明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 19

354.『野分』どのような小説か(2)――妹の力


 先に(『主人公は誰か』の項目で)夫婦のあり方、兄弟について述べたからには、ここで「妹」について一言触れてみるのも、公平さという観点からは無駄ではあるまい。
 末っ子あるいは1人っ子の漱石には当然弟も妹もいないが、漱石の書く小説には弟も妹も山ほど登場する。弟は漱石本人だからいいとして、妹は何を見て書いているのだろうか。

〇姉妹の場合
 『猫』(トン子・スン子・坊ば)、『道草』(長女・次女・赤ん坊)、『門』の坂井家(当時の夏目家の子供を参照したとすれば4女2男か)、『彼岸過迄/雨の降る日』の松本家(咲子13歳・長男11歳・重子9歳・嘉吉7歳・宵子2歳)はさておき、漱石作品に「姉妹」の登場するケースは限定されているようだ。
 初発は同じ『彼岸過迄』田口家の千代子・百代子姉妹である。千代子は妹のいる唯1人のヒロインとなった。次の例はもう最後の作品『明暗』で、お延が共に青春時代を送った岡本家の継子・百合子姉妹になってしまう。この2人の妹に「百」という字が共通しているのは、宵子(雛子)に叶えられなかった長命の願いを託したものであろうか。
 話は逸れるが、それに引きかえ『彼岸過迄』の時の男の子は、長男(名なし。松本家の後継者にわざと名前を与えなかった)、次男(不吉な葬式の話を穴埋めすべく適当な好字を採用)ともに、不当な取扱いを受けているように思われる。もともと『彼岸過迄』という抹香臭いタイトルからして、(それを隠蔽する)人を喰ったような命名理由が用意されていた。修善寺での臨死と雛子の急死を受けて書かれたことを考えても、まあ漱石の本心は別のところにあったのだろうが。
 『明暗』にはもう1組、目立たぬよう地味に書かれた姉妹が存在する。津田が(お延同様)同居して世話になった藤井の2人の従妹である。どちらも津田が貰おうと思えば貰えたのだが、贅沢好みの津田のお眼鏡にかなわず、2人とも今は嫁いで台湾と福岡にいるという。
 ここで述べることではないかも知れないが、『明暗』では津田とお延はまったく同じことをして居る。独身時代の環境からして、(不自然にも)2人は完全に一致している。つまり2人は同一人物と見ていいのではないか。何が言いたいかというと、この夫婦に子供は出来ないということである。吉川夫人の「奥さんらしい奥さんに育て上げてみせる」という目論見は、(奥さんという言葉が子供と結びつくことを考えても)ここであっさり外れてしまうというわけである。

〇兄妹の場合
 兄妹の場合は俄然趣きが異なる。これこそ漱石の本命であろうか。漱石が始めて書いた「妹」は、『趣味の遺伝』小野田工学博士の妹(寂光院)である。それから『草枕』那美さん、『虞美人草』藤尾と糸子、『三四郎』美禰子、よし子、『それから』三千代、縫子(代助の姪)と続く。『門』御米は最初安井の妹というふれこみであったが、これは戦前まで(男女交際の風習が今と違っていたので)よく用いられたフェイクであった。
 それでもこの「嘘」の混入のせいで、怒涛の兄妹ラッシュは沈静化したようである。次の中期3部作では『彼岸過迄』がお休み、『行人』のお重はしっかり書かれたが、『心/両親と私』における私の妹は、いかにも存在感が薄い。まるで嫁ぎ先が関さんであると、書くためにのみ創り出されたかのようである。『心』では人物の姓はその1ヶ所だけである。そして主人物の名が明かされるのも、奥さんの静、まあ1ヶ所といってよい。なぜこのような中途半端というか不徹底なのか、誰にも分からない。
 そして自己の来歴をなぞった『道草』に妹が出て来ないのは当然として、『明暗』で派手に締め括られたお秀の登場、それと対照的に地味な扱いのお金さん(小林の妹)の書かれ方を見ると、漱石作品における「兄のいる女」の中で、真に「妹らしい妹」の系譜が、一筋存在することが分かる。それは例によって3部作の中で1作ずつ、ハイライト的に描かれているようである。

《3部作における「妹の力」》
 よし子(『三四郎』)
 妹たちの始祖は『虞美人草』の糸子であろう。糸子は『虞美人草』のもう1人の主人公甲野欽吾の配偶者たりうる者として、作者漱石のお墨付きを得た。これに続く『三四郎』の真の主人公野々宮宗八の妹よし子もまた、三四郎の配偶者として「あれならいい、あれならいい」と(与次郎にだが)言わしめている。よし子は糸子とともに記念すべき女神となった。爾後漱石はこんなことは言わなくなってしまった。
 美禰子にも兄がいるが、美禰子は三四郎には姉さん顔をするようだ。美禰子は新しい造形に見えて、那美さん・藤尾の系譜の掉尾を飾る「姉のような妹」の代表選手になった。三千代は美禰子と双璧をなす妹たるヒロインであるが、兄(菅沼)は物語の始まる前に頓死してしまう。御米は初登場のとき安井の妹というふれこみであった。この3人のヒロインはそれぞれ異なる「妹」の看板を背負っているが、ことさら「妹」としての役割を付与されているわけではない。やはりここでのチャンピオンはよし子であろう

