明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 1

375.『道草』はじめに(1)――道草を食ったのは誰か


 本ブログは『三四郎』『それから』『門』の初期(青春)3部作、『彼岸過迄』『行人』『心』の中期3部作のあと、晩期3部作の緒篇、『道草』に入るはずであったが、その前に、『坊っちゃん』『草枕』『野分』の「明治39年怒りの3部作」に寄り道してしまった。
 次に進むべき路は『野分』の次回作『虞美人草』かも知れないし、さらに遡って『猫』かも知れないが、『虞美人草』は漱石自身が否定的に捉えている作品であるし、『猫』はただの dilettante に過ぎない論者(筆者自身のこと、以下同断)には余りに荷が重い。

 ということで、ここで晴れて『道草』に戻ることにする。『道草』は場面や時期ごとに人物や題材が錯綜して、(語り口の練達につい見過ごされてしまうが、)決して読みやすい小説ではない。それはちょうど直前に書かれた『硝子戸の中』のように、作者の様々な人生の断片が読者の前に提示され、読者は作者(とその分身の健三)の人生観にある共感・同情を覚える、あるいは殺伐とした気持ちになる。しかし『道草』は随筆ではない。作者の(健三の)感情や考えを述べることが主目的ではない。これは健三を三四郎や津田由雄に置き換えてみれば容易に想像がつくように、彼ら主人公の「感情や考え」は素材ではあっても、小説『三四郎』『明暗』のテーマではありえない。
『道草』は自伝ふうに書かれているかも知れないが、漱石の自伝小説ではない。それを謂うなら『坊っちゃん』の方がまだ近いだろう(あるいは『猫伝』でも)。『道草』はまた正宗白鳥のような自然主義文学でもない。漱石自然主義文学者であったことは1日たりともない(※1)。
 3部作の話でいえば、『道草』は、『心』と『明暗』をつなぐ1作品であると同時に、(『三四郎』で)職業作家になった漱石が建造しようとした「9階建」の構築物の、7階部分にあたる作品であるとも言える。(9つの交響曲を書いた)19世紀の偉大な誰彼の交響曲作家でいえば、7th symphony ということになる。――ただしこの9階建のビルは、3階ごとにその用途・機能が異なるというのが、論者の謂う3部作理論(※2)である。

『道草』全102回は、荒正人の年表によると大正4年5下旬(末)から同年9月上旬まで執筆されたことになっている。慥かに5月31日の書簡に「今午前中は忙しいから時間が取れない、午後には云々」とあるので、もう書き始めていることが伺われる。そしてその時期少なくなった書簡が、9月になると午の消印も含めちらほら現れるから、もう小説は結びが見えているのだろう。連載回でいえば94回以降、百円と書付を交換する最後のくだりである。そして9月10日午前中の2本の(儀礼的な)書簡を見ると、『道草』はまさに9月9日に脱稿したことが推測される。
 5月31日から9月9日までの総日数はちょうど102日である。1日1回とはいえ、あまりにもぴったり合い過ぎているのが却って不安だが、この間漱石の生活に、急用急病等1回分書けなかった日が発生したような感じもないから、まあこの日程で書いたのだろう。規則正しいのは漱石の本分であり本領である。

 次になぜ養父母のこと、自分の生い立ちのこと、妻とのあからさまな不和を書いたかであるが、いつかは書かなければならないテーマであったにせよ、この小説で正面切って、しかもまとめてそれらを採り上げたのは、理由があるはずである。
 実の両親から棄てられて他人の家庭で育つ。里子・養子は当時珍しいことではないにせよ、やはり漱石にとって暗黒歴史であることは間違いない。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事だけは記憶して居る。吾輩はここで始めて人間というものを見た。・・・(『猫』冒頭)

 という処女作の書出しの1節は、漱石にとっては自分の出生の深淵に触れる、魂の叫びであった。――すぐあとから現れた『猫』の無数のパロディが、いずれも全く機能せずに了ったのは、模倣者たちが漱石の「生みの哀しみ」に気付かなかったせいもあるだろうが、漱石がそれを(太宰治みたいに)最初から公言しなかったことにもよる。

 一方家庭内における鏡子との諍いは、そのこと自体は書くに値しないような、所謂犬も喰わない話の類いであろうが、夫婦を書くということについては、漱石は『猫』以来常にそのタイミングを計っていたと思われる。その最初の試みは、前回までの本ブログ野分篇でも述べてきたように、『野分』でなされたと言ってよいが、道也御政の夫婦は、苦沙弥と細君を超えるものではなかった。唯一中野君夫妻が後の作品群の起点になったようにも見えるが、それまでの習作(『琴の空音』『趣味の遺伝』)等の若い男女の延長に過ぎないと見れば、『野分』の役割は限定的である。

