明石吟平の漱石ブログ

漱石文学がなぜ読まれ続けるのか。その謎解きに挑む。

漱石「最後の挨拶」野分篇 24

359.『野分』すべてがこの中にある(3)――西へ西へと移動する


Ⅰ 『野分』にのみあって、他の漱石作品には見られないもの。
Ⅱ 『野分』にも他のすべての漱石作品にも、共通してあるもの。
Ⅲ 他のすべての漱石作品にあるが、『野分』にだけないもの。
(以上再掲)

 次にについては同様、漱石作品全体を調べて行かねばなるまい。その中から自ずとも浮き彫りになるだろう。で取り上げた『野分』各章のトピックスからは一旦離れて、まずベーシックな素材、「旅」について見てみよう。

《例題1 東西の大移動・大旅行》
 これを含まない漱石の小説はない。漱石は旅行をよくした人で地球の裏側まで行っているが、小説もしかり、例外なく動き回る人物が登場する。落ち着き払ったように書かれている人物でも、案外腰が軽いか、あるいは過去に動きまくっていたかのどちらかである。だが決して彼らは好きで動いているわけではない。移動に利用する汽車や船も、漱石は苦にしないだけで、決して乗りたくて乗っているわけではない。

・『猫』寒月(おそらく土佐)の結婚報告、多々良三平(肥前唐津)の帰省報告。いずれも『猫』ならではのお土産付き(鰹節と山芋)。迷亭も昔越後から会津嶺へかけて大旅行したことがある(蛸壺峠と蛇飯の綺譚)。鈴木藤十郎は最近九州から戻って来たという。
 ちなみに水島寒月は物理学者で「大嫌い。糸瓜が戸迷いをしたような顔をして」(金田富子の言)から寺田寅彦以外の何者でもないとされるが、女性の好みや失恋譚は漱石そのものである。寒月もまた漱石であった。だからこそ苦沙弥邸に侵入した(美男の)泥棒に瓜二つと書けたのだろう。糸瓜みたいな美男子というのは想像しづらいが、しかし寒月の故郷は、ここでは寺田寅彦の土佐と見て間違いあるまい。

・『坊っちゃん本人の松山往復。山嵐も同行した復路は、松山神戸間は夜行の航路(船中泊)、早朝神戸に着いて、東京までは明治38年ならではの最大急行列車。ところが僅か2ヶ月前の往路は、坊っちゃんは朝小間物屋で買い物をした清に見送られ、酷暑の昼下がりに上陸しているから、これはどう考えても明治28年、漱石が実際に辿った行程をなぞったものであろう。荒正人の『年表』によると、漱石はそのとき車中と船中で2泊したことになっている。旅館等を使わず常に乗り物で移動して、往きが50時間、帰りが30時間。今浦島とはこのことか。
 赤シャツは帝大出、兄弟で渡り者と書かれる。坊っちゃんどころでない移動距離であるのは確か。野だも真偽はともかく江戸っ子であるという。

・『草枕前作の松山、本作の熊本。これで漱石は義理を果たしたと言わんばかりに、爾後の作品はすべて(『猫』に戻って)東京物語である。画工の東京熊本間の移動、那美さん一家も赤シャツ兄弟同様渡り者で、東京にも京都にもいたことがある。江戸っ子の髪結床の親爺もそのとき一緒に東京からくっついて来たと言うが、してみると那美さん一家の放浪の仕上げが東京だったことになり、京都の男と地元の銀行家の間で揺れるという那美さんの逸話が(東京暮らしが挟まることで)ややこしくなる。画工は那美さんの言葉遣いで、東京にいたこともあるだろうと断じたのであるが、であればこの東京生活は短期間ではないはず。那美さんの京都でのロマンスの期間は担保されるだろうか。
 そもそも地方人が何年か東京に暮らしたからといって、アクセントやイントネーションでそれが分かるというのは、東京人漱石の思い過ごしであろう。もしかすると那美さんは(『虞美人草』の小夜子のように)東京で生まれた人かも知れない。久一と野武士は地元の人間であろうが、旅順への片道切符は憐れを誘う。

・『野分』道也と細君の東京-新潟-山口-柳川-東京、これは個人国内男女総合1位といったところか。2位は『門』の御米宗助か三四郎か。高柳君も故郷に母がいるからには東京-新潟を数往復したことであろう。

・『虞美人草藤尾を除く多くの主人物が京都-東京を移動している。物語の始まる直前には甲野欽吾の外交官(たぶん)の父が欧州で客死した。甲野家の相続問題は小説のテーマとして語られてはいるが、登場人物にその(喪中の)気配がないのは不思議である。わざと父の存在感を消しているようにも見え、父の死に同情を示さないという、漱石の本心の流露にも見える。ところが宗近一が何のためらいもなく、甲野の父と同じ(でないかも知れないが)外交官になろうとしているのはどういうわけか。漱石にとっては(洋行時の厭な思い出につながる)外交官もまた、実業家と同じ金まみれの俗物ということか。それはともかく、物語の末尾で宗近は実際に倫敦に赴任しているので、団体としての移動総距離は『道草』を凌いでいるかも知れない。