Ⅱ お重(『行人』)
 次の3部作では(前述のように『心』の私の妹は端役として)、『行人』の長野一郎二郎の妹お重が挙げられる。お重はなかなかの造形である。漱石の「妹」の中では異色かつ出色と言ってよい。そしてめでたくも結婚が遠くないとされる(相手は未定だが)。
 お重は泣く女でもある。漱石は『三四郎』まではおおむね女の泣くシーンは書かなかったが(『虞美人草』の小夜子が泣くのはやむを得まい。糸子もちょっとだけ泣いている)、『それから』以降は誰かしら女が必ず泣くことになった。癖になったのだろうか。漱石にしては珍しいことである。(前にも述べたが、『三四郎』が爽やかなのは涙のないせいであろうか。)
 まあ那美さんや藤尾にしても、美禰子にしても、心の中では大泣きしていたに違いないが、よし子だけが、外でも内でも泣かない女である。お嫁さんに最適とされたのも理由なしとしない。余計なことだろうが。

 もう1人『明暗』お延の従妹継子も例外的に泣いていない。継子はよし子同様女学生であるが、お延23歳、継子20歳、そのご褒美か罰かは分からないが、吉川の伝手でお見合いをさせられる。よし子はもしかすると成人していない可能性もあるが、結婚話がある以上(美禰子の夫となる人との縁談であった)、20歳と見ていいだろう。三四郎23歳、よし子20歳。だからこそ、与次郎は保証を与えたのであろう。
 余談ついでに言うと、『猫』の雪江さんは「十七八の女学生」と書かれる。雪江さんもまた一度だけ泣き出しているが、異性に惹かれる年齢ではないようだ。小説に登場する若い女性に対し、恋愛感情を抱いてよい年代かどうか、漱石は明確にボーダーラインを設けているように見える。漱石は大雑把に書いているようで、とくに若い女性に対しては実に細かい、倫理的な配慮を見せる。
 『彼岸過迄』で独り鎌倉から帰った市蔵に給仕する小間使いの作は19歳である。市蔵から「嫁に行きたくないか」と不躾な質問を投げ掛けられて顔を赫らめる。もしかしたら漱石の基準年齢は(20歳でなく)19歳なのかも知れない。「女に好かれた経験がない」と自認する漱石ならではの、どこまでも規則と理屈が優先する気配りであった。

Ⅲ 秀子(『明暗』)
 だんだん行動があけすけになってゆく「妹」であるが、『明暗』のお秀はその到達点であろう。お重もおしゃべりだが、お秀はその百倍は喋っている。涙も(お重の百分の一くらい)流す。おかげで津田の欠点も(お延の欠点も)あからさまに示された。まさに妹の力であろう。
 お秀は漱石作品最後の「妹」となった。お秀は器量望みで貰われて子供も2人ある。まず妹としてはめでたい締め括りと言っていいだろう。

 もう1つだけ、夫婦、兄弟(妹)と来れば、一家の中では両親が残るが、その中で「生きている主人公の父親」というアイテムで、懲りずに3部作の検証を行なってみたい。
 漱石は(すべての文豪の例に漏れず)自分の父親に同情がないが、漱石の父は――漱石の生れたとき父はすでに当時としては「老人」の域に達していたが、存外長生きした。養父は漱石の亡くなったときにもまだ生きていた。それでも漱石は自分の小説に生きて動く父親を書くことは滅多になかった。
 母親については――とくに文豪たちとそのすべての失われた母親については、ここではこれ以上言わないことにする。漱石の「母親」は、主人公に付くことはあっても、家に付いていないので、話の拡がりようがない。3部作ごとのトピックスとして扱うようなアイテムも、母親に関する限りは見つからない。(漱石の生母のような)後妻をテーマにするわけにもいかないのである。

《3部作における生きている父親》
 長井得(『それから』)
 代助の父は生きて代助を養っている。母はいない。三四郎は母1人。父は最初からいない。宗助の家は代助に似て母が早死にして、父は宗助と御米の出来事の前後に病死した。

Ⅱ 長野家の父親(『行人』)
 『行人』の長野家には珍しく両親が健在である。夫婦(子供もいる)とその老親が揃って同居するのは、『行人』のこの家族だけである。おかげで家庭は崩壊していると漱石は言いたげである。敬太郎も須永も父親はいない。『心』の先生も父親が亡くなって大事件になった。

Ⅲ 津田の父親(『明暗』)
 津田もお延も両親は揃って京都にいるが登場機会はない。しかしなぜか各々の育ての親たる藤井夫妻、岡本夫妻と、(津田の処世上の親たる)吉川夫妻ともども、健在というより元気すぎて津田もお延も辟易する。若い男女を描いて日本一の文豪になった漱石であるが、最後の小説で6組の夫婦を登場させ(津田夫婦・堀夫婦・関夫婦・吉川夫婦・藤井夫婦・岡本夫婦)、懐の深さを見せた。

 なお朝日入社以前の作品にも大方父親は出て来ない。坊っちゃんの父親は金をくれない存在であるが、それでもすぐには死なず、漱石作品の中では長く生きた方である。親子の情に薄いという点では津田と津田の父親の関係に近いようだ。処女作に現れて最終作品まで引っ張られる。漱石の書きたくなかった生みの父親が、結局一番長命を保ったのかも知れない。