明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

『明暗』に向かって はじめに(1)

55.『明暗』に向かって 「はじめに」(1)――野上弥生子の『明暗』


漱石「最後の挨拶」番外篇]

「『明暗』に向かって」には、かなりの長さの前書きが付いている。本体の論考とはほぼ無関係の、それこそ「番外篇」のような記事であるが、そのため単独で読んで差し支えないとも言える。ここで同書「はじめに」を3回に分けて紹介したい。

 はじめに、本編の論旨とは直接結びつかないかも知れない話を少しだけ。
 野上弥生子の習作に『明暗』という『坊っちゃん』の半分くらいの長さを持つ小説がある。主人公は弥生町に住む画学生幸子。資産家の両親は早くに亡くなり、三つ上の兄・先代からのばあや・女中・犬と暢気に暮らす。優しい兄は今般京都の叔父叔母の娘(従妹)との縁談が調い、すでに同居が始まろうとしている。兄の親友に岡本猛という一本気な男がいて、六年前幸子への愛を一方的に打ち明けて一高から福岡の医大(九州帝大)へ「転学」してしまったが、やはりここで芝の病院勤めのため久しぶりで東京へ舞い戻った。そして恩師の娘との結婚話もあってこの機に幸子へのあきらめきれぬ想いを伝えるが、幸子は当然平静を装って岡本の前途を祝す、という話である。
 両親の死、資産家、仲の良い兄妹とくれば『三四郎』の里見恭助・美禰子を連想させる。また仲は良くないが『虞美人草』の甲野欽吾・藤尾を思い浮かべる人もいるかも知れない。あるいは宗近一・糸子、『三四郎』では野々宮宗八・よし子も仲の良い兄妹である。兄の結婚によって居場所のなくなる(と考えた)女は自らも結婚して(しなくても)家を出るしかない。少なくともそれはお嬢様然と育てられながらも芸術の道を志す幸子の心の独自性を脅かすものではあったろう。幸子は「御貰いをしない乞食」たる美禰子(藤尾も)と同じ思いを思う。ところで野上弥生子のこの習作が書かれたのは明治三十九年終わり頃のことであるから、『虞美人草』も『三四郎』もまだ漱石は書いていない。弥生子が手本に出来たのは『草枕かせいぜい『二百十日』までである。では漱石の方が参考にしたのか。それは何とも言えないが、弥生子の原稿を読んだ漱石が明治四十年一月十七日(木曜日)巻紙五メートルという手紙を書いて、このまだ海のものとも山のものともつかない文学少女(既婚だが)の拙い作品を懇切丁寧に(また少々手厳しく)批評したことは事実である。(文学を内容としたものに限れば、子規以外に漱石からこんな長い手紙を貰った人間はいない。たとえそれが切手を貼って投函されたものでなく、木曜会の折に返却原稿と一緒に野上豊一郎に渡されたものだとしても。)
 弥生子は必要以上に恥じて(あるいは恥じたふりをして)この習作を封印してしまったが、おそらく前後して漱石に読まれたであろう『縁』という掌編の方は、翌日一月十八日付の虚子宛書簡の示す通り、漱石の義理がけでない推挽により時を移さず『ホトトギス』に(処女作として)載ったのであるから、弥生子が生前に彼女の『明暗』を公表しなかったのはその出来栄えのせいではなく、「十年たったらよく解るようになるだろう」という漱石の言に従って十年待っているうちに、当の漱石が同じ題名の小説を書き始めて、あまつさえ途中で死んでしまったことによるものと考えたい。同名であったのも気恥ずかしいが、あの偉大な『明暗』と自分の貧しいデッサンを、較べる人もあるまいが較べられてはかなわない。そして漱石の方は、十年後に(津田とお延の)『明暗』を書いたときには、もうこんな手紙や弥生子の習作のことは忘れていたに違いないのである。しかしその前にもし弥生子が自身の著作集に『明暗』を入れるか婦人雑誌に載せるという気紛れを見せておれば、漱石が大正五年の新聞小説に『明暗』というタイトルを付けなかったであろうことは、また容易に想像できる。(では何と付けたかが問題になるが、『迷路』では単なる悪ふざけと思われようが、必ずしもそうとばかりも言えまい。)
 弥生子は漱石の指摘した欠点がよく解る年代に達した後も、この欠点だらけの(と思われた)習作原稿を焼却しなかった。ちなみに弥生子の書いた、自分の言いたいことだけ言ってさっさと蛮地「福岡」へ発ってしまうという岡本猛の身勝手さ(ストイックさ)は、その昔周囲の反対を押し切って松山行きを決めた漱石の無鉄砲ぶりを彷彿させるが、漱石の作品の中ではその「福岡」という地名は、「三四郎」の住所地として宿帳に書かれたのが最初で、次に『門』の宗助と御米が(京都から)広島を経て逼塞していた地として記され、『行人』三沢の旅行の連れの行き先の一つ(馬関・門司・福岡)として書かれたあと、『明暗』にも津田と(叔父の)藤井の家の姉妹との間のちょっとしたいきさつに使われている。

 此時津田の胸を掠めて、自分の従妹に当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。其娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片付いた長女は、其後夫に従って台湾に渡ったぎり、今でも其所に暮していた。彼の結婚と前後して、つい此間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ発ってしまった。其福岡は長男の真弓が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
 此二人の従妹の何方も、貰おうとすれば容易(たやす)く貰える地位にあった津田の眼から見ると、決して自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。(『明暗』27回)

 漱石はなぜこんなところに福岡を持って来たのだろうか。津田の両親の住む京都からさらに離れて大学があるといえば(仙台でなければ)福岡しかないのであるが、文人藤井の長男が大学勤めをするのはありがちな話であるし、真事以外の藤井の子供たちを小説の枠外に置きたい、とくに津田と縁のなかった姉妹を遠くに離したいという漱石の欲求も分かる。そして次女の夫と真弓の勤務地が九州で重なるとすればそれは(熊本なんぞでなく)福岡以外に考えにくい。何より小林が東京を食い詰めて落ちて行く朝鮮を念頭に置いた記述であろうか。でもなぜ福岡なのだろうか。
 ところで右記引用文中の「彼の結婚」の「彼」とは勿論津田のことであるが、構文的には藤井の長女とその夫を指してもおかしくない。否むしろそちらの方が普通かも知れない。しかし漱石はここでは津田になりきって書いているから、「彼」といえば単なる(三人称)代名詞ではなくどこまでも「津田」を指すのである。これは覚えておいてよい漱石の書き癖の一つである。
 さらに言うと、漱石は投函前によく読み返していたら、やはりここは「彼の結婚」でなく「津田の結婚」と直していたのではなかろうか。津田が結婚したことについては『明暗』では早々に披露されているものの、引用した文の前にそれが直接書かれているわけではないからである。(「彼の結婚」はむしろその後に続く文章の方で述べられていると言ってよいくらいである。)