・『三四郎小説の中では本人は福岡県から上京して冬休みにもう1往復している。野々宮の母も往復している。三四郎の母は理科大学に野々宮宗八を訪ねろと言うが、宗八に妹がいることを知らなかったのだろう。母にとって御光さんが意中の人である以上、他の女を三四郎に近づけるように仕向けるはずがない。互いの母同士も交際はなかったと見える。それでいて臨時の仕送りをいきなり野々宮宗八へ送りつけるのは乱暴のようであるが、田舎者らしい行為とは言える。
 広田先生は名古屋から三四郎と合流したが、どこへ行った帰りかは不明。漱石が名古屋の辺りを訪れたことはない。神主みたいと書かれるので、あるいは伊勢神宮参拝の帰りか。森有礼の(国葬の)話も後に出て来る。汽車の女は呉-京都-名古屋-四日市のコースである。女の夫は呉から旅順大連を往復する。ちなみに距離的には、広島-大連は東京-福岡と同じくらいであろうか。

・『それから』平岡夫妻の東京大阪往復。佐川の令嬢と叔父の高木の神戸東京往復。東京見物と偽って、見合いのためにわざわざ上京した令嬢は、たぶんろくに観光しないまま去った。三千代の実家は東京近県だが、いつも上京していた母と菅沼が東京で病死し、父親はその後気の毒にも(漱石によって)北海道へ追いやられた。平岡は東京へ舞戻ったあと、前述のように独身なら満洲でも亜米利加でも行く用意がある。代助の姉は外交官に嫁いで今は仏蘭西にいるという。その逸話も1つ2つ書かれる。仏蘭西は(はったりでなく)現実の話だったのである。

・『門』3部作のトリらしく登場人物はこれまでの統合版のような動きを見せる。運命の出発点は東京-京都帝大の「都落ち」である。宗助は少なくとも一度は東京へ「帰省」している。そして御米とともに京都-広島-福岡-東京。安井は福井―京都だが横浜に縁故があって、御米もそこで一緒になったようである。安井単独の蒙古行と坂井の弟も同行した一時帰国の話も、穏やかな小説の中のハイライトとなった。安之助は卒業して事業を始めるのに神戸へ行ってきた。
(このわずかばかりの『門』の紹介文に「安井」「安之助」と、安の字の重なっていることに気づかれるだろうか。宗助も御米も安之助のことを安さん安さんと平気で呼ぶ。安井の影にあれほど怯えていたのに。)

・『彼岸過迄森本の大連逃避行。森本は若い頃技手として北海道にも四国にも行ったことがあるらしい。しかし年齢が合わなくなるのは前述したところ。あるいは法螺が混じっているのか。田口の大阪出張もさらりと書かれる。市蔵の関西卒業旅行は小説の掉尾を飾った。本来母を連れて京大阪から宮島まで行きたかったのだが、諸事情のため明石須磨止まりになったのは、山陽路の描写を期待する読者(論者のことであるが)のためにも残念であった。

・『行人』登場人物ほぼ全員による関西旅行もしくは関西移住。
 お兼さんと岡田の大阪道行、それに倣うお貞さんと佐野。二郎三沢の晩い「卒業旅行」としか思えない、2週間を超える関西旅行。二郎は勤める直前の夏休みなのであろう。2人の友人はお互い旅先の某所で再び落ち合おうという、『門』で印象的なフレーズがここでも繰り返される。そしてその後を追うような長野家の大阪和歌山旅行。復路の寝台急行。車内の様子が書かれるのは『虞美人草』『三四郎』以来。あとは『明暗』で書かれるから、幻の最終作品でも主人公は旅するであろうが、汽車の中の叙述はもうないと断言できる(※)。それはいいがこの旅行で唯一蚊帳の外に置かれたのが父であった。一家の大黒柱が動かないのは分かるとしても、不自然さは付きまとう。(長野の父は後に二郎の下宿を訪れている。尻は案外軽いのである。)
 不思議な役柄の三沢は、中途半端な描かれ方に了った『門』の安井へのオマージュであろうか。御米と短期間にせよ所帯を持っていたことを思えば、安井もまた読者にとって赤の他人ではない。三沢について、『行人』の中での役割が明確でないと感じる読者がいれば、安井と宗助の友情、『彼岸過迄』敬太郎と市蔵の友情を、併せて考えることが求められるだろうか。この分かりにくい「友情」は、もちろん高柳君と中野君に端を発している。
 ところで和歌山から帰ったあとも、二郎はいつも通り毎日勤めに出ているように書かれる。卒業して新たに就職したのであれば、家を出て下宿する話もよりスムーズのはずであるが、そんな気配は微塵も感じられない。するとあの長過ぎる夏休みは何だったのか。二郎の設計事務所は若造にも欧米風のヴァカンスを与えるのか。思うに漱石は二郎の職業を深く考えずに、漠然と書生を想定して書き始めたが、途中でそれを失念して、教師では一郎と重なるので、サラリーマン技師に仕立てたのではないか。それとも二郎の就職譚を大胆にカットしただけなのか。いずれにせよ唐突であることに変わりはない。

・『心』学生の私の兄は九州から駆け付けた。私を別荘に誘った友人は、鎌倉からはるばる中国辺の実家まで帰省している。私のふるさとは本ブログでは金沢、長野、岐阜、和歌山を候補地に揚げた。もちろん秋田盛岡等の東北の地の可能性もなしとしないが、これまでの漱石の日本地図からは考えにくいことがお分かりだろう。先生とKは東京と新潟を(高柳君みたいに)何度も往復しているはずである。内地の北限はせいぜい新潟なのである。
 新潟といえば、余談だが漱石の時代その上京ルートはすべて直江津長野高崎経由である。「国境の長いトンネル(清水トンネル)」が出来上がるのは昭和になって『雪国』の書かれる少し前であった。
 清水トンネル 9.7 km 昭和6年。丹那トンネル 7.8 km 昭和9年。『雪国』初出昭和10年。
 漱石が知っていた碓氷トンネル 1.3 km、船坂トンネル 1.2 kmに比べても、いかにも長い。漱石の当時は煤煙や排泄物で、乗客にとってトンネルは迷惑以外の何物でもなかったが、当然電化されてこその長大トンネルである。川端康成は国策(日中戦争)の大工事の末に成った最長トンネルを通りながら、窓に映った女(と男)の姿を見ていた。ハイカラでおしゃれな漱石電気機関車は無条件に歓迎したと思われるが、国境の長いトンネルにはどんな感想を抱くだろうか。倫敦の地下鉄と同じ、ただの便利な管(tube)と思うであろうか。

・『道草』単独の移動距離では健三が断然の王様である。東京生れの健三は熊本から倫敦に洋行して駒込の奥へ帰って来た。熊本の名は小説には書かれないが、「倫敦で」2つ折りの革財布を(外国の)記念に買ったと明記される(53回)。2度と行かないと誓った倫敦の名は出すが、同じく不浄の地松山の名は隠す。といって隠された熊本が不浄の地というわけではない。『野分』の道也の赴任先にはさらに混み入った事情があるようだ。
 御縫さんは柴野という軍人と結婚して高崎にいたが、その後「師団か旅団のある中国辺の或都会」に赴任した。日露戦争の頃の話であるからまあ広島であろう。隠す地名と隠さない地名を書き分ける。その基準は読者には分からない。これは漱石の(昔からある)癖と言っていいが、次の『明暗』でその頂点に達したようである。

・『明暗』津田とお延は2人とも形式上は京都から東京へ遊学している人である。親同士は唐本の貸し借りをするくらいの親密な間柄であるが、物語の始まる直前、2人はたまたま帰省中の京都の津田の家の玄関で始めて顔を合わせた。津田30歳お延23歳。いくら養育を東京の兄弟に委ね、結婚を当人同士の気持ちが一番と考えているにせよ、驚くべき無関心さである。当時ならお延が廿(はたち)になれば親が色々知り合いを当たったりするはずである。津田の父は官吏で「広島に三年長崎に二年という風に方々移り歩く」「緩慢なる人世の旅行者」とされるが、今では小金をためて京都に落ち着いているのあるから、まあ普通の隠居老人であろう。お延の両親も同じである。親子の間で何か特別な感情があるようにも書かれない。子供の婚期が気にならないのだろうか。津田が清子に逃げられた謎より、こちらの方がよほど不可思議ではある。

 ここまで見てくると、漱石がいつまでも読み続けられるのも、このような「民族大移動」のせいだろうかと、つい思ってしまう。旅が人を作る、とまでは言わないが、太宰治の青森-東京移住の記念碑たる『晩年』が相変らず読者を惹きつけるのも、『津軽』が一番出来がよいのも、それが理由になっていないだろうか。
 ただ漱石の場合は、その移動に小さな謎が付いてまわることが多いようである。暦の謎もそうだが、人が動いて始めてそこに時間と空間が生じる。人(知性)の住まない宇宙には時間も空間も存在しない。時間と空間はそもそもの始まりから謎に満ちているのである。

(この項つづく)

※注)3部作の秘密
 3部作の中で1作ずつという、漱石ならではのストイックな原則について、『虞美人草』で始めて書かれた車内の様子は、その後『三四郎』『行人』『明暗』に引き継がれた。他の作品では、あれほど旅の場面が含まれているにもかかわらず、車中の様子も船中の様子も、一切描かれることはなかった。乗り物だけでない。『坊っちゃん』『草枕』でおなじみの、旅に付属する旅館と女中についても(『猫』にも少しだけ出て来るが)、3部作の中では同じく『三四郎』『行人』『明暗』だけに登場するアイテムである。

◇旅行中の汽車の中の様子が描かれた作品。
Ⅰ 『三四郎』上京の車中。
Ⅱ 『行人』復路の寝台急行。
Ⅲ 『明暗』津田の湯河原行。

◇旅館と女中が描かれる作品。
Ⅰ 『三四郎』汽車の女同衾事件。
Ⅱ 『行人』和歌山一泊事件。
Ⅲ 『明暗』津田と清子の湯河原温泉

 一触即発という俗な言葉があるが、車中の様子が描かれると、それに合わせて旅館も女中も登場し、そして主人公(たち)はいずれも(漱石としては)大変危険な場面に遭遇する。旅館も女中もただ出て来るのではない。アイコンとして書かれているわけでもない。漱石はある必然性を認めて書いているのだろう。『虞美人草』まではランダムだったように見える、旅と汽車と旅館と女中。『三四郎』以降の3部作のセットにおいては、そこにある種の法則が働いていたとしか思えない。
 この3部作の話は本ブログでも、「教師」(『坊っちゃん』『野分』)、「なぜか元気に生きている父親」(『草枕』那美さんの父、『虞美人草』小夜子の父、宗近の父)、「活躍する妹」(『虞美人草』糸子)について取り上げたことがある。(第19項)

◇主人物が教師である作品。
Ⅰ 『三四郎』広田先生。
Ⅱ 『行人』長野一郎。
Ⅲ 『道草』健三。

◇生きている父親が描かれる作品。
Ⅰ 『それから』長井得。
Ⅱ 『行人』長野家の父親。
Ⅲ 『明暗』津田の父親。

◇活躍する妹の登場する作品。
Ⅰ 『三四郎』よし子。
Ⅱ 『行人』お重。
Ⅲ 『明暗』お秀。

 その他漱石ファンにはよく知られる「叔父に騙された話」、小道具としての「結婚披露宴の招待状」「書画骨董品」、それから人や物を離れても、ヒロインが主人公に対して訴える「ご勉強?」という不満のような甘えるようなセリフ・・・。

◇叔父に騙された話。
Ⅰ 『門』宗助の叔父(佐伯)。
Ⅱ 『心』先生の叔父。
Ⅲ 『明暗』画学生原の手紙に登場する叔父叔母。

◇結婚披露招待状。
Ⅰ 『三四郎』後日譚「森の女」で印象的。三四郎宛と野々宮宛の2通。
Ⅱ 『行人』岡田お兼さんではない。佐野お貞さんでもない。この2通ではなかった。小説に書かれたのは、一郎の友人Kが出した、一郎お直連名の招待状であった。
Ⅲ 『明暗』関と清子。津田と延子。2通の招待状以外に、結婚式については何も語られない。

◇書画骨董。
Ⅰ 『門』家の骨董で唯一残った抱一の屏風。宗助が墨で悪戯した岸岱の虎の画。
Ⅱ 『行人』上野の表慶館の展示物。下宿する二郎が床の間用に父から借りた、禅の謎解きのような懸物。
Ⅲ 『道草』汚い達磨の掛軸。北魏の二十品という石摺。

◇「ご勉強?」のセリフ。
Ⅰ 『門』御米が宗助に。
Ⅱ 『心』御嬢さんが先生の部屋の入口で。
Ⅲ 『明暗』お延が津田に。

 書画骨董は『坊っちゃん』と『草枕』に頻出。「ご勉強?」も『草枕』那美さんが画工にかけたのが第1号。外国語に訳しにくいセリフの随一であろう。叔父による世襲財産の横領という興醒めな事件は、『門』が嚆矢とされるようだが、『坊っちゃん』や『それから』代助も、それぞれに「叔父」であり、甥(兄の子)によって将来訴追される可能性がなくはないことは前述した。披露宴の招待状も、読者の目に触れるのは『三四郎』が最初であろうが、『猫』のラストシーンで多々良三平が金田富子との結婚が決まったことを(ビール持参で)報告に参上したとき、苦沙弥家に集まった全員に、1人1人直接出席の依頼をしている(天邪鬼の苦沙弥以外は快諾)。これはより丁重な「披露宴招待状」と言えるだろう。その際に飲み残したビールで吾輩が落命したことを思うと、美禰子の結婚による三四郎や野々宮宗八の失意など、物の数ではあるまい。この後も漱石の作品世界では、結婚譚にお目出度い気分が付着することは、一切なかった。