 漱石はしばらく「夫婦」には近寄らなかった。朝日入社後の『虞美人草』『坑夫』『三四郎』で漱石は、(まるで朝日や読者に遠慮するかのように)夫婦を描かなかった。入社3年目の『それから』から4年目の『門』にかけて、漱石は始めて小説的な夫婦を描いた。つまり自分たち夫婦と全く別の、俗に言う好き合って一緒になった若い夫婦のことを描いた。
 二番煎じ・名人芸を嫌う漱石は、この夫婦の複製を作らなかった。この若い夫婦の「それから」を書かなかった。宗助御米の後継者は(彼らの児が育たなかったように)、その後の漱石の世界を生き続けることがなかった。(大きく出るようであるが、夫婦の「成長」を描いた文学は世界的に見ても存在しないのではないか。人はいくつになっても成長しうるが、あたかも夫婦が成長することはない、とでも謂わんばかりに。)
 その代わり、『行人』で漱石はまた違った夫婦の世界に踏み込む。それまで誰も書かなかったような、
「傍から見ると赤の他人のように見える夫婦」
 である。『行人』長野一郎お直の夫婦は、実物の漱石夫妻と、封印した宗助御米の夫婦から生まれた「変種」である。漱石は一郎お直の新しい夫婦像を際立たせるため(あるいは目立たなくするため)、珍しくも長野家の両親を2人とも生かして小説に登場させた。主人公の親たる両親、あまつさえ孫までもつ夫婦が小説に出て来るのは、後にも先にも『行人』だけである。(『明暗』京都の津田の両親にも孫はいるが、この両親は表舞台には出してもらえない。考えにくいことではあるが老親が可愛い孫の顔を見た形跡がない。)

 さすがにこの話は分かりにくかったかも知れない。「赤の他人のような夫婦」と言っても、夫婦はもともと他人であるし、昔の時代の夫婦も、「家」の中の単なる子作り装置であったと言えなくもない。(漱石の書くような)「夫婦らしい会話」のない夫婦の存在は珍しいものではなかった。――同時代の自然主義文学の中でさえ、それはふつうに存在していたと思われる。
『行人』では一郎お直の夫婦の系図より、二郎とお直の所謂パオロとフランチェスカ事件の方に読者の関心が向かってしまったようである。あるいは一部の評家には自然主義への露骨なあてこすりと映ったかも知れない(庶民にはダンテも神曲も無縁なのだから)。『行人』の評価が一般的に高くない理由もそこにあるのだろう。誰も漱石の「夫婦のあり方」についてのこだわりを識るものはなかった。
 漱石は弁解する代わりに、『心』でさらに異質の夫婦像を提示した。といって小説『心』の主題は決して「夫婦のあり方」ではない。『心』は夫婦を描いたものではない。『心』では「夫婦」は単なる後日談みたいに(添え物的に)扱われる。
 それでも夫婦の視点で『心』を解釈すれば、この小説にまた別の方向から光を与えることも可能になってくる。先生の奥さんに対する態度は、現代からすればある種の虐待にあたるだろう。奥さんの尤もな疑念に故意に何も答えないからである。先生の自裁はそのことに対する(作者による)死刑判決であるというのが、本ブログ心篇のもう1つの結論でもあった。

 裁判の話はさておき、青春3部作、中期3部作を経て、やっと本来の自分たち夫婦に戻って来たのが、大正4年の『道草』であろうか。漱石永眠の前年、完結した漱石最後の小説である。その『道草』というタイトルは、書かれた小説の中身(養家との軋轢・自己の生い立ち・夫婦の諍い)を直接評価しているのではなく、それまでの10年に喃々とする、(作品における)夫婦像についての「迂遠な廻り道」そのものを指すのだろう。その意味で『道草』の遠い先行作品は『野分』であり、その始祖は『猫』であったと言える。
 明治38~39年の苦沙弥・細君、白井道也・御政の夫婦から、「苦節十年」を経て健三・御住の夫婦が甦った。漱石はこれを「道草」と言いたかったのだろう。

注※1)漱石自然主義者でない理由
 自然主義文学はありのままを書く。それは漱石も同じである。しかし自然主義の作家は書きたくないことであっても、それが自己の真実ならそのまま書く。むしろ書きたくないけど(敢て)書くということが読者に伝わらなければ(日本の)自然主義者とは言えまい。漱石にそれはない。漱石は自分の書きたくないことは絶対書かない人である。

注※2)漱石の3部作理論
 建築科志望だったこともある漱石は、職業作家を意識して小説を書き始めたときから、自分の作物を3階建の建物に擬して構築した(と論者には信ぜられる)。

・青春3部作 『三四郎』『それから』『門』
・中期3部作 『彼岸過迄』『行人』『心』
・晩期3部作 『道草』『明暗』『(幻の最終作品)』

 これを9階建のビルに喩えたわけであるが、漱石は最初『猫』(上篇・中篇・下篇)という、それまで誰も見たことがないような趣味的な(数寄屋造りみたいな・寄木細工みたいな)家を作った。その家は案外にも評判が好かったので、新たに『坊っちゃん』『草枕』『野分』という(3棟構造の)別荘を建てた。それから多くの人の要請を受けて、いよいよ「本丸」(お城)を拵えようとしたが、『虞美人草』『坑夫』で不具合に気付き建築を中断した(それは例えば城門・櫓として今も残る)。仕切り直しの漱石はそのあと改めて9層の大天守に着手した、――というわけである。