明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」道草篇 2

376.『道草』はじめに(2)――漱石はなぜ『道草』を書いたか


『道草』のテーマは次の3点である。

 養父母との確執。
 生い立ちの暗い翳。
 夫婦の葛藤。

 については、『道草』が最初で最後の言及になるだろう。漱石にとってはなるべく書きたくない話だからである。についてもそれは言えるが、漱石は自己の幼少期を隠していたわけではなく、部分的に吐露しているところも多い。しかし肝心な1点について、漱石は相変らず沈黙しているように見える(例えば自分でははっきり断定できない初恋の経験みたいに)。については、前項で述べたように、漱石は最後の3部作で「夫婦のあり方」にある決着を付けようとしていたのではないか。
(このⅠ・Ⅱ・Ⅲは自分だけの力では解消しようもないものであるが、緩和剤になると思えるものが1つだけ存在する。それは金である。金は『道草』の主要なモチーフにもなっている。『道草』に限らず、漱石が自分の小説に金のことばかり書き込むのは、それが内在されているからではないか。――毒を以て毒を制すではないが、金の話が、他にどうしようもない自分の小説のテーマの、解毒剤として使われているのではないか。)

 改めて考えると漱石が『道草』で、思い出すのも忌々しい養父母のことを書く気になったのは、大正4年3月、1週間ほどの予定で最後の京都旅行に出かけたすぐあと留守宅に届いた、塩原昌之助が(形だけにせよ)養子を迎えたという報せが、その直接のきっかけだったのではないか。一度不縁に終わったらしいが、であれば余計に今回こそ収まる話だろう。絶縁したとはいえ、因縁まで消滅したわけではない。「世の中に片付くなんてものはない」と『道草』の末尾で言っているように、漱石はいつまでも養父母のことが引っかかっていたのである。
 そして京都を引き揚げようとした矢先の悶絶。鏡子まで駆け付けて、結局帰京は3週間延ばされた。そのとき(せっかちらしく)先手を打ったかのように(脳溢血で)亡くなった異母姉高田房。その亭主たる従兄にして義兄の高田庄吉も、(『硝子戸の中』によると)その少し前に亡くなっている。漱石の大正4年2月8日の日記(家計簿)に「高田香奠5円」とあるから、おそらくそれだろう。『道草』は島田と(姉の)御夏を書いた小説であるとも言えるが、漱石は自身の健康状態も併せ考え、一度は書かねばならないと思っていた自分の生い立ちのことを、急ぎ次の小説に詳細に書き込む決心をしたのだろう。
 漱石は姉夫婦に忖度していたわけではない。漱石は誰にも憚らず小説を書いた。その証拠に『道草』でも父はともかく、養父母やその係累はおろか、現存の兄や鏡子の親族にさえ気を遣っている形跡はない。(『道草』に限らず、この文豪は漱石は早くから、松山中学の仲間や平塚雷鳥、大塚保治楠緒子夫妻の気持ちすら斟酌することはなかった。)
 漱石は(周囲の人間とはとりあえず無関係に)寿命について正しく、確信したに過ぎない。

 その漱石の余命を奪った胃潰瘍でいえば、このとき既に何度目かのダウンであった。都度回復はするものの、病気には馴れっこになっているものの、いつ書けなくなってもおかしくない状況の中で、祇園お茶屋で(芸者たちに囲まれて)横臥するという、自分の人生にあるまじき「勲章」にも力を得て、自分の生い立ちを綴る気になったのだろうか。現実にも次の『明暗』執筆中の発作で絶筆となったわけであるから、この「京都の変」が漱石にとって最後の「(テンカウント以内に立ち上った)ダウン」ということになる。夫婦の愛について取り組もうと決心したから芸者に好かれたのか、芸者と交際してみて夫婦という男女関係の特異性に改めて気付いたのか。

 前述の生い立ちの昏い翳で、1点残った「捨て子事件」であるが、これは書かれることなく終わったようにも思われる。『道草』で書かれた養子事件は、一応健三3歳以降の話である。実際には金之助は生れるとすぐ養子(里子)に出されているから、1歳から3歳までの「生後2年間――より精確には生後1年半」の消息が不明である。夏目の両親が(貰い乳をしたにせよ)その1年半ないし2年間赤ん坊の面倒を見たというなら、漱石のすべての悲劇は幻想である。問題は何もない。例えば金之助は3歳から7歳まで武者修行に出ただけである。あるいは坊っちゃんは3歳から7歳まで乳母に育てられただけである。少年時代に清に可愛がられ(過ぎ)て育っただけである。
 しかし事実はそうでないようだ。その2年間も含めて塩原側の世話になったのか(塩原家はそう主張するが)、また別の家に出されていたのか。漱石に記憶があるはずもなく、いまだ真相は闇の中にある。

『道草』のテーマについて、なぜそれらを書く気になったのか、改めてその理由は次のようにまとめることが出来よう。

①塩原の新たな養子縁組。
②姉夫婦(高田夫婦)の死と自身の「最後の」大病。
③新しいテーマ「夫婦のあり方」への作家としての取り組み。

 漱石は『猫』(苦沙弥と細君)と『野分』(道也と御政)で夫婦を描き、『坊っちゃん』と『虞美人草』ではまったく書かなかった。『草枕』(那美さんと野武士)は微妙である。書いてあるとは言い難いが、まったく書かなかったわけではない。
 総括風にリライトすると、

・『猫』〇・『坊っちゃん』✕・『草枕』△・『野分』〇・『虞美人草』✕

 となるが、『猫』や『野分』にしても夫婦について正面から取り組んだ作品ではない。『野分』にかろうじてその兆しが見えるとは先に説いたところ。
 3部作に入ってからはどうか。同じまとめ方で次のようになる。

《夫婦の描かれ方度合い》
・青春3部作
 『三四郎』✕・『それから』△・『門』〇
・中期3部作 『彼岸過迄』✕・『行人』〇・『心』△
・晩期3部作 『道草』〇・『明暗』△・『幻の最終作品』✕

三四郎』では主人公は結婚していない。美禰子は最後に結婚したが相手の名前も定かでなく、夫婦としての描写もほとんどない。『それから』は平岡夫妻の生活は描かれるものの、それはすぐと破綻する。代助は三千代と結ばれる(ように書かれる)が、小説はそこで終わっている。
彼岸過迄』もまた主人公(市蔵・敬太郎・千代子)は独身のままである。小説には松本・田口2組の夫婦も登場するが、夫婦としての描写も会話もないに等しい。ここで述べることではないかも知れないが、須永市蔵の母は長姉であり、すぐ下の妹が田口の妻、弟が松本恒三である。田口夫妻に夫婦の会話がないのはいいとしても(松本夫妻もあまり会話はない)、市蔵が田口の妻(千代子の母親)になつかないのはどうしたわけであろうか。市蔵は母を愛しているが、その母と血を分けた、たった1人の叔母に親しみを感じない(ように書かれる)のはなぜだろう。――ここに市蔵の血の秘密に対する伏線があるとするのは、それこそ漱石の嫌う小刀細工である。市蔵は単に富裕層に近い田口一家に気後れを感じていただけなのだろうか。千代子は好きだが自分には金がない。あの女を娶りたいが自分には養う力がない。これは漱石全作品に共通する男の呟きであった。誠実というべきか、臆病というべきか。(自分に正直というべきか、自分を大事にし過ぎているというべきか。)
『心』の先生たちは互いの独身時代をそのまま引き摺っているような1つがいであり、仮面夫婦のようでもある。「夫婦のあり方」のモデルにはなりにくい。(現代ではそれもまた1つの夫婦の形かも知れないが、如何せん百年前の、しかも高等遊民とはいえ一般家庭の話である。)
『明暗』の津田とお延の奇妙な新婚家庭は、『心』の先生と奥さん夫婦に似て、仲が好いようにも見え、すきま風が始めから吹きまくっているようにも見える。この作品では(『心』と違って)お延が夫と同じように考え行動することによって、漱石はまた別の夫婦像を模索しているようである。
 そして「幻の最終作品」では、女は男の友人と結婚して幾ばくも経たないうちに悲劇を迎えるのであるから、女の「結婚生活」はごくわずか、男のそれはゼロである。しかし漱石作品最初で最後の「愛の告白」が実行されるところが、この最終作品の眼目となるはずである。

 何はともあれ『道草』(健三御住)は、夫婦を剥きだしで描くという意味では、『門』(宗助御米)『行人』(一郎お直)の流れを汲むものではあるが、その取り組み方は彽徊趣味というよりは、ずっと真に迫ったものになっている。漱石は(他人事のようにではなく)「我が事のように」健三と御住の夫婦を書かねばならなかった。「書いて終わり」でなく、夫婦のあり方というテーマを追求しなければならなかったからである。
 夫婦の描かれ方という観点から作品を見ると、

・『猫』『野分』・・・漱石夫妻
・『門』(青春3部作)・・・仲の好い夫婦
・『行人』(中期3部作)・・・ヘンな夫婦
・『道草』(晩期3部作)・・・漱石夫妻( reprise )

 ということになる。『道草』健三御住夫婦が、『猫』『野分』の直接の進化形であることが確認できよう。『心』の先生と奥さんは、『行人』と同じ「ヘンな夫婦」ではあるが、敢えて差別化して言えば「仮面夫婦」、『明暗』津田お延は「似た者夫婦」であろうか。(『明暗』はともかく、『心』は夫婦をメインに描いた小説ではないので、ここには挙げないでおく。)

 漱石の最晩年に使っていた手帳(創作メモ)にこんな記述がある。

〇夫婦相せめぐ 外其侮を防ぐ
〇喧嘩 不快 リパルジョン(嫌悪)が自然の偉大な力の前に畏縮すると同時に、相手は今迄の相違を忘れて抱擁している
〇喧嘩 細君の病気を起す。夫の看病。漸々両者の接近。それが action にあらわるる時、細君はただ微笑してカレシング(愛撫)を受く。決して過去に遡って難詰せず。夫はそれを愛すると同時に、何時でも又して遣られたという感じになる。(岩波書店版定本漱石全集第20巻『日記・断片下』大正5年断片71B――括弧内の訳語は論者による余計な追加)

 このすぐあとに、例の「〇二人して一人の女を思う」という「幻の最終作品」につながる(と論者の考える)記述が続くのだが、引用文が大正5年の記事であることはほぼ動かないらしいものの、これは『明暗』というよりは、『道草』の夫婦にこそふさわしいノートではなかろうか。
外其侮を防ぐ」というのは、外部に自分たちの仲の悪さが露見して馬鹿にされないようにする、と取れなくもないが、「互いに相手に軽蔑されないように防戦する」という意味ではないか。
 つまり「夫婦相せめぐ、外其侮を防ぐ」の一文もまた、「夫婦が互いにせめぎ合うと同時にもう1つ、相手の侮蔑を受けないようバリヤーを張りめぐらせながら戦う」という、(あくまでも自分本位の)健三と御住のことを言っているのではないか。

 このように最後の3部作は、夫婦のあり方がテーマとなっているからには、夫婦の扱いは相対的に(総体的に)グレードアップしていると見て差し支えない。

《夫婦の描かれ方度合い》(アップグレードバージョン)
・晩期3部作
 『道草』◎・『明暗』〇・『幻の最終作品』△