を超えないのである。だとすると漱石が『虞美人草』を自分のカタログから外したがっていた理由も納得できるし(饒舌過ぎるのである)、『明暗』が(『三四郎』と『それから』の)「2冊分」を超えたところで強制的に終了してしまったのも、ミューズの怒りに触れたからという言い訳も可能ではないか。(※2)
 まあそれは乱暴な議論であろうが、『猫』と『明暗』が別格だということは、頁数だけから見ても言えると思う。破格の『猫』は規則づくめに生きた文豪漱石を生み、同じく『明暗』の破格によって、規則正しいことを好んだ文豪はその人生の幕を閉じたというわけである。

※注1)14でなければ12
 こじつけるわけではないが、14でなければ12というのは、要するに「13」を忌むということである。フィボナッチ数列にもあるが、8とか13という自然界の(花びらの)数を避けるという意味である。それは神が優先して既に使用済なのだから。

※注2)『明暗』の臨界点
『明暗』が『三四郎』や『それから』のボリュウム(340頁)を超えるのは100回のあたり、津田が病室で妹と大喧嘩になっているところへ、お延がすうと姿を現わすという(映像としても)刺激的なシーンである。
 このとき病院の玄関で女物のよそ行きの履物を見たお延が、津田の「あの女」の来訪を疑うという、論理的に穴のある進行については、前著(『明暗』に向かって)執筆の主たる動機にもなったのであるが、本ブログでも三四郎篇とそれから篇の合間に再度紹介したことがある。(お延「女下駄」事件)
 お延は既に、下女から津田の妹が病室に来ていたことを聞いていたのであるから、お延が何らかの勘違い・失念をしたとしても、それを作者までが excuse なしに見逃すのは、作品にとって重大な瑕疵であろうというのがその趣旨